
うどんと、あるべくして生きる。
丸亀製麺の天ぷらって、なんであんなに美味しそうなんだろう。
かしわ天、さつまいも天、かき揚げ、れんこん天、イカ天、半熟卵天、ちくわ天…
トングを持つ手が止まらない。
でも、最近の物価高を受けて、うどんも天ぷらもかなり値段が上がった気がする。
こんなにたくさん食べて500円もしない!
といった感覚ははるか昔。
ただ、その言い回しだけは変わらずに、500円の部分が700円、1000円、1500円へとすり替わっていく。
お得を感じるための文章構造だけが残って、変遷していくお金の価値に合わせて言葉単体の意味が変わり、全体的にぎこちない文章。
世の中的にはそれがお得だと言いたいことは分かるけど、1食1000円が安いということを私の価値観は否定する。
言葉なんて、そんなものなのだろう。
と、時々思うことがある。
意味の誤用、構造の矛盾、解釈の方向、
むしろ、それこそが言葉が作られてきた正しい歴史なのであり、間違いがあるからこそ正解がある。
言語を扱う上で、そういった間違いこそを尊重すべきはずだったのに…
世界は正しい言語だけを求める。
政治家のプロパガンダ、
過剰な資本論を正当化するための詭弁、
仕事上のやりとり、
学術論文の執筆、
芸能人の発言、
ネットニュースの記事、
ChatGPTによる文章添削、
誤謬によってもたらされるものが災いだけであると、世の中は信じ切っている。
確かに、戦争、飢餓、病、天変地異といった災いから生まれることは何もないと思う。
ゆえに、
戦争によって軍需産業が潤い、経済活動が活発化することで国が発展したとしても、
飢餓に苦しむ人々に支援物資や資金を提供することに美徳を感じたとしても、
病が蔓延することでワクチンの研究開発が進み、人類存続のための医学が進歩したとしても、
天変地異による被災地の復興支援金を利用して、被災前以上に発展したとしても、
それは不必要であったと考えるべきなのだ。
災いを排斥する世の中であるのなら、失敗や逆境を糧に成長しようとすることも捨てなければならない。
世界は、正しさを求める。
世界は、間違いを排斥する。
しかし、世界は、災いを受容する。
そこで、世界は、災いを糧にする。
そして世界は、成功を善とする。
ゆえに世界は、善性を正しさと定義する。
だからこそ、世界は醜悪なのだ。
御都合主義という言葉が纏った腐臭に、世界はあまりにも慣れすぎてしまっている。
まるで、冷蔵庫の片隅で押し潰されたりんごに気づかないまま普通に過ごす家庭のように、世界は人間の意識が向けられたところにしか存在していない。
そんな世界に何を期待することがあるだろうか。
実在にこだわったところで、意識の外の実在を見ることは出来やしない。
せいぜい、四畳半程度の自分の部屋の管理くらいが関の山であろう。
話が世界規模に飛躍しすぎてしまった。
やばい。
落としどころが見つからない。
Googleマップで目的地までのルートを確認する時、地図を引きすぎて何が何だか分からなくなってしまったような感覚。
ただ、私は丸亀製麺も高くなったなぁ、と言いたかっただけなのに。
よくないよくない。
こういう何かしらを語ろうとすることは、大事なことを語らずに無視するという選択でもある。
丸亀製麺のことだけ語って、はなまるうどんは無視するのか!とか、資さんうどんは無視するのか!とか、つるとんたんは無視するのか!とか…数え上げればキリがないほど私は見落としてしまっていることに気づく。
世界について語る、ということはそういうことなのだ。
誰もが丸亀製麺だけで生きているわけじゃない。
はなまるうどんだって、資さんうどんだって、つるとんたんだって、みんなみんな生きている。
だから、今日のところはここで口をつぐみ、あるべくして生きてしまう。