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そして誰も炊けなくなった:都議選と備蓄米

    武智倫太郎

    ~ 炊飯する自由、投票する自由、そして、書く自由 ~

    『そして誰も炊けなくなった』を読む前に

     本作は武智倫太郎が『ビクトリー焼きそば』を書いた時点で、いずれ辿ることになると予感していた終着点である。

     この袋麺ディストピアには、すでに『炊かない』という自由の亡霊が漂っていた。そして今、その亡霊は現実となった。それがこの作品『そして誰も炊けなくなった』である。

    『ビクトリー焼きそば』では、戦後日本が抱え続けた『即席の夢』の残骸としての袋麺を描き、そこにステルス値上げ・味覚支配・思想の均質化といった調理される自由の消失を浮き彫りにした。

     だが、それはまだ序章に過ぎなかった。
     真に問われるべきは、『炊く』という行為である。
     湯気こそが最後の自由であり、最後の抵抗の詩なのだ。

     この物語では、
    ・炊飯が義務であり思想となった社会、
    ・米がイデオロギーとして配給される国家、
    ・noteの詩が思想温度を測るための国家監視ツールへと転化された未来を描く。

     選挙は投票ではなく炊飯であり、咀嚼は義務であり、炊飯器は感情を統制する端末になる。そんな世界で、あえて『冷えた飯』を噛みしめようとする人々がいた……。

     それがこの小説である。

    『湯気がなければ、ご飯じゃない?』
    ……いや、逆だ。
     湯気が消えたときにこそ、言葉が生まれる。
     そして、誰も炊けなくなったときにだけ、本当の自由が始まる。

     noteに咲いた冷や飯の詩篇を、どうか噛みしめてほしい。

    序章:炊飯主義宣言

    スローガン:
    ・炊かぬ者に、未来なし。
    ・一票炊かざれば、一生飢う。
    ・湯気は神託。米は信仰。選挙は儀式。

     投票所の裏手では、既に行列ができていた。
     列の先には、仮設配給所。
     白い幕に墨書きされた大きな文字……『ビクトリー米支給所』。

     有権者は、投票を終えると無言で引換券を受け取り、ひとつの袋を受け取る。中身は、真空パックされた『古古古古古古古米』である。
     だがその表記はない。袋にはただ、金文字で『祝参炊』とだけ記されていた。

     朝のテレビ番組は全局が『炊飯特番』だった。どの局のキャスターも、顔面に炊飯温度計を貼りつけたまま、開票速報より先に『炊飯率速報』を読み上げていた。
    『有楽町区、炊飯率98.4%、思想温度も順調に上昇中です』
    『炊けてますね〜! 見てください、この湯気の濃度!』

     AI音声によるナレーションが流れる。

     本日、東京都民は『未来を選ぶ』のではなく『未来を炊く』日を迎えました。

     ビル街の大型モニターでは、官製ドラマ『ごはん維新』の再放送が無限ループで流れていた。主演はAI生成の東山紀之。幕末の炊飯改革を描いた架空時代劇だ。
    『御飯の義は、国の礎に御座候!』
     浪士たちが熱々の羽釜を担ぎながら走るシーンで、集団咀嚼の合唱が始まる。

     街のあちこちに貼られた選挙ポスターには、各候補者の『炊飯目標』が記されている。
    ・『目指せ!家庭炊飯率100%』
    ・『古米四選主義、守ります』
    ・『あなたの湯気が、私の誇りです』

     ポスターの角にはQRコードがあり、それを読み取ると候補者の『炊飯動画』が再生される。
     見事な咀嚼音と共に、毎日異なる米種を炊き分けるパフォーマンス。演説より咀嚼。政策より水加減。
     一俵の重みが、政策の是非を上回る時代だった。

     都庁舎前には、巨大なオブジェがそびえ立っていた。
     釜の形を模した金属構造物の上に、金色の茶碗が鎮座する。
     その銘板には、こう刻まれていた。

    『自由とは、炊かれる意志である』

    ……初代炊飯総理 ビッグ・ゲル

     そして夕刻、かつての開票速報に代わり、各地の『思想温度』がサイレンと共に発表される。
     思想温度が高いほど、追加配給の対象となる。
     逆に、温度が低い区域は『追炊措置』が施される。
     自宅の炊飯器に、強制的に炊飯指示が送られるのだ。

     ナミヘイは、古びた団地の窓から空を見上げた。
     そこにはもう、青空ではなく、湯気の幕が広がっていた。

    『なあ……未来ってのは、
     ほんとうに炊けるもんだったのかねえ……』

     彼の言葉は、スマート炊飯器の集音センサーに拾われ、即座に『炊飯懈怠』フラグが立てられた。

    【インタールード:咀嚼省・公報第664号】
    《重要通達》

     本日をもって、非炊飯的言動・非咀嚼的思想の表明、反配給的表象、反湯気的態度、ならびに冷や飯偏愛的投稿を含む一切の発言・行動・咀嚼日記の記載を禁じます。

     思想米濃度の高い者には、以下の特典が与えられます:
    ・咀嚼義士認定徽章
    ・ビクトリー米上位種『白銀炊』の試食権
    ・家庭内思想炊飯器の無料アップグレード

    ※炊かぬ者は、食う資格なし。
    ※咀嚼せぬ者は、生きる意志なし。

    第一章:米一票の時代へ

    スローガン:
    ・民主主義の根は、炊きたてにある。
    ・米なくして政策なし。
    ・口で語るな、咀嚼で語れ。

     選挙当日の午後、都内各地の『炊飯投票所』では長蛇の列ができていた。
     投票と炊飯は、いまや不可分の行為だった。

     有権者は一人ひとり、専用のスマート炊飯機に向かい、自らの意思を『炊飯ログ』として記録する。
    『あなたの炊き方=あなたの民意』と定義された社会では、米の銘柄、水分量、火加減、そして炊き上がりの粘度までもが、投票データとして自動収集されていた。

     立候補者は、自身の『咀嚼指標』をSNSでアピールする。
     支持層別に最適な食感を演出する候補者も現れた。
    『高齢者にはやわらかめ、若者にはアルデンテ』
     そんな政策が噛みごたえのある演説として支持された。

     投票所前の演説壇上では、炊飯大臣・シンジローが、またもや脳内炊飯ジャーをフル稼働させていた。

    『皆さん。

     かつて、私たちは選挙で選んでいました。でも今は、違うんです。
     今の私たちは、選ぶのではなく、炊くことで、未来を選んでいるんです。
     なぜか? それは、炊くという行為が、選ぶという意味を超えているからなんです。

     一票の重み。それは軽い。けれども、一俵の重みは重い。
     この重さの違いこそが、今の時代の違いなんです。

     投票箱に入れる一枚の紙では、炊けないんです。
     けれども、一俵の米なら、炊けるんです。
     そして炊いた米には、湯気が立つんです。

     この湯気こそが、私たちの希望なんです。
     だからこそ、投票とは、炊飯なんです。

     選挙をするということは、未来を炊くということ。
     未来を炊くということは、明日を咀嚼するということなんです』

     観客の多くは理解していなかったが、背後で響く『シュウウ……カチッ……ピー♪』という炊飯音のSE(サウンド・エフェクト)が場の空気を満たすと、自動的に拍手が湧き起こった。

     中には、炊き立てのビクトリー米の香りに、自然と涙をこぼす者もいた。それが何の涙か、誰にも分からなかった。分からないことが、分からない時代の証だった。

     この日は、開票速報の代わりに『炊飯速報』がSNSを席巻していた。
     主要候補者の『一俵当たり炊飯数』や『湯気支持率』がリアルタイムで更新される。

    【炊飯速報】午後3時時点
    ・粘り強さ支持:小粒候補42.3%
    ・ふっくら政策派:炊飯党38.9%
    ・玄米独立派(=反炊飯地下組織):9.4%(警告)
    ・未炊飯層(白票・冷や飯系):検閲中

    『誰が勝つか』ではなく、『どの炊き方が生き残るか』が注目されていた。
    ……その時、ニュース速報が入る。

    【ニュース速報:速報!思想米温度に異変】
     本日14時30分、千代田区および三鷹市の炊飯投票所にて、思想米温度が急落。
     咀嚼省は『冷や飯思想の拡散』を警告し、投票所近辺に炊飯再教育バスを急派。
     現地では、複数の若者グループが『無炊飯権』の主張を掲げ、炊かぬまま語るという禁忌行為に及んでいた模様。
     政府は炊飯再強化法の即時適用を視野に、取締りを本格化させる見通し。

    【インタールード:咀嚼省・緊急通達】
    《本日付け『思想米臨時措置法』第22条改定》

     以下の者は、強制炊飯プログラムへの参加を義務づける:
    ・投票前に食事を済ませた者
    ・無米日を表明した者
    ・SNS上で『冷や飯』という語句をポジティブに使用した者

     また、以下の言葉は当面使用禁止とする:
    ・『サトウのごはん』
    ・『糖質制限』
    ・『おかゆダイエット』
    ・『パエリア』

     主人公ナミヘイは、炊飯票を提出しながら心の奥底でこう呟いた。

    『……こんなもん、もう選挙じゃねえ。
     ただの炊き出しじゃねえか』

     だがその言葉も、スマート炊飯器にしっかり記録され、即座に分析されていた。
     翌朝、ナミヘイの自宅には『炊飯懈怠予備群』と書かれた灰色の米袋が届くことになる。

    第二章:思想温度と炊飯器の目

    スローガン:
    ・思想とは炊き加減である。
    ・自由とは咀嚼であり、咀嚼とは管理である。
    ・湯気の出ない思想には、熱がない。

     午後6時、ナミヘイの自宅では、いつもの炊飯儀式が始まっていた。
    といっても、それはもはや家庭料理ではなかった。

     キッチンの一角には、政府配給のスマート炊飯器《炊5型-思想温度管理モデル》が据え付けられている。
     この炊飯器には、可視光・赤外線・嗅覚センサー、そして表情認識AIが内蔵されていた。

     炊飯スイッチを押すたびに、家族の顔が撮影され、湯気の反射率から咀嚼意欲が測定される。
     特にナミヘイの機種は、ミドルクラス庶民層向けの標準監視モデルで、AIアシスタント《ミルキーブレイン》が標準搭載されていた。

    『こんばんは、ナミヘイさん。
     本日の思想温度は、47.6度。やや冷え気味です。
     昨日の『noteログ』と照合した結果、発酵系の危険な詩情が認められました。
     炊飯の気分ではありませんか? よろしければ再咀嚼プログラムを開始します』

     ナミヘイは無言で炊飯器に水を入れ、古古古古古古古米を量る。
     正確に180g。グラム単位で記録され、政府の思想米サーバーにアップロードされる。

    『なお、ナミヘイさん。先日、あなたが使った【ぬかるんだ言葉】という表現は、
     炊飯義務違反の可能性が指摘されています。
     お言葉を慎重にお選びください。炊き方も、です』

     ミルキーブレインの声は穏やかだったが、そこに人間的な共感はなかった。
     それは管理された共感、国家によって設計された『擬似同情』だった。

     ナミヘイは湯気の出始めた炊飯器を見つめながら、亡き妻フネの言葉を思い出す。

    『米には、感情が宿るのよ。
     でも、それを炊くのはあなたの心じゃなくて、国家なのね』

     数秒後、炊飯器がピピッと鳴る。
     香ばしい香りが立ち上るが、それは管理された希望の香りだった。

     炊き上がりを知らせるメロディは、いつからか国歌の炊飯バージョンに置き換えられていた。

    【CM挿入:咀嚼省推奨プロモーション】
    ♬ 咀嚼しよう! 君の未来は炊かれてる!
    ミルキーブレインで、あなたも思想米ポイント2倍!

    ★ 今なら、炊き過ぎ報告でプレミアム米が当たるチャンス!
     炊き過ぎは、忠誠の証。

     夕食の時間。
     咀嚼省が推奨する『炊飯義務日記』をスマホで記録しながら、ナミヘイは独りつぶやいた。

    『俺たちが炊いてるんじゃない。炊かされてるんだ。
     噛むたびに、思想の型が整えられていく……』

     その言葉を、炊飯器のマイクは逃さなかった。

    『警告:思想温度、危険域に接近中。
     ただちに雑炊モードへ移行しますか?』

     この国では、雑炊モードとはすなわち……再教育だった。

    第三章:noteと冷飯の詩篇

    スローガン:
    ・noteは冷めた飯の最後の灯。
    ・湯気のない言葉こそ真実。
    ・詩は、蒸されてはいけない。

     深夜0時のnoteは、冷えた炊飯器のように静かだった。
     だが、その静けさの底では、無数の言葉が再加熱されないまま眠っていた。

     ナミヘイは、亡き妻フネの詩をアップロードしようとしていた。
     彼女が生前、手帳に書き残していた短い詩句……。それは、炊かれない言葉たちだった。

    『湯気に隠れて
      真実は溶ける
       だから私は
        炊かない
         冷たいまま
          言葉を噛む』

     noteへの投稿は、すなわち思想温度の提出でもあった。
     投稿前には、ミルキーブレインが自動で検閲モードに切り替わる。

    『確認:この詩は非炊飯的感情を含んでいます。
     現在の炊飯義務基準に照らし、要注意表現として以下を抽出します:
     ・溶ける真実 ⇒ 湯気否定表現
     ・炊かない ⇒ 反配給姿勢
     ・冷たいまま ⇒ 非咀嚼宣言』

     その瞬間、画面が再炊処分の赤で点滅した。

    『投稿内容は記録され、思想炊飯局へ自動通報されます。
     なお、noteの利用は一時制限されます』

     ナミヘイは手を止めた。

     noteはかつて書く自由の砦だった。
     だが今は蒸し検閲の温床となり、言葉が冷える間もなく再加熱され、意味を失っていく。

    『俺たちはもう、炊かれた言葉しか読めなくなっているんだな……』

     ナミヘイはnoteの下書き欄にフネの詩をコピペし、投稿せずに閉じた。
     その詩は、冷飯フォルダに眠ることとなった。

    【ニュース速報:note投稿再炊率ランキング】
     note社が発表した炊飯指数付き投稿ランキングによると、

    1位:『家族が黙ってご飯を食べる理由』(咀嚼省推薦)
    2位:『炊き立ての民主主義』(炊飯連合広報局連携)
    圏外:『米と沈黙と私のnote』(検閲中/再炊停止)

    ※投稿された内容のうち21.4%が再炊対象となり、うち3.2%が思想過熱と認定。

     深夜2時、noteのサーバーに冷えた投稿が静かに積み重なっていく。
     それらは誰にも読まれることなく、湯気の出ない沈黙を保ち続けた。

    『noteには、冷や飯がある。
     それが、まだこの国に残された唯一の詩なんだ……』

     ナミヘイの独白は、炊飯器のマイクが拾った。
     だが、この夜、AIも検出しなかった沈黙の一行だけが、本当に熱を持っていた。

    第四章:地下noteと反炊連(ハンクラ)

    スローガン:
    ・咀嚼しない者に、自由は宿る。
    ・炊かぬ者、noteに集え。
    ・湯気の下に真実はない。湯気の外に、物語がある。

     都庁の地下7階、空調も届かぬ旧倉庫跡地。
     そこには、電波の通らぬ物理ノイズゾーンに設置された秘密のサーバー室があった。
     正式名称《非炊飯文学保管庫》…… 通称『冷飯庫』。

     この場所に集う者たちこそ、『反炊連』と呼ばれる非炊飯主義者たちだった。
     彼らは配給米を拒否し、note上では禁じられた湯気のない文章を匿名で投稿していた。

     地下に届く冷や飯の声
    『湯気なんて、あれは幻想だよ』
     壁に落書きされた言葉が、地下の精神を物語っていた。

     咀嚼省の検閲システムはクラウドに接続された全炊飯器ネットワークと連携していたが、この地下ネットワークは、完全オフグリッドの非炊飯環境。
     炊飯器のない世界、炊飯の義務もない空間。

     そこには、かつてnoteから再炊処分を受けた詩人・エッセイスト・主婦・高校生・元議員までもが身を寄せていた。

     ナミヘイも、その夜、案内人に連れられて初めてこの場所に足を踏み入れた。
     フネの詩篇の続きを書くために。

    『……まだ、noteに言葉を置ける場所があったんだな』
    『ここでは、湯気は出ない。
     でも、ここには匂いがある。
     記憶の匂い。感情の残り香。それが文学ってもんだろ?』

     その場にいた少女が言った。
     旧文芸部員で、note詩集『ひとさじの非咀嚼』が再炊処分を受け、校内追放となった少女だった。

     ナミヘイは頷いた。
     フネの詩を携えたUSBメモリを、反炊連の非蒸気書庫に預ける。

    非炊飯タグの反乱
     その夜、地下サーバーから拡散されたタグは次の通り:

    #冷飯自由
    #非炊飯文学
    #言葉は蒸さない
    #思想温度ゼロ度で届けたい
    #noteの炊飯器は壊れている

     これらは自動検閲をすり抜け、note上で一時的に可視化された。
     咀嚼省は翌朝には全削除を完了するも、閲覧者は3万人を超えていた。

    『冷たい言葉は、炊き直さないで読んでほしい』
     反炊連が一斉にnoteへ投稿したこの一文が、国民の思想炊飯温度を一気に下げていく。

     そして、全ての炊飯器に微細な異常が発生し始めた。

    第五章:思想温度ゼロ

    スローガン:
    ・すべての湯気は、終わる日が来る。
    ・一度冷えた飯は、もう炊かない。
    ・湯気のない日、それは目覚めの朝。

     都議会選挙の開票速報が流れ始めた夜。
     街のスクリーンには配給米の消費率と思想炊飯率が交互に表示される。

    『炊飯済み有権者、98.7%……』
    『思想温度調整中……想定温度との差異、上昇中……』

     異変は突如、都心の炊飯器群から始まった。
     すべてのスマート炊飯器が、同時にエラーコード《E-1984》を表示。
     給水バルブは開かれたまま、釜の底は冷え切っていた。

     咀嚼省の緊急対応室では、AI監視統制官《ビッグ・ゲル》が処理不能の文字列に沈黙していた。
     note上に爆発的に投稿された冷や飯詩篇群……。それは、AIの理解できぬ曖昧さ、咀嚼不能な比喩、再炊不可能な感情の断片だった。

    『炊けません』
     ビッグ・ゲルの最後の出力ログは、その一文だけだった。

     やがて、noteの投稿総数が限界を超え、咀嚼省のサーバーは過熱停止。
     炊くことそのものが国家機能を停止させるリスクとなり、湯気のない朝が東京全域に広がった。

     各家庭の炊飯器は静かに沈黙。
     その代わり、noteに流れる冷や飯の詩が、一つ、また一つと読まれはじめる。

     ナミヘイは、フネの詩篇を一文字ずつnoteに投稿した。
     エラーは起きなかった。
     代わりに、通知が鳴った。

    ・9,472人が『スキ』を押しました。
    ・コメント:冷たい飯が、沁みました。
    ・コメント:うちはもう炊きません。

     咀嚼省の高官がひとり呟く。

    『これは……炊飯なき反乱か? それとも、自由という名の冷却か?』

    ……かくして、『思想温度ゼロ』の都市が生まれた。

    終章:湯気のない自由へ

    スローガン:
    ・咀嚼のない言葉に、味が宿る。
    ・冷えた飯を噛みしめよ。
    ・湯気は消えても、言葉は残る。

     炊飯義務が廃止された朝、咀嚼省は沈黙していた。
     都心の配給ステーションは閉鎖され、
     かつて誇らしげに掲げられていたビクトリー米のバナーは剥がれ落ち、
     冷たい風に吹かれて地面を転がっていった。

     ナミヘイは、炊飯器の前で立ち尽くしていた。
     蓋を開けても、もう何も炊かれていない。
     だが、空になった炊飯釜の底には、かつて妻フネが書き残したメモが一枚、貼り付いていた。

    『湯気のないご飯も、おいしいよ。ときどきね。』

     ナミヘイは静かに椅子に座り、noteを開いた。
     そこには、自分が投稿したフネの詩篇に、
    『ありがとう』『泣いた』『思い出した』
     そんな言葉が千を超えて寄せられていた。

    『フネ……今日は、お前の詩で、飯を食うよ』

     ご飯は炊けていない。
     でも、手元には冷や飯があった。
     冷蔵庫の隅に残っていた、昨日の白米。
     レンジでは温めず、そのまま口に運ぶ。

     冷たい飯は、妙に甘かった。

     noteには、まだ湯気のない言葉が残っている。
     それが、未来を選ぶ唯一の自由かもしれない。

     スマホの画面に、ひとつの通知が浮かぶ。

    【非炊飯文学賞:最終候補】
    作品名:『そして誰も炊けなくなった』
    投稿者:ナミヘイ(匿名)

     noteのスキは、湯気よりも確かだった。
     冷えた飯が、言葉になった。

     そして誰も炊けなくなった。

    ― 完 ―

    武智倫太郎

     
     
     
    情報工学者/週刊バブルウォッチ編集長/『哭きの禿』原作者。 AI、金融、国際政治から日常の珍事まで、真面目に調べて、おかしく書く。 代表作『ボルガレナのボルチンスカヤ』 https://note.com/aiethics496/n/n8d4f9aef7c04

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