
「死んだら無になる」は、本当に正しいのか
「死んだら無になる」は、本当に正しいのか
「人は死んだら、無になる」
私たちは、ときどき当たり前のようにこの言葉を使います。
死んだら終わり。
意識もなくなる。
自分もなくなる。
だから、最後には「無」になる。
たしかに、そう考えるのは自然かもしれません。
しかし、少し立ち止まって考えてみると、一つ大きな問題があります。
そもそも「無」とは、何なのでしょうか。
そして、
人が死ぬことと、「無になること」は、本当に同じなのでしょうか。
今回は、死後の世界があるとか、魂が永遠に残るとか、そういうことを証明したいわけではありません。
反対に、
「死んだら完全に何もない」
と断定するつもりもありません。
もっと手前のところから考えてみたいのです。
私たちは、「死」と「無」を少し簡単に結びつけすぎているのではないか。
という問題です。
まず、「無」とは何なのか
「無」と聞くと、
真っ暗な空間。
何も置かれていない部屋。
宇宙が生まれる前の空っぽの世界。
そんなものを想像するかもしれません。
でも、それらは厳密には「無」ではありません。
真っ暗な空間には、空間があります。
空っぽの部屋には、部屋があります。
「何もない宇宙空間」を想像したとしても、そこには少なくとも空間という何かがあります。
そこで私は、
絶対無とは、何ものも有として成立していないこと
と考えます。
もし本当に絶対無なら、
物質もない。
時間もない。
空間もない。
関係もない。
法則もない。
可能性もない。
当然、
「無という場所」
さえありません。
ここが重要です。
無は、どこかに存在する場所ではない。
だから本来、
「無の中へ入る」
「無へ移動する」
という表現には注意が必要なのです。
「死んだら無に還る」は、少し不思議な言葉である
私たちは、
「人は無から生まれ、無へ還る」
と言うことがあります。
詩的には、とても分かりやすい表現です。
けれども、絶対無を先ほどの意味で考えると、
「無へ還る」
という言葉は少し奇妙になります。
なぜなら、
絶対無には「場所」がないからです。
場所がないところへ、移動することはできません。
さらに、
絶対無には「時間」もありません。
時間がないなら、
「生きている状態から無へ移っていく」
という過程そのものを、文字どおり考えることもできません。
すると、
死ぬことと、絶対無になることは、いったん分けて考えたほうがよい
ということになります。
では、人が死ぬと何が終わるのか
ここは神秘的にせず、できるだけ分けて考えてみましょう。
人間には、
身体があります。
生命活動があります。
意識があります。
記憶があります。
他者との関係があります。
そして、それらが一人の「私」としてまとまっています。
死によって、まず個体としての生命活動は終わります。
生きた身体として維持されていた統合された働きも終わります。
そして、
身体・生命・意識・記憶・関係などが結びついて成立していた、
生きている一人の「私」
も、生前と同じ形では維持されなくなります。
ここまでは、
「死によって何かが終わる」
と言えます。
しかし、
それをそのまま
「だから全部が絶対無になる」
と言い換えてよいのでしょうか。
私は、そこには一段飛躍があると思っています。
身体は「無」になるわけではない
分かりやすいのは身体です。
人が亡くなったからといって、
その瞬間に身体を構成していた物質がすべて消滅して、
絶対無になるわけではありません。
身体は、その後も物質的な変化を続けます。
つまり、
生命としての身体が終わること
と、
物質そのものが絶対無になること
は同じではありません。
ここだけ見ても、
すでに
「死=無」
とは単純に言えないことが分かります。
その人が残したものも、一瞬で無になるわけではない
さらに考えてみましょう。
一人の人が生きたことで、
誰かの記憶が変わることがあります。
言葉が残ることがあります。
作品が残ることがあります。
子どもがいるかもしれません。
誰かを励ましたこと。
誰かを傷つけたこと。
教えたこと。
助けたこと。
一緒に過ごした時間。
その影響は、本人が亡くなったあとも残ることがあります。
もちろん、
「影響が残るから本人そのものが生き続ける」
という意味ではありません。
そこは区別しなければなりません。
ただ、
一人の人間の死によって、その人に関係していたすべてが一瞬で絶対無になるわけではない。
これは重要だと思います。
では、意識はどうなるのか
おそらく、多くの人が本当に知りたいのはここでしょう。
身体ではなく、
「私の意識は、死んだらどうなるのか」
という問題です。
ここについては、私は簡単に答えを出したくありません。
人間の意識が、脳や身体と深く関係していることは明らかです。
眠れば意識状態は変わります。
麻酔でも変わります。
脳の状態が変化すれば、知覚や記憶や人格的な働きが変化することもあります。
ですから、
「意識は身体とはまったく無関係な独立したものだ」
と簡単に言うことはできません。
しかし一方で、
意識が脳や身体に深く依存していること
と、
死後の意識についてすべてが完全に決着していること
も同じではありません。
私はここを、
無理にどちらかへ決めません。
死後も今の人格がそのまま続く。
とも断定しない。
死後の意識は絶対にありえない。
とも、ここでは断定しない。
未確定なものは、未確定なものとして残す。
それでいいのではないでしょうか。
「分からない」は、逃げではない
死について考えると、
人は答えを欲しくなります。
「死後の世界はある」
と言ってほしい人もいるでしょう。
反対に、
「死んだらすべて終わりだ」
とはっきり言ってほしい人もいるでしょう。
しかし、
安心できる答えと、
真実であることは別です。
死という大きな問題だからこそ、
分かっていること。
推論できること。
哲学的に考えられること。
信仰として信じること。
まだ分からないこと。
それらを分けたほうがいい。
私はそう考えています。
「分からない」と言えることも、一つの誠実さです。
私は「死」を四つに分けて考えている
そこで私は、
「死んだら無になるのか」
という問いに一言で答えず、
少なくとも次のように分けて考えます。
身体はどうなるのか。
生命はどうなるのか。
意識はどうなるのか。
一人の「私」としての統合はどうなるのか。
身体は物質的な変化を続けます。
個体生命としての活動は終わります。
生前の一人の私として成立していた統合も、生前と同じ形では終わります。
そして、
意識の死後については未確定です。
こうして分けてみると、
少なくとも私は、
「死=絶対無」
と単純に置くことはできないと考えます。
では、「無に還る」のではないなら、どこへ行くのか
ここで、また難しい問いが出てきます。
「無へ還らないなら、どこへ行くのか」
という問いです。
でも、この問いそのものが、
少し違うのかもしれません。
私たちはすぐに、
生まれる前にいた「場所」。
死んだあとに行く「場所」。
というように考えます。
しかし、
存在の根源というものが、
必ずしも空間的な「どこか」である必要はありません。
そこで私は、
死を「どこかへの移動」として考えるのではなく、
個別的に成立していた一人の存在の形が解かれていくこと
として考えてみます。
私という人間は、
身体だけではありません。
生命だけでもありません。
意識だけでもありません。
記憶。
関係。
社会的な履歴。
さまざまなものが結びついて、
一人の私として成立しています。
その一人の私としての成立が終わる。
私は、この問題を考えるときに、
「回帰」
という言葉を使っています。
回帰とは、「魂がどこかへ飛んでいく」という意味ではない
私がいう回帰とは、
死後に魂が特定の場所へ移動する、
という意味ではありません。
また、
現在の人格がそのまま永遠に保存される、
という意味でもありません。
個別的に成立していた存在の形・関係・様態が解かれていくことを、その存在の根源との関係から捉える。
そのための言葉です。
もちろん、
これは観察によって証明された科学的事実ではありません。
存在について考えるための、
存在論的な仮説
です。
だから私は、
「人は死んだら必ず大元へ還る」
と科学的事実のようには言いません。
ただ、
「絶対無へ消える」
という見方だけが唯一の考え方なのか。
そこは問い直してもよいのではないかと思っています。
本当に怖いのは、「無」なのだろうか
死が怖い。
これは、とても自然なことだと思います。
自分がいなくなる。
大切な人と会えなくなる。
今の生活が終わる。
自分の意識が消えるかもしれない。
その恐怖を、
私たちはしばしば
「無になるのが怖い」
と表現します。
けれども、
よく考えてみると、
私たちが恐れているのは、
哲学的な意味での「絶対無」そのものではないのかもしれません。
大切なものを失うこと。
自分として生きられなくなること。
愛する人と別れること。
未知のものへ向かうこと。
今の私が終わること。
そうしたことをまとめて、
私たちは「無」と呼んでいるのかもしれません。
だからこそ、
無とは何か。
死とは何か。
この二つは、分けて考える価値があります。
死を考えることは、生を考えることでもある
少し不思議ですが、
死について考えていると、
最後には「いま」に戻ってきます。
私は、いま生きています。
呼吸しています。
感じています。
考えています。
誰かと関係しています。
いつか終わるかもしれない一人の私として、
いま存在しています。
死後がどうなるのか。
それは私にも分かりません。
しかし、
私はいま有る。
これは、少なくとも現在の私にとって確かな出発点です。
そして、
いつかこの個別的な私が終わるからこそ、
「いま何をするのか」
という問いが生まれるのかもしれません。
誰と生きるのか。
何を残すのか。
何を創るのか。
何を大切にするのか。
死を考えることは、
決して死だけを見つめることではありません。
むしろ、
中今をどう生きるかを問い直すこと
でもあるのです。
「死んだら無になる」は、本当に正しいのか
最後に、最初の問いへ戻ります。
「死んだら無になる」は、本当に正しいのか。
私の答えは、
「そんなに簡単には言えない」
です。
身体の生命活動が終わること。
一人の人間としての統合が終わること。
身体を構成していた物質が変化すること。
他者の中に記憶や影響が残ること。
意識の死後という未確定の問題。
これらをすべて一つにまとめて、
「無になった」
と言ってしまうと、
大切な区別が消えてしまいます。
だから私は、
死と絶対無を同一視しません。
そして同時に、
死後について分からないことを、
分かったふりもしません。
答えを急がず、
問いを残しておく。
それもまた、
死という大きな問題と向き合う一つの方法ではないでしょうか。
ここから先にある、もう一つの問い
しかし、
「無に還るのではない」
と考えると、
さらに大きな問いが生まれます。
では、そもそも私はどこから現れたのか。
なぜ私は有るのでしょうか。
なぜ宇宙は有るのでしょうか。
なぜ生命や意識が有るのでしょうか。
そして、
存在の元の元を問い続けたとき、
何が残るのでしょうか。
私はこの問いを考えるために、
大元・有・無・創造・現成・中今・回帰
という七つの概念を使っています。
その考えをまとめたのが、
有料記事
『なぜ「私は有る」のか――無・大元・現成・中今から考える存在の原理』
です。
今回の記事では、
「死=無なのか」
という入口から考えました。
有料記事では、さらにその先へ進み、
なぜ何もないのではなく、何かが有るのか。
「無から生まれたように見える」とはどういうことか。
大元とは何なのか。
私はなぜ「大元から中今に現成している」と考えるのか。
というところまで、一つの存在論としてつないでいます。
今回の記事を読んで、
「もう少し考えてみたい」
と思ってくださった方だけ、続きを読んでいただければうれしいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この記事を閉じる前に、
ほんの少しだけ、
自分の呼吸を感じてみてください。
吸っている。
吐いている。
身体がある。
生命が働いている。
意識している。
そして、
私は、いま有る。
死について考えた最後に、
この一つの事実へ戻ってきます。
では、
私は、なぜ有るのでしょうか。
その問いは、
ここから始まります。
最後まで読んでくださったあなたへ
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
「死んだら無になる」
普段は何気なく使っている言葉ですが、
あらためて「無とは何か」と問い直してみると、
死と無は、必ずしも同じものではないことが見えてきます。
身体の生命活動が終わること。
一人の人間としての統合が終わること。
身体を構成していた物質が変化していくこと。
誰かの記憶や、その人が残した影響が残ること。
そして、死後の意識については、まだ簡単には答えを出せないこと。
それらをすべて一つにまとめて、
「死んだら無になる」
と言ってしまうには、少し大きすぎる問いなのかもしれません。
私は、死について考えるときほど、
分からないものを無理に分かったことにしないことが大切だと思っています。
死を考えると、最後には「いま」に戻ってくる
死後に何があるのか。
それは、私にも分かりません。
けれど、一つだけ確かなことがあります。
私は、いま有る。
呼吸している。
感じている。
考えている。
誰かと関わっている。
そして、この文章を読んでいるあなたもまた、
いま、この瞬間に存在しています。
死について考えていたはずなのに、
最後には、
「では、この生をどう生きるのか」
という問いへ戻ってくる。
私はそこに、死について考える意味の一つがあるように感じています。
あなたは、どう考えますか?
最後に、一つだけ問いを残します。
死んだら、本当に「無」になるのでしょうか。
それとも、
私たちは「生命活動の終わり」と「絶対無」を、
無意識のうちに同じものとして考えているのでしょうか。
あるいは、まったく別の捉え方があるのでしょうか。
すぐに答えを出す必要はありません。
この記事を閉じたあと、
ほんの少しでもこの問いが心に残ったなら、
それだけでこの記事を書いた意味があったと思っています。
「では、私はどこから来たのか」を考えたい方へ
死を考えていると、
もう一つの問いが現れます。
「死んだあと、どこへ行くのか」
だけではありません。
その反対側にある、
「そもそも私は、どこから現れたのか」
という問いです。
なぜ私は有るのか。
なぜ生命は有るのか。
なぜ意識は有るのか。
なぜ宇宙は有るのか。
そして、
なぜ何もないのではなく、何かが有るのか。
この問いをさらに掘り下げたのが、
『なぜ「私は有る」のか
――「無」「大元」「現成」「中今」から考える、存在の原理』
です。
こちらでは、
大元・有・無・創造・現成・中今・回帰
という七つの概念を使いながら、
「私はなぜ存在しているのか」
という問いを、元の元まで考えています。
特に、
「無からの創造のように観えるものを、大元から中今への現成として捉える」
「私は大元から中今に現成している」
「中今に大元あり」
という三つの命題を中心に、
一つの存在論としてまとめています。
今回の記事を読んで、
「死と無の違いを、もう少し深く考えてみたい」
「そもそも存在とは何なのかを考えてみたい」
と思われた方には、続けて読んでいただける内容です。
これから書いていきたいこと
今後も、このnoteでは、
「答えを押しつける」のではなく、「一緒に問いを深めていく」
ことを大切にしながら、次のようなテーマを書いていきたいと思っています。
「中今」とは何か――なぜ人生はいつも「いま」に現れるのか
大元とは神なのか――「存在の元の元」をどう考えるか
「私は私である」とはどういうことか――自己同一性を考える
意識は脳だけで説明できるのか
「無から何かが生まれる」とはどういうことか
私たちは何に「回帰」するのか
道元・龍樹・西田幾多郎と「存在の原理」
もし、
「もう少し一緒に考えてみたい」
と思っていただけたら、
スキやフォローをしていただけるとうれしいです。
また次の記事でお会いできればと思います。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
そして最後に、もう一度だけ。
私は、いま有る。
では、
私は、なぜ有るのでしょうか。