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『死んだら「無」になるのか?    ―存在を元の元まで問い直して    見えてきたこと』

『死んだら「無」になるのか?――存在を元の元まで問い直して見えてきたこと』

なぜ「私は有る」のか

――「無」「大元」「現成」「中今」から考える、存在の原理

あなたは一度でも、

「なぜ、自分は存在しているのだろう」

と考えたことがあるでしょうか。

なぜ私は有るのか。

なぜ生命は有るのか。

なぜ意識は有るのか。

なぜ宇宙は有るのか。

そして、もっと根本まで問いを進めるなら、

なぜ何もないのではなく、何かが有るのか。

私たちは毎日を生きながら、ほとんどの場合、この問いを忘れています。

朝起きる。

食事をする。

仕事をする。

誰かと話す。

悩む。

喜ぶ。

眠る。

そのすべての前提に、

「私は有る」

という途方もない事実があります。

ところが、そのこと自体を私たちはほとんど問いません。

私は、自分で自分を設計したわけではありません。

生まれる時代を決めたわけでもない。

身体を選んだわけでもない。

生命を始めた記憶もない。

気づいたときには、すでに私は存在していました。

身体がありました。

生命が働いていました。

意識がありました。

世界がありました。

他者がいました。

では、この「有る」は、いったいどこから来たのでしょうか。

この記事では、この問いを、

大元・有・無・創造・現成・中今・回帰

という七つの概念から考えていきます。

ただし、最初に大切なことをお伝えしておきます。

ここで書くことは、

「宇宙の真理を発見した」

という話ではありません。

科学でまだ説明されていない部分を、神秘的な言葉で埋めるつもりもありません。

分かっていることは、分かっていることとして。

推論は、推論として。

証明されていないものは、仮説として。

信仰に属するものは、信仰として。

できるだけ区別しながら考えます。

そのうえで私は、一つの存在論的仮説を提示します。

それが、

「私は大元から中今に現成している」

という命題です。

この言葉を、この記事の最後にはまったく違う深さで読めるようになっているはずです。


「無から何かが生まれた」という言葉には、奇妙なところがある

まず、「無」について考えてみましょう。

一般には、

「宇宙は無から生まれた」

「何もないところから何かが生まれた」

という表現が使われることがあります。

しかし、本当に何もない「絶対無」について考えると、奇妙なことに気づきます。

本当に何もないのであれば、

物質もない。

エネルギーもない。

時間もない。

空間もない。

法則もない。

原因もない。

可能性もない。

そこから何かを生み出す「力」さえありません。

もし、

「無には、有を生み出す可能性がある」

と言ったなら、その「可能性」はすでに何かです。

つまり、それは厳密な意味での絶対無ではありません。

ここで私は、

絶対無とは、何ものも有として成立していないことを指す限界概念

と考えます。

無は一つの「もの」ではありません。

無という巨大な空間があるわけでもありません。

無という神秘的エネルギーがあるわけでもありません。

だから、

無そのものを創造主体にすることはできない。

これが、私の存在論の出発点の一つです。


では、私たちが「無から生まれたように見える」のはなぜか

一方で、世界には明らかに「新しいもの」が現れます。

一人の人間が生まれる。

今まで存在しなかった作品が生まれる。

新しい言葉が生まれる。

新しい関係が生まれる。

新しい思想が生まれる。

一年前には存在しなかった出来事が、今日起きる。

そのため私たちは、

「なかったところから、何かが現れた」

と感じます。

しかし、

「以前、そのものとして存在していなかった」

ということと、

「絶対無から生まれた」

ということは、同じではありません。

たとえば、一冊の本は書かれる前には存在していません。

しかし、絶対無から突然現れたわけではありません。

書き手がいる。

言語がある。

経験がある。

紙や電子媒体がある。

社会がある。

原因と条件と関係があります。

それらが結びつき、

それまで存在しなかった一冊の本が、

一冊の本として成り有る。

私は、この「そのものが、そのものとして具体的に成り有ること」を、

現成

と呼びます。

ここから、存在についての見方が大きく変わってきます。


存在とは「そこに置かれている物」だけではない

石は、石として有る。

樹木は、生命として有る。

人間は、身体を持ち、生命活動を行い、意識し、他者と関係しながら有る。

同じ「有る」でも、その有り方は違います。

身体と意識は、どちらも「有る」。

しかし同じ仕方で有るとは限りません。

生命もまた、石とは違った仕方で存在しています。

つまり、

「有るか、無いか」だけでは、存在は語り切れない。

何として有るのか。

どのような仕方で有るのか。

どのような関係の中で有るのか。

そこまで問う必要があります。

そして、この問いは最後には、

「私とは何か」

という問いへ戻ってきます。


私は身体なのか、生命なのか、意識なのか

私は身体を持っています。

私は生きています。

私は考えています。

私は記憶を持っています。

私は他者との関係を持っています。

では、そのどれが「本当の私」なのでしょうか。

身体だけが私なのでしょうか。

意識だけでしょうか。

記憶でしょうか。

魂でしょうか。

私は、どれか一つだけでは説明しにくいと考えます。

身体。

生命。

意識。

記憶。

人間関係。

社会的な履歴。

それらが一人の存在として結びついている。

私は、この存在の仕方を、

統合的現成

と呼びます。

私は固定された石のような物体ではありません。

昨日から今日へ変化しています。

十年前の私と、今の私は違います。

身体も変わった。

考え方も変わった。

記憶も変わった。

人間関係も変わった。

それでも、まったく無関係な別人になったわけではありません。

過去の身体。

過去の生命。

過去の経験。

過去の関係。

それらを何らかの仕方で継承しながら、

変化し続ける一人の私

がいます。

つまり、

同じ私であることと、

同じ状態であり続けることは違う。

私は、

変化しながら連続している統合的存在

なのです。


そして、すべては「いま」現成している

ここで私は、もう一つの言葉を使います。

中今。

中今とは、単なる時計の「現在時刻」ではありません。

午前10時30分だから中今なのではない。

中今とは、

出来事や存在が、現実に現成していることの時空的現在性

です。

私は、過去を思い出すことができます。

しかし「過去を思い出している経験」は、いま成立しています。

未来について不安になることもできます。

しかし「未来を心配している経験」は、いま成立しています。

呼吸している。

考えている。

読んでいる。

感じている。

そのすべてが、現に成立している。

私は、この現成に伴う現在性を、

中今

と呼びます。

だから中今は、

「過去も未来も存在しない」

という単純な現在主義ではありません。

まして、

「宇宙には全存在に共通する絶対的な現在時刻がある」

という物理学的主張でもありません。

もっと身近なところから始まります。

あなたはいま、この文章を読んでいます。

文字を認識しています。

何かを感じています。

身体は働いています。

呼吸しています。

生命活動が続いています。

あなたという統合的存在が、

まさに中今に現成している。

ここまでは、私たち自身の経験にかなり近いところから考えることができます。

しかし問題は、ここからです。

その「私」は、

なぜそもそも有るのでしょうか。


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哲学・意識・人間存在を探究し、禅・仏教・古神道・聖書・現代科学を横断しながら「中今」を言葉にしています。読む人が、今ここに在る静けさと本来の自分を思い出すための文章を書いています。