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息子の思い出が、幼稚園で止まっている。塾講師の私と、スマホの容量

    「ご注文は以上でよろしかったでしょうか。
    ……あ、〇〇、久しぶり!
    ○○見たら、中学の時のあの□□の事件思い出すわ。
    マジでやばかったよな!」

    珍しく家族全員がそろった、休日のファミリーレストラン。
    注文を取りにきたバイトの青年は、息子の昔からの友人だった。
    彼が楽しそうに語る息子の「昔話」に、妻も息子も声を上げて笑っている。

    私は余裕の表情をつくった。
    そして、知っている風を装って深く頷いた。
    しかし、テーブルの下で、私の手はじわりと汗をかいていた。

    (中学の事件……? なんだそれ、
    全然知らないぞ……)

    平然を装う笑顔の裏側で、
    「しまった」
    という冷たい後悔が胸の奥に広がっていくのを感じていた。
    息子の歴史の中に、私の知らない「空白の時間」がポッカリと空いている。

    そして、私の記憶の中にある息子の姿は、
    なぜか幼稚園の頃で止まっていたのだ。

    その夜。家族が寝静まった暗いリビングで、
    私は一人、パソコンの前に座り込んでいた。

    「本当に、私はあいつの最近の姿を知らないのか?」

    確かめるように、共有のアルバムフォルダやデジカメのデータを漁った。

    入学式、運動会、修学旅行、卒業式……。
    大きな行事の写真は確かにあり、
    私の記憶とも一致していた。
    なんだ、ちゃんと覚えているじゃないか。
    そう少し安堵しかけた時だった。

    「こんな時間に何してるの?」

    不思議そうな顔をして、妻が起きてきた。
    私は少しごまかしながら、
    「いや、今日のレストランにいたあの子、どこかに写ってないかと思ってさ」と答えた。
    妻は「ああ」と言って自分のスマホを取り出し、私の目の前で画面をスクロールして見せた。
    次々と切り替わる青白い画面を見て、
    私は息を呑んだ。

    そこには、私のまったく知らない息子の写真が大量に詰まっていた。

    レストランの彼と笑い合う姿、私の知らない服、
    見たことのない場所での日常の切り取り。
    「これ、前にも見せたよ」
    と妻は笑ったが、
    私の記憶には1ミリも残っていなかった。

    「最近、スマホの容量がすぐ足りなくなっちゃって。あなたは足りてる?」

    いつだったか、妻がそうこぼしていたのを思い出した。
    当時の私は、それをただの機械の不具合だと思い、聞き流していた。

    同じ日に機種変した同じ機種のスマホ。

    違う。あれは、私が仕事を言い訳にして見落としてきた「家族の日常の重さ」だったのだ。

    妻の「容量が足りない」という言葉は、
    父親である私への、家族の思い出の
    「点滅する黄色信号」だった。

    妻のスマホの容量は
    息子の「今」であふれかえっているのに、
    私の記憶の容量はスカスカのままだった。

    それにすら気づかず、私は深夜まで塾に残り、
    生徒の成績という別のデータばかりを必死に追いかけていたのだ。
    「これが家族のためなんだ」
    と、自分に都合よく言い聞かせながら。

    はずかしい話だが、
    我が家が家族4人そろって出かけた旅行は、
    彼らがまだ幼かった頃の「和歌山への2泊3日」の
    一度きりだ。
    私はこれまで、そのたった一度のセピア色の記憶を抱きしめ、
    「あの旅行は楽しかったな」といつまでも過去の自分を慰めていただけだった。

    旅行の回数が少なかったことを恥じているのではない。
    あの日から、家族の「今」の思い出のアップデートが完全に止まっていたという事実に、たまらない恥ずかしさを覚えたのだ。

    塾講師として、目の前の生徒の成績を上げるために捧げてきた情熱や深夜までの努力。
    それが無駄だったとは決して思わない。

    しかし、
    「家族を大切にしながら、目の前の生徒にも真剣に向き合う」――そんな"きれい事"を、私はずっと
    「できたはずだった」という言葉で処理してきた。

    違う。「できたはずだった」という言い訳を使うためには、まずその問いに向き合っていなければならない。
    私はその問いそのものから、ずっと目を逸らし続けていたのだ。

    あの夜から、私は家族のための余白を作ろうともがいている。

    50歳を過ぎてからAIの勉強を始めたのも、そのためだった。
    授業準備の時間は確かに短くなった。
    事務作業の手間も減った。
    ならば、家族と過ごす時間は増えたはずだ。
    では、その浮いた時間で私は何をしているか。
    気づけば別の資料を作り、別の準備を詰め込んでいる。

    帰宅時間は変わらない。

    効率化した先に「余白」を生み出すことは、思ったより難しい。
    それは道具の問題ではなく、浮いた時間を仕事で埋めることに慣れてしまった、私自身の問題だということも、薄々わかっている。

    だから私は今、AIを使うたびに自分にこう問うようにしている。

    「今日、浮いた時間をどこに使ったか。」

    完璧な父親には、もう戻れない。取り戻せない時間がある。

    それでも、ファミレスで笑う息子の顔を、昨日より少しだけ長く覚えていられるなら。
    テーブルの向こうで声を上げて笑っていたあの表情を、今夜の私はまだ思い出せる。

    それだけで、今日の問いへの答えにしようと思っている。


     
     

    taka

     
     
    塾講師20年・小学生800人以上を指導。 「勉強しなさい」と言ってしまう親へ。 私自身、「教えること」に夢中になり、子どもの考える力を奪っていたと気づきました。 教えすぎない家庭学習を、適性検査と実践例から発信しています。 公立中高一貫校を目指す家庭へ。

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