
向き合いたくないものに向き合い続けた人だけが見る景色
第一章
思えば祖母は、あのとき狭間だったのだろう。
「よぐぁわがんねぁども、ソウが良ぐねぁごどはわがる」
よくは分からないが、ソウが良くない状態であることは分かる。
私の兄、ソウが大きな病を抱えていることを知った祖母はそう言った。北東北の海に近い小さな村で生まれ育った祖母が話す言葉には、東北の荒々しい海の匂いが混じっていて、四国生まれの私の夫などは一言も聞き取れないこともあるほどだ。
「おらぁはぁおがしぐなったぁ」
おら、は自分。はぁ、は、もう・すでに。
私はもう、おかしくなってしまった
祖母が自身の認知の歪みを意識したときに漏らしたその言葉は、その後何度も繰り返されるようになる。その独特な言葉の響きのなかに、あの頃の祖母は自分が正常ではないという自覚、いわゆる病識をかろうじて繋ぎ止めていたのだろう。それは、自分の頭の中に立ち込め始めた霧を必死に振り払おうとする切ない抵抗のようでもあった。しかし、祖父の他界を境にするように、その霧はゆっくりと、けれど確実に祖母の足元を浸食していった。あっち側とこっち側の境界線の上をゆらゆらと揺れながら、祖母は少しずつ霧の奥へと進んでいった。
着物や貴金属の買い取り業者を名乗る快活な女性の言うことを鵜呑みにして、祖母は家中の「宝物」を包んで買い取り業者との約束の時間に備えていた。高価な宝石などあるはずもない家なのに、祖母は家中の引き出しをひっくり返し、手際よく「宝物」を包んでいた。母が慌てて祖母を連れ出し、その約束は無事空振りに終わった。祖母が用意したその包みの中から出てきたのは、私が幼い頃に地域のお祭りで買ってもらった安っぽいプラスチックのネックレスや、当時着ていた古い浴衣だった。
ある日は洗濯をしようと空の浴槽に衣服を詰め込み、そのまま追い焚きのスイッチを押し、ある夜は、街灯も無い田舎道を歩いて近所の家の戸を叩いた。火事や事故、犯罪の被害者にもなりかねない祖母の行動は、側にいる母にとっては気が気でない絶望的な日々だっただろう。しかし、遠く離れた東京にいる私にとって、電話越しに聞くそれらの危ういドタバタ劇は、どこか現実味を欠いた別の世界の出来事のようでもあった。
第二章
2022年の夏、祖父の葬儀のため兄と東京から地元へ帰った。これが、それまで10年ほど故郷へ帰っていなかった兄の久しぶりの帰省だった。
この帰省の翌年から年に一度、私は兄を連れ出すようにして一緒に実家へ帰った。過去に何度誘っても曖昧な返事でかわしていた兄が素直に帰省するようになったのは、兄が自身の終わりを意識していたからだろう。大きな病について医師から宣告されたのは2023年の2月のこと。「確かに死に触った感覚があった」と、兄は宣告された日のことを振り返っていた。
兄は幼い頃から兎にも角にも頭のいい人だった。身内の欲目を抜きにしても、兄の友人や交際相手、職場の同僚などはみな口を揃えて彼の並外れた知性を語る。生前関わりのあったある医師は、兄のことを、ギフテッドの類の人と評していた。
しかし、我々兄妹が生まれ育った閉鎖的な田舎と家庭の状況は、その突出した才を十分に活かせるような環境ではなかった。私は幼少期からピアノを習っていたが、都会なら当たり前のその営みすら、この集落では身の丈に合わない贅沢として浮き上がった。近所の人たちは我が家のことを「金もないのに無理しちゃって」と楽しそうに揶揄した。そんな空気のなかで、地元の進学校から早稲田大学へと進学した兄が、目立たないわけがなかった。家族の経済状況を分かりやすく説明するなら「公立高校への進学に奨学金が必要」な家庭であり、「仕送りというものを経験したことがない」大学生活だった。そんな環境からの兄の進学には、当然のように将来を大きく縛るさらに膨大な奨学金という代償が伴った。
自身の頭脳と努力だけで壁をこじ開けてきた兄は、その見えない重圧と逃げ場のない焦燥感のなかで、大学在学中から少しずつ狂い始めた。
最初の異変から適切な医療につながるまでに、兄は10年以上の歳月を費やすことになる。その10年は文字通り壮絶な錯乱の日々だった。通常、こうした精神の失調は本人に自覚がないケースが多いとされる。しかし兄の場合、その高い知性ゆえに自分が正常ではないという感覚をはっきりと自覚してしまっていた。自分の頭がおかしい。その恐怖とリアルタイムで対峙しながらも、もう一人の自分が「そんなことはない、ただのクズの言い分だ、自分の努力が足りないのだ」と、必死に自分を制しようとする。正常と異常、二つの自分の激しい戦闘の螺旋のなかで、兄は誰にも助けを呼べないまま、ただ社会のすきまへと沈んでいった。だからこそ、のちに再会した祖母が漏らした言葉の真意を、兄は誰よりも深く、痛いほどに理解できたのだと思う。
「おらぁはぁおがしぐなったぁ」
電話越しに聞いて知っていたつもりだった祖母の様子は、別の世界のことなどではなかった。狭間で苦しむ祖母に私は、そんなことないよ、と中身のない優しいふりをした嘘で取り繕った。私や周囲がごまかそうとするなかで兄だけは、祖母の剥き出しの言葉から逃げていなかった。
「辛いよな」
自分自身が壊れていく、引き返せないグラデーションの恐怖。祖母のその痛切な叫びを、兄は逸らすことのできない自らの鏡として、静かに見つめていたように思う。
会う回数を重ねるごとに祖母の記憶の網の目は粗くなり、私たちの姿はそこから静かにこぼれ落ちていった。祖母と会う場所は、祖父と祖母が住んでいた古い木造の家から、新しくて清潔感のある高齢者施設に移っていた。
「んがぁどぉあおらの孫だってが」
私と兄、母の三人で面会室にいる。テーブルを挟んだ向かいのソファから身を乗り出すようにして、祖母は私と兄をまじまじと見ながら言った。んが、はあなた、どぉ、はあなたの複数系である、あなたたち。
あなたたちは私の孫なのか、という問いに、私は「そうだよ、私たちにはばあちゃんの血が流れてるんだよ」と返す。すると祖母は私と兄の顔を交互に見つめて言った。
「だってんがぁどぉあおらのようてはなぐめんこいごどぉ」
だってあなたたちは私のようではなくかわいいじゃないか。
誰だかは分からないけれど、目の前にいる存在をめんこいと真っ直ぐに愛でるその眼差しは、まごうことなき私たちの祖母そのものだった。「めんこい」は、私や兄が幼い頃から何度も何度も、お守りのように言われ続けてきた言葉だ。温かな眼差しを向けながら、祖母は戦っていたのかもしれない。あっち側とこっち側の狭間でゆらゆらと揺れながら、頭にかかる霧を振り払いながら、このめんこい二人は誰なのかを、どうにか思い出そうとしてくれていたのかもしれない。
都内に戻ってしばらく経ち、兄と喫茶店でとりとめもなく話していたときのことだった。何の話の流れでその言葉が兄から出たのかはっきり覚えていないが、たしか、最近読んだ面白かった本とか、どんな描写に心が動いたかとか、そんな話をしていたときだった気がする。
「ばあちゃんが今までのばあちゃんじゃなくなったなって思いながら見る田舎の景色は、今まで通りじゃなかったよなぁ」
ぎくりとした。隠しごとがバレたときのような、曖昧にぼかしていたことを指摘されたときのような後ろめたい気分になった。祖母との面会を終えて、清潔感のある施設の扉を閉めて帰路に着く。豊かな自然、としか紹介しようのない青々とした田舎の景色はいつも通りだ。いつも通りだと思おうとした。世界は何も変わっていないと思おうとした。気が付かないで済ませようとした。兄の影響で私も本が好きで、好きな作家とか作品とかそんなことを話す時間が好きで、今日もそんな話をして帰ろうと思っていたのに。兄は、自身に湧き上がる名前の付けようのない感情を絶対に見て見ぬふりをしない。掴まえて離さずに、自分の言葉で言語化するような人だった。そうして発せられる言葉や語りはいつも本質的で、私は逃げようがなくて、辛くて、でも自分の心や脳が一気に更新されていくような感覚は、麻薬のような心地よさがあった。
「その、なんか少し景色が違って見えるかも、というところに人生があるような気がする。それを言葉で表現できたものが“文学”なんだろうな」
兄はそう言って、コーヒーをすすってカップを置いた。そして続けた。
「“がんなのかな”って思いながら病院に行く道とか、“がんだった”と知って帰る道に人生があると思うんだよね」
兄は、私の向き合いたくない領域に私を連れていこうとする。私は、変わってしまった祖母のことも、かなり進行している重い病を患った兄のことも、考えたくなかった。向き合いたくなかった。ただ、好きな小説や漫画のことを話して、仕事で自分が活躍した話をして褒めてもらって、職場の嫌いな人のことの愚痴を聞いてもらって慰めてもらって、自分たちの財布が許す程度のおいしいもの食べて、そんな時間を繰り返していたかった。自分の想像や力の及ばない不条理に立ち向かう覚悟や思考力を持ち合わせていない私に、兄は「俺のいなくなった世界」のことを話そうとしていた。私は、なるべくその雰囲気から逃げていた。あとで大丈夫、今日は遅いからもう帰るよ、また会ったときに、と。兄はそれを見透かしていた。無理強いすることはなかったが、会話のあるタイミングで私をその領域に連れていこうとしているのが分かった。それが兄にばれていることも分かっていたが、私は逃げていた。そんな日は来ない、来るとしてもまだ先だ。医療は日々進化しているから、ネットで出回っているデータに振り回されてはいけない、だから大丈夫。今日はまだいいよ、次に会ったときにしようと、私は、逃げ続けていた。
第3章
仙台で乗ってきた大勢のスーツ姿のサラリーマンのうちの1人が、私の隣の窓際の席に座るために「すいません」と言いながら、私の足元の紫の大きな風呂敷包みをまたごうとした。私はそのやや太ったサラリーマンが通りやすいよう、風呂敷包みが座席の下に隠れるように、風呂敷の結び目を少し持ち上げながら奥へ押した。そして、彼が席に落ち着いたのを認めてから、座席の下からまた風呂敷包みを少し出した。
窓際の彼がおつまみのような豆菓子を食べ始めたのが音で分かった。春休みだからだろうか、平日なのに学生や家族連れでほぼ満席の東北新幹線には、隣のサラリーマンをはじめ、私の足元の大きな風呂敷包みを気にする人は居ない。私が少し泣いていても、気にする人は居ない。それでいいと思った。新幹線内の無関心は、当時の私にとってむしろ奇妙な安心感があった。
2026年3月5日、11時20分東京発の東北新幹線で、私は骨になった兄を運んだ。
地元で葬儀を終えた帰り道。施設と親族のスケジュールの都合で、私たちはその足で祖母の施設にお見舞いに寄ることになった。車には兄の遺影と遺骨が乗っている。親族はみな、喪服だ。
面会室の定員の関係で、私と母だけが祖母に会うことを許された。私は祖母の隣に、テーブルを挟んで向かい側のソファに母が座る。祖母は、私たちが喪服を着ていることに疑問を抱かない。大きな声で自分や私を指差して話す母を、祖母は首を傾げながら見ている。そして隣に座る私の方に向き直り、私をじっと見ながら言う。
「んがぁおらの孫だってが」
んが、は、あなた。
あなたは私の孫なのか。
祖母から向けられた問いが、「あなたたち」ではなくなっていることを意識してしまったとき、私はもう気が付かないふりができなかった。ついこの間新幹線の座席の隣に座り、一緒にコーヒーをすすりながら文学を語っていたはずの兄はそこにはいなかった。地元の駅のホームに兄は降り立っていなかった。そして今この面会室に、兄はいない。祖母から発せられたその決定的な問いが、一気に私の世界を破綻させた。
そして祖母はまた繰り返す。
「おらぁはぁおがしぐなったぁ」
未だ境界線の上でゆらゆらとしている祖母に、なんと返したのか覚えていない。これまで通り、気の利いたことを言おうとして、大丈夫だよとかそんなことないよとか、つまらない言葉をかけたような気がする。ただ覚えているのは、施設の玄関まで見送りに出てくれた祖母から、車に乗せている兄の遺影と骨壺を包んだ大きな風呂敷包みが見えないようにしたことだ。助手席に立てかけるようにしていた兄の遺影を裏返しにして、風呂敷包みと一緒に後部座席のなるべく奥に押しこんだ。そして、助手席から祖母に手を振った。
3月の東北は当たり前のように寒くて、施設から車に移動しただけで体が冷えた。山や畑には雪が残っている。この景色は知っている。
いや、祖母も兄も居たときのこの景色なら知っている。
でも今見ている景色は知らない。
この景色を、私は初めて見ている。
第4章
湧き上がってきた感情をごまかさず言語化する人間だった兄は、それを紙でもデジタルでも遺していて、その物理的な量とエネルギーの強さはすさまじく、読み進めているうちに目の前がぐらぐらした。吐いた血が付いた開いたままのノートパソコンは、死の直前まで兄が手を止めなかったことを物語っていた。
精神症状を自覚しながら、世界がどう見えていたかを記録した手記。医療の力を借りてどのようなプロセスで精神症状が寛解に向かっていったかを記録した手記。家の経済力と兄の知性の高さの摩擦が招いた、奨学金についての手記。そして、精神症状が寛解に向かう中で発覚した、進行性の病についての手記。
向き合いたくないことだらけの現実に向き合い続け、それを遺して世に出そうとしていた兄の熱量を前に、私は立ち尽くしている。
かつて喫茶店で、あるいは兄の部屋で、兄が私を連れていこうとしたあの領域を私はずっと避けていた。力のない両親に代わって兄に関する諸々の手続きを担い、疲弊し、疲弊を理由に今度は兄の遺したものからも目を背けている。変わってしまった祖母のことも、骨になってしまった兄のことも、考えたくなかった。
いや、考えたくなかったのではない。私は、これらを「よくあること」にしたかったのだ。家族が認知症になるのはよくあること。二人に一人はがんになる時代、珍しい病なんかじゃない。大切な人を失うのは誰もが経験すること。だから、私たちの身に起きた不条理は特別なんかじゃない。「みんな辛い、私だけじゃない」。そうやって世間のありふれたデータや記号のなかにこの痛みを埋没させて、薄めて、知らないふりをしたかったのだ。
でも、そんなわけがない。みんな同じなわけがない。
兄は、何万人といるがん患者の、精神疾患の患者の1人に過ぎないのかもしれない。祖母もまた、統計のなかにいる何万人もの認知症患者の1人なのかもしれない。しかし、誰ひとりとして同じであるわけがないのだ。私たちの痛みや悲しみを、人生によくあること、なんて言葉で要約したくない。
祖母の背中で聞いた幼い日の子守歌。熱があるおでこに置かれた皺だらけの冷たい手。鋭くて豊かな、兄とのたわいもない会話。大学時代一緒に住んでいた頃の夜の散歩。見渡す限りの青葉が風に揺れていた、東北のあの夏。すべてを無に帰すように、世界を白一色で閉ざしていた目が眩むほどの雪景色。
祖母は、兄は、私は、たしかにそこにいた。
これは、兄の、兄だけの物語であり、祖母の、祖母だけの物語だ。
そして、私の、私だけの物語なのだ。
誰の人生も要約したくない。誰にも要約されたくない。
膨大な量の手記の一つを、兄はこう締めくくっていた。
『僕の死が語られる。僕の死を語るその人が、
強い強い存在感で僕の前にいる。
それが対話だと思う。
あなたの前でもう一度語らせてほしい。
あなたの物語をもう一度きかせてほしい。』
兄が私に求めていたのは、あきらめて耳を塞ぐことではなく、自分自身の言葉を獲得することだったのだろう。そして獲得したその言葉で、語って欲しいと願っているはずだ。「俺のいなくなった世界」でも、私だけの言葉で、私だけの物語を。
だから私は逃げるのをやめてキーボードを叩いている。この手を動かすことだけが、今の私に必要な、変わってしまった景色の中を進むための唯一の希望だからだ。兄の手記に見るあの圧倒的な表現力にはまだ遠く及ばないとしても。
今ここは、祖母も兄もいたときとは違う、決定的に変わってしまった世界だ。私がそこでどれだけ呆然としていようとも、窓の外の景色は私への配慮など一切なく、ただその色を次の季節へ塗り替えていく。
容赦なく人生は続いていく。
向き合いたくないものに向き合い続けた人だけが見ることのできる景色があると思う。
そんな人だけが紡げる物語があると思う。
兄と祖母。私は今、彼らが残していったまだ見慣れない景色の真ん中で、要約できない私たちの物語を抱きしめながら、自分だけの言葉を探している。