あの人、客やないもん
更衣室は、ドライヤーの音でうるさかった。
あやかが髪を乾かしながら、鏡越しにこっちを見ている。
「ねえ、今年は?」
「まだ」
「まだって、盆終わっとるよ」
みゆきは、つけまつげを片方だけ外したところで手を止めた。片目だけ長いまま、鏡の中の自分を見る。
一年目、あやかは「新しい客?」と言った。二年目は「愛人でしょ」だった。去年は「囲われとるんやろ」で、今年はこうだ。
「あんた、あの人と結婚するの?」
「あの人、客やないもん。何ももらっとらんし」
「は?」
あやかはドライヤーを止めて、少し考えてから、また回した。壁の向こうから、隣の店のカラオケが低く入ってくる。
みゆきは残りのつけまつげを外した。片目だけ、急に軽くなる。
浅井が来たのは三年前の八月で、店にはよくある客の入り方だった。カウンターに座って、ビールを頼んで、その隣にみゆきが座った。
ベースだけが腹に来る種類の音楽で、みゆきはさっきからこめかみを押さえていた。
浅井は、名前も歳も聞かなかった。
「この音楽、いつもこんなにひどいの? それとも今日、頭痛?」
みゆきは、店で作る顔を作りそこねた。二十八で、六時間ヒールで立っていた顔が、そのまま出た。
「両方」
それから一時間、渋滞と、野良猫と、栄の駐車場の話をした。浅井は一時間で切り上げて、延長をしなかった。次はいつ出ているのかとも聞かなかった。
勘定を済ませてから、浅井は自分のスマホを差し出した。
「さっき言った、ひどい駐車の写真あるで。LINE入れて。送るわ」
みゆきは、考える前にIDを入れていた。浅井はスタンプを一つ送って、店を出ていった。ボーイがおしぼりを片づけながら、「あの人、次いつ来るって?」と聞いた。
一か月後、みゆきのスマホに、本当に写真が来た。
ブエノスアイレスの、歩道に前輪を載せた車だった。文章はついていなかった。
みゆきは笑うスタンプを返した。それから、月に一度か二度、どうでもいいやりとりが続いている。向こうとは十二時間ずれていて、仕事が終わってから送ると、浅井のほうは昼過ぎになる。返事はたいてい早い。
二年目の盆に、浅井は喫茶店を指定してきた。駅前の、椅子が赤い古い店だった。
朝の八時だった。みゆきがその時間に起きているのは、年に一度だけになる。
マスターがモーニングを二つ運んできて、「いつもの方たちですね」と言った。二人はその店に二度目だった。三年経った今も、マスターは二人を誰かと間違えている。
小倉トーストは、あんこが端から落ちるくらい載っていた。ゆで卵が一つずつ。
コーヒーは湯気が立っていた。みゆきは猫舌なので、しばらく手が出せなかった。浅井は先に食べ終わって、卵の殻を灰皿に入れようとして、マスターに止められた。
浅井は、みゆきの働く店の名前を毎年間違える。錦の、あの、なんとかっていうとこ、と言う。ママの名前も知らない。みゆきが同伴の愚痴を言っても、誰の話なのか分かっていない顔で聞いている。
その晩、帰りのタクシーの後ろで、みゆきのスマホが光った。
〈腰やった〉
〈ぎっくり〉
〈来週行く〉
運転手がラジオの音量を下げて、「お客さん、この道でええ?」と聞いた。ええです、とみゆきは答えた。ラジオでは、朝までやっている番組の男が、天気の話を延々と続けている。
みゆきはこの三年、自分から日にちを聞いたことがない。毎年、向こうが勝手に決めて、勝手に知らせてくる。
〈腰、大丈夫?〉と打って、消した。〈ひどい駐車、探しといて〉に打ち直して送った。
すぐに既読がついた。向こうは昼の三時だった。
一週間後の朝、駅前の喫茶店は冷房が効きすぎていた。
浅井は腰をかばって、椅子に浅く座っている。娘の免許の付き添いで、車の乗り降りを二十回やった結果らしい。
「二十回?」
「教習所の外でも練習するでね」
マスターがモーニングを二つ置いて、「今年もお揃いで」と言った。厨房で、卵を茹でる鍋がずっと鳴っている。
窓の外の歩道を、みゆきの客が通った。月に一度くらい来る、いつも同じ話をする人だった。目が合って、それから浅井を見て、値踏みする顔をした。会釈をして、駅のほうへ歩いていった。
みゆきはコーヒーを飲んだ。今日は、ちょうどよく冷めていた。
浅井が伝票を取った。みゆきは自転車の鍵を鞄から出して、指に引っかけた。
「来年も来るの?」
「墓があるでね」
「じゃあ、写真また送って」
「今年よりひどいの探しとくわ」
