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なくすべき迷い、育てる迷い ―― その記録は、いつか誰かのバトンになる

    育児休業を経て、現場に復帰した初日のことを、今でもよく覚えている。

    半年ぶりの職場は、同じ場所のはずなのに、どこかよそよそしく見えた。立場も、任される役割も変わっていた。そして復帰したその日から、私はひとりの利用者の担当を任された。現場を離れていた私が、だ。

    私が現場を離れているあいだにも、支援は一日も止まらずに続いていた。利用者の状態は変わり、対応の方針も更新され、その積み重ねはすべて記録に残されている。ケース記録も、議事録も、私が読むのを待つように、きちんとそこにあった。

    「記録と議事録を読めばいい」——そう言われれば、返す言葉はない。正論だ。

    だが、半年分の記録を、復帰初日に読み込む余裕はない。立場が変わった緊張、久しぶりの現場への不安、目の前で始まっている支援。その全部を抱えて膨大な記録を遡るのは、とても無理な話だった。

    記録は、確かにそこにあった。それでも、いちばん必要としていた私には届かなかった。

    誤解しないでほしい。記録を書いた同僚を責めたいのではない。みな忙しい合間に、その日の支援をきちんと書き残していた。問題は人ではなく、仕組みの側にあった。積み上げた記録が、必要な人の手元に届く道がなかった。ただ、それだけのことだ。

    私が味わったのは、たった一日の、ささやかな困りごとに過ぎない。だが後から思えば、その一日に、福祉がずっと抱えてきた問題が詰まっていた。

    なぜ、書いた記録は「知恵」にならないのか

    福祉の仕事は、書くことと切り離せない。ケース記録、議事録、個別支援計画、モニタリング記録表。私たちは日々、膨大な量の文字を書いている。書くことは義務であり、書かないという選択肢はない。

    それだけ書いているのに、では、その記録が支援の質そのものを底上げしてきたかと問われると、胸を張って「はい」とは言いにくい。多くの記録は、一度書かれたきり、知恵として振り返られることのないまま、次の記録が上に積み重なっていく。

    なぜ、こうなるのか。理由は、もう「探せないから」ではない。いまは記録も個別支援計画もモニタリング記録表も一つのシステムで扱い、検索はやりやすくなった。ただ、デジタル化はまだらで、古い記録が入っていなかったり、システムの入れ替えで連続性が途切れたりする。見渡せるのは、蓄積のごく一部だ。

    それでも、必要な記録にたどり着けたとしても、壁はまだ残る。ひとつは、量。自分の担当なら時間をかけて遡れるが、担当を外れた利用者について、何かが起きたその瞬間に、まとめて読み込む余裕はない。もうひとつは、質。システムが返すのは条件に一致した「記録の文章」であって、「この人には、こういう配慮が効果的だ」という、絞り込まれた知恵ではない。

    要するに、書くことが目的になり、読むことは置き去りにされてきた。ケース記録には現場の見立てが、議事録にはチームの結論が残っているのに、その知恵は活かされず、新しい記録だけが積み上がる。記録がなかったのではない。あり過ぎるほどあったのに、知恵の形になっていなかった。それが、復帰初日に私がぶつかった壁の正体だ。

    いま、AIで記録を効率化する動きは、あちこちで始まっている。速く書き、正しく共有する。それ自体は、素晴らしい。だが、その一歩先——蓄積された記録から支援そのものを進化させ、担当者が変わっても質を落とさず継承していくこと——に踏み込んだ話は、まだほとんど聞こえてこない。効率化の話は溢れているのに、継承の話は空白のままだ。私が書きたいのは、その空白のことだ。

    なくすべき迷いと、育てる迷い

    ここで、ひとつ誤解を先に解いておきたい。

    「AIで支援の判断を揃える」と言うと、決まって返ってくる懸念がある。一人ひとり違うはずの利用者を、マニュアルに押し込めるのではないか。職員が自分の頭で考えることを、やめてしまうのではないか。——もっともな心配だ。そして、この心配に正面から答えられなければ、AI×福祉の話は前に進まない。

    私の考えはこうだ。支援における「迷い」には、性質のまったく違う二種類がある。

    ひとつは、なくしてはいけない迷いだ。正解のない支援において、一人の支援者が抱いた「これでいいのだろうか」という引っかかりや、「あの人は本当はどう感じているのか」という気づき。それを仲間と持ち寄り、議論し、判断を練り上げていく。この迷いは、支援の質を生み出す源泉であり、むしろ大切に育てるべきものだ。ここを消してしまえば、福祉は福祉でなくなる。

    もうひとつは、なくすべき無駄な迷いだ。待ったなしの対応を迫られ、余裕のない中で、「この人にはどう接するのが正解だったか」「前に似た場面があったはずなのに思い出せない」と、探り探り動く時間。この迷いは、支援の質を何ひとつ高めない。ただ対応を遅らせ、支援者の自信を削るだけだ。

    「現場に、迷っている余裕はない」とよく言われる。何かが起きれば、その場で対応を迫られるからだ。とりわけ、普段は担当職員が受け止めていた場面を引き受けるとき、その切迫は増す。そういう場面でこそ、一人ひとりの支援の地力が試される。

    具体的な場面を想像してほしい。担当職員がそばにいないとき、ある利用者が急に落ち着きを失う。その場に居合わせた職員は、その人のことは知っていても、この場面での最善の対応が、とっさには分からない。頭の中では、いくつもの問いが同時に走る。何がきっかけだったのか。こういうとき、これまではどう対応してきたのか。触れていいのか、そっとしておくべきなのか。声をかけるなら、どんな言葉が届くのか。——この一秒ごとの逡巡が、無駄な迷いだ。答えは、実は過去の記録の中に、とっくにある。ただ、それを今この瞬間に引き出せないだけなのだ。

    この迷いが消えたとき、何が起きるか。忙しさが減るわけではない。変わるのは、意識の向き先だ。「どう対応すべきだったか」と自分の内側を探ることに奪われていた注意が、目の前の人へと戻ってくる。

    すると、二つのことが起きる。ひとつは、その場の支援の質だ。相手にきちんと向き合えるぶん、対応が的確になる。もうひとつは、その先だ。目の前の人に注意が向いていれば、「この人は今日はいつもと少し違うかもしれない」という小さな変化に気づける。そうして拾った気づきは、後日のケース会議へ持ち込まれ、そこで交わされる情報の解像度を一段上げる。探り探り動いていたら、見過ごされていたはずの変化だ。

    無駄な迷いを消すとは、育てるべき迷いへと、意識を差し向けられるようになることなのだ。二つの迷いは、対立していない。前者を消すからこそ、後者が育つ。

    だからこそ、無駄な迷いを極力なくせたなら。それは、支援者の自信にもつながる。

    現場には、すでに知が流れる仕組みがある

    では、無駄な迷いを消すために、まったく新しいシステムを一から作らなければならないのか。私はそうは思わない。なぜなら、福祉の現場には、知を積み上げていく仕組みが、もうすでに存在しているからだ。

    それは三つの層でできている。

    ケース記録は、事実を残すためのツールだ。だが単なる事実の羅列ではない。そこには、現場で何が起き、書き手がそれをどう見立てたか、という一次情報が残る。

    議事録は、その事実と考察を会議で揉み、今後どう対応するかの合意を残す。その会議は、事業所の中で開くこともあれば、外部の関係機関が集まって開くこともある。さきほど現場で拾った「今日は少し違うかもしれない」という気づきも、こうした場へ持ち込まれ、個人の見立てが、チームの判断へと昇華されていく。ケース記録と議事録は、車の両輪となって、支援を前に進めていく。

    個別支援計画は、それらから抽出された情報をもとに作られる、支援の設計図だ。担当者が作成し、サービス管理責任者が承認する。だからこそ、もっとも重視される。

    事実(ケース記録)から、判断(議事録)へ。判断から、設計(個別支援計画)へ。現場の知は、すでにこの流れの中で構造化されている。

    この事実は、思っている以上に重い。私がやろうとしているのは、ゼロから何かを発明することではなく、すでに回っているこのサイクルを、AIの力で、より滑らかに、より速く、こぼれ落ちなく回すことだ。本当に価値があるのは、新しいシステムを持ち込むことではなく、もうそこにある仕組みを進化させることの方にある。

    AIには、二つの顔がある

    この三層のサイクルの中で、AIはどこで力を発揮できるのか。私は、性質の異なる二つの場面を思い描いている。

    ひとつは、計画をつくる場面。記録から個別支援計画を起こすとき、AIは叩き台や支援方針の提案に使える。とはいえ、担当者が作り、サービス管理責任者が承認するという責任と権限の構造は、そのまま残る。AIには、考える起点を素早く用意する係に徹してもらえばいい。最終的に決めるのは、あくまで人間だ。

    もうひとつは、方針を実行に移す場面。利用者の規模が大きい施設ほど、担当外の利用者の情報をどれだけ把握できているかで、とっさの対応の質が変わる。熟練の職員は長い年月をかけて、その把握を身体に蓄えてきた。だが新人には、その時間がない。ここでこそ、AIに期待したい役割がある。その把握を、必要なときに、そっと手渡す。経験年数という簡単には埋まらない差を、部分的にでも埋めていく——そんな支え方が、これからはできるはずだ。

    計画づくりでは「考える起点を用意する」。実行の場面では「把握の格差を埋める」。どちらにも共通しているのは、AIが人の判断を奪っていないことだ。むしろ逆で、人が判断に集中できる状態を、AIがつくる。無駄な迷いに費やしていた時間を、育てるべき迷いのために取り戻す。それがAIの二つの顔だ。

    これは魔法ではない。しかし——

    ここまで読んで、「AIを入れれば、記録が勝手に知恵に変わる」と受け取られたなら、それは私の書き方が悪い。現実は、そんなに甘くない。安易に「できます」とは、私は言わない。乗り越えるべき壁が、少なくとも二つある。

    一つは、個人情報の壁だ。福祉が扱う記録は、きわめて繊細な個人情報だ。それを外部のサービスに預けることは、許されない。だからこの構想の前提は、自分たちの管理下で、情報を外に出さずに処理を完結させられること。ここを外せば、現場では動かせない。むしろ、この制約こそが出発点だと考えている。守るべきものを守りながら、その内側でどこまでやれるか——それが、福祉におけるAI活用の作法だ。

    もう一つは、記録の書き方そのものの壁だ。ケース記録には「どう対応したか」は書かれていても、「それが効果的だったのか」までは、必ずしも書かれていない。対応の結果は、別の日の、別の職員の記録に飛んでいることも多い。つまり、記録から「効果的な配慮」を拾い上げるには、記録の側にもある程度の設計がいる。対応と、その結果を、後からたどれる形で残す。この地道な書き方の見直しを抜きに、AIだけが魔法のように答えを出してくれる、という話にはならない。

    そもそも、書き方をどれだけ工夫しても、記録に残せないものがある。人どうしの相性や、その場の空気。生きて動く関係の機微は、いつまでも人の領分だ。

    だが、これらの壁をすべて越えられたとしても、なお残るものがある。それは壁ではない。落とし穴だ。もしAIが結論だけを手渡してしまえば、新人は「効果的な配慮」は知れても、「なぜ効果的なのか」を掴めない。答えを配ることが、かえって考える力を痩せさせてしまう。これこそ、さきほどの「職員が考えることをやめてしまうのでは」という懸念の、最も具体的な現れ方だ。

    「効果的な配慮」ではなく、「なぜ効果的なのか」を

    ここまでは、いわば効率の話だった。だが、私が本当に伝えたいのは、この先にある。

    AIに、新人へ「Aさんには、この配慮が効果的だ」とだけ伝えさせたとする。確かに新人は助かる。その場は乗り切れる。だが、それだけでは、新人はAさんにしか対応できないままだ。

    そうではなく、「なぜ効果的なのか」まで伝えられたら、どうなるか。「Aさんは、次に何が起きるか見通せないと不安になる。だからこの配慮は、見通しを持たせる意味で効果的だ」——理由まで理解した新人は、まるで違う。同じ手が使えない場面でも、別の見通しの持たせ方を、自分の頭で考え出せる。Aさんとは別の利用者にも、その原理を応用できる。

    「なぜ」を渡すことは、目の前の一場面を解決するだけではない。支援者の中に、応用の利く原理を育てる。これはもう、情報共有の話ではない。人が育つ、という話だ。

    そしてこれは、長く現場に立ってきた職員の頭の中で起きていることの正体でもある。その人がその場で瞬時に判断できるのは、膨大な「効果的だった・そうでなかった」の蓄積が、理由とともに身体に入っているからだ。本来ならその蓄積は、事業所の記録の中にも眠っているはずなのに、これまでは個人の経験としてしか受け継がれてこなかった。担当者が異動すれば、その人の中の履歴ごと、消えてしまう。属人化の核心は、ここにある。

    だから、ここが分かれ道だ。AIに「効果的な配慮」だけを学ばせれば、支援は作業の継承で止まる。人を、代替可能な部品に近づけていく。だが「なぜ効果的なのか」まで学ばせれば、支援は考え方の継承になる。人を、成長させていく。同じAIを使っても、この二つはまるで違う場所にたどり着く。効率化で終わるのか、支援の進化に届くのか。その分岐点が、ここにある。

    力量を、型で均す

    では、「なぜ効果的なのか」を渡すとは、記録の上で具体的に何をすることなのか。難しくはない。ひとつだけ、書き方を変える。事実に加えて、「仮説」と「検証」を残す。それだけだ。

    事実だけの記録は、「何が起きたか」を伝える。だが仮説を書き添えると、記録は「なぜそうしたか」を伝えはじめる。出来事の伝達が、思考の伝達へと変わり、読んだ人は"判断そのもの"を再現できる。「なぜ効果的なのか」は、いつも仮説の中にある。

    残す要素は、多くない。

    ・観察:何が起きたか
    ・仮説:なぜそうなっていると考えたか
    ・対応:だから何をしたか
    ・検証:その後、どうだったか
    ・更新:仮説は合っていたか。次はどう考えるか

    実を言えば、この五つは、いつもこの順番で訪れるわけではない。

    かつて、見通しが崩れたときに強い不安を示す方と、向き合ってきたことがある。予定していた流れが変わってしまったとき、その不安が、自らを傷つける行為となって噴き出すことがあった。そういう場面に、観察も仮説もない。言葉より先に、身体が動く。ほかの職員とともに、その人の身体を守りながら、落ち着くまでただそばに居続ける。無我夢中で、時間をやり過ごすしかない。

    仮説が生まれたのは、記録を書くときではない。対応が収まったその場で、まだ息の整わぬ職員たちの間から、誰からともなく立ち上がった。「あれは、朝に見ていたはずの流れが、崩れたからではないか」——と。それは一人の思いつきではなく、その場に居合わせた者が、自然と分かち合った見立てだった。記録を書く段になって仮説をひねり出すのでは、現場の感覚からすれば、遅すぎる。そして、その見立てにもとづいて、見通しの崩れをあらかじめ和らげる関わりを重ねるうちに、あの噴き出すような場面は、やがて起きなくなっていった。

    だから、こう言いたい。とっさの場面では、仮説など立てなくていい。その場はアドリブで、目の前の人を守ればいい。大切なのは、そうして分かち合った見立てを、"その場限り"で終わらせないこと。口頭で消えていく仮説を、記録に書き留める。そうすれば見立ては、居合わせなかった人にも、後から来る人にも渡っていく。次に同じ兆しが訪れたとき、それはもう、まったくのアドリブではない。

    観察も、仮説も、対応も、その場か、その直後には手が届く。問題は、後の二つだ。検証と更新には、時間が開く。数ヶ月、ときに年単位。そしてこの時間差のあいだに、担当が変わる。仮説を立てた人と、その結末を見届ける人が、別人になる。最悪の場合、見届ける人が誰もいなくなり、仮説は宙に浮いたまま消える。復帰初日、私が立ち尽くしたのも、こうして消えた仮説の前だった。属人化とは、その場のチームで分かち合った見立てさえ、記録に残されず、人を越えて渡らずに消えることの、別の名前だ。

    この"人から人への繋ぎ"を、これまでは熟練職員の記憶や口伝えが担ってきた。ならば、AIに託したいのは、それを絶やさないことだ。新しい仕事でも魔法でもない。人の弱点は補い、人の仕事——仮説を立て、人と向き合うこと——は、奪わない。

    この型のいちばんの意義は、別のところにある。書き手の力量に、質を左右されなくなることだ。見立ては多くの場合、複数の職員で話し合って導かれ、担当者がそれを記録に落とし込む。だが、その見立てや仮説まで書き留められるかどうかは、これまで書き手しだいでばらついてきた。型があれば、誰が書いても、なぞるだけで見立てを一定の水準で残せる。「職員が変わっても支援の質を落とさない」とは、つまりこういうことだ。

    そして、この型は、今日から始められる。ツールも、予算も、上司の承認もいらない。今の記録のまま、書き方の意識を少し変えるだけでいい。一日の記録に、【仮説】「〜なのではないか」と一文、書き足す。まずは、それだけでいい。

    完璧なシステムを待つ必要はない。私たちは、最高の"資産"を毎日その手で書きながら、それを資産と気づいていなかっただけだ。今日積んだ"ほんの少し"が、AIが現場に入る日、桁違いの差になって返ってくる。いまはまだAIを使えなくても、今日から資産は積める。

    私たちは、意志を渡してきた

    ここまで書いてきて、自分でも意外な場所にたどり着いた。効率化の話から始めたはずが、気づけば「継承」の話をしている。

    だが、これは飛躍ではないのだと思う。技術を継承するというのは、人類がずっと繰り返してきたことそのものだ。火の起こし方を、狩りのやり方を、農耕を、文字を。誰かが見つけ、それを次の世代へ「仕組み」として渡してきた。渡せたものだけが残り、進化していった。渡せなかったものは、その人の死とともに消えた。

    魚豊の『チ。——地球の運動について——』は、まさにその継承を描いた物語だった。地動説という一つの真理を、弾圧の時代に、名を残すことすら許されぬ人々が、命と引き換えに次の手へ託していく。一人が倒れても、遺された一片が、また別の誰かの手に渡る。真理は、一人の中では完結しない。誰かから受け取り、ほんの少し前へ進めて、次へ渡す。その連鎖の中でしか、人は進めない。継承できるかどうかが、進化できるかどうかだった。

    私がやろうとしているのは、規模でいえば、一つの事業所という小さな単位の話に過ぎない。けれど原理は、まったく同じだ。一人の支援者の頭の中にしかない判断を、記録という仕組みを通して、次の誰かへ渡す。人が人を支えるという営みを、個人の中に閉じ込めず、絶やさずに進化させていく。それは、人類が生き延びてきた方法そのものではないか。

    こう考えると、自分が特別なことをしている気は、まるでしない。私がしているのは、誰かから受け取ったものを、次の誰かへ渡すこと。長い継承のリレーの、いまの一区間を走っているだけだ。主役でなくていい。ただ、自分の区間は、自分が走る。バトンを落とさず、次へ渡せれば、それでいい。

    あの復帰初日、記録を読む余裕もなかった私は、暗がりに丸腰で立っているようだった。もしあのとき、積み上げられた記録が、足元を照らす一つの灯りになってくれていたら。どれだけ違っただろう。そして、これから現場に立つ誰かが、同じ暗がりで立ち尽くさずに済むなら。私の役目は、自分の力を誇ることではなく、その仕組みをつくることの方にある。

    望んでいるのは、大それたことではない。担当が変わっても、利用者が「前と変わらない」と安心していられること。新人が、会ったこともない先輩の判断を借りて、最初の一歩を踏み出せること。そんな現場が、一つずつ増えていけばいい。

    なくすべき迷いは、消していい。だが、育てるべき迷いは、守り抜く。そして、その両方を次の世代へ渡していく。——それが、私の考える、AIと福祉の理想のかたちだ。

    難しいことは、何もない。特別な才能もいらない。目の前の記録を「残すもの」から「渡すもの」へ、そう捉え直す——その一歩から、始まる。

     
     
    福祉19年 / 社会福祉士 / AI毎日 「難しいAIを、福祉の言葉に翻訳する」 読むと福祉×AIの最前線がわかる。 現場で使えるAI活用術・業務改善・支援の質向上を発信。 B型・GH・身体障害の現場を渡り歩いた40代 / 新プロジェクトのため不定期更新

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