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Photo bydara_lab

今日だけの人

    「今日の自分、なんだか嫌な奴だったな。」

    そう思って落ち込む日は、決まって思い出す人がいる。

    大学生のころ、私は試食販売のアルバイトをしていた。

    派遣会社に登録していたので、現場は毎回違う。

    売る商品も違えば、一緒に働く人も違う。お客さんも違う。

    毎週違うスーパーへ行き、毎週違う「今日だけの人」と会っていた。

    ある夏の日。

    京都のスーパーで野菜を売っていた。

    アスパラだったか、枝豆だったか。

    そこは正直、もう曖昧である。

    人間、野菜は忘れる。

    でも、人は忘れない。

    午前中の店内はまだ静かだった。

    冷房がよく効いていて、「カイロという文明を持参すべきだった」と後悔しながら立っていると、一人の女性が近づいてきた。

    五十代くらい。

    水色のワンピースに、肩につくくらいの髪。

    背筋は定規でも入っているのかと思うくらい真っすぐで、

    マナー講師役でドラマに出てきても誰も疑わないくらい、凛としていた。

    開口一番、そのご婦人は聞いた。

    「この野菜、どこの土で育てているの?」

    ――つち!

    頭の中で、そう叫んだ。

    そこから質問が止まらなくなった。

    栽培方法。

    収穫時期。

    肥料。

    次から次へと飛んでくる。

    もちろん答えられない。

    私は農家ではない。

    派遣で来た試食販売員である。

    メーカーから送られてきた資料に書いてある以上のことは、きれいさっぱり分からない。

    困っている私を見て、その人は言った。

    「もしかして、空輸?」

    「……くうゆ?」

    私はそのまま聞き返した。

    人は分からない言葉を聞くと、とりあえずオウム返しにしてしまうらしい。

    人気のない店内に、奇妙なリピートアフタミーだけがこだまする。

    英会話なら満点だが、日本語の会話としては一ミリも前に進んでいない。

    女性は大きくため息をつき、私の頭の先から足先までゆっくり眺めた。

    まるで野菜ではなく、私の鮮度を確認しているようだった。

    「そんなことも知らないの?」

    ご婦人はそう言い残して去っていった。

    心の中の私は、その場で膝を抱えて泣いていた。

    「帰りたい!」

    四文字なのに、胃のあたりまでちゃんと重い。

    人生には、「今日はもう何をやってもだめな日です」と、

    誰かに宣告されたような日がある。

    この日が、まさにそうだった。

    でも、この仕事をしていると、こういう日は案外珍しくない。

    落ち込んでいても、お客さんは次々やって来る。

    このままでは午後まで気持ちがもたない。

    そう思った私は、自分を励ますことにした。

    「あと二時間で休憩。」

    「お昼はビッグマックにしよう。」

    「ポテトもLサイズにしよう。」

    やけ食いという予定を立てると、人は少しだけ前を向ける。

    ……そのときだった。

    体感では三分も経っていなかったと思う。

    さっきの女性が戻ってきた。

    でも、何かがおかしい。

    サングラスをかけている。

    首にはスカーフ。

    服は同じ。

    身長も同じ。

    そして何より、すれ違うだけで「あ、この人だ」と分かる香水も同じだった。

    なぜか少しだけイメチェンしたさっきのご婦人は、

    さっきより少し高い声で言った。

    「あのね。この野菜はね。」

    今度は嬉しそうに、栽培方法やおすすめの食べ方を教えてくれる。

    数分前まで口頭試問だったのに、急に料理教室が始まった。

    店内の冷房より、その温度差のほうがよほど大きかった。

    最後は笑顔で、

    「じゃあね。」

    と言って帰っていった。

    私はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。

    あの数分のあいだに、何があったのだろう。

    今でも分からない。

    でも、この出来事以来、人を一場面だけで判断することは少なくなった。

    人は、数分で驚くほど変わる。

    今日だけ優しい人もいる。

    今日だけ機嫌の悪い人もいる。

    いや、「今日だけ」ですら長いのかもしれない。

    数分前と数分後で、人は別人みたいになることがある。

    だから私は、その一瞬だけで、その人の全部を決めつけることをやめた。

    自分のことも同じだ。

    今日の失敗だけで、昨日までの自分を全部なかったことにしなくてもいい。

    数分後には、少しだけ違う景色が見えていることもある。


     
     
    無資格・未経験で日本語講師を始めたアラサーOL。トライアル6連敗から今ではレッスンキャンセル待ちに。これから日本語講師を目指す方に向けて再現性の高い情報や裏技を発信しています。 一緒に学び、成長していきましょう🍀

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