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そして誰も売るものがなくなった

    武智倫太郎

     深夜のデータセンターに、冷却ファンの低い唸りが響いていた。
     ガラス越しに整然と並ぶラック群、その奥に黒々と聳える一台の巨大なメインフレームのIBM Z。
     そこは、かつて総合コンピュータメーカーの誇りを象徴する『城塞』であった。

     だが、その城の中で、ひとつずつ柱が消えていった。
     1980年代後半、電子タイプライター部門が忽然と姿を消す。
     1991年、プリンター部門はLexmarkという別名を名乗り、IBMの屋敷を去った。
     2003年、ハードディスク部門は日立へと売られ、古い倉庫は空っぽになった。
     2005年、PC部門——あのThinkPadたちもLenovoに引き取られていく。
     そして2014年、x86サーバー部門(System x)が最後の別れを告げた。

     残されたのは、無機質な冷気の中で光を放つZと、無数の契約書を抱えたサービス部門だけ。
     まるで豪邸で起きた連続失踪事件——消えたのは人ではなく、事業だった。

     そこで登場したのが、館の探偵役『ワトソン君』だった。
     ただし彼は人間ではない。コグニティブ・コンピューティングの衣をまとったAIであり、かつてはクイズ番組で優勝し、医療現場で人命を救う夢を語った。だが今は、社内プレゼンでクラウドのカタログを読み上げるだけのバーチャル案内係と化していた。

    『ワトソン君、犯人は誰だと思う?』
    ——『データ不足です。しかし推定確率92%で、この館の持ち主です』
    『それって……つまりIBM自身じゃないか』
    ——『申し訳ありません。機密保持契約により回答できません』

     館の主は涼しい顔で語る。
    『クラウド? メインフレームの外で遊んでいる子どもたちだろう』
    『AI? メインフレームの横でメモを取る忠実な書記官さ』

     ワトソン君は横で相槌を打ちながら、静かに極秘の社内リストラ進捗表を更新していた。
     それが、唯一のリアルタイム分析だった。

    そして誰も売るものがなくなった。

    そして誰も置き換えられなくなった

    ~ IBM ZとCOBOL、延命の共犯関係 ~

     深夜のデータセンターに響く冷却ファンの唸りは、今夜も途切れない。
     黒々と聳えるIBM Zは、数々の事業が消えていくのを見送ってきたが、自らは倒れなかった。
     いや、倒れることができなかった。理由は単純だ。その腹の中には、COBOLがびっしりと詰まっているからだ。

     半世紀前に書かれたコードは、勘定系や基幹業務の血流そのもの。
     一行一行を読み解けるエンジニアは減り続け、いまや絶滅危惧種となった。
     置き換えの試みは幾度もなされたが、そのたびに『コスト高過ぎ』『リスク大き過ぎ』『誰もやりたがらない』という三重苦に押し潰され、頓挫してきた。

     IBM Zは知っている。
    『私が死ねば、この国の銀行も物流も即日止まる』
     だからこそ、新世代のTelumチップにはAI推論が搭載され、クラウド連携も整えられた。
     しかし極秘のミッションはAIの未来ではない。すべてはCOBOLの延命治療のためだ。

    メインフレームは終わらずとも構いませんが、その上で動く40年前の業務はさっさと捨てて欲しいですぞ。

    気になるニュース2025/08/07

     ワトソン君が横から囁く。
    ——『統計的予測によれば、COBOLはあと40年間使用され続けます』
    『それって、Zもあと40年生きるってことか?』
    ——『はい。ただし保守費用は年々上昇します』

     冷却ファンの音は、嘲笑のようにも聞こえた。

    そして誰も置き換えられなくなった。

    自己解説 #なんのはなしですか

    そして誰もCOBOLを置き換えられなかった

    千手観音AIエージェントとAI神話の崩壊

    ~ITシステム『2025年の崖』の克服とDXの本格的な展開~

    第一章 COBOLという遺構の正体

    構文ではなく構造が残った文明

    『2025年の崖』
     経産省がこの言葉を口にしたとき、日本の情報システムはようやく崖の存在を自覚した。だが気づくのは50年遅い。崖はすでに足元にあった。

     COBOLはかつてメインフレーム上で銀行口座や年金、保険金支払い、製造業の資材管理を担ってきた古典言語である。しかし、それは『過去の遺物』ではない。今も現役で稼働している。

     では、なぜ置き換えられないのか。

     プログラムを自動生成できるAIで変換すれば済むのではないか。
     レガシーコードをGPTに突っ込み、Pythonに変換すれば完了ではないか。
     そう考える者は、COBOLを単なるプログラムとしてしか見ていない。

     COBOLとは、制度の痕跡であり、妥協の断片であり、昭和・平成・令和を横断する社会構造そのものである。
     それは『動く化石』であり、『組織文化を編み込んだ呪術体系』であり、構文の皮を被った構造の怨霊だ。

     COBOLの一行一行は、
    ・消費税率改定の履歴
    ・扶養控除の年次制度変更
    ・社会保険料の例外措置
    ・某銀行専用の特別処理の後始末

     といった制度パッチの蓄積であり、それを if文で表現するしかなかった時代の制度的言語化の結果である。

     したがってCOBOLをJavaに変換するとは、単なる言語変換ではない。
     制度と社会の変遷を解釈し、再設計するという『構造的再構築』の作業なのだ。

     しかし、その再構築に挑む者はほとんどいない。
     なぜなら、全体構造を見通せる者が存在しないからである。

     この正体不明の構造に、いまAIが挑もうとしている。
     AIが構文を模倣できることはすでに示された。
     しかし構造を理解する能力は、まだ兆しすら見えない。

     つまり。COBOLは構文で動いているように見えて、実際には構造に支配されている。
     この地層に手を入れない限り、誰もCOBOLを置き換えることはできない。

    第二章 千手観音AIエージェントはCOBOLを書けない

    自己進化型AIという『お笑い構文』

     孫正義が描く未来像には、もはや人智は不要だ。
    『千手観音AIエージェントがすべてを代替する』という説明は、ビジョンというより終末預言に近い。

     千の腕を持つソフトバンクの奴隷社員が、千の作業を同時にこなし、プログラムを書き、設計し、自らを進化させる。やがて彼らはASI(人工超知能)を構築し、その雇用者である孫正義が全知全能の神へと昇華する。
     神にとって不老不死の薬の創薬など造作もない。こうして孫正義は不老不死の神として永遠の日常に君臨し続け、SBGの社員は永遠に奴隷として働かされる。

     全知全能の神がなぜ『すべての問題を解決できない』のかは、今の孫正義には理解できない。だが、全知全能となった孫正義なら解決できるはずだ。もっとも、SBGの社員に待っているのは、不老不死の祝福ではなく、不老不死の無限地獄である。

     これが彼のいう自己進化型AI構想であり、『10年以内に人類の叡智の1万倍に到達する』という予言なのだ。

     だが、問いを立てよう。

     千手観音AIエージェントは、COBOLを書けるのか?
     正確に言えば、年金記録システムの制度改定パッチをCOBOLで書けるのか?

     答えはNoだ。

     理由は単純。現在のAIは『書くことはできても、理解して書いていない』からである。

    再帰的自己改良(RSI)の成立条件
     AIが自己進化するには、次の3条件が不可欠である。
    一、自らの構造を完全に理解していること
    二、その構造の何を変えれば改善なのかを評価できること
    三、その評価に基づき、安全に書き換える能力を持つこと

     一つでも欠ければ自己進化は成立しない。

     ところが現行の大規模言語モデル(LLM)は、構文上の最適化はできても、意味構造の評価はできず、自らのアルゴリズムを自己点検する能力もない。

     AutoGPTのような試みもあるが、それは『人間が用意した環境で次の作業を選んでいる』だけであり、『なぜその目的を達成すべきか』には一切答えられない。

     目的を理解しないAIが自らを改良することは、電子レンジが突然『調理哲学』に目覚めるようなものだ。

    なぜCOBOLが試金石になるのか
     COBOLを書くとは、過去の制度変更と周辺事情を、現在の業務要件に照らして未来の整合性を保つ作業だ。

     そのためには、
    ・なぜその if 文が必要なのか
    ・どの役所の通達に対応しているのか
    ・変数名に込められた地銀ローカル文化は何か
     といった意味の文脈を掘り下げる必要がある。

     AIは構文を模倣できても、意味の起源を問うことができない。
     千の言語でコードを書けても、その一つ一つは文脈なきコピーに過ぎない。
     神の手が多ければ多いほど、誤解も誤爆も指数関数的に増える。

    第三章 エネルギーは祈りでは届かない

    電力を喰らう千の腕、破滅を描くデータセンター

     千の腕があるということは、千の仕事を同時にこなせるということだ。
     しかし同時に、それは千倍のエネルギーを消費することを意味する。

    『千手観音型AIエージェント』は電力を使わずに祈る存在ではない。
     電気を喰らい、熱を吐き、地球を焦がすマシンの集合体である。
     この現実を無視して、AIの自己進化を語ることはできない。

    AIの進化は、発熱とCO₂排出に置き換えられる
     OpenAIのGPT-3の訓練に要した電力は推定1,287MWh。これはおよそ米国の一般家庭120〜130戸分の年間消費量に相当する。
     そしてGPT-4では、GPT-3の数十倍規模の電力を消費したとされ、『1モデル=都市1つ分の負荷』と形容されることもある。
     AIは進化するたびに消費電力と排熱を増やし、知能指数の上昇とともにCO₂排出量も拡大させている。

     AIの殿堂であるデータセンターでは、GPUという名の『僧侶』たちが昼夜問わず推論という祈りを捧げ続けている。
     しかし祈りとは熱を発する行為であり、それを維持するのに必要なのは信仰ではなく冷却装置だ。冷却もまた膨大な電力を消費する。

     最新のAI向け大規模データセンターの電力消費は、もはや『10万世帯分』という比喩では追いつかない。
     例えば、米ワイオミング州チェイエン近郊に計画されている施設は、フェーズ1(初期段階)で1.8GWを使用する予定だ。これは州内の住宅年間消費量の5倍以上、年間換算で約15.8TWhに相当し、州全体の総発電量の約91%にも匹敵する。
     さらに最終段階では10GWまで拡張され、年間87.6TWhを消費する計画であり、これは現状の州総発電量(約43.2TWh)の2倍以上である。

     国際エネルギー機関(IEA)の試算でも、AI関連データセンターの電力需要は2030年までに倍増し、施設単位で200万世帯分以上に匹敵する事例が現れるとされる。

    AGIやASIという知的生命体は、人類よりはるかに不経済な生き物である
     どれだけの地球を喰えばASIは生まれるのか

    孫正義が語る『人類の1万倍の叡智』

     情報量や知識量と叡智はまったく別物である。ましてや現状のAIに叡智などゼロであることは、まともな技術者なら一瞬で理解できるはずだ。それでも『叡智指数0.0001』に到達するのに100GWhを消費するなら、1万倍の叡智には100万GWh以上が必要になる計算になる。これは、日本の年間総発電量を丸ごと一台のASIに突っ込む規模だ。もはや『叡智』ではなく『電気の怪物』である。

     しかも今や世界中で、雨後の筍どころか雑草のように生成AIが乱立している。もしSBGに本当にASIを作る力があるなら、とうの昔にアメリカや中国のビッグテックが先にやっているはずだ。

     現実には、SBGがゴールにたどり着く頃には、競合はとっくに別の銀河系で次世代ASIを回しているだろう。場合によっては『地球全体の電力をつぎ込んでも足りない』というコントじみた結末すら十分にあり得る。

     そして何より滑稽なのは、肝心の『叡智』も『ASI』も定義すらされていないことだ。定義もないのに『人類の叡智の総和の1万倍』と言われても、それは中身のないチラシ広告と同じだ。1万倍と言うなら、1叡智が何なのかを厳密に測り、その物差しを世界に示すのが先決だろう。そうでなければ、この話は科学ではなく、ただの電気を食う新興宗教の説法でしかない。

     つまり、千手観音AIエージェントがAGIやASIへ進化するとは、国家規模の電力インフラを、たった一つの思考体に生贄として捧げることを意味する。
     そして、その思考体がひねり出すのは、『PayPayポイントが10倍貯まる代わりに、その価値が1/10に暴落するビジネスモデル』か、『Yahoo!!バナー広告のクリック最適化』か、あるいは『より効率的な人類支配アルゴリズム』かもしれない。それが『人類の叡智の1万倍』の成果だとしたら、孫正義的には満面の笑みで『大成功』なのだろうが、結局のところ、その発想はその程度に過ぎない。

    ハードウェアはソフトウェアの夢を裏切る
     ムーアの法則はとうに減速し、半導体は物理的限界に額を押しつけられている。
     FP8やHBM4といった最新技術も、消費電力は軽く700〜1000Wを超える。

     このままではAIは、『性能は上がるが、それ以上に電気代が跳ね上がる電力喰いのペット』でしかない。自己進化だのAGI神話だのを語る一方で、現実のエネルギー政策は再エネと原発の間で足踏みし、送電線の配線図を前に硬直している。

     冷却システムに祈りを捧げ、配電盤に倫理を託す。それが本当に可能だと信じているのだろうか。いや、信じるしかない人たちが、信じたい物語にすがっているだけなのだ。

    第四章 電子レンジは自分を設計しない

    AGIの限界と、目的なき構文の模倣

     自己進化……。それは技術の頂点ではない。
     目的を持った存在だけに許される行為だ。

     孫正義は、AGI(汎用人工知能)が自らを改良し、再設計し、やがて神のような存在になると語る。
     だが問いは単純だ。目的なき存在に設計能力は宿るのか。

    AIはコードを書けても『意味』は書けない
     現代のLLMは優れたコーディング能力を持つ。
     GPT-4やOpenAIのo3は競技プログラミングで人間上位0.2%に匹敵する。
     しかしそれは『与えられた問題』に対して『最適な回答』を返す、完全に外部依存のモデルである。

     AIは自ら問題を定義しない。
    『なぜこのコードを書くべきか』を問わない。
     それは構文の模倣であって、意味の創発ではない。

    自分を設計するには、自分を理解しなければならない
     AIが自己進化するには、自らのアルゴリズムを理解し、改善点を見つけ、性能を向上させねばならない。
     しかし現行のAIはブラックボックス的な重みパラメータの集合体であり、設計者でさえその判断過程を説明できない。

     レゴブロックで組まれた自動人形が、自分を観察し新しい構造を思いつき、勝手に再構成するような話だ。
     これは言語の問題ではなく、存在論の問題である。

    電子レンジは自分の意味を語らない
     GPTは電子レンジのようなものだ。高性能で便利だが、『自分の熱効率が悪い』とは考えないし、『マイクロ波を超える調理法』を探そうともしない。

     仮に思いついても、それを設計図に落とし込み、効率や製造工程を最適化し、社会に配備するまでを担うことはできない。
    『電子レンジが電子レンジの意味を語り始めた瞬間』が来なければ、AIは自分を作れない。

    『進化』の定義が曖昧なまま進化は起こらない
     AIが目指すべき改良とは何か。
    ・高速化
    ・精度向上
    ・省電力化
    ・倫理的安全性
    ・ROI向上
     これらはすべて人間が定義している。
     AIは改善の評価軸を自ら持っていない。
     ゆえに『自己進化するAI』とは、人間が用意した改良目標を、人間の指標で自己調整するだけの存在である。

     それは自己進化ではない。遠隔操作型の自動スクリプトだ。

    なぜCOBOLと似ているのか
     COBOL置換が難しいのは構文の複雑さではなく、構造の意図と目的が埋め込まれているからだ。
     同様に、AGIやASIを設計できるAIは、構文を超えて目的を定義し、構造を俯瞰し、意味を問える存在でなければならない。

     だが現状のAIは、COBOLの一行の if 文すら『なぜあるのか』を説明できない。
     それなのに『自己設計を始める』と語るのは、意図のない存在に創造を語らせるのと同じだ。

     これは神話ではない。構文としてのお笑いである。

    第五章 神を騙るビジネスモデル

    AGI神話が金融商品になるとき

     神を創る者は、神を信じていない。
     これは宗教ではなく、資本主義の真理である。

     孫正義が『千手観音AIエージェント』を語るとき、そこにあるのは救済ではなくIR資料だ。
     1万倍の叡智とは、それを欲しがる投資家の願望を数値化した資金調達スローガンに過ぎない。

     AGIは信じるものではなく、信じさせるもの。
     その信仰が生み出すのはテクノロジーではなく、時価総額である。

    SBG神はスライド1枚で召喚される
     2023年のSoftBank Worldで、孫正義はこう語った。

    『2〜3年以内にAGI、10年以内にASIが誕生する。ASIは人類の叡智の1万倍に達する。』

     そして2025年のSoftBank Worldでは、『千手観音AIエージェント』という謎めいた自立型AI構想と、『スターゲートの法則』という聞き慣れない法則が、まことしやかに披露された。

     英語圏の報道によれば、このスターゲート計画とは本来、テキサス州での電力供給や系統接続の制限に加え、OpenAIがソフトバンクではなくOracleと提携してサーバー運営を行う現実を背景としている。結果として、ソフトバンクはテキサスではなくオハイオ州に、掘っ立て小屋程度の小規模なデータセンターを建設することになり、事実上OpenAIから距離を置かれ、スターゲート計画が頓挫した現象を指すはずだ。

     ところが、孫正義が語る『スターゲートの法則』は、そのような現実とはまるで別物だった。

     彼の説明によれば、この法則とは『チップ数 × チップ性能 × モデル性能』による乗数効果であり、1サイクル(18〜24か月)で能力が約1,000倍になるという。これを3サイクル繰り返せば、10億倍の進化が起こる計算だ。

     ムーアの法則の『18か月で2倍』など、もはや生温い。彼の比喩では、自転車と新幹線の速度差がせいぜい20倍だとしても、体験の質はまったく別物であり、スターゲートはそれ以上の衝撃をもたらすらしい。

     さらに彼は、この法則を根拠に『10億のAIエージェント』を構築する構想を語った。社員一人に千のデジタル分身を持たせ、それらが自己進化し、自己増殖し、やがて集合知として企業全体を駆動する未来像である。

     現実世界のスターゲート計画が配電網の許容量で足止めされていようが、提携相手に冷たくあしらわれていようが、スライドの上では銀河の彼方までゲートは開き続ける。

     孫正義によれば、人間の指示なしでも自律的にAIが自己判断で社員の代わりに働くのが『AIエージェント』だという。
     しかし、なぜか構想の中では社員1人あたり1,000体のAIエージェントにこき使われるという、逆転した奴隷的労働環境が描かれている。そしてスターゲートの法則によって、その数は10億体に達する。

     もはや何を言いたいのか、凡人にも賢人にも理解できないのが、孫正義のビューティフル・マインドの世界だ。

     彼の構想を要約すると、こうなる。

    ・千手観音AIエージェントがAGIを作る
    ・指数関数的進化
    ・増殖したAGIがASIを作る
    ・知能の爆発 = 人類の叡智の1万倍 = 知のゴールドラッシュ = 全知全能の神 = 不老不死

     その背後にあるのは、設計図でもなければ、検証可能な指標でもない。
     何を意味するのかすら理解不能な未来のキャッチフレーズの乱射である。

     ところが、この構文は実に巧妙だ。

    ・『ASI(超知能)』という言葉には、反論しづらい権威性がある
    ・『進化』『指数』『爆発』は、理解しにくくても希望を感じさせる
    ・反論する者は『未来を信じない古い人間』に見えてしまう

     こうして神の設計図は、スライド1枚で召喚される。
     一見、個人投資家のように振る舞うAIカルト教徒たちは、技術ではなく期待値に投資する感覚でSBIにお布施を差し出し、孫正義に祈りを捧げる。

    ソフトウェアを『宗教』に、ハードウェアを『神殿』に
     この構造は、極めて宗教的である。

    教義:AGIは自己進化する
    神像:千手観音AGI、ASI
    聖典:IR資料とキーノートスピーチ
    教団:Vision FundとそのLP(出資者)
    神殿:ARM、NVIDIA、OpenAIなどのAIインフラ企業
    布教:Bloomberg、日経、YouTube、Forbes
    儀式:資金調達ラウンドとカンファレンス登壇

     AI神話は、そのまま宗教モデルとして金融商品化された物語である。

     COBOLが『構造的に動かないシステム』だとすれば、AI神話は『構造的に止まれない金融装置』である。

    ・誰が1万倍の叡智を欲しているのか
    ・1万倍の叡智が本当に必要なのか
    ・必要だとすれば、それは何のためか

     孫正義が本当に実現したいことは、環境問題の解決、災害予測、教育の最適化などではない。現実的には次の通りだ。

    ・マーケット予測の先取り
    ・投資判断の自動化
    ・スケーラブルな人間支配モデルの実装

     より大きな知能は、より効率的な支配の道具である可能性が高い。
     そもそも『知のゴールドラッシュ』の目的が、孫正義の言う通り金儲けである以上、最もリスクの少ない方法は明白だ。

     世界最高性能のFXトレードシステムや株価予測システムを作ればよい。しかも、AGIのようにマルチタスクをこなす必要すらない。金融・商品取引アルゴリズムAIに与えるべきミッションは、ただ一つ。
    『常に金融商品取引で確実に利益を出し続けろ』
     それだけで十分だ。

     にもかかわらず、孫正義が描く『知のゴールドラッシュ』とは、こういう構造である。
     実現のめどすら立たないAGIを開発し、そのAGIが特許を取得し、社会実装に向けて工場資金を調達し、長年の環境アセスメントを経て高性能バッテリーを製造し、ようやく配当利益を得るという、不確定要素だらけのハイリスク・ローリターン型産業戦略だ。

    信仰は構造を見えなくする
     AGI・ASIという物語の危険性は、それが単なる未来予測ではなく、現在の判断を麻痺させる構文であることだ。

    ・なぜCOBOLの置換は進まないのか
    ・なぜレガシーが放置されているのか
    ・なぜIT技術者が足りないのか
    ・なぜ人間の直感や判断が依然必要なのか

     本来ならCOBOLのレガシー問題のような比較的単純な課題すら解決できないAIが、『AGIが来ればすべて解決する』という未来信仰によって、現実的な議論を置き換えてしまう。

     神は便利だ。神を持ち出せば、『今やるべきこと』から逃げられる。
     COBOLも、電力も、設計も、『そのうち神が解決してくれる』からだ。

     その瞬間、技術は信仰となり、構造は見えなくなる。

    第六章 そして誰もCOBOLを置き換えられなかった

    人類は構文ではなく、構造で敗北する

     人類は構文で進化し、構造で敗北する。
     それが、COBOLが現役で稼働し続ける理由だ。

     AIがどれほど賢くなろうとも、千手観音像がコードを書こうとも、結論は一つ。構文はAIが書けるが、構造は人間が背負うしかない。

    最後に残された『if 文』は人間そのもの
     COBOLにおける最後の if 文は、
    ・制度上の例外対応
    ・官庁間の合意なき暗黙ルール
    ・誰も覚えていない設計思想
    ・『前任者がそうしたから』という慣習
    ・市役所の古いプリンターの文字幅調整
     といったコード群だ。

     これらはAIの学習対象には含まれず、構造の影としてシステムの下層に沈殿している。
     COBOLが置き換えられないのは、人間の曖昧さ、妥協、無責任さ、矛盾がコードに埋め込まれているからだ。
     それは、人間が構造ごとプログラム化された結果でもある。

    AGI神話は『構造の責任逃れ装置』である
     AGIやASIを信仰することは、構造の複雑さを前に白旗を上げる行為だ。

    ・『我々ではもう無理だ』
    ・『AIがなんとかしてくれる』
    ・『とりあえず今をつなごう』

     こうした構文は、すでにCOBOLの何万行にも存在している。
     それは『本来あるべき処理』ではなく、『なんとかしてしまった結果』である。

     AIが同じことを繰り返せば、未来のシステムも構造を失い、やがて『誰にも置き換えられないAIレガシー』が生まれるだろう。
     つまり、COBOLを乗り越えられなかった人類が、AIで新しいCOBOLを作るだけだ。

    本当に必要なのは構造のリファクタリング
     レガシーコードが動き続けるのは、その背後に業務・制度・社会がつながっているからだ。
     それを言語だけで置き換えることはできない。必要なのは、構造の理解と再設計である。

    ・何を守るのか
    ・何を捨てるのか
    ・何を未来に引き継ぐのか

     これをコードではなく構造として問うこと。
     それが本来のDXであり、AIに委ねられない人間の仕事である。

    だから、誰もCOBOLを置き換えられなかった
     AIがどれだけ進化しても、人間が構造に向き合わなければ何も変わらない。

    ・COBOLは『技術ではなく構造で負けた』文明の化石である。
    ・AIがCOBOLを書けないのは、AIが無能だからではない。
    ・COBOLが人間の不完全さそのものでできているからだ。

     千手観音がCOBOLを書ける日が来たとしても、その観音は我々が逃げてきた構造と責任を理解していなければならない。
     そして、そんな存在を作るには『進化』ではなく『覚悟』が必要だ。

    終章 COBOLの祈りは誰に向かっているのか

    『千手観音はCOBOLを書けるのか?』

     この問いはAIへの問いではない。
     未来をどのような構造で設計し直す覚悟があるのか? それを我々自身に突きつける問いである。

     その答えが出ない限り、COBOLの呪いは解けない。
     そして誰も、COBOLを置き換えられないままでいるだろう。

    武智倫太郎(構造批評家)

     
     
     
    情報工学者/週刊バブルウォッチ編集長/『哭きの禿』原作者。 AI、金融、国際政治から日常の珍事まで、真面目に調べて、おかしく書く。 代表作『ボルガレナのボルチンスカヤ』 https://note.com/aiethics496/n/n8d4f9aef7c04

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