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Photo byryuseizan

【ショートショート】奇跡のおみくじ④ 少し不思議な話

    世間が一年のうちでも特に浮ついた連休の足音に沸き立ち始めた、四月下旬の平日の午後。
    アパレルメーカーで営業職を務める水上は、仙台市内の馴染みのセレクトショップを回るルート営業を終えたところだった。次のアポイントメントまでは、まだ一時間以上の、どうしようもなく中途半端な隙間時間がある。手持ち無沙汰に、車を停めたコインパーキングの精算機の横で缶コーヒーを啜っていた水上は、ふと視線を上げた。
    新緑の青々とした木々の隙間に、見覚えのある、少し色が剥げかけた古びた鳥居が覗いている。
    「戸山神社」だ。
    「……また、ここか」
    水上は苦笑い混じりに呟いた。
    数日前、静岡からわざわざやってきた大学時代の友人、鈴木たちと大騒ぎしたあの奇妙な神社である。あの時、小野寺が引いたあの不気味なフォントのおみくじのせいで、宮下の結婚式は、小野寺によるご祝儀泥棒捕縛という、とんでもない大立ち回りに巻き込まれることになった。あの場所は今や単なる「近所の古い神社」ではなく、ちょっとした「不思議な因果の交差点」のような、いわく付きのスポットになっていた。
    仕事中だというのに、妙に胸の奥がざわつく。
    まるで、見えない糸で引っ張られているような、あるいは磁石の同極同士が反発するような、奇妙な感覚だ。引き寄せられるように鳥居をくぐり、寂れた境内へと足を踏入れた。昼間だというのに、境内には人っ子一人いない。ただ、風が通り抜ける音だけがサラサラと鳴っている。
    水上は拝殿の前に立ち、賽銭箱に百円玉を落とした。鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼の作法を済ませてから、すぐ横にあるあの例の木箱に目をやった。手書きで「おみくじ」と書かれた、何の変哲もない木箱だ。
    水上はため息をひとつ。そして、中に右手を突っ込み、指先に触れた折り畳まれた紙を一枚、引き抜いた。
    ゆっくりと、折り目を伸ばしていく。
    そこに現れたのは、あのバランスの悪い、どことなく悪意を感じさせる太い明朝体だった。
    ​【お告げ】
    居眠りするな。
    ​水上は眉をひそめた。大吉だの凶だのといった、おみくじとしての最低限の体裁すら整えていない。下に目をやると、解説部分にはさらに物々しい言葉が並んでいる。
    ​【解説】
    あなたは今、異界の入り口に立っています。
    睡魔に身を委ねてはなりません。どんなに重くとも、目を開け続けなさい。
    一度眠りに落ちれば、次に目覚めた時にはもう、あなたの知る世界には戻れないでしょう。取り返しのつかない境界線を越える前に、踏みとどまりなさい。
    ​「異界の入り口って……オカルト雑誌の読みすぎだろ」
    水上は自嘲気味に笑い、おみくじをクシャッと丸めてポケットに押し込んだ。今月の営業予算の進捗に頭を悩ませている身としては、神様の不可思議な脅し文句に付き合っている暇はない。アパレル業界の現実的な数字の方が、よほど「取り返しのつかない現実」だった。水上はそう自分に言い聞かせ、足早に境内を後にした。
    ​
    ​しかし、神様のご予言というか、おみくじに宿る警告は、翌日になっても水上の影のようにぴったりと張り付いて離れなかった。
    デスクワークをしていても、サンプル商品の検品をしていても、あの「居眠りするな」という奇妙なフォントが網膜の裏側から消えないのだ。それどころか、午後を過ぎると、まるで物理的な重力のように強烈な睡魔が断続的に襲ってくるようになった。気味が悪くなった水上は、その日の仕事の帰り道、引き寄せられるようにして再び戸山神社の境内に立っていた。
    「これで、また同じだったら笑うよな」
    すがるような、あるいは神様の裏をかいてやりたいような気持ちで、もう一度おみくじの木箱に手を突っ込む。
    パサリと開いた紙面。水上は思わず息を止めた。宮下の結婚式の時がそうだったように、そこには前回と全く同じ、寸分違わぬ巨大な文字が印刷されていた。
    ​【お告げ】
    居眠りするな。
    ​水上は震える指先で、その下にある解説文に目を走らせた。そこには、昨日よりもさらに具体的で、こちらの退路を断つような不気味な文章が並んでいた。
    ​【解説】
    警告は二度与えられました。三度目はもうありません。
    今夜, あなたが乗る乗り物は、あなたを日常の向こう側へと運び去るでしょう。
    濃い霧が街を包む時、あちら側の世界の扉が開きます。一度でもまぶたを閉じれば、それがこの世界との永遠の別れとなります。抗いなさい。絶対に眠ってはなりません。
    ​「乗り物って……地下鉄のことか?」
    水上は生唾を飲み込んだ。神社が二回連続で同じお告げを出すときは、それが単なる偶然ではなく、「絶対に避けられない現実」としてこちら側に迫っている証拠だ。あの結婚式の時、そのお導きの確かさを嫌というほど見せつけられた。
    だが、その日の水上は、連日の残業と終わりの見えない営業回りで、肉体的な疲労の極みにあった。頭がズキズキと痛み、まぶたが鉛のように重い。
    定時の17時30分。水上は逃げるように会社を出た。一刻も早く家に帰って泥のように眠りたかった。いつも通り、仙台駅の改札をくぐり、自宅のある地下鉄のホームへと向かった、つもりだった。
    だが、疲労で朦朧としていた足は、無意識のうちに地上ホームへと向かっていく。気がつけば、17時40分過ぎに発車する山形行きの「仙山線」の列車に乗り込んでしまっていた。
    車内は適度に暖房が効いており、長椅子のシートの柔らかさが、疲れた身体に心地よい誘惑となって襲いかかってくる。ガタゴトと響く電車の規則正しい振動が、まるで子守唄のように脳を揺らした。
    (眠っちゃダメだ。おみくじに書かれていた。居眠りするな、と……)
    水上は膝を爪で強く突き刺し、必死に目を開けようとした。だが、人間の防衛本能に近いほどの強烈な睡魔の前では、その程度の抵抗は虚しく霧散した。水上の意識はゆっくりと、しかし確実に、深い闇の底へと引きずり込まれていった。
    ……どれくらい時間が経っただろうか。
    急激な車内の冷気と、頰を刺すような冷たい風で、水上はハッと目を覚ました。
    「……しまっ、寝過ごしたか!?」
    慌てて跳び起き、ちょうど開いたドアからホームへと飛び降りる。足元がふらついた。地下鉄特有の、あの密閉されたコンクリートの匂いがしない。
    そこは、水上の知っている仙台市地下鉄の駅ではなかった。
    そもそも、地下ですらなかった。
    時計を見ると、時刻はまだ18時40分過ぎ。しかし山あいの駅はすでに帳が下り、指示通りに「濃い霧」が、まるで白い壁のように深く、深く立ち込めていた。山の湿った空気の匂いと、古い木造の駅舎。街の明かりやネオンはどこにも見えず、ただ一つ、ホームの端にある古びた街灯が、霧の中にぼんやりと黄色い光を浮かび上がらせているだけだった。あまりの静寂に、自分の心臓の音がうるさいほどに響く。
    水上は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
    「これ、まさか……本物の『きらさぎ駅』なんじゃ……」
    ネットの都市伝説で有名な、あの二度と戻れない無人駅に迷い込む怪異だ。おみくじの解説が、最悪のリアリティを持って脳裏に蘇る。――一度眠りに落ちれば、それがこの世界との永遠の別れとなります。
    自分が立っている場所の看板を、恐る恐る見上げた。
    錆びついた鉄製の駅名標が、霧の向こうにうっすらと浮かんでいる。
    ​『山寺』
    ​「……ん? 山寺?」
    水上は動きを止めた。山寺。山形県にある、あの松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」で有名な、東北屈指の観光地だ。
    水上は周囲を冷静に見渡した。速度を落としていく電車の灯りの中で、自分のバカさ加減に頭を抱えた。
    地下鉄に乗ったつもりが、完全に無意識のまま仙山線の列車に乗り込み、そのままガチ寝してしまったのだ。仙台から山寺までは、各駅停車でおよそ一時間。寝過ごすには十分すぎる時間だった。
    「きらさぎ駅じゃなくて、ただの山形じゃん……」
    怪異ではないと分かって安堵したものの、現実的な焦燥感が襲ってきた。ここは夜へと向かう山寺駅だ。ポケットからスマホを取り出すも、無情にも画面は真っ暗なまま。充電が切れていた。
    「待てよ……仙台行きの終電って、何時だ?」
    頭を冷やして思い出す。仙山線の山寺駅から仙台方面へ引き返せる列車は、この後20時台、21時台にもまだあるが、22時台の列車が本当の最終リミットだ。それを逃すと、山形側に引き返すか、ここで完全に足止めを食らう。今は18時40分。まだ余裕はある。しかし、次の上り列車までの時間をどう過ごすかだ。4月の山の夜気は容赦なく冷たく、ペラペラのビジネススーツ一枚では、歯の根が合わなくなるほど身震いが止まらなかった。
    ​
    ​駅の待合室にも暖房はなく、水上は暖を求めて駅前に出た。観光客の姿はなく、ほとんどの店がシャッターを閉めている中、一軒だけ、奇跡のように白い暖簾から暖かな光を漏らしている古い蕎麦屋があった。水上は吸い寄せられるようにその扉を開けた。
    「いらっしゃい。寒かったねぇ」
    カウンターの奥から、白髪の混じった温和そうな店主が声をかけてくれた。
    水上はストーブのすぐ近くの席に陣取り、温かい板そばと、山形名物の芋煮を注文した。数分して運ばれてきた芋煮の器からは、湯気が盛大に立ち上っている。出汁の効いた熱いスープを口に含むと、凍りついていた身体の芯が、じわじわと解きほぐされていくようだった。
    「お客さん、仙台から寝過ごしてきたね?」
    店主が苦笑しながら、急須から熱いお茶を淹れてくれた。
    「顔を見れば分かるよ。サラリーマンの人がね、たまにいるんだ。地下鉄に乗ったつもりが、仙山線の列車でここまで運ばれちゃう人がね。でも、18時台に気づいて良かったよ。この後も20時台、21時台の上り列車はあるし、22時台の最終列車まではまだ時間があるからね。もしもっと遅い時間まで寝込んでいたら、駅のベンチで凍えることになっていた」
    「いや、本当にお恥ずかしい。霧があまりに凄くて、一瞬、本当にオカルトの世界か何かに迷い込んだかと思いましたよ」
    水上が芋煮の里芋をハフハフと食べながら言うと、店主は「異世界、ねえ」と少し目を細め、ストーブの上のやかんを見つめた。
    「そう言えば昔、藤子・F・不二雄っていう有名な漫画家がね、この山寺を舞台に奇妙な短編を描いたんだよ。『山寺グラフィティ』っていうんだけどね」
    「ドラえもんの、ですか?」
    水上は意外な名前に眉を上げた。
    「そう、あのドラえもんの先生さ。でも、子供向けじゃなくて、大人向けの少し切なくて少し怖い、少し不思議な物語さ。物語はね、東京で暮らす売れない画家の男の前に、高校の時に雪の日に亡くなった幼馴染の女の子の霊が現れるところから始まるんだ。彼女は幽霊だから何も喋らないんだけど、男の部屋にいつの間にか居着いて、一緒に思い出の場所へ出かけたりする。気になった男が、彼女の実家があるこの山寺を訪ねるんだよ。そしたらね、裏の神社に、彼女の顔を象ったコケシが納められていたんだ」
    店主は急に声を潜め、しみじみとしたトーンで続けた。
    「その子は霊になっても、あちらの世界でちゃんと歳をとって、成長していたんだよ。親御さんはね、娘が年頃になったからって、男にそっくりな男の子のコケシを作って、二人のコケシの結婚式を挙げてこの山寺に奉納したんだ。そしたら彼女、最後は旦那さんの霊を連れて、東京の男のところに新婚旅行の挨拶に来てさ、静かに去っていくんだよ」
    「……結婚式の、挨拶に」
    水上は蕎麦をすする手を完全に止め、店主の話に聞き入った。
    「そう。あちらの世界ってのはね、実は生きている人間のすぐ隣にあって、向こうは向こうで、僕らと同じように時が流れて、営みがあるのかもしれないね」
    店主は窓の外、白く煙る駅前を見つめながら呟いた。
    「特にこんな霧の夜は、あちら側の境界線が曖昧になって、気配がすぐ近くまで満ちてくるような気がするよ。もしあのまま引き返さずに、あちら側の居心地の良さに馴染んじまったら、もうこっちの世界には二度と戻ってこられないかもしれないね」
    店主はそこまで言うと、ふっといつもの温和な顔に戻り、「おっと、お化け嫌いの若い人には、ちょっと不気味な長話だったかね」と笑った。
    だが、水上の背中には、さっきとは違う質の冷や汗が流れていた。
    ポケットの中で、クシャクシャになったあのおみくじが、じわりと熱を持っているような気がした。
    二度目のおみくじの解説――濃い霧が街を包む時、あちら側の世界の扉が開きます。
    時計を見ると、時刻は20時30分を回っていた。仙台行きの列車が到着する時間が近づいている。
    遠くから、霧を引き裂くように、上り列車の警笛が山々に木霊した。現実の世界へと引き戻す、鋭い金属音だ。
    水上はおみくじをポケットの奥できつく握りしめ、今度こそ絶対に目を瞑らないと誓いながら、お代を払って霧の立ち込める駅のホームへと、早足で向かった。
    ​なんとか無事に上り列車で仙台に引き返し、深夜、自宅のベッドに倒れ込んだ水上は、ようやく充電が完了したスマートフォンの画面を開いた。
    あの奇妙な蕎麦屋の店主の言葉、保持していた「17時40分過ぎの列車」という妙に具体的な数字が、頭の片隅でずっとトゲのように引っかかっていたからだ。
    水上は軽い気持ちで、乗り換え案内アプリに「仙台発、山形行きの時刻表」を入力した。
    数字を入力し、画面に表示された検索結果を目にした瞬間、水上の全身の血の気が、すっと引いていくのを感じた。
    (……嘘だろ)
    画面には、冷徹な現実が並んでいた。
    17時台、仙台駅から発車する山形行きの仙山線の列車など、どこにも存在していなかった。その時間にあるのは、別の行き先の電車が数本だけ。水上が確かに乗り込み、あの重厚なモーター音を響かせて山寺まで自分を運んだ「17時40分過ぎの山形行き」なんてダイヤは、この現実世界の時刻表のどこを探しても、一本も走っていなかったのだ。
    「じゃあ、俺は昨日、一体何に乗って山寺まで行ったんだ……?」
    部屋の静寂の中、水上はガタガタと震える手でスマートフォンの画面を見つめ続けた。
    あのおみくじの言葉が、今度は本物の恐怖となって脳髄を突き刺す。――今夜、あなたが乗る乗り物は、あなたを日常の向こう側へと運び去るでしょう。
    神様のお導きは、現実の電車の時間をいじったのではない。水上をあっち側へ運ぶためだけに、「この世にない列車」を一台丸ごと用意されたのだ。一歩間違えれば、あの霧の向こうから二度と帰ってこられないところだった。水上は、自分が本物の怪異の深淵に足を踏入れえいたことを、その夜、初めて知ったのだった。

    ​あの恐怖の夜から数日後。水上の頭からは、どうしてもあの存在しないダイヤの謎と、おみくじの不気味な連動が離れなかった。あの列車が一体何のために自分を山寺まで運んだのか、あの霧の夜の出来事は幻だったのか。このまま放置しては、また次の奇妙な因果に巻き込まれるかもしれない。水上はそんな得体の知れない焦燥感に駆られていた。
    ​そして連休の真っ只中、水上はかつて他県の大学で苦楽を共にした親友であり、先日結婚したばかりの宮下を半ば強引に誘い出し、彼の運転する車で再び山形へと向かっていた。先日、本物の怪異の片鱗を見てしまった水上にとって、今日のドライブはただの物見遊山ではなく、戸山神社の神様が仕掛けた謎を解き明かすための、切実な再訪だった。
    「おい水上、新婚早々、男二人で山寺ドライブってどういう風の吹き回しだよ。嫁さんに『ちょっと水上と謎解きに行ってくる』って言ったら、『男二人で?』って、もの凄く怪訝な顔されたぞ。大学の時からお前の無茶振りには付き合ってきたけど、今回ばかりは俺の家庭内順位に関わるからな」
    ハンドルを握る宮下が、呆れたように、しかしどこか楽しそうに笑う。大学のサークル棟で下らない議論を交わしていた頃から、宮下のこの面倒見の良さは何一つ変わっていなかった。
    「悪い。でも、お前が自分の結婚式で、小野寺があれだけ大立ち回りしてご祝儀泥棒を捕まえてから、俺たちの周りでおみくじの因果が回り続けてるんだよ。確かめなきゃ、夜も眠れなくてさ」
    実は、今日の午前中、水上は確信を得るために三度、「戸山神社」へと足を運んでいた。もはや恐怖を通り越して、ある種の事務手続きのような感覚で引き抜いたその紙には、やはり期待を裏切らない、あの不均衡な明朝体が踊っていた。
    ​【お告げ】
    不思議な絵を見なさい。
    ​下に目をやると、解説部分にはこうだ。
    ​【解説】
    それは、この世とあの世の境界線に描かれた物語。
    存在しないはずの人間が、そこに描かされています。
    美しくも哀しいその色彩を目にした時、あなたはこの街の本当の『裏側』を知るでしょう。案内人を伴い、その地へ赴きなさい。
    ​「案内人を伴い、ね……」
    助手席で水上がおみくじを眺めているうちに、宮下の車は笹谷峠を越えて山形県に入り、新緑に包まれた山寺の麓へと到着した。あの夜の深い霧が嘘のように、昼間の山寺は新緑が眩しく、多くの観光客や家族連れで賑業を終えた人々で賑わっていた。
    二人は車を降り、あの夜水上が駆け込んだ駅前の蕎麦屋を探したが、連休の繁忙期のためか、あのおじさんのいる古い店は見当たらず、どこの蕎麦屋も長蛇の列ができていた。
    「なぁ水上、おみくじの『不思議な絵』って、結局どこにあるんだよ。山寺の立石寺の宝物館かどこかか? それとも、どっかの美術館?」
    宮下が首を傾げながら、山上の奥の院へと続く長い石段を見上げた。
    「いや、観光用の絵じゃない気がする。ちょっと地元の人に聞いてみよう」
    水上は、近くにある土産物屋の店番をしていた、小柄で上品な老齢の女性に声をかけた。「すみません、この近くで、何か『不思議な絵』を奉納したりするような、少し変わった場所ってありますか?」
    女性は一瞬、おや、という顔をして水上と宮下を見比べた。それから、宮下の左手薬指に光る真新しい結婚指輪に視線を止めると、どこか得心のいったような、穏やかな笑みを浮かべた。
    「ああ……それなら、この山寺の奥の院や、近くのお寺に奉納されている『ムカサリ絵馬』のことかもしれないねぇ」
    「ムカサリ、絵馬?」
    水上と宮下が同時にオウム返しにする。聞き慣れない言葉だった。
    「そう。この地方に古くから伝わる、哀しい、でもとても優しい風習さ。『むかさり』っていうのはね、この辺りの古い方言で『婚礼(結婚式)』のこと。若くして、結婚もできずに亡くなってしまった子供のために、親御さんがね、あの世でせめて寂しくないように、不自由しないようにって、架空の結婚式の様子を絵に描いてお寺に奉納する絵馬なんだよ」
    女性の言葉に、水上は息を呑んだ。藤子・F・不二雄の『山寺グラフィティ』で描かれた、亡くなった幼馴染に「コケシの結婚式」を挙げた親の心境。そのベースにある民俗信仰が、まさにこの「ムカサリ絵馬」だったのだ。すべてがカチリと音を立てて噛み合っていく。
    「絵馬にはね、亡くなった本人の隣に、この世には存在しない『架空の新郎や新婦』が仲睦ばじく描かれるんだ。そうして、あちらの世界で幸せになりなさいって、親が最後の役目を終えるんだよ。ここいらのお堂に、たくさん納められているわ」
    ​
    ​水上は宮下の腕を引き、「ちょっと付き合ってくれ」と促した。
    おみくじの『不思議な絵を見なさい』というお告げが本物なら、あるいは『案内人を伴え』というお言葉の意味が正しいなら、そこに行けば、すべての答えがあるはずだった。
    新緑の木々の間を抜け、観光ルートから少し外れた、静まり返った古いお堂の片隅へと二人は向かった。薄暗い堂内の壁には、大小様々な古い絵馬が、隙間なく掛けられていた。
    どれも、鮮やかな着物を着た新郎新婦が、大勢の親族に囲まれて笑顔を浮かべている絵だ。一見すると華やかな結婚式のイラストだが、これが「この世では決して叶わなかった幻」なのだと思うと、独特の厳かな、胸を締め付けられるような空気に圧倒される。
    「すごいな……本当に、みんな幸せそうな顔をして描かれてる」
    宮下が感心したように、少し高い位置にある一枚の絵馬を見上げた。
    「あ、これなんて、最近描かれたものみたいだぞ。絵のタッチが今風だ。新郎新婦もずいぶん若くて――」
    宮下の言葉が、そこでぴたりと止まった。まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように。
    「宮下……?」
    水上が声をかけたが、宮下は何か愛おしいものでも見たかのように、目を見開いたまま静かにその絵馬を見つめていた。彼の視線は、新しいムカサリ絵馬の「新婦の顔」に完全に釘付けになっている。その身体が、微かに震えていた。
    水上もその絵馬に一歩近づき、描かれた新婦の顔を凝視した。
    「な、なんで……あいつの顔が、ここに……?」
    宮下が、どこか懐かしむような、しかし張り裂けそうな声で呟く。
    「これ、俺の小学校の時の幼馴染の女の子だ。体が弱くて、昔、転校した先で亡くなっちゃったんだけど……。なんで山寺の、この絵馬に、あいつの顔が描かれてるんだよ……!」
    水上は息を呑んだ。絵馬に描かれていたのは、宮下がかつて失った、大切な幼馴染の笑顔だった。その隣には、端正な着物姿で彼女を優しく見守る、見知らぬ優しい顔立ちの新郎が描かれている。
    その時、水上の脳裏に、あの日存在しなかった列車の記憶と、あの霧の夜の蕎麦屋の店主の言葉がリフレインした。
    原稿を読んでいた水上の中で、すべてのパズルのピースが美しく、完璧につながった。
    『居眠りするな。一度眠りに落ちれば、目覚めた時にはもう、あなたの知る世界には戻れないでしょう』
    なぜ、あの霧の夜、神様は宮下ではなく、当事者ではない「水上」を山寺へ寝過ごさせたのか。
    もし、新婚ホヤホヤで、過去の思い出や彼女への懐かしさを人一倍抱えている宮下本人が、あの夕方の深い霧と睡魔に襲われ、神様が用意された「存在しない列車」に乗ってしまっていたら――彼は郷愁と未練のあまり、あちら側の世界へふらふらと引き込まれ、本当にこちらの世界に戻ってこられなくなっていたかもしれない。だからこそ神様は、当事者ではない水上を、絶対に安全な「先遣隊」として山寺へ送り込まれたのだ。
    水上を存在しない列車で寝過ごさせ、あの蕎麦屋の店主から『山寺グラフィティ(あの世での結婚と成長)』の話をあらかじめ予習させておく。そうすることで、水上が本日のおみくじの「不思議な絵を見なさい」という意図を正しく理解し、宮下の安全をがっちり確保した上で、この場所に「案内人」として連れてこられるように仕向けられたのだ。
    すべては、新婚の宮下に「私もあっちの世界で、ちゃんと幸せになったよ」という幼馴染からのメッセージを、絶対に迷子にならない安全な方法で届けるための、神様の徹底した、最高に粋なお計らいだったのだ。
    「そっか……お前、あっちの世界で、ちゃんと良い人と出会って結婚できたんだな」
    宮下は静かに涙を流しながら、だけどとても嬉しそうに、絵馬の新婦に向かって微笑んだ。
    「おめでとう。俺もこっちで、最高の嫁さんと結婚したよ。お互い、別の場所だけど、幸せになろうな」
    二人が静かに手を合わせると、薄暗いお堂の奥から、祝福するような温かいそよ風がサラサラと吹き抜けた。気がつくと、絵馬に描かれた新婦の顔は、筆で丁寧に描かれた、元の優しく朗らかな美しい笑顔へと、ゆっくりと馴染むように戻っていった。最初から、水上たちの見間違いだったかのように。
    夕暮れ時。山寺をあとにする車の中で、宮下はハンドルを握りながら、実にスッキリとした、晴れやかな顔で笑っていた。
    「驚いたけど、なんかすごく心が温かくなったわ。あいつ、俺が結婚したから、最後に『私も幸せだよ』って伝えにきてくれたのかもな。水上、強引にでも連れてきてくれて本当にありがとな」
    「礼なら戸山神社の神様にお伝えしろよ。宮下、お前が当事者じゃ危なすぎるからって、俺をあんな霧の夜に寝過ごさせてまで下調べさせたんだからな。相変わらずお導きが深遠で、心臓に悪いよ。おかげで俺の睡眠時間は大削りだ」
    水上は笑いながら、ポケットの中でクシャクシャになった三枚のおみくじを弄った。
    最初はただの「居眠りするな」という不思議な警告。
    それが、都市伝説のような霧の夜を経て、最後は友人の過去の記憶を温かく祝福する、最高の美しい絵との出会いへと着地した。戸山神社の神様は、やっぱり少々強引だけれど、どこまでも慈悲深い存在のようだった。
    ​車内に、いつもの心地よく乾いた笑い声が響き渡る。
    ゴールデンウィークの美しい夕日が、二人の乗る車を暖かく、優しく照らし出していた。水上は助手席の窓を少しだけ開け、新緑の匂いが残る山形の風を浴びながら、かつて他県の大学で苦楽を共にし、今では互いに就職してこの地で暮らすようになった親友との、いささか賑やかすぎるドライブの余韻に浸りつつ、住み慣れた街、仙台への家路をのんびりと楽しんだ。

     
     
    エッセイ、小説。 趣味のスポーツ、音楽、読書を綴ります。 旅やグルメも少し。

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