
シュレーディンガーのマプト飯:開けるまで『生』と『死』が重なっている
文・武智倫太郎
森野花さんのコラムが秀逸だった。
なぜなら、二重価格を『賛成』『反対』の気分論で終わらせず、『同一価格にするなら、その差分は誰が吸収するのか』という設計の問いに変換しているからだ。二重価格問題の本質は、実はここにある。私はこの問いの立て方を、この記事を基に、もう少し別の角度から考えてみたい。
そこで舞台を、モザンビークの首都マプトに移す。日本の炎上話はいったん脇に置く。二重価格が『気分』ではなく『現実』として立ち上がってしまう場所から見直してみる。
猫は思考実験だが、マプトでは私が箱の中にいる
シュレーディンガーの猫は、あくまで思考実験だ。
箱を開けるまでは猫は『生』と『死』を重ね持ち、観測によって状態が確定する。量子力学の、少し意地の悪い冗談である。
ところがマプトには、冗談で済まない箱がある。
猫ではない。私だ。
安い飯の容器の蓋が閉じている間、マプトのランチは二つの状態を重ね持つ。
『うまい』と『終わる』。
『無事』と『寝込む』。
『午後も仕事』と『コレラ』。
そして現実には、腸チフスという、さらに嫌なカードまで混ざる。
最悪なのは、観測者としての私が安全な位置にいないことだ。
シュレーディンガーの猫は箱の外から観測される。
だが『シュレーディンガーのマプト飯』では、箱の中に入っているのがマプト飯であり、倫太郎こと私自身である。
つまり私は、コレラや腸チフスで死んでいる倫太郎と、生きている倫太郎を、臨死体験に限りなく近い形で同時に観測することになりかねない。
思考実験のはずが、食中毒の人体実験に変わる。量子力学が公衆衛生に着地する瞬間だ。
二重価格の正体は、差別より先に『インフラの段差』で発生する
ここから先が、森野花さんの問いの強さと響き合う部分だ。
モザンビークの二重価格は『外国人だから高い』という差別の話として始まらない。もっと手前に、どうしようもない段差がある。
安い飯がある。
そして高い飯もある。
安い飯は、必ずしも不味いわけではない。生活の味としては好きなことすらある。モザンビークのキャッサバは、東南アジアやインドなどのキャッサバと違って、栗のようにほくほくして、物凄く美味しいのだ。しかも、100円もあれば腹いっぱい食べられる。だがキャッサバには、シアン毒素が入っていることもある。
しかし問題は味ではない。水、氷、手洗い、油の再利用、食材の保管、冷蔵物流、キャッサバの毒抜き。これらが揃っていないと、『コレラ』や食中毒の確率をゼロにできない。ここは『これら』と『コレラ』を引っかけた親父ギャグである。笑っている場合ではないが、こういう場面ほど、人間はしょうもない言葉遊びで正気を保つ。
一方で、安全側の店は、その確率を下げるために金を使っている。
浄水、衛生、冷蔵、仕入れルートの管理。要するに『箱の安全性』にコストがかかる。
結果として、マプトでは奇妙な現象が起きる。
平均月給が月三万円程度の都市で、私が安全側に寄せようとすると、ランチが一人一食五千円以上になることがある。
森野花さんの『差分は誰が吸収するのか』という問いは、この段差を見逃さない。
同一価格という倫理の正しさだけで突っ切ろうとすると、現場では箱の中身が危険側に寄る。ここが問題の核心だ。
さらに残酷な話:ディナーはランチよりも高い
マプトでは、安全側の店はディナーの方がランチよりさらに高くなる。
理由は、夜は『食事』だけでは終わらないからだ。
照明、警備、スタッフの追加、アルコール、観光客向けのサービス。そこに『夜に安全に滞在できる場所』という付加価値が重なる。結果として、ディナーは料理の原価というより、箱そのものが高級になる。私はアルコールは飲まないが、アグア・コン・ガス(Água com gás:水+ガス、つまり炭酸水)の中でも、特にポルトガルから輸入されているPEDRASというブランドは、レストランだと一本1200円くらいするのである。
さらに言えば、そのPEDRASがガソリンスタンドでも一本600円以上する。オーストラリアと良い勝負だ。メルボルンやブリスベンでは、なぜか水や炭酸水の方がホットコーヒーより高いことがある。人類はときどき、当たり前の優先順位を、平然と取り違える。

PEDRASは250cc(250ml)だ。だから一日の水分摂取目標を2Lとすると、この小瓶を8本飲む計算になる。ガソリンスタンド価格でも一本600円として、600円×8本=4,800円。これが、マプトにおける『安全な水分補給コスト/日』だ。
ここは冗談として処理できない。むしろ、話の核心に触れている。炭酸の入っていないペットボトルの水は、キャップが壊れていて細菌が入っていることがある。製造過程で異物や毒物が混入し、実際に死者まで出た例もある。だから私は、割高だと分かっていても、Água com gásのPEDRASに寄せる。炭酸水を飲んでいるのではない。『安全』というインフラを、一本ずつ買っているのだ。
しかもモザンビークの通貨は、2021年7月以降、実務上は米ドルにペッグしたような動きをしている。だから円が1ドル100円から160円まで下落すると、そのままこちらの出費に直撃する。現地で暮らす人間にとっては、為替がそのまま生活コストの刃になる。
その差分は料理の美味しさより、都市のインフラ不足の請求書に近い。
夜の外食が高いのは、料理人が急に強欲になったからではない。社会が夜を安全に保てていない分だけ、民間がコストを背負うからだ。
『同一価格』は、時に『同一の危険』を呼ぶ
森野花さんのコラムが投げている問いに、モザンビーク仕様で答えるならこうなる。
モザンビークで『同一価格にしろ』を店に強いると、たいていはこうなる。
水をケチる。冷蔵を弱める。油を長く使う。仕入れを落とす。スタッフを減らす。衛生手順が省略される。
つまり、値札だけが同じになって、箱の中身が危険側に寄る。
その結果、いちばん弱い客、いちばん安い飯に頼る客が最初にリスクを引く。
だから私は、二重価格そのものを道徳で裁く気にはなれない。
むしろ裁くべきなのは、二重価格が『安全の段差』であるという現実を無視して、綺麗事のまま均一化しようとする設計の方だ。
結び:この話を、森野花さんのコラムを起点に考え直したい
日本の二重価格問題は『気分の平等』で燃えやすい。
だがマプトでは『気分』より先に『生死』の問題が来る。
そして、ここまで来ると逆に見えてくる。
日本のコンビニ弁当や、ワンコインのファストフードは、世界基準ではほとんど奇跡だ。安いのに、基本的に命がけではない。箱を開けた瞬間に『生』と『死』が重なる国では、そもそも成立しない価格帯と安全度だからだ。
つまり日本で議論すべきは、『外国人に高く取るか』という値札の感情ではない。
この国が持っている『安全というインフラ』を、誰の生活として維持し、どこまでを公共財として守るのか。差分が生まれるなら、その負担を誰が引き受けるのか。森野花さんのコラムが優れているのは、議論をそこに戻してくれる点にある。
賛否を煽るのではなく、『差分の負担者』を問う。倫理ではなく設計へ、怒りではなく構造へ。だから私は、このコラムを起点に、二重価格をもう少し『値札の議論から卒業した形』で考えてみたいと思った。
猫は思考実験だった。
だがマプトでは、観測者が被験者になりうる。ここが笑えない。
そして、笑えない話ほど、考える価値がある。