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斯くして舞台は幕を開ける。

    あらすじ


    ここは、現代の日本よりさらにもっと芸術に理解が深い世界である。具体的には、毎週舞台観劇をするくらい芝居が好きな人が多い世界である。
    そんな世界で生まれた主人公、山田紫(やまだむらさき)。劇団の座長である橘漣(たちばなれん)。その姉であるムードメーカーの橘美咲(たちばなみさき)。まじめで芝居が大好きな唐立竜(からたちりゅう)が織りなす物語である。役者とは何か。芝居とは何か。4人が紡ぐ物語が、今幕を開ける!

    1幕 斯くして舞台は幕を開ける。


    幼いころから演劇や舞台が好きだったかというと、彼はそうではなかった。

    少年が初めて演劇に興味を持ったのは、今から8年前のことだった。

    学校の行事で初めて演劇の『舞台』を見た少年の心に、突き刺さるものがあった。

    激しく舞い、踊り、言葉を巧みに操る舞台の役者たち。

    それは、少年の心を決意させるには十分なものだった。

    あの人たちみたいになりたい、と。

    そして、8年後、劇団『天のふたご座』(あまのふたござ)稽古場前にて。

    紫『合格したんだ。劇団に。まさか、自分がここまでやれるとは思わなかった。緊張する。でも、せっかくここまでこれたんだし、今日からがんばろう。ごめんくださーい』

    青年へと成長した少年、山田 紫(やまだむらさき)は、劇団の門戸を叩こうとした。そして、

    美咲『あなたはいつもそう!自分の立場や肩書を何よりも優先して!』

    稽古場の扉を開けたその先では、

    竜『何を言うんだい、僕が見つめているのは君の美しい瞳だけさ。』

    彼が待ち望んでいた『演劇』の世界が待っていた。

    美咲『またそうやってあなたは嘘ばかり言う!どれだけ私の心をもてあそべば…ってあれ?』

    女性の役者は、稽古を途中で切り上げて紫に駆け寄った。

    竜『!おい!稽古中だぞ!』

    男性の役者は、稽古を切り上げた女性の役者を止めようと後ろを追いかけた。

    美咲『見たことない顔だね!ひょっとして、新人さんかな?』

    漣『はい、カット、カット!…姉さん、せっかく芝居に熱が入っていいところだったのに。』

    おそらく劇団員の方であろう3人は。稽古中の様子であった3人は、紫に気づいたようで彼に話しかけてきた。

    竜『全くだ、せっかくここからのセリフの感情の入れ方を研究しようと思ってたのに…それで、ええと、君がたしか今日から入るっていう新人さんか?』

    背の高い男性の役者は、紫のほうを向いた。

    紫『はい、そうです!よろしくお願いします!』

    漣『あー、そういえばそろそろ来る頃だと思ってた。』

    美咲『漣!新人さんが来るなんて、こんな大事なことは早めに教えといてよね!』

    元気のよさそうな女性役者は、身振り手振りを大きくして話した。

    漣『稽古が始まる前のミーティングで言ったじゃないか。』

    竜『俺も、それははっきりと聞いたな。』

    美咲『えー、なんだあ、あたしだけ聞いてなかったのかあ。』

    竜『この馬鹿はほっといて。君の名前は?』

    メガネをかけた長身の男は、周りをよく見えているようだった。紫より背の低い男性と、元気の良い女の人といったところだろうか。

    紫『はい!山田 紫(やまだ むらさき)といいます!』

    漣『山田さんね、よろしく。僕は橘 漣(たちばな れん)っていうんだ。』

    美咲『あたしがそのお姉ちゃんの、橘 美咲(たちばな みさき)だよ!よろしくね!で、こっちの頭がすごーく硬くて、もう本当にどうしようもないくらい硬くて、ヤシの実くらい』

    竜『だれがヤシの実だ!…まったく、俺は唐立 竜(からたち りゅう)だ。よろしく、山田さん。』

    よろしくお願いします。と緊張しながら返事をする。先ほどまでの殺気立った表情はどこへ行ったのか。打って変わって、この人たちは柔和な表情で僕を迎えてくれた。僕は、その切り替えがすごいなあ。とつぶやいた。

    美咲『ん?今すごいって言ったの私のこと?』(同時に)

    竜『ん?今すごいって言ったの俺のこと?』(同時に)

    美咲『…は?』(同時に)

    竜『…は?』(同時に)

    美咲『おい、かぶせるな!』(同時に)

    竜『おい、かぶせるな!』(同時に)

    急にコントが始まったのかと、紫は驚きながら2人を交互に見た。

    漣『ふふ、相変わらず仲がいいんだか悪いんだか。山田さん、ごめんね。さわがしくて。この2人は、実力はたしかなんだけどよくケンカしたりケンカしたり・・・いちゃついたりしてるから。』

    稽古場に大きな声が響いた。紫は苦笑いをするしかなかった。

    紫『な、なるほど。そうなんですね。』

    美咲『だれがこんなやつと!』(同時に)

    竜『だれがこんなやつと!』(同時に)

    漣『ほら、やっぱり仲良しじゃないか。』

    美咲『ぐ、ぐぬぬぬぬぬ。』(同時に)

    竜『ぐ、ぐぬぬぬぬ。』(同時に)

    紫の口からは少し笑いがこぼれた。ここはなんだか、楽しそうなところかもしれない。と彼の心は安堵した。そして、僕たちは稽古場の休憩スペースに移動した。

    紫『えっと、今日は稽古場に来ているのは3人だけなんですか?』

    漣『あはは…人が少なくてごめんね。うちは、そんなに人数が多い劇団じゃないからね。』

    紫『いえ、すみません。』

    漣『事実だし、大丈夫だよ。でも、人数は少なくても芝居の実力はみんな確かだよ。』

    紫『漣さんも芝居をするんですか?』

    漣『ううん、僕は裏方。脚本と演出を担当しているんだ。』

    美咲『おーい、そこの新人!うちの子となに楽しそうに話してるの?私も混ぜてよ!』

    竜『こら、橘。大事な話に決まっているだろう。じゃまをするんじゃない。』

    美咲『なんで大事な話ってわかるんだよ!もしかしたらしょーもない話かもしれないじゃん!』

    竜『せっかく劇団に入ってくれた人と、いきなりそんな話をするわけないだろう。・・・それに。』

    紫は竜と目が合う。なんだか、前にもこんなことがあったような気がしたなあと感じていた。

    竜『この人の演技には、光るものがある。だから、今ここにいるんだろ。』

    紫『え、なんで僕のことを知っているんですか?』

    竜『入団オーディションの際の審査員には、俺もいたからな。もちろん、漣もな。』

    紫『あ、すみません!緊張していて、覚えていなくて。』

    竜『なに、気にするな。その気持ちはわかる。』

    美咲『えー、じゃあ新人君の実力を知らないのは私だけ!!??』

    美咲はまたしても大きく身振り手振りをして、騒いでいた。

    竜『はしゃぐな、うるさい。』

    美咲『まー、この堅物メガネはほっといて、新人君、ちょっと実力見せてよ!』

    紫『そういわれても・・・何をすればいいんでしょうか。』

    美咲『なーに、ちょっと殺陣(たて)をやってもらうだけだから!漣も、見たいでしょ?』

    漣『まあ、山田さんなら基礎はできてると思うし、いいと思うよ。山田さんは、殺陣(たて)の経験は?』

    紫『殺陣なら、学生の時に、すこしだけ経験があります。』

    漣『それなら、大丈夫かな。危ないと思ったら、すぐに竜さんを呼んで。止めてくれるから。』

    竜『おれかよ。』

    美咲『よーし、じゃあこれ持ってね。』

    美咲は、刀身が柔らかい素材で作られた模造刀を紫に手渡した。

    紫『これは、模造刀ですか?』

    美咲『そう!さ、どこからでも打ち込んできていいよ。君の力を見せてもらうよ。』

    竜『無理はするなよ、山田さん。』

    紫は模造刀を体の前に構えた。殺陣の基本を思い出す。わかりやすく、大きく振るうことを意識し、深呼吸を一つしてから掛け声を出す。

    紫『はあ!』

    紫は掛け声とともに、大きく模造刀を振った。美咲の模造刀にしっかりと当てて止める。

    美咲『お!』

    美咲はそれをきちんとした構えで受け止める。

    漣『いいかけ声だね。』

    竜『ああ、基本に忠実な構えだな。』

    美咲『ほっ!ほっ!…いいね、いいね、筋がいいよ!』

    紫『ありがとうございます!』

    紫は感謝をしつつも、内心驚いていた。全力で打ち込んでいるのにびくともしない美咲に対して、動揺していた。

    竜『相手に武器を当ててはいけないという基本も押さえているな、まあ、美咲が軽く受け止めているというのもあるが。』

    漣『あはは、基本を押さえているのは竜さん好みだねえ。』

    数度打ち合った後、美咲が息を一つついて、紫に向き直った。

    美咲『さて、じゃあそろそろ、こっちからもいくよ・・・はあああ!』

    美咲さんが掛け声をあげて僕に迫りくる。今までの動きとは、ぜんぜん違った。表情、動き、全部に迫力がある。なんて、強さなんだと唇をかみしめた。

    美咲『どうした、どうした!まだ私の本気はこんなもんじゃないよ!』

    美咲はすっかり興が乗ったようで、楽しそうに模造刀を振るった。

    竜『あのバカ、頭に血がのぼって・・・ちょっと止めてくる。』

    漣『待って、竜さん・・・もう少し、見ていたい。』

    竜『おい、本当に大丈夫か?』

    数度受け止めただけなのに、半端じゃない重みと強さに紫はよろめいた。強い。これが、経験の差かと。けど、僕だって負けたくない。その気持ちで紫は模造刀を構えた。

    美咲『ほら、ラスト行くよ!』

    最後の殺陣。紫は思い切り刀をはじいた。

    美咲『っ!!あたしの、刀を。』

    竜『美咲の模造刀を弾いただと!』

    漣『これは、いい殺陣だね。』

    漣は思わず2人に対して拍手をした。

    美咲『完敗だよ!!いやあ、最高だね!新人君、いや、紫くん!』

    紫『い、いや、あの、本当にすみません!調子乗っちゃって。』

    謙遜する紫のもとへ、竜と漣がかけよった。

    竜『何を言うんだ、山田君。君は本当に素質がある。』

    漣『うん、たった一回とはいえ、姉さんの刀をはじけるなんて、そんなことができるのはこの劇団には竜さん以外いないよ。』

    美咲『そうそう!あたしがいうのもなんだけど、君は本当にいい役者になれるよ!』

    紫『ありがとうございます!!・・・痛っ』

    紫は苦痛に一瞬顔をゆがませた。

    美咲『どうしたの?どこか痛い??大丈夫?』

    紫『いえ、大丈夫です、ちょっとだけ足がしびれただけです。』

    竜『準備運動もろくにせずやるからだ。今度教えてやろう。』

    美咲『あー、長くなるからまた今度ね。』

    竜『お前には言っていない!』

    漣『なにはともあれ、今日からよろしくね、山田さん。』

    紫『はい!』

    若干足の古傷が痛んだのは、おそらく気のせいではない。紫はそう感じていた。しかし、自分の実力が認められた実感が、彼の心を包んでいた。
    そして、紫が入団してから10日後。稽古場にて。
    劇団のメンバーが集まっていた。

    紫『今日はちょっと人が多いですけど、何をするんですか?』

    美咲『今日はね、3か月後にある舞台の台本と役の発表があるんだよ!』

    紫『おお、じゃあ、みなさんの晴れ舞台が見られるんですね!』

    竜『他人事みたいに言ってるけど、君ももう立派な団員だからな。みんなにチャンスはあるんだぞ。』

    そわそわと待つメンバーが待つ前に、台本を抱えた漣が休憩室から現れた。
    漣は劇団員がそろっているのを確認した。

    漣『みんな、お待たせしたね。・・・うん、全員そろっているみたいだね。さて、では3か月に迫っている定期公演の台本の発表をするよ。今回の台本の名前は、『おとめ座の騎士』。過去につらい思い出を抱えた騎士が、国の姫様と恋に落ちて、結ばれる話だよ。』

    美咲『おお、すごいわかりやすい説明だね!』

    竜『ふむ、おとめ座というのも何か話に関係あるのか…ストーリーを分析せねばな。』

    紫『台本の発表なんて、初めてだからドキドキするなあ。』

    漣『では、役の発表をするよ!まず、おとめ座の騎士こと『ナイトハルク』を唐立 竜!』

    竜『はい!精一杯努めます!』

    竜は生真面目に、大きな声で返事をした。

    漣『そして、騎士が恋する姫こと『マリアンナ』を、橘 美咲!』

    美咲『はーい!がんばりまーす!』

    美咲は元気よく返事をした。

    続々と役者に役を与えられていく。そして、運命の転機は訪れた。

    漣『そして、騎士の従者の『ルード』に・・・山田 紫!』

    紫『・・・え?ええ?!僕、ですか?』

    紫は人生で感じたことがないくらいの衝撃を覚えた。その声に、漣が苦笑いをしながら伝える。

    漣『そんなに驚くことじゃないよ。それに、君以外の全員が納得の配役だと思うよ。』

    竜も美咲も、漣のその言葉にうなずいた。

    竜『まだたった10日間だけど、君の実力は確かなものだと確信したからな。まあ妥当だろ。』

    美咲『楽しみだな~、どんな舞台になるか今からワクワクしちゃうね!』

    紫『・・・わ、わかりました!どれだけ力になれるかわかりませんが、がんばります!』

    美咲『あはは、そんな緊張しなくても大丈夫だって!・・・楽しもう!』

    竜『まずは、本読みから始めていけば不安も少ないだろう。』

    漣『さて、じゃあまずは脚本を書いた僕が台本を読むよ。手元に台本を配るから、見ながら聞いてね。』

    こうして、3か月後の舞台に向けての稽古が始まった。
    稽古はとても厳しく、新人である紫にはついていけない場面もあった。
    例えば、動きの演技の場面。

    美咲『紫ちゃん!そこ、もっとがーっと大きく身振りをしないと、遠くのお客さんに見えないよ!』

    紫『はい!』

    そして、セリフでも苦戦していた。

    竜『山田!もっとハキハキしゃべらないと、長文のセリフで苦戦するぞ!』

    紫『はい!』

    厳しい稽古のつかの間の休憩時間。紫は休憩スペースにてタオルを首に巻いてうなだれ、ため息をついた。

    紫『や、やっと休憩だ、つかれた・・・』

    漣『おつかれ、紫さん。』

    そこへ、漣がスポーツドリンクを持ってきた。

    紫『あ、漣さん。おつかれさまです。』

    漣『はい、飲み物を持ってきたから、飲んでね。』

    紫『ありがとうございます。』

    漣『練習は楽しい?・・・それとも、きつい?』

    紫『いえ、とても楽しいです!ずっと、舞台に立ちたいと思っていたので。』

    漣『あはは、それはすごいね!・・・僕には、無理だなあ。』

    どこか悲しげに笑う漣に対して、紫は以前から思っていた疑問を投げかけることにした。

    紫『・・・あの、聞いてもいいですか?』

    漣『ん?なんだい?』

    紫『漣さんは、どうして脚本家をされているんですか?』

    漣は少し考えて、答えをひねり出した。

    漣『むずかしい質問だなあ。そうだねえ、自分に務まる仕事が、たまたまそれだったからかなあ。』

    紫『それ?』

    漣『うん。舞台って、表でやる役者と、裏方の人がいることで基本的には成り立ってるでしょ?だからね、自分の役割は裏方かなって。』

    紫『漣さん、とても演技が上手だから役者もできそうですけど。』

    漣『あはは、そんなことはないよ。・・・僕にはね、とても身近に芝居がとってもうまい人がいるからね。』

    紫『美咲さんのこと、ですか?』

    漣『そう。・・・実はね、僕らには親がいないんだ。・・・僕らが小さいころ、2人とも蒸発しちゃって。』

    紫『え?』

    漣は、言葉を選びながら紫に答えた。

    漣『だから、小さい頃はずっと姉さんと暮らしていたんだ。姉さんは、すごいんだよ。なんでもできる。学校の勉強や、日々の生活の家事。人とのコミュニケーション能力も高くて。身内から見てもぜんぜん隙がない完璧な人。でもね、芝居においてはまだ伸びしろがあるんだ。その伸びしろを作ってくれているのは、竜さん。姉さんとはよくケンカするけど、それもお互いに意識しあっているからこそのこと。お互いにないものを吸収しようとしているんじゃないかって思うんだ。だから・・・そんな姉さんの成長を、僕みたいな中途半端な役者が邪魔をしちゃいけないんだ。』

    紫は、漣の言葉を受け、静かにうなずいた。
    外では小雨がしとしとと降っていた。

    紫『・・・そうなんですか。』

    漣『ごめんね。こんな話を休憩中にしちゃって。しっかり休んでね。・・・舞台ではね、遠慮しない人間が強いんだ。もちろん、それだけじゃないけどね。だから、紫さん。僕みたいになっちゃだめだよ。・・・じゃあね。稽古再開の時にまた呼ぶね。』

    紫『あ・・・』

    なんと声をかけたらいいのか、その時の紫にはわからなかった。ただ、『舞台は遠慮しない人間が強い』その言葉を胸に刻み、稽古に励むことにした。

    そして、稽古開始から1ヶ月後のことだった。
    その日も劇団のメンバーは稽古に励んでいた。

    漣『さて、今日で稽古が始まって一か月がたったね。それでは今日は、ナイトハルクとルードの2人が別れの会話をする場面の練習だね。・・・いくよ、3,2,1…アクト。』

    紫はいつものように稽古に臨んでいた。

    紫『お待ちになってください!ナイトハルク様!』

    竜『止めてくれるな、ルード。私はもう決めたのだ。』

    紫『だって、だって、こんなことあんまりじゃないですか!』

    竜『・・・カットだ!』

    突然の竜の発言に、一瞬稽古場の空気が止まったかのように思われた。基本的には、役者が自分からカットを入れることなど、重大なアクシデントでもない限りほとんど起こり得ないからである。竜は紫に向き直り、こう告げた。

    竜『山田、あんまりこういうことははっきりとは言いたくないが、お前は発声の基礎がなっていない。』

    紫『え?あ、は、はい。すみません。』

    竜『前々から思っていたのだが、おそらく基礎から間違っているのだろう。修正しよう。皆、すまない。5分ほど時間をくれ。』

    稽古を止めようとする竜に、美咲が食ってかかる。

    美咲『ちょっとちょっと竜!なにしてんの!』

    竜『なにって、山田の発声の修正をこれからーー』

    美咲『そんなこと、どうでもいいじゃない!この場面は、役者がどれだけ気持ちをお客さんに伝えられるかが重要でしょ!』

    竜『・・・どうでもいい、だと。』

    明らかに2人の様子がいつもよりヒートアップしている。そんな2人を見て、紫は止めようとした。

    紫『あ、あの、僕なら大丈夫ですから。』

    美咲『紫ちゃんは黙ってて!』

    竜『ずっと頭にくるやつだと思っていたが、これほど大事なことになぜ気づかない!いくら気持ちがのっている芝居をしても、お客さんが聞き取れないんじゃ意味がないんだぞ!』

    美咲『そこは根性と気合いで伝えるのよ!』

    竜『バカバカしいにもほどがある!そんな理論もなにもない芝居のやり方で、人に伝えられるか!』

    美咲『バカ?はあ!?バカって言ったわねアンタ!』

    竜『お前のことをバカといったわけじゃない!やり方がバカげていると言っているんだ!』

    これはどうしようもない。どうしたらいいんだろう。そんな空気が稽古場に立ち込める。その時。漣が大声をあげた。

    漣『いい加減にしてください!!…姉さん!竜さん!あなたたちはいつもそうだ。どちらも正しいことを言っているのに。どちらもちょっとだけ歩み寄ればいいだけの話じゃないか。僕は裏方の人間だ。舞台には立たない人間だ。・・・だけど!お互いに歩み寄れない人間に、僕は舞台に立ってほしくない!』

    静寂が稽古場を包んだ。その時間はおそらく数秒のはずだったが、劇団員にとってはどんな時間よりも長いように感じただろう。稽古場の外では、もうすぐ日が暮れようとしていた。静寂を見かねて、漣が口を開く。

    漣『・・・すみません、言いすぎました。ちょっと休憩しましょう。僕も頭を冷やしてきます。』

    紫『そ、そうですね、休憩にしましょう。・・・竜さん。』

    竜『あ、ああ。どうしたんだ?』

    紫『この休憩の間に、僕の発声のどのあたりがおかしいのか教えてください。』

    竜『わかった。』

    紫『美咲さん。』

    美咲『ん?どうしたの?』

    紫『ありがとうございました。かばっていただいて。』

    美咲『別に、そんなんじゃないよ。…竜。ごめん、熱くなりすぎた。』

    竜『いや、俺のほうこそ言い過ぎた。』

    美咲『あたしたち、自分のことばっかり考えてて、裏方の人とか、他の役者のこととか考えられてなかったなあ。』

    竜『それについては、俺も同じ意見だ。…ちょっとだけ歩み寄る、か。簡単そうなのに、難しいな。』

    美咲『そうね。難しいなあ。』

    紫『ちょっとずつ、ちょっとずつでいいので、できるようになれればいいんじゃないでしょうか。前に、漣さん言ってました。『舞台は遠慮しない人間が強い。けど、それだけじゃない』って。』

    美咲『あいつが、そんなことを・・・そうね、そのとおりね。』

    竜『にしても、漣のあんな大きな声、初めて聞いた。』

    美咲『あたしも!』

    竜『漣もあんなに大きな声が出るのか…これはぜひ感情の研究対象に・・・』

    美咲『また始まっちゃったよ、竜の分析グセ。』

    紫『あ、あの。ちょっと漣さんの様子を見てきます。』

    紫は漣を追いかけて、稽古場の休憩スペースに向かった。
    漣はたそがれていた。言い過ぎてしまったと、1人で反省をしていた。

    漣『・・・はあ。』

    紫『漣さん!いた!』

    漣『え?やあ、紫くん。・・・ごめんね、さっきは。怒鳴っちゃって。』

    紫『いえ、そんな・・・それより。』

    漣『それより?』

    紫『怒ったときの漣さん、すごく素敵でした!・・・あ、えっと。それだけです!僕は戻りますね!』

    漣『はは、怒ったときが素敵、か。初めて言われた。本当に怒りたいのは、不甲斐ない自分自身なのになあ。』

    漣は唇を噛み締めた。そして拳を握りしめていた。本当なら自分だって舞台に立ちたい。けれど、身近にいる圧倒的な努力家の存在が、その気持ちを押し留めていた。もちろん、それは言い訳だと彼もわかっていた。漣は、自分自身のもどかしい気持ちと、いつも戦っていた。

    そして、季節もすっかり変わったある日。竜と美咲も近頃けんかをやめて、議論することが多くなったころのこと。紫の体に異変が起き始めた。

    稽古場の休憩スペースにて、紫は自身の右膝をさすっていた。

    紫『うーん、今日は特に痛いなあ。膝君。仲良くしようよ。』

    竜『おはよう。山田。あれ、膝なんてさすってどうした?痛いのか?』

    紫『竜さん。大丈夫です。』

    竜『無理はするなよ。もし、本当に痛むようだったら、病院に行くんだ。』

    紫『大丈夫です!僕は元気ですよ!』

    竜『・・・そうか。』

    紫『先に準備運動、始めちゃいますね!』

    竜『あ、おい!…本当に、大丈夫なのか。』

    若干だが紫の足取りが重いことを、竜は気になっていた。

    そして、稽古場にてその日の稽古が行われた。

    漣『さて、では今日も稽古をするよ。場面は、マリアンナとルードが口論の末もみ合いになるシーンだ。では…3、2、1・・・アクト』

    紫は、自分の右足が痛むことを気にしながら稽古に臨んでいた。

    紫『あなたか。私の主人をたぶらかす堕落の姫君というのは。』

    美咲は、いつもより表情が固い紫の様子に違和感を覚えていた。

    美咲『たぶらかすだなんて、そんな…私はナイトハルク様を愛しているのです!』

    漣『紫さん!ここで足を使って思いっきり地面を蹴って、迫力を出して!』

    紫『はい!黙れ!っ!い、痛・・・』

    竜『山田!おい、大丈夫か!!』

    美咲『紫ちゃん!』

    漣『紫さん!』

    稽古場に緊張が走る。劇団員は紫を心配して駆け寄った。

    紫『だ、大丈夫です。』

    竜『この痛がりようで大丈夫なわけがあるか!』

    美咲『ズボン、膝までめくるわよ?』

    漣『右膝が腫れてる!』

    竜『救急車を呼ぼう!』

    美咲『そうね!』

    こうして、紫は救急車で運ばれた。

    医者によると、ひどいねんざのようで、完治にはしばらく時間がかかるとのことだった。

    そして翌日。稽古場にて。漣は今後のことを考えて、1人ため息をついていた。

    美咲『おはよう!漣。』

    漣『あ、姉さん…』

    美咲『どうしたの、暗い顔して…って、空元気だしてもしょうがないよね。』

    竜『さすがにこういう時は空気を読めるのな、お前も。』

    美咲『竜はいつもうるさいよ!…どうする?今回の舞台。』

    竜『脚本と演出をしている漣が座長だが・・・』

    漣『すみません。すぐには、切り替えられなくて。』

    美咲『代役を立てるにしても、本番まで1か月を切った今からだとちょっと・・・』

    劇団員が頭を悩ませているその時、稽古場の扉が開かれた。そこには、見知った顔があった。杖をつきながら、紫が立っていた。

    紫『僕の代役は、漣さんにお願いしたいです。』

    漣『紫君!』

    美咲『紫ちゃん!』

    竜『もう大丈夫・・・なわけないよな、松葉杖をついてここまで来たのか。』

    紫『杖をつきながらなら歩けますけど、これじゃ稽古はできないですね。…だったら、ぜひ漣さんに僕の代役をお願いしたいです!』

    漣『僕は、あくまで裏方だよ・・・今から稽古をしても、とても。』

    紫『できますよ、漣さんなら。今までずっと、ずっと僕たちの演技を指導しておられます。ずっと芝居のことを見ておられる。騎士の従者であるルードは、そういう人だからこそできる役だと思うんです。』

    漣『で、でも・・・』

    紫『『舞台は、遠慮しない人間が強い』んでしょ?漣さんは、今まで遠慮していた。でも今は、もう遠慮しなくていいと思うんです。・・・お願いします!』

    漣『そうか・・・そうだね。』

    美咲『やってみようよ!漣。』

    竜『それしか方法がないだろう。漣。』

    漣『2人とも・・・うん。わかった。どこまでできるかわからないけど、やってみるよ。』

    こうして、残りの稽古期間は紫の代わりに漣の稽古を中心に行うことになった。

    美咲『漣!もうちょっと声張るとここは伝わりやすいと思うよ!』

    漣『うん!』

    竜『漣!そのセリフはもう半歩前に出ると目立ちやすい!』

    漣『はい!』

    全員の驚くほどの集中力もあり、稽古は順調に進んだ。そして、迎えた舞台本番の日。
    舞台が始まる直前。

    竜『今日は舞台本番だな。・・・いよいよ、この日が来たな。』

    美咲『今回はどうなるかと思ったな。』

    漣『・・・』

    美咲『漣!どんだけ緊張してるの、よ!!』

    漣『うわあ、姉さん!背中をたたかないでよ。』

    竜『緊張をほぐすための手段だろ。少々荒っぽいが、効果的なやり方かもな。』

    紫『応援してます!!』

    美咲『なにいってるの、紫ちゃん!あなたも、舞台の一員でしょ!』

    竜『そうだ、誰一人として欠けてはいけないメンバーだ。』

    紫『・・そうですね。漣さん。』

    漣『ん?なんだい?』

    紫『がんばってください!』

    漣『…ありがとう。』

    紫『(あの時とは違う光景、自分ができなかったことはたくさんある。けど、僕はここからだ。)・・・準備はいいですか?』

    竜『いつでも。』

    美咲『オッケーだよ!』

    漣『はい!』

    紫『開演まで、3,2,1・・・』

    緞帳がゆっくりと上がった。

    漣『斯くして舞台は幕を開ける!』

    2幕 幕間を上げろ若人よ。


    気持ちを落ち着かせ、深呼吸をする。けれど、どれだけ深呼吸をしたところで手の震えは止まらない。それが舞台というものだ。
    山田紫。とある劇団のメンバーである彼の初舞台は、ただ見ているだけだった。その時間と景色は、昔観客として見ていたころと変わらないはずなのに。とてつもなく長かった。
    話は天の双子座定期公演の最終日までさかのぼる。舞台「乙女座の騎士」上演中のことだった。
    場面は、クライマックスのころである。

    漣(ルード)『ナイトハルク様・・・どうか、どうか!その剣で私の首をおはねください!』

    竜(ナイトハルク)『ルード・・・それはできぬ。』

    漣(ルード)『なぜですか?私のせいで、マリアンナ様は・・・私はこれ以上、醜い姿をさらしてまで生きたいとは思えません!』

    竜(ナイトハルク)『それは生ある者の言葉だ、ルード。・・・死んでいったものは、どんなに言葉を重ねても、もう生き返ることはできない。決して、だ。』

    漣(ルード)『ナイトハルク様・・・そんな。』

    竜(ナイトハルク)『ルード。お前はその罪を忘れず生きよ。すべての罪は、私のものとする。・・・それが騎士の最後の勤めだ。・・・さらばだ、ルード。』

    漣(ルード)『ナイトハルク様!なぜ・・・なぜ私をおいていくのですか。貴方様まで・・・私は、なんのためにマリアンナ王女を・・・この乙女座の従騎士。生きて恥をさらしましょう。民に石を投げられても。つばをはきかけられても。それでも・・・私は生きます。ナイトハルク様。』

    天の双子座の舞台は大盛況だった。乙女座の騎士ルードは、皮肉なことに国や民衆に認められ、聖騎士の称号まで与えられ、後世に名を残すことになったという。
    一方、その主人であった元騎士ナイトハルクは、王族殺しの罪の元、極刑に処された。彼の名前は騎士団から除名され、侮蔑の対象となった。
    公演は大きなトラブルもなく、無事に終演した。そして、劇団の楽屋にての出来事である。

    美咲『いやあ〜〜本当にいい舞台だったね。・・・すっごい疲れたけど。汗びっしょりだあ。』

    紫『美咲さん、おつかれさまです。最高の舞台でしたね!』

    美咲『あ、紫ちゃん!おつかれさま!裏方の仕事、大変じゃなかった?まだ足痛むんでしょ?』

    紫『あはは、たしかにまだちょっと痛みますけど、もう杖がなくても歩けますし、大丈夫ですよ。』

    美咲『そう?それならよかった!・・・それにしても竜と漣、遅いなあ。まだ片付けとか残ってたかな?』

    紫『いえ、もうやることはなかったはずですが・・・あ、帰ってきたんじゃないですか?』

    楽屋の入口で、2人の声がした。

    漣『ーー竜さん、これは間違いなくみんなにとってチャンスだよ。前向きに考えて。』

    竜『あ、ああ・・・そうだな。』

    美咲『2人とも、おかえりー!・・・ん?どしたの?なんか疲れてる?』

    漣『あ、姉さん。実はね。』

    竜『いや、漣。今する話じゃないだろう。今日は全員が疲れている。また明日以降に話すのが効率的な話し合いになる。』

    漣『・・・たしかにそれもそうか。あ、差し入れでチョコレートもらったんだ。姉さんも、紫くんもよかったら食べてよ。』

    紫『あ、ありがとうございます。・・・っうま!』

    美咲『えー、これめっちゃ高いチョコじゃない?たしか、本店が海外のどっかにあるとかのお店の・・・』

    竜『フランスの店な。それくらい覚えておけ。・・・えっと、おバカさん。』

    美咲『え、なに?竜、気持ち悪い。なんで普通にバカって言わないの?』

    竜『な!気持ち悪いとはなんだ!』

    漣『姉さん、竜さんも前に姉さんにバカって言っちゃったこと気にしてるんだよ。』

    竜『おい!漣!それは秘密だと・・・』

    紫『・・・竜さん。気にしてたんだ。』

    美咲『え〜〜、いいよ。気にしなくていいのに。そんなよそよそしい言い方の竜、張り合いがないから。』

    竜『いつもお前の方から喧嘩をふっかけてくるくせにな。』

    紫『あ、始まった。痴話喧嘩。』

    漣『仲良しでなによりだねえ。・・・紫くん、この隙に僕らでチョコレート食べちゃおうか。』

    紫『あ、じゃあもう一個いただきます。』

    美咲『ああーー!漣!ずるい!!』

    竜『俺達の分も残しておけ!』

    漣『あはは、じゃあ、打ち上げに行こうか。』

    楽しい時間。時折緊張感はあるものの、笑いが絶えない空間。この空間がなによりも好きで、居心地がよいと紫は感じていた。彼はそんな時間がずっと続くと思っていた。
    しかし、それから数日経ったある日。ミーティングの時間で、漣はあることを劇団員に伝えた。

    美咲『・・・漣。今、なんて言ったの?』

    紫『・・・え、嘘ですよね?』

    漣『姉さん、紫くん。どうか落ち着いて聞いてほしい。何度だって説明するから。』

    竜『漣。いや、いい。説明は俺からする。・・・俺は、1ヶ月後から海外に留学する。』

    美咲『・・・期間は?』

    竜『え?』

    美咲『あたしはバカだからさ。留学って、よくわかんなくて。ほら。すぐ帰ってくるんでしょ。2週間とか。そんなもんだよね?』

    竜『いや・・・それは・・・おそらく1年以上の長期留学になるという話だ。』

    紫『そもそも、なんでそんな話になったんですか?僕たち、今までなにも聞いてないですよ!』

    漣『最終公演の楽屋で、みんなでチョコレートを食べただろう?あれを持ってきてくれた人、海外から日本に演劇の講師として来ている大学の教授さんなんだ。その人が、竜さんの芝居を見て「ダイヤの原石がいる」って思ったんだって。』

    美咲『ダイヤの原石・・・』

    竜『俺としては、正直この上ないチャンスだと思っている。この留学を通して、俺がより役者として成長できれば、帰ってきたときにみんなに還元できるものも大きいはずだ。・・・悩んだが、どうか理解してほしい。』

    紫『・・・僕は反対です。』

    漣『理由を、聞かせてもらえるかな?』

    紫『今この劇団・・・「天の双子座」には主役ができるような人、竜さん以外いません!そんな貴重な戦力を、長期的に失うことは損失だと思います!それに・・・』

    漣『それに?』

    紫『僕はまだ、竜さんから教わりたいことがたくさんあります!!演技のこと、発声のこと、滑舌のこと!役者として僕はまだまだ足りないことばかりです!だから・・・行かないでほしいです。』

    竜『・・・そうか。その点なら大丈夫だ。留学前に残された時間で、俺がみっちり』
    紫『やめてくださいよ!残された時間なんて・・・もう会えないみたいじゃないですか!!』

    漣『紫くん・・・』

    紫『僕、うれしかったんです。竜さんから教わることが。自分を成長させてくれる人がいてくれることが!・・・美咲さんも、きっと行ってほしくないはずです。ねえ?』

    美咲『・・・なに言ってんの、紫ちゃん。私は竜の決めたことを応援するよ。』

    紫『え・・・』

    美咲『これは竜にとってすっごい大きなチャンスなの。だから、私は留学に賛成。・・・ごめん、ちょっと喉乾いちゃったから!外の自販機で水買ってくるね!』

    紫『あ、ちょっと!美咲さん、話はまだーー』

    漣『・・・やれやれ。姉さん、素直じゃないんだから。』

    竜『・・・俺も、なにか言ったほうがいいんだろうか。』

    漣『そうだねえ。そりゃ、ここでさみしいとか悲しいとか言ったほうが、舞台の脚本としては面白いとは思うよ。僕は脚本を書くから、よくわかる。・・・けど、竜さんは言わないでしょ。』

    竜『・・・ああ。美咲。あいつ泣いてるからな。人が人のために涙を流しているときに、余計な言葉をかけるのは・・・』

    漣『無粋、だね。・・・竜さん。僕だってさみしいよ。・・・ティッシュ使う?涙で目がすごいことになってるよ。』

    紫は美咲を追いかけ、稽古場の外にある自販機まで駆けていった。

    竜『ああ。・・・ありがとう。漣。これからの劇団を。美咲を、頼む。』

    美咲『うっはー、自販機も高くなったねえ。水が昔より50円以上値上がりしてるよー。』

    紫『美咲さん!・・・いた。水はあとにして、ミーティングに戻りましょうよ。このままじゃ、竜さんが海外に行っちゃいますよ!』

    美咲『あ、紫ちゃーん。なんか飲む?おごるよ。』

    紫『今はそれどころじゃないでしょ!こっち向いて話聞いてーーって。』

    美咲『ねえ、紫ちゃん。あたしがこの劇団に入ったのってもう6年前なんだ。』

    紫『美咲さん、泣いて・・・』

    美咲『入ったばかりのあたしは調子に乗っててさあ。おっきな声出して、でっかく動いて。お客さんを楽しませることが楽しかった。あたしは他のやつには負けないって自信があったんだ。』

    紫『・・・』

    美咲『でも、そんなあたしにさ、噛み付いてくるやつがいて。「お前はぜんぜん基礎がなってない」って。メガネかけて、背の高いやつ。あたしより目立たないのに、確実に結果を残してくるやつ。なにかにかけて、張り合ってくるやつ。』

    紫『それって・・・』

    一方その頃。稽古場では竜と漣が話していた。

    竜『紫と美咲はまだもどらないのか。』

    漣『うん。そうだね。でも大丈夫だと思うよ。あの2人なら。・・・ねえ、竜さん。覚えてる?僕らがこの劇団に入った頃。』

    竜『ああ、覚えているよ。俺より声が大きくて、動きがでたらめででかいやつ。とにかく目立つやつ。なにかと俺に張り合ってくるやつ。橘 美咲はそんなやつだったな。』

    思い出とは、なによりも人を成長させるものだ。

    美咲『唐立 竜は、そんなやつだったよ。』

    紫『・・・そう、ですね。それから、2人は・・・』

    美咲『うん。ねえ、紫ちゃん。ちょっとだけ、背中貸してくれない?独り言いうから。』

    紫『・・・はい。』

    美咲『ありがと・・・行ってほしくないよ。』

    紫『美咲さん・・・』

    美咲『不安なんだ。私の人生で最高の相棒がいなくなっちゃったら、私はどうなっちゃうんだろう。・・・さみしいよ。かなしいよ。・・・行ってほしくないよ。』

    紫『美咲、さん。』

    美咲『・・・・・・・・ありがと。紫ちゃん。あーあ。まさかこんなに晴れてるのに、雨で顔だけ濡れるなんてなあ。稽古場戻ったら顔洗わないとね。』

    紫『美咲さん。・・・どうして、竜さんにそれを言わないんですか。』

    美咲『あたしがそんな甘いこと言ったら、あいつが困っちゃうでしょ。・・・だから言わないよ。絶対。・・・わかって。』

    紫『この人たちは、不器用だ。舞台の上ではあれだけ巧みに言葉を操るのに。現実ではどうしてこんなに言葉を紡ぐことが難しいのだろうか。』

    紫『・・・わかりました。』

    美咲『じゃあね、先に稽古場に戻ってるね。』

    紫は自分を恥じた。自分よりもこんなにも辛い思いをしている人がいるのに。自分の都合ばかり考えた発言をしてしまったと。・・・なんて情けないんだろうか。そんな感情がこみあげていた。

    紫『・・・やってやる。やってやるぞ。』

    漣『あ、姉さん。おかえり。・・・顔、ふいてきた?』

    美咲『漣、おまたせ!稽古はじめよっか。』

    竜『美咲。おかえり。・・・あれ、紫はーーー』

    紫『竜さん!!!』

    竜『む、紫?どうしたんだ、そんなに大きな声を出して。』

    紫『行ってください。フランスへ。そして、そして・・・大きくなって帰ってきてください!』

    竜『っ!』

    紫『僕、役者としてまだまだ未熟だし、若造だし、知らないことばっかりだけど。・・・本当はめちゃくちゃさみしいです!けど!竜さんがフランスから帰ってくるまでに!ここで主役を獲れるくらいに大きくなります!』

    美咲『紫ちゃん・・・』

    竜『・・・ありがとう。紫。応援してくれるんだな。』

    紫『はい!けど、その前に。僕に芝居のこと、教えてください!』

    竜『・・・わかった。ビシビシ行くからな。』

    紫『はい!』

    漣『・・・姉さん。』

    美咲『なに?漣。』

    漣『僕まで泣きそうだよ。・・・いい新人だね。紫くんは。』

    美咲『もう新人じゃないよ。一人の役者だよ。・・・あたしも負けてらんないなあ。よし!みんな!準備運動を始めるよ!!』

    それからの稽古は、本当に中身の濃いものだった。』
    お互いの役者として今の強みと、不足しているものを十分に理解し、成長と補完に明け暮れた日々だった。
    そして、迎えた旅立ちの日当日。空港ロビーにて。
    劇団の面々は、竜の見送りに来ていた。紫はそこで、号泣していた。

    漣『む、紫くん!他の人の目もあるから、泣くのはいいけど、せめて声は抑えて。』

    美咲『あはは、紫ちゃん。ハンカチ使う?』

    紫『はい・・・』

    竜『そろそろ出発の時間だな。・・・最後に、みんなにはこれを渡しておこう。』

    漣『ん?なにこのノート?・・・「竜ノート」?』

    竜『俺がこれまで培ってきた知識と技術、そしてこれからみんながどんな稽古を積めば良いか。1年分の練習メニューを書いておいた。』

    美咲『食事のメニューまで。・・・すごっ。』

    漣『これ・・・いつ作ったの?』

    竜『留学に行くと決まってから、コツコツと作っておいた。劇団員全員分ある。どうか役立ててくれ。・・・ほら。紫も。』

    紫『ばびごとうごぜいます(ありがとうございます)』

    言葉にならない言葉を紫はこぼした。

    竜『そう泣くな。・・・またな。』

    漣『ありがとう、竜さん。僕から劇団を代表しての餞別だよ。竜さんが好きな日本茶と・・・ほら、姉さん。』

    美咲『う、うん。・・・竜。これ。』

    竜『これは・・・チョコレートか?』

    美咲『前にもらった、高い店のチョコレートみたいに美味しくないだろうけど・・・フランスに着くまで、フライトの時間長いでしょ。おなかすいたら、食べて。』

    竜『ありがとうな。・・・相棒。』

    美咲『・・・竜。うう・・・なんで今それ言うの・・・さみしい、さみしいよ。けど、相棒。・・・行ってらっしゃい。』

    竜『ありがとう。・・・行ってきます。』

    紫『・・・やっと素直になれたんですね。美咲さん。』

    漣『そうだね。もっと早くに言うことができればいいんだけど・・・役者は不器用だからね。』

    紫『どういう意味ですか?』

    漣『役者は芝居でしか語ることができないってこと。僕の持論だけどね。』

    美咲『・・・またね、竜。』

    人生の幕はまだ始まったばかりだ。その緞帳(どんちょう)が下りるのは、きっと彼らが舞台の上で動けなくなるときだろう。
    その最期の時が来るその一瞬まで、彼らは舞台に立ち続ける。
    幕間をあげろ若人よ。

    3幕 役者よ、再び演劇を歩いてゆけ


    芝居とは。こんなにも違うものかと、壁にぶつかった。どうしたらいいのか考えたが、彼にはわからなかった。これからどうすればいいのか、彼は一人で悩んでいた。

    1年後、劇団「天の双子座」稽古場にて。漣は電話で竜と話していた。

    漣『・・・そう。1年間おつかれさま。竜さん。帰国はいつになるの?・・・3日後か。わかった。みんなで迎えに行くよ。・・・遠慮しないでよ。じゃあね。帰り道、気をつけてね。』

    美咲『竜、なんて言ってた?』

    漣『3日後にあっちから帰るってさ。みんなで迎えに行くって伝えたら、遠慮してたよ。』

    美咲『そんなこと遠慮しなくていいのに。だって、1年ぶりだよ?みんな会いたがってるのに。』

    漣『ふふ。一番竜さんに会いたがっているのは姉さんでしょ。』

    美咲『うるさいよ、漣。・・・あれ、紫ちゃんは?』

    漣『えっと、たしかランニングに行くって言ってたかな。』

    美咲『また?本当に熱心だよね、あの子。』

    漣『僕らも見習わないとね。・・・紫くんが帰るまでに、僕らもトレーニングしようか。』

    美咲『はーい。』

    紫『はあ・・・はあ・・・』

    舞台本番の前に怪我をしてからというもの、紫は定期的にトレーニングをしている。もう二度とあんな悔しい思いをしないために。そのためには、膝の古傷の調子を見ながら筋力を維持することが大切だと思い、彼は努力を継続している。

    紫『ふう・・・ちょっと遠くまで走りすぎたかな。そろそろ休憩するかあ・・・あ、飛行機雲だ。・・・竜さんが海外に行っちゃって、あれから1年か。そろそろ帰ってくるのかな。』

    一筋の飛行機雲が、紫の遥か頭上を通り過ぎていた。
    そして、3日後。竜が帰国する日当日。劇団員たちは竜を空港まで迎えに行った。

    美咲『ねえ、漣。竜はまだ来ないの?』

    漣『姉さん、慌てなくっても大丈夫だって。飛行機が着いたのは見えたでしょ。』

    紫『それにしても、遅いですね。竜さんの性格からして、待ち合わせ時間にはきっちり間に合うように来ると思うんですけど。』

    美咲『・・・あ、来た!!!竜!!!おーい!!!』

    美咲は1年ぶりの竜の姿を見て、ぶんぶんと手を振った。

    竜『・・・あ、ああ。ただいま。』

    美咲『久しぶり、相棒!!元気だった?髪がけっこう伸びたんじゃない?背も伸びた?』

    竜『・・・ああ。そうだな。』

    美咲『って。どうしたのよ。いつもならすっごい勢いで私につっかかかってくるのに。』

    漣『姉さん。竜さんはつかれてるんだよ。飛行機のフライトだって長いんだし。ね、竜さん?』

    竜『ああ。』

    紫『竜さん。お久しぶりです!』

    竜『ああ。久しぶり。』

    漣『?竜さん、大丈夫?』

    竜『・・・大丈夫だ。ちょっと、時差ボケでな。頭がふらつくだけだ。』

    美咲『なんだあ。早くいつもの調子取り戻してよね。さて、いきましょ!』

    竜『あ、おい!引っ張るな!』

    紫『あはは。美咲さん、うれしそう。』

    漣『うーん・・・』

    紫『漣さん、難しい顔してどうしたんですか?』

    漣『いやあ、これは重症だなあとね。』

    紫『え?』

    漣『なんでもないよ。あとで話すね。・・・竜さんの帰還を祝って、今日はお寿司をとってあるんだ。稽古場に戻ろう。』

    紫『お寿司!!いいですね!!行きましょう!!』

    紫と漣は、先に空港の出口へ向かった美咲と竜を追いかけていった。美咲は、竜の腕を引っ張る形で歩いていた。

    美咲『竜!こっちだよー!』

    竜『おい、引っ張るな!怪力め!』

    美咲『竜。』

    竜『なんだ?』

    美咲『なんか、あったんでしょ。』

    竜『・・・え。』

    美咲『顔に書いてあるもん。』

    竜『なんで、わかったんだ。』

    美咲『わかるよ。・・・相棒じゃん。私たち。』

    竜『・・・そうか。まあ、いろいろとな。あったよ。』

    美咲『ん。とりあえず、稽古場に行こうよ。今日は漣がお寿司をとってくれてるからさ!』

    竜『寿司か。・・・ずいぶんと長い間食べてないな。』

    美咲『そうでしょ。とりあえず、話はあとで聞くからさ。』

    竜『・・・ああ。たち、いや・・・美咲。』

    美咲『ん?』

    竜『ありがとう。』

    美咲『いーよ。相棒。』

    そうして、一行は竜を連れて稽古場へと戻った。
    そして、稽古場では漣が注文した寿司がテーブルの上に並べられ、劇団員のメンバーは各々席についた。

    漣『みんな、各自飲み物は持ったかい?・・・それじゃあ。我らがエース、唐立 竜(からたち りゅう)の帰還をお祝いして・・・乾杯!!』

    紫・美咲『乾杯!』

    美咲『ごくごく・・・はあ~~美味しいね、このお酒。』

    紫『竜さんからのお土産のワインでしたっけ?一口だけいただこうかな・・・』

    竜『紫。あんまりお酒強くなかったんじゃないか?無理しなくていいからな。』

    紫『大丈夫ですよ!自分の限界くらい、知ってますから!』

    竜『そうか。・・・限界、か。』

    漣『さあ、竜さん。向こうじゃなかなかお寿司なんか食べられなかったでしょ。遠慮せず食べてよ。』

    竜『・・・ああ。いただきます。美味いな。

    美咲『よかった!』

    竜『・・・俺は、あっちで限界を見たよ。』

    漣『竜さん?どうしたの?』

    竜『向こうとこっちでは、まるで世界が別だった。・・・住んでいる世界が、違った。』

    漣『・・・そうなんだね。』

    竜『もちろん、言語の壁も大きかった。だが、それ以上に・・・芝居というもの。芸術というものに対する熱意や考え方が、根本から違った。』

    漣『・・・うん。』

    竜『知ってたか?向こうでは、役者を目指す人に対して国が支援する制度があるんだ。そういう土地柄や、芸術というものを重視する取り組みなんかも・・・外国人である俺には、あまりに巨大な壁だった。』

    美咲『竜。もういいよ。』

    竜『俺がこの1年間で舞台に関わることができたのは、たった1回だけだった。その1回の機会すら、俺は活かすことができなかった。・・・俺は、何をしにわざわざ留学を』

    紫『なに言ってるんですか!』

    漣『紫くん!?』

    紫『竜さん!なに弱気になってるんですか!立ってくださいよ!そんなに縮こまっている竜さんなんて、僕は・・・僕は見たくなかった!』

    そう紫が強く言い放ったところで、美咲は紫をいさめるように軽くはたいた。

    紫『いたっ!』

    美咲『紫ちゃん、言いすぎだよ。』

    紫『・・・僕は。僕は間違ったことは言ってません!』

    紫は稽古場から立ち去った。

    竜『あ、おい・・・紫。』

    漣『やれやれ。これは重症だねえ。・・・紫くんは僕に任せて。姉さんと竜さんはちょっとここで待ってて。』

    美咲『・・・うん。』

    竜『すまん、みんな・・・すまない。』

    美咲『謝らなくていいから。涙拭きなよ。ティッシュ、使う?』

    紫は内心、しまったと思っていた。竜を励ましたかったのに。言葉を間違えてしまった。けれど、もう出てしまった言葉は止めることができず、後に引くことができなかった。彼は稽古場から離れて、休憩スペースに逃げるように駆け込んだ。
    そこへ、漣が現れた。

    漣『紫くん。』

    紫『あ・・・漣さん。』

    漣『間違えちゃったね。言ってることはあってたけど、伝え方を間違えてたよ。』

    紫『・・・わかってます。』

    漣『竜さんを励ましたかったんだろうけど、あれじゃ逆効果だよ。謝ってきなよ。』

    紫『・・・僕は、今の竜さんに会わせる顔がありません。』

    漣『なるほどね。本当に重症だ。・・・紫くん。』

    紫『なんでしょうか。』

    漣『僕は、今の君には舞台に立ってほしくない。次の舞台では、役は与えられない。』

    紫『えっ・・・なぜですか?』

    漣『「舞台は遠慮しない人間が強い。」僕は昔、そう言った。けれど、けれどね・・・それだけじゃない。でしょ?君はそれを一番わかっているはずだ。』

    紫『あ・・・』

    漣『たしかに君はこの短期間で役者としてすごく成長した。演技も見違えるほどに上達した。だけど、それだけじゃ僕は君を舞台に送り出す「役者」として信頼できない。』

    紫『・・・』

    漣『知ってる?役者ってのはね、「役をいただく者」と書くんだよ。「役をいただく」ためには何が必要なのか、もうちょっと考えてみるといいよ。』

    紫『・・・わかりました。』

    そして、たくさんの寿司が並んだテーブルの前。華やかな食卓とは裏腹に、大きく悲しいため息をついている人物がいた。

    竜『・・・はあ。』

    美咲『もう、湿っぽいため息ばっかりじゃん。それじゃ、せっかくのお酒とお寿司がもったいないよ。竜が食べないなら、私が食べちゃうよ?』

    竜『変わらないな。お前は。』

    美咲『ん?そりゃあね。私がいきなり変わったら、みんなびっくりしちゃうでしょ。』

    竜『俺にも、その度胸があればな。もう少し、あっちでも上手くやれたのかもしれない。』

    美咲『竜。もう過ぎたことなんだから。大丈夫だよ。』

    竜『だがーー』

    美咲『竜。』

    美咲は竜を抱き寄せた。

    竜『っ!美咲・・・』

    美咲『私は一緒に留学に行けてないからさ。竜のつらさも、苦労も。想像することしかできない。だけど、とんでもないプレッシャーとか、あったんじゃない?たぶんだけどね。』

    竜『っ・・・ああ、まあ、それなりにな。』

    美咲『竜は不器用だからさ。そういう苦労とかつらさとかを、誰にも相談できなかったんじゃない?「心配かけるから」とかさ。一丁前にさ。この、石頭!!』

    竜『おい、頭をなでるな!子どもじゃないんだから・・・』

    美咲『大丈夫、大丈夫だよ。・・・よく帰ってきてくれたね。竜。』

    竜『俺は、傷のなめあいがしたいんじゃないんだ・・・』

    美咲『傷のなめあいでも、なんでもいいよ。私は仲間が帰ってきてくれたことがうれしい。唯一の相棒が帰ってきてくれたことがうれしいんだ。・・・それじゃダメかな。』

    竜『・・・ありがとう。相棒。』

    紫『2人して何やってるんですか。ここ、稽古場なんですが。』

    美咲『わっ!紫ちゃん!』

    竜『別に変な意味じゃないぞ!』

    紫『わかってますよ。・・・竜さん。さっきはごめんなさい。言いすぎました。』

    竜『いや、いいんだ。・・・俺が不甲斐なかったからな。』

    紫『「私の指導は厳しいだろう。ルード。」』

    竜『それは・・・乙女座の騎士のナイトハルクのセリフか。』

    紫『はい。ナイトハルクは竜さんをイメージして書いたと漣さんが言っていました。彼の指導が厳しかったのは、ルードにどんなことがあっても生き残ってほしかったから。ルードの成長を願ってこそだった。』

    竜『・・・そうだったな。』

    紫『だから。僕は竜さんがどんなにへこたれていても、竜さんについていきます。これからも、よろしくお願いします。』

    竜『・・・だが、今の俺にそんな力は・・・』

    美咲『竜・・・』

    一同は、言葉につまった。その時、休憩スペースから戻ってきた座長が、言葉を発した。

    漣『稽古をしようか。みんな。』

    紫『漣さん!?』

    漣『僕たちは役者だ。芝居をすることでしか語ることができない。そういう存在だ。・・・芝居で語り合おうじゃないか。存分に。』

    美咲『いいねえ。何やる?せっかくだから、乙女座の騎士をやろっか!』

    紫『そうですね、乙女座の騎士なら、今でもセリフ覚えています!』

    漣『竜さんも、それでいいよね?ナイトハルク、いけるかい?』

    竜『あ、ああ。いける、が。』

    漣『よし、じゃあ、みんな準備してね!』

    竜はずっと、この舞台で自分になにができるかを考えていた。

    紫(シイラ)『ええ、みっちりと叩き込みましょう!』

    紫に対しては、このまっすぐな目を見るのが、いつしか怖く感じていた。あまりに純粋で、いつか遠くへ自分を置いて行ってしまうんじゃないかと。

    美咲(マリアンナ)『ナイトハルク。顔をあげなさい。』

    美咲については、この目立つ声を持ったこいつが。自分よりあきらかに優れた才能を持っている同期に、どこまでくらいついていけるのかが、不安だった。相棒と呼べるまですごく時間がかかった気がする。

    漣(ルード)『はい、どこまでもお供いたします!ナイトハルク様。』

    漣に対しては。いつも周りをみることに長けていることを感じていた。だからこそ彼は演技に遠慮してしまうことも多かったが、やはり上手い。竜自身も学ぶことも多い。さすが我らが座長だと。

    自分だけが立ち止まっている。竜はそう思い込んでいた。しかし、それは違う。みんなはたしかに進んでいる。自分はそれに乗り遅れただけだ。・・・ただ、それだけだ。ここで終わってたまるものか。と心を奮い立たせた。

    竜『よし、行くぞ!!』

    役者は、再び演劇を歩んでいくんだ。何度だって。何度立ち止まっても。また歩き出せばいいのである。

    そして、稽古をみっちり行い、日も暮れた時。劇団員のメンバーは休憩していた。

    美咲『はあ~~、ちょっと気合いいれすぎたね。つかれた・・・』

    紫『ほんとですね。僕も喉がカラカラです。』

    竜『どうしたみんな!このくらいで疲れていては、これからの稽古に苦戦するぞ!』

    漣『あはは、竜さんだけ元気だね。』

    竜『意外と留学の効果が出ているのかもな。それに・・・』

    漣『それに?』

    竜『立ち止まっている時間は、終わったからな。』

    美咲『よーし!稽古の続きしよっか!』

    紫『はい!!いつでもいけます!』

    たとえ一度立ち止まったとしても、再び歩いていけばいいのである。「演劇の世界」を。

    おしまい。


    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門

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