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あの海の彼方へ 第10話 あの海の彼方へ

    第十話 あの海の彼方へ


    凱旋記念館の前で、竜平はしばらく動けなかった。

    曇り空の下、赤茶色の建物は重く静かに佇んでいる。港から吹く風が頬を撫で、遠くで船の汽笛が低く響いた。

    終わったはずだった。

    谷本の資料では、財宝は佐世保から艦船へ積まれ、海の彼方で沈んだ。

    闇業者も捕まった。

    田寺家を追っていた影は、ひとまず消えた。

    それなのに、祖母の手紙だけが終わっていなかった。

    ――ホクセイ丸より、桜の根に錨を降ろす。

    竜平は、凱旋記念館に掲げられた紋章を見上げた。

    錨。

    桜。

    海軍の紋章。

    「桜の根に、錨を……」

    口にした瞬間、背筋に冷たいものが走った。

    ホクセイ丸。

    ホクセイ丸は、船の名ではない。

    北西、丸。

    北西の丸。

    竜平はスマートフォンを取り出し、針尾送信所の配置図を開いた。

    三本の塔。

    一号塔、二号塔、三号塔。

    そのうち、一号塔は北西側に位置している。

    丸とは、錨の上部にある輪のことではないか。

    北西の丸。

    つまり、一号塔を錨の輪に見立てる。

    では、桜の根はどこだ。

    竜平は紋章を見つめた。

    桜は錨に重なっている。

    花ではない。

    根だ。

    支える場所。

    二号塔と三号塔を結んだ線の下。

    そこから錨の先端を下ろす。

    「針尾だ……」

    声が震えた。

    すべては、最初から針尾送信所を指していた。

    夢で見た三本の塔。

    倒れてくる悪夢。

    山下紀子の手紙。

    田寺竜馬が建設に関わった写真。

    すべてが、そこへ戻っていく。

    財宝は海の底ではない。

    海の彼方へ消えたと思わせて、竜馬は佐世保の大地へ戻していたのだ。

    その夜、竜平は眠らなかった。

    ホテルの机にノートを広げ、何度も線を引いた。

    錨桜の紋章を写す。

    針尾送信所の三本の塔の位置を写す。

    一号塔を錨の輪に見立てる。

    二号塔と三号塔を結ぶ。

    その線の下へ、錨の先端を落とす。

    何度描いても、同じ場所を指した。

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    翌日、竜平はレンタカーを借りた。

    小さなスコップと軍手、そして事前に取り寄せていた金属探知機を車に積む。

    自分でも馬鹿げていると思った。

    だが、ここまで来て、行かない選択肢はなかった。

    針尾送信所へ着いたのは夕方だった。

    観光客はまばらだった。

    巨大な三本の塔が、夕陽を受けて黒く浮かび上がっている。

    竜平は車を降りた。

    風が吹いていた。

    初めてここへ来た日と同じように、草木が揺れ、遠くから海の匂いがした。

    「竜馬じいちゃん」

    竜平は小さく呟いた。

    「教えてくれ」

    一歩踏み出した瞬間、頭痛が来た。

    鋭く、深い痛みだった。

    だが、もう恐怖はなかった。

    視界が白く揺れる。

    風の音が遠ざかる。

    代わりに、土を掘る音が聞こえた。

    夜だった。

    月が草木を白く照らしている。

    男たちがいた。

    黙々と穴を掘っている。

    田寺竜馬もそこにいた。

    年老いていた。

    小値賀島で見た時よりも、赤レンガ倉庫で見た時よりも、さらに深い皺が刻まれている。

    だが、その目だけは鋭かった。

    穴の四方には、丁寧に石が積まれていた。

    ただ埋めるのではない。

    守るために、残すために、隠すために。

    木箱が運び込まれる。

    一つ。

    また一つ。

    男たちは声を出さない。

    最後に、平たい石の蓋が置かれた。

    竜馬はその石に、短く印を刻んだ。

    ×印。

    それから、静かに手を合わせた。

    その唇が動いた。

    ――いつか、来い。

    竜平は目を開けた。

    膝をついていた。

    目の前には草に覆われた地面がある。

    幻で見た場所と同じだった。

    竜平は金属探知機を取り出した。

    草をかき分け、ゆっくり地面の上を滑らせる。

    最初は何の反応もない。

    場所を間違えたのか。

    幻を信じすぎたのか。

    汗が額を伝う。

    もう一度、二号塔と三号塔の位置を確認した。

    一号塔の方角を見る。

    錨の形を頭に浮かべる。

    少し右だ。

    竜平は数歩移動し、探知機を地面へ近づけた。

    その瞬間、鋭い音が鳴った。

    心臓が跳ねた。

    「ここだ」

    声が漏れた。

    竜平は掘り始めた。

    土は思ったより硬かった。

    木の根が絡み、石が邪魔をする。

    何度も手を止め、汗を拭い、また掘った。

    日が沈む。

    周囲が暗くなる。

    空には月が昇っていた。

    夢で見た月だった。

    一メートル。

    さらに掘る。

    一メートル半ほど掘った時、スコップの先が硬いものに当たった。

    金属ではない。

    石だ。

    竜平は手で土を払いのけた。

    平たい石の蓋が現れた。

    そして、その中央に刻まれていた。

    ×印。

    息が止まった。

    「これだ……」

    竜平はその場に座り込んだ。

    涙が出ていた。

    悲しいのか、嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。

    ただ、百年以上前の田寺竜馬の手が、今、自分の手に触れたような気がした。

    草木の間から見える月は、満月だった。

    それから数年後。

    新聞の小さな記事に、こんな見出しが躍った。

    「またも正体不明の寄付金一億円 遺族基金へ」

    本文には、同様の寄付が過去にも複数回行われ、合計額は十億円に上ると書かれていた。

    その新聞を読んでいたのは、田寺竜平だった。

    場所はハワイのコンドミニアム。

    窓の外には、青い海が広がっている。

    竜平は新聞を畳み、しばらく海を見た。

    先人たちが命を懸けて守ったもの。

    それは金塊そのものではなかった。

    未来へ託す意志だった。

    守るだけでは意味がない。

    隠し続けるだけでも意味がない。

    受け取った者が、どう前へ進むか。

    それが、竜馬の問いだったのだと思う。

    竜平は静かに目を閉じた。

    針尾の三本の塔。

    小値賀の透明な海。

    佐世保橋で見た東郷平八郎。

    凱旋記念館の錨桜。

    そして、月明かりの下で石の蓋に印を刻む曽祖父の姿。

    すべてが、ひとつの海へ流れ込んでいく。

    「命を懸けて戦った先人たちへ」

    竜平は小さく呟いた。

    「敬意と感謝を」

    窓の外で、波が光った。

    あの海の彼方へ。

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    あの海の彼方へ(完

    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

     
     
     

    RJ

     
     
    音楽、言葉、風景。 日本の不思議な美意識や習慣を、外側から静かに見つめています。 音楽・映像・文章で「空気感」を表現するクリエイター。

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