メインコンテンツへスキップ
見出し画像

「み言葉で漁に出よう」―最前列で受け取った二つの言葉―

    今日の御ミサは、朗読の奉仕だった。
    最前列に座ると、不思議なくらい静かだった。

    誰が来ているかも気にならない。
    人の表情も見えない。
    スマートフォンも開かない。

    ただ、祭壇を見つめ、
    み言葉に耳を傾ける。

    最近、自分でも少し気になっていた。

    気づけば、つい携帯を手に取ってしまう。
    調べる。
    読む。
    考える。

    カウンセラーという仕事柄、
    人の心を考えることが日常になっている。

    教会へ行っても、人の振る舞いから何かを感じ取ってしまうことがある。

    だからこそ、この「何も入ってこない時間」が、
    私にはとても貴重なのだと改めて気づいた。

    そんな静けさの中で、二つのみ言葉が心に浮かんだ。

    主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

    ルカ福音書10.41-42

    そしてもう一つ。
    聖歌『主は水辺に立った』の最後の一節。

    「み言葉で漁に出よう。」

    「主は水辺に立った」

    私は今まで、「漁に出る」ことを大切にしてきた。

    スクールカウンセラーとして子どもたちと向き合い、
    電話相談に応じ、
    教会で奉仕し、
    巡礼の体験を言葉にして記録する。

    実を結びたい。
    その願いは今も変わらない。

    でも今日、神様は改めて順番を示してくださったような気がした。

    まず、主の前に座ること。
    多くの思い煩いを手放し、ただ、み言葉を受け取ること。

    そのあとで、
    「み言葉で漁に出よう。」

    自分の熱意で漁に出るのではない。

    焦りでも、
    義務感でも、
    承認欲求でもない。

    神様からいただいたみ言葉を携えて、人のもとへ向かう。
    そんな働き方をしたい。

    実は、このような瞬間もあった。
    聖歌(「主は水辺に立った」)を歌いながら、

    「この手と清い心 これだけがわたしのもの」
    「この手と若い力 汗のしずく捧げよう」

    という歌詞に、
    「私には、清い心と若い力がもうないなあ。」そんな思いが一瞬よぎった。

    でも、それは私の中に住みついていた、
    小さな自虐の声だったのかもしれない。

    「清い心」とは、一度も汚れたことのない心ではなく、
    何度でも神様へ向き直る心。

    「若い力」とは、年齢ではなく、
    今日も新しく歩み出そうとする力。

    そう思えたとき、
    歌詞が少し違って聞こえてきた。

    そして気づいた。

    私が本当に必要としているのは、
    新しい情報ではなく、

    「沈黙を味わう時間」…なのだと。

    スマートフォンを閉じ、
    誰かを分析することも、
    何かを生み出そうとすることも手放し、

    ただ神様の御前にいる時間。

    その静けさの中で受け取ったみ言葉は、
    不思議なくらい心の奥まで届く。

    これからも私は、人と向き合い、言葉を紡いでいくだろう。
    でも、その前に大切にしたい。

    主の前に静かに座ること。
    そして今日も、み言葉で漁に出よう。


    お立ち寄りくださり感謝しています。

    あなたは最近、静かに神様の前に座る時間を持てていますか。

    今日、あなたを漁に送り出す「み言葉」は、どんな言葉でしょう。


    あなたへのおすすめ