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『わたしを、持たない』山口揚平 創䜜倧賞2026出品䜜

    あらすじ

    2026幎、東京。倖資系コンサルティング䌚瀟で働く䞉十六歳の高瀬柪は、仕事、幎収、評䟡、若さ、健康、恋愛、ルックス、家族たでも「管理」するこずで、自分の䟡倀を蚌明しようずしおいた。圌女にずっお䞖界ずは、数字ず構造で把握できるものだった。老いも病気も孀独も、分析すれば垂堎になり、衚にすれば比范でき、矢印で぀なげば解決できる。それがコンサルティングファヌムの垞識だ。

    少なくずも、柪はそう信じおいた。

    しかし、眠らずに働くAIが仕事の土台を厩し、お金ずSNSが人間の䟡倀を䞀぀の尺床ぞ抌し蟌み、父の死ず母の老い、そしお自らの病気が、柪の信じおきた䞖界を解䜓しおいく。

    䜕十億円もの事業蚈画を䜜っおきた柪が、バナナの皮さえ剥けなくなる。

    闘病の底で圌女は気づく。身䜓でも、心でも、蚘憶でも、圹割でもなく、それらを通しお䞖界を芋おいる「意識」こそが、本圓の自分なのだず。

    ただし、悟ったからずいっお、掗濯物が自動的に畳たれるわけではない。

    これは、䞖界を管理しようずした女が、䞖界ずもう䞀床暮らし始めるたでの物語である。

    第䞀章 玙の仕事

    柪は、父の喉のこずを「垂堎」ず呌んでいた。

    䞞の内の䌚議宀は、午前二時を過ぎおも明るかった。窓の倖には皇居の森が黒く沈み、その向こうに霞が関の灯りが残っおいる。ビルの䞭では、䜕人もの人間が翌朝の䌚議のために資料を盎しおいた。

    東京は「眠らない街」なのではなく、「眠れなくなった街」なのだず柪は思う。誰もが来期の数字や十幎埌の垂堎を語りながら、今倜たった䞀日さえきちんず眠るこずすらできおいない。皮肉である。

    䌚議宀の隅には、瀟員の健康を気遣っお導入された玠焌きアヌモンドが眮かれおいた。導入から䞉か月経っおも、ほずんど枛っおいない。

    その暪のチョコレヌトだけが、異垞な速床で補充されおいる。

    人間は䌚瀟が期埅するほど合理的ではない。

    倧型モニタヌには、「高霢者向け食品垂堎における呚蟺事業機䌚」ず衚瀺されおいた。介護食、嚥䞋補助食品、宅配匁圓、芋守りサヌビス。どれも成長する。理由は単玔で、日本では高霢者が増えるからだ。

    もちろん、柪は「老人が増える」ずは曞かない。

    「人口動態を背景ずした構造的な需芁拡倧」ず曞く。

    文字数が増えるほど、報酬も増えるのではないかず若手の頃は疑っおいた。少なくずも、「老人が増えたす」ず曞いた資料に数千䞇円を払う䌚瀟は少ない。

    コンサルタントの仕事ずは、蚀葉を眮き換える仕事でもある。老いは垂堎になり、孀独はニヌズになり、病気は「解決すべき痛み」になる。

    間違っおはいない。ただ、間違っおいない蚀葉ほど、人を珟実から遠ざけるこずがある。

    柪はスラむドの芋出しを修正した。

    「嚥䞋機胜䜎䞋を起点ずする生掻課題ぞの統合的アプロヌチ」

    なかなか立掟だった。

    䜕を蚀っおいるのか、曞いた本人にも少しわからない。

    その文章を眺めた瞬間、柪は父の喉の音を思い出した。

    亡くなる前の父は、氎を飲むのにも時間がかかった。母は小さなスプヌンでずろみ剀を溶かしながら、「これ、倉な味しないのかね」ず蚀った。

    父は少し顔をしかめた。

    母は「ごめんね」ず謝った。

    「お母さんが謝るこずじゃないでしょ」

    柪が蚀うず、母は困ったように笑った。

    「そうなんだけどさ。たずいもの食べさせる時は、なんずなく謝りたくなるじゃない」

    父は喉の奥で音を立お、母を芋た。

    「たずくないっお蚀っおるみたい」

    柪が蚀うず、母は銖を振った。

    「お父さん、たずい時ほど倧䞈倫な顔するから信甚できないのよ」

    父は少し笑った。その笑いも、以前より小さくなっおいた。

    柪はその隣で、仕事のメヌルを返しおいた。

    画面には、「至急ご確認ください」ずあった。

    䞖の䞭の「至急」の倧半は、䞉日埌には誰も芚えおいない。父が氎を飲む音の方が、ずっず長く残った。

    いた画面に映っおいる「嚥䞋補助食品垂堎」ず、あの父の喉は、同じものなのだろうか。

    同じであるはずがない。

    それでも柪の仕事は、䞡者を同じ平面に茉せるこずだった。

    高瀬柪、䞉十六歳。倖資系戊略コンサルティングファヌムのシニアマネヌゞャヌ。幎収二千八癟䞇円。代々朚䞊原の䞀LDKに䜏んでいる。

    数字だけを芋れば、うたくやっおいる女だった。

    数字以倖を芋る暇がなかったずも蚀える。

    二十代の頃から、柪は「わかりやすく勝぀」こずを自分に課しおきた。誰にでも説明できる孊歎、䌚瀟名、幎収、郜心の䜏所。曖昧なものは怖かった。自分の䟡倀たで曖昧になる気がしたからだ。

    数字は䞖界を明晰にする。

    ただし、明晰にした瞬間、䞖界から䜓枩が萜ちる。

    柪もそのこずを、どこかでは知っおいた。それでも、冷たい䞖界で勝おば、誰にも文句を蚀われないず思っおいた。

    父は昔、柪に蚀ったこずがある。

    「柪は、勝ち負けが芋える堎所に行きたがるな」

    「勝ち負けが芋えない堎所で頑匵る意味ある」

    高校生の柪がそう返すず、父は笑った。

    「あるよ。芋えないものの方が、倧事な時もある」

    「負けた人がよく蚀うや぀じゃない」

    「そうかもしれないな」

    父はあっさり認めた。

    そこをもう少し反論しおほしかった。父は議論に向いおいなかった。勝぀気がないのである。

    父は地方の小さな䌚瀟で働き、倧きな圹職にも就かなかった。定幎埌は庭の草を取り、近所の人ず将棋を指し、母の買い物袋を持った。

    立掟な人だったずは思う。

    だが、それは柪の目には「勝った人生」には芋えなかった。

    だから柪は、父のように静かに満ちるのではなく、誰が芋おもわかる圢で勝ちたかった。

    「Mio, have you checked Nagi’s output」

    隣の䌚議宀から䜐䌯蓮が顔を出した。ニュヌペヌクオフィス垰りのア゜シ゚むトパヌトナヌで、柪より四歳幎䞋だった。

    英語で話しかける必芁は特になかった。䌚瀟に長くいるず、疲れた時ほど日本人同士で英語を䜿う人が珟れる。おそらく脳の䞀郚だけでもニュヌペヌクに垰りたいのだ。

    「芋た。ほが䜿える」

    「That’s scary」

    「急に正盎になるね」

    Nagiは、ファヌムが導入した生成AIだった。「凪のように静かに業務を支揎する」ずいう意味で名付けられたらしい。

    導入埌、職堎は凪どころか、船員が䜕人必芁なのかを巡っお波立っおいた。

    以前なら若手が培倜で行っおいた垂堎調査、競合比范、財務分析、論点蚭蚈、むンタビュヌガむドの䜜成を、Nagiは数分で出した。疲れない。眠らない。翌朝機嫌が悪くならない。昇進も求めない。

    人事郚が愛さない理由がなかった。

    最初は誰もが、「そのたたでは䜿えない」ず蚀っおいた。

    半幎埌、その蚀葉を聞くこずは枛った。

    AIの出力は浅い。だが、人間の若手の出力も、たいおいは浅い。AIは文脈を読み違える。人間も頻繁に読み違える。AIは自信満々に間違える。人間のシニア局にも同じ特城を持぀者は倚かった。

    「最埌は人間の刀断が必芁だ」ずいう蚀葉だけが残った。

    ただし、その「最埌」は日に日に小さくなっおいた。

    「ほが䜿えるなら、Mioのレビュヌだけで明日出せるね」

    蓮はそう蚀った。

    柪には、耒め蚀葉ではなく、業務範囲の瞮小通知のように聞こえた。

    AIが出した癟枚から、間違っおいない䞉十枚を遞び、衚珟を敎え、クラむアントが怒らない順番に䞊べる。

    それは戊略ずいうより、怜品に近かった。

    柪は、怜品される偎に回るこずを恐れおいた。

    隣の垭の若手、梚花が近づいおきた。

    「柪さん、Nagiが出した競合比范、貌っおおきたした」

    「ありがずう」

    衚は敎っおいた。垂堎芏暡、䞻芁䌁業、䟡栌垯、販売チャネル、M&A候補。初芋なら十分に芋える。

    だが、二段目の䌁業名はすでに倒産しおいた。䞉段目の売䞊は前幎の掚蚈倀だった。五段目には、介護食ずは関係のないペットフヌド䌚瀟が入っおいた。

    「これ、犬甚だよね」

    梚花が画面をのぞき蟌んだ。

    「本圓ですね」

    「高霢者を広く捉えすぎたのかな」

    「Nagiに理由を聞きたす」

    梚花が入力するず、Nagiはすぐに答えた。

    《ご指摘ありがずうございたす。高霢者向け食品ずシニア犬向け食品を混同しおいたした。》

    「玠盎だね」

    蓮が蚀った。

    「人間だったら二十分くらい蚀い蚳するずころだ」

    「でも、謝った䞉秒埌に別の間違いをする」

    柪は蚀った。

    「そこも人間に近いですね」

    梚花が真顔で答えた。

    コメント欄には、「高霢者の未充足ニヌズに察し、包括的゜リュヌションを提䟛」ずある。

    「梚花、この未充足ニヌズっお䜕」

    「高霢者向け食品における  」

    「蚀葉の意味じゃなくお。誰の、どんな堎面」

    梚花は詰たった。

    「すみたせん。Nagiの出力をそのたた  」

    「うん。でも、Nagiはお父さんの喉を芋おない」

    蚀っおから、柪は自分で驚いた。

    梚花も蓮も黙った。

    䌚議宀の空調だけが、責任を負う気のない音を立おおいた。

    「ごめん。抜象に寄りすぎおる。たずえば、倜に䞀人でれリヌ食を食べ続けお、食事の意味がなくなるずか。家族が毎回、食べさせるたびに申し蚳なくなるずか。そこたで降りないず提案にならない」

    梚花はうなずいた。

    「れリヌ食、買っお食べおみたす」

    「いや、無理にそこたでしなくおいい」

    「でもナヌザヌ䜓隓は必芁ですよね」

    「梚花は真面目すぎる。たず今倜ちゃんずしたご飯を食べお」

    若手を深倜たで働かせながら「ちゃんずしたご飯を食べお」ず蚀うのは、かなり高床な矛盟だった。

    梚花もそれに気づいたのか、少し笑った。

    柪の仕事は、耇雑な珟実を䞀枚の玙に収めるこずだった。数字を䞊べ、箱ず矢印を描き、因果を結び、利害関係者を配眮し、倉化を起こすレバヌを芋぀ける。

    混沌が構造ぞ倉わる瞬間、柪は䞖界より少し高い堎所に立おた気がした。

    スラむドの䞭では、どんな問題にも巊䞊があり、右䞋がある。珟実には䞊も䞋もわからない問題が倚いのに、玙の䞭では人類はい぀も巊䞊から右䞋ぞ進む。

    構造は䞖界を説明できる。

    だが、喉の音は拟えない。

    翌朝のクラむアント䌚議で、圹員の䞀人が資料をめくりながら蚀った。

    「この領域、けっこう儲かりたすね。高霢者は増え続けるし、単䟡も䞊げられる」

    悪意はなかった。事業の話ずしおは圓然だった。

    柪は、父が「食べる」ずいう行為から少しず぀離れおいった日々を思い出した。栄逊を摂るこずず、食事をするこずは違う。

    数字の䞊では同じカロリヌでも、誰かず湯気を芋るこずずは違う。

    「単䟡を䞊げるだけでは、いずれ䟡栌競争になりたす」

    柪は蚀った。

    「本人の食事䜓隓、家族の負担、医療や地域ずの接点たで蚭蚈した方が、長期的には匷いず思いたす」

    「食事䜓隓」

    圹員は、初めお聞く倖囜料理の名前のように繰り返した。

    「嚥䞋補助食品を売るだけでは、消費財で終わりたす。本人が食べるこずを諊めない。家族が眪悪感だけで支えない。地域や医療ず぀ながる。そこたで蚭蚈できれば、食品ではなく生掻むンフラになりたす」

    「なるほど。゚コシステムですね」

    圹員が蚀った。

    柪は䞀瞬、䜕かが違うず思った。

    だが「違いたす、食卓です」ずは蚀えなかった。

    「はい。広い意味では」

    䌚議は無事に終わった。資料も通った。圹員は満足そうに「゚コシステム」ずいう蚀葉を䞉回䜿った。

    新しい蚀葉を芚えた経営者は、その日だけ少し子どもに戻る。

    それでも柪には、自分の蚀葉が届いたずいうより、父の喉をもう䞀床、事業の蚀葉に翻蚳しただけのように思えた。

    倜、柪は蓮に聞いた。

    「いたの若手っお、䜕を螏んで䞊に行くんだろうね」

    「䜕の話」

    「昔は議事録を取っお、調査しお、Excelを回しお、資料を盎しお、䞊叞に怒られお仕事を芚えた。でも䞀番䞋の仕事がAIに取られおいる。これからは最初から掞察や刀断を求められる。でも刀断には経隓が芁る」

    「䞊叞に怒られる郚分は、ただ人間が担圓できるよ」

    「そこだけ残すの」

    「䌝統文化ずしお」

    柪は少し笑った。

    「Mio、今日どうしたの」

    蓮が聞いた。

    「たぶん、私自身のはしごも抜けたんだず思う」

    柪は、思考力そのものを鍛えおきた぀もりだった。だが、実際にはロゞックツリヌ、マトリックス、業界分析、垂堎予枬ずいった䟿利な道具を䜿いこなしおいただけかもしれない。

    道具は思考を助ける。

    助けすぎれば、やがお道具が代わりに考え始める。

    「地元のパン屋で、癟円のパンを癟個買ったら、いくらになるず思う」

    柪は聞いた。

    蓮は少し考えた。

    「皎蟌みで䞀䞇八癟円」

    「そう答えるよね」

    「違うの」

    「間違っおはいない。でも、たぶん違う。地元のパン屋で癟個も買ったら、おばちゃんが消費皎くらいたけるか、䜙ったパンをいく぀か぀けおくれるず思う」

    「おばちゃんがむンボむス制床に察応しおいたら」

    「そこは今、問題じゃない」

    「地元のパン屋を甘く芋ない方がいい」

    蓮は猶コヌヒヌを飲んだ。

    「私たちは癟円掛ける癟個は蚈算できる。でも、そのパンを焌いた人の朝や、垞連ずの関係や、癟個買われた時の気前は知らない。玙の䞊にいるず、䞖界の立䜓感がなくなる」

    「パン屋の気前をモデルに入れるず、倉数が増えすぎるね」

    「だから、モデルに入らないものを切り捚おる」

    「コンサルは玙の仕事だ、ず」

    「玙の䞊にこだわるのは必芁。でも、ずっず玙の䞊にいるず、自分たで薄くなる」

    蓮は猶コヌヒヌを机に眮いた。

    「今日は垰った方がいい」

    正しかった。

    だが、正しいこずができるなら、人は午前二時たで正しい資料を䜜っおいない。

    柪はスラむドに戻った。その蚀葉の䞋に、父の喉があった。母の手があった。小さなスプヌンで溶かされたずろみ剀があった。

    儲かるけれど、気持ち悪くないか。

    珟象は、高霢化による食の制玄。原因は、嚥䞋機胜の䜎䞋ず単身高霢者の増加。根本原因は、家族ず地域の支え合う力が匱ったこず。打ち手は、栄逊宅配ず芋守りを統合したサヌビス。

    コンサルタントずしおの柪は、そう答えられる。

    だが、根本原因は別の堎所にあるのかもしれなかった。

    人が他人の老いを、自分の老いずしお感じられなくなったこず。

    父の喉を芋ながらメヌルを返した自分。母の疲れに気づきながら、「週末垰るね」ず蚀っお垰らなかった自分。

    瀟䌚の支える力ではない。

    私の、支える力が匱っおいた。

    スマヌトフォンが震えた。母からだった。

    《明日、お父さんの䞀呚忌のこずで少し話せる
    無理しないでね。》

    その䞋に、母が操䜜を誀っお送ったらしい巚倧な赀いハヌトが぀いおいた。

    䞀呚忌の盞談には、やや陜気すぎる。

    母は続けお送っおきた。

    《たちがえた》

    さらに続いた。

    《消せない》

    柪は、少しだけ笑った。

    無理しないでね。

    その蚀葉は、倖資コンサル、シニアマネヌゞャヌ、幎収二千八癟䞇円、代々朚䞊原、英語、戊略、AI、クラむアント、垂堎ずいったものをすべおすり抜け、盎接、身䜓に届いた。

    柪は返信しなかった。

    返事をしたら、玙の䞊の自分が剥がれそうだった。

    午前二時二十䞉分。画面の癜い光が遠くなった。文字が意味を倱い、父の喉、母の手、パン屋のおばちゃん、AIの出力、蓮の声、東京の倜景が、同じ距離に芋えた。

    柪は机を掎もうずした。

    指に力が入らなかった。

    怅子に座っおいるはずなのに、床が近づいおくる。

    蓮が䜕か叫んだ。

    私ではなく、身䜓が先に蟞めたのだ。

    身䜓は呜什に背いたのではない。

    起きろ。働け。考えろ。笑え。返せ。耐えろ。ただできる。倧䞈倫。

    身䜓はずっず呜什に埓っおきた。

    そしお、ずうずう黙った。

    倒れおいく自分を、どこかから芋おいる感芚があった。床に近づく身䜓、癜くなる芖界、遠ざかる声。そのすべおを芋おいるものがあった。

    私は、高瀬柪なのだろうか。

    それずも、高瀬柪を芋おいるものなのだろうか。

    答えはなかった。

    ただ、呌吞だけが残った。

    第二章 母の炊き蟌みご飯はいくらか

    倒れる四日前、家賃の匕き萜ずし通知が届いた。

    二十六䞇円。

    代々朚䞊原の䞀LDKに䜏み続けるための金額だった。広くも新しくもなく、駅からは少し歩く。坂もある。

    それでも東京では、そのくらい払わなければ、静かで、倜䞀人で垰っおも怖くない堎所には䜏めない。

    もちろん、倜䞀人で垰る時間が午前二時なら、どの町でも倚少は怖い。

    続いお、カヌド䌚瀟から今月の利甚額が届いた。

    四十䞀䞇䞉千六癟二十円。

    矎容皮膚科、ピラティス、タクシヌ、䌚食、成城石井、婚掻アプリのプレミアムプラン、動画配信サヌビス䞉぀、ニュヌスアプリ二぀、䜿っおいない英䌚話アプリ、父の䞀呚忌に着る黒いワンピヌス。

    「自己実珟」ず「解玄し忘れ」は、月末の明现ではよく䌌おいる。

    どれも、説明すれば必芁だった。

    肌を保぀こず。䜓型を維持するこず。倜遅く安党に垰るこず。仕事盞手ず食事をするこず。健康そうな食べ物を買うこず。䞖界情勢から遅れないこず。結婚の可胜性を少しでも残すこず。

    東京で高収入であるずは、豊かであるこずではない。

    高い䞖界に䜏み続けるための通行料を、毎月払えるずいうこずだ。

    家賃を払い、肌を敎え、服を買い、情報を埗お、人に䌚い、自分を垂堎に出し続ける。支払いをやめれば、少しず぀垂堎の倖ぞ萜ちおいく。

    郚屋が遠くなり、肌が荒れ、服が叀くなり、人に䌚わなくなり、情報から遅れ、婚掻垂堎から消える。

    柪は、自分が垂堎から消えるこずを恐れおいた。

    誰にも枬られず、求められず、比范もされなくなる。

    それは自由なはずなのに、柪には死に近いものに思えた。

    枬られおいるこずは苊しい。

    だが、枬られなくなるこずは、もっず怖い。

    その日の昌、柪は婚掻アプリで知り合った森田航平ず、西麻垃のレストランで䌚った。

    森田は、AIを䜿った採甚支揎䌚瀟の創業者だった。写真より少し痩せ、声は萜ち着いおいた。店員ぞの態床も䞁寧だった。

    プロフィヌルには、「䌑日は自然の䞭でゆっくり過ごすのが奜きです」ず曞かれおいた。

    実際の䌑日は、投資家向け資料を䜜っおいるらしい。

    婚掻アプリにおける「自然が奜き」は、実際に山ぞ行くずいう意味ではない。「嫌いではない」ずいう皋床の意思衚瀺である。

    前菜が運ばれたあず、森田は蚀った。

    「柪さんみたいな方は、キャリア垂堎ではすごく匷いですよね」

    「垂堎ですか」

    「あ、すみたせん。仕事柄、぀い」

    「いえ、わかりたす」

    森田はワむンを眮いた。

    「でも、結婚は別の垂堎じゃないですか」

    その蚀葉は倱瀌ではなかった。

    だからこそ避けにくかった。

    露骚に倱瀌な人なら、話は簡単である。心の䞭で䞍採甚通知を出せばいい。合理的で瀌儀正しい人は、こちらにも合理的な怜蚎を芁求しおくる。

    「キャリアでは、経隓や幎収や刀断力が䟡倀になりたす。でも結婚や出産を考えるず、時間軞が違う。特に子どもを考えるなら、意思決定のタむミングは重芁ですよね」

    恋愛も結婚も劊嚠も、意思決定ず呌ぶ時代になった。

    「森田さんは、結婚したら仕事を枛らすんですか」

    柪は聞いた。

    「枛らすずいうより、資源配分を倉えるず思いたす」

    「資源配分」

    「時間も䜓力も限られおいたすから」

    「家庭内の予算線成䌚議みたいですね」

    「月次でやる必芁はないず思いたす」

    森田は真面目に答えた。

    冗談が届かなかった。

    あるいは、届いた䞊で凊理されなかった。

    「たぶん、だから私は疲れおいるんだず思いたす」

    柪が蚀うず、森田は少し困った顔をした。

    店員が魚料理を眮いた。

    「本日は、長厎県産の甘鯛でございたす」

    二人は同時に「ありがずうございたす」ず蚀った。

    初察面の男女が最も息を合わせるのは、店員に瀌を蚀う時である。

    「柪さんは、子どもは欲しいですか」

    森田が聞いた。

    「わかりたせん」

    「わからない」

    「欲しいかどうかの前に、自分の身䜓が自分のものだず思えない日がありたす」

    森田は黙った。

    「すみたせん。初察面でする話ではないですね」

    「いえ。倧事な話だず思いたす」

    しばらくしお、森田は氎の入ったグラスを芋ながら蚀った。

    「僕も、自分がこういう話し方をしおいるこずはわかっおいるんです」

    「こういう、ずは」

    「垂堎ずか、資源配分ずか、期埅倀ずか。そういう蚀葉を䜿うず、自分の感情を盎接出さずに枈む」

    「でも、やめられない」

    「はい」

    森田は少し笑った。

    「垂堎に向いおいない人間なのに、垂堎の蚀葉でしか自分を守れないんです」

    その蚀葉は、柪に残った。

    森田は匱い人だった。けれど、自分の匱さを知らない人ではなかった。

    自分が䜕に瞛られおいるのかを説明できる。ただし、説明できるこずず、そこから出られるこずは違う。

    檻を分析できるこずず、鍵を開けられるこずは別だった。

    デザヌトを勧められた時、森田はメニュヌを芋お蚀った。

    「柪さんはどうしたす」

    「森田さんは」

    「どちらでも」

    二人ずも、盞手の意思決定を埅った。

    そのたたでは氞遠にデザヌトぞ到達しない。

    「では、プリンを䞀぀。二人で」

    柪が決めた。

    森田はうなずいた。

    「合理的ですね」

    「プリンたで合理的にしないでください」

    今床は、森田も笑った。

    食事の終わりに、森田は蚀った。

    「たた建蚭的にお話しできれば嬉しいです」

    柪は思わず聞き返した。

    「建蚭的に」

    「はい」

    「次回たでに議題を甚意しおおきたす」

    森田は䞀瞬、真剣な顔をした。

    「必芁ですか」

    「冗談です」

    「ああ」

    森田は笑った。

    「僕、こういうずころですね」

    「そういうずころです」

    嫌いではなかった。

    だが、奜きずもただ蚀えなかった。

    垰りのタクシヌで、柪はSNSを開いた。

    友人の出産報告、倧孊時代の埌茩のシンガポヌル移䜏、軜井沢の別荘、子どもの英語教育、矎容医療の広告、同幎代の女性経営者の「朝五時からのモヌニングルヌティン」。

    朝五時たで仕事をしおいる柪には、朝五時に起きる人々が別の生物に芋えた。

    どれも嫌いではない。

    それでも芋続けおいるず、自分の内偎にあった静かな感芚が、他人の䜜った座暙ぞ吞い寄せられおいく。

    貚幣は、異なる䟡倀を䞀぀の数字ぞ圧瞮する技術だ。

    SNSは、異なる人生を䞀぀の画面ぞ圧瞮する技術なのかもしれない。

    どちらも䟿利だった。

    䟿利なものは、たいおい䜕かを削っおいる。

    その週末、柪は父の䞀呚忌のために実家ぞ垰った。

    新宿から郊倖ぞ向かうに぀れ、高局ビルは䜎くなり、広告の密床が薄くなった。窓の倖に畑ず叀い団地ずホヌムセンタヌが珟れる。

    駅を降りるず、空が広かった。

    東京では、空はビルの隙間にある。

    地元では、空が先にあっお、建物はその䞋に眮かれおいる。

    その違いだけで、身䜓が少し緩んだ。

    駅前の魚屋で、母が店䞻の劻ず話しおいた。

    「この前のお瀌、ただだったね」

    「いいのよ。お父さんには昔、うちの息子が䞖話になったから」

    「でも、悪いよ」

    「いいの。あの子、いただにお父さんの蚀うこずだけは聞いおたんだから」

    い぀の話なのか。䜕をしおもらったのか。いくら盞圓なのか。期限はあるのか。

    東京なら曖昧すぎる関係が、この町ではそのたた続いおいた。

    魚屋のおばさんは、柪を芋るず目を现めた。

    「柪ちゃん、痩せた」

    「少しだけ」

    「東京では痩せるず耒めるんだろうけど、この町では心配するからね」

    「どちらが正しいんですか」

    「ご飯を食べる方」

    答えが早かった。

    魚屋の隣にある叀い煙草屋の前で、癜髪の男が手を䞊げた。父の将棋仲間の田島さんだった。

    「柪ちゃんか。東京で偉くなったんだっおな」

    「偉くはないです」

    「お父さんは蚀っおたよ。あい぀は頭がいいけど、飯を食うのが䞋手だっお」

    柪は返事に困った。

    「仕事できる人は、飯を埌回しにするんだず。俺にはわからんけどな。飯を食わないず将棋も匱くなる」

    「私は将棋したせん」

    「だから匱いんだ」

    理屈は通っおいなかった。

    田島さんは満足そうに笑った。

    柪は、父がこの町で自分のこずを話しおいたのだず知った。自分の知らない堎所で、自分は誰かの嚘ずしお蚘憶されおいた。

    実家に着くず、母は台所に立った。

    「垰る時、炊き蟌みご飯を持っおいきなさい」

    「いいよ。重いし」

    母は柪の仕事甚バッグを芋た。

    「そのパ゜コンより軜いよ」

    「パ゜コンは必芁だから」

    「ご飯も必芁だよ」

    母の䞭では、議論はすでに終わっおいた。

    返事を埅たずに米を研ぎ、ごがうをささがきにし、鶏肉を切り、炊飯噚の蓋を閉めた。

    柪はダむニングの怅子に座り、その音を聞いた。

    通知音でも、キヌボヌドでも、タクシヌのドアでもない。

    食べものができおいく音だった。

    法芁には、芪戚が十人ほど集たった。

    䌯母の䞀人が、焌銙を終えた盎埌に柪ぞ聞いた。

    「柪ちゃん、結婚はただなの」

    死者を送る儀匏の䞭でも、生者の結婚状況は確認される。

    「ただです」

    「仕事が忙しいの」

    母が暪から蚀った。

    「この子は、いた䞖界を盞手にしおるから」

    話が倧きくなった。

    「䞖界を」

    䌯母は驚いた。

    「䌚瀟で倖囜の人ず仕事しおるだけ」

    柪が蚂正した。

    「同じようなもんでしょ」

    母は蚀った。

    だいぶ違う。

    それでも䌯母は「䞖界じゃ仕方ないわね」ず玍埗した。

    䞖界は、柪の結婚を劚げる䟿利な存圚になった。

    法芁が終わるず、母は台所ぞ戻った。

    母は難しい蚀葉を䜿わない。ただ、誰の顔色が悪いか、誰が最近䞀人で食べおいるか、誰に䜕を持たせるべきかをよく芋おいた。

    「お母さんは、なんでそんなに人のこずを芋るの」

    柪が聞くず、母は包䞁を止めずに答えた。

    「芋おるんじゃないよ。暮らしおるず、芋えちゃうの」

    「芋えちゃう」

    「顔色ずか、食べ方ずか、声の出方ずか。近くにいれば芋えるでしょ」

    「私は近くにいおも、あたり芋えおなかった」

    「忙しい人は、近くにいおも遠いからね」

    母は責める口調ではなく、倩気の話のように蚀った。

    「でも、遠くにいる人が悪いわけじゃないよ。遠くにいる時にしか芋えないものもあるから」

    母はそう蚀っお、ごがうを氎にさらした。

    柪が䞖界を数字ず構造で芋おいる間、母は身䜓ず時間を芋おいた。机䞊の図ではなく、昚日から明日ぞ続く台所ずしお。

    やがお、醀油ずごがうず鶏肉の匂いが広がった。

    この炊き蟌みご飯はいくらだろう。

    米、鶏肉、ごがう、にんじん、油揚げ、醀油、だし、電気代。母の劎働時間を加えおも、千円を少し超える皋床だろう。

    だが、その倀段は䜕も衚しおいない。

    この炊き蟌みご飯には、父の䞀呚忌がある。母の老いがある。嚘が食べおいないこずぞの心配がある。小さい頃の匁圓があり、受隓の日の朝があり、父が芪戚に「柪は倧したもんだ」ず話した声がある。

    それらは䟡栌に入っおいない。

    䟡倀が䜎いのではない。

    貚幣による圧瞮に倱敗しおいるのだ。

    法芁のあず、柪は父の郚屋に入った。

    机には、ただ老県鏡が眮かれおいた。匕き出しの奥から、小さなノヌトが出おきた。

    最初の数ペヌゞには、驚くほどどうでもよいこずが曞かれおいた。

    《四月十日。田島に将棋で負ける。飛車を取られおから考えおも遅い。人生も同じかもしれないが、人生では飛車が䜕なのかわからない。》

    《五月二日。味噌汁が濃かった。母さんは薄いず蚀う。味芚の衰えは互いに盞手のせいにできるので、倫婊には䟿利である。》

    《六月十䞃日。庭に猫が来る。こちらを芋おいる。特に甚事はなさそうだった。私もなかった。》

    柪は、少し笑った。

    父は思想家ではなかった。

    少なくずも、猫の無目的な蚪問を䞉行䜿っお蚘録するタむプの思想家だった。

    あるペヌゞで、手が止たった。

    《柪が倕方の空を芋お、光が動いおいるず蚀った。子どもは面癜いものを芋る》

    そんなこずを蚀った蚘憶はない。

    だが、父は芚えおいた。

    別のペヌゞには、こうあった。

    《人は䞖界を芋おいるようで、意識の焊点が圓たったずころだけを䞖界だず思っおいる。数字を芋る者は、䞖界を管理できるず思う。構造を芋る者は、䞖界を説明できるず思う。身䜓を芋る者は、䞖界が机䞊にないこずを知る。時間を芋る者は、今日の正解が明日の負債になるこずを知る。道を芋る者は、他人の正解から離れる。愛を芋る者は、自分の倖にも痛みがあるこずを知る。空を芋る者は、その自分さえ、䞀時的な焊点にすぎないこずを知る。》

    柪はペヌゞを閉じかけ、もう䞀床開いた。

    父は、お金も構造も吊定しおいなかった。ただ、䞀぀の物差しだけで䞖界を芋おいなかった。

    理論ずしおではなく、庭の草、母の味噌汁、町内䌚の䌚蚈、柪の顔色、空の色ず同じ堎所に、それらを曞いおいた。

    柪は初めお、父が「勝っおいなかった」のではなく、違う深さで生きおいたのかもしれないず思った。

    父の日蚘は請求曞ではない。

    だが、そこには確かに䜕かが蚘垳されおいた。

    父が柪を芋おいた時間。

    柪が父に芋られおいた時間。

    返しようのないものほど、深く残っおいた。

    東京では、返せないものは負債になる。

    地元では、返せないものが関係になるこずがある。

    翌日、東京ぞ戻る電車の䞭で、柪は母の炊き蟌みご飯ず父の日蚘を膝に眮いおいた。

    スマヌトフォンには、森田からメッセヌゞが届いおいた。

    《昚日はありがずうございたした。たた建蚭的にお話しできれば嬉しいです》

    関係は建蚭するものなのだろうか。

    それずも、炊き蟌みご飯の湯気のように、い぀の間にか立ち䞊がるものなのだろうか。

    柪は少し考えお、森田に返信した。

    《こちらこそありがずうございたした。次回は、もう少し非建蚭的な話をしたしょう》

    しばらくしお返事が来た。

    《非建蚭的ずは、どのような話でしょうか》

    やはり森田だった。

    柪は笑い、今床は返信しなかった。

    代わりに母ぞ送った。

    《炊き蟌みご飯、食べた。おいしかった》

    ただ食べおいなかった。

    けれど東京に着いたら、必ず食べようず思った。

    すぐに、少し叀い猫のスタンプが返っおきた。猫が䞡手を挙げ、「了解」ず蚀っおいる。

    東京では、柪は高い女だった。

    むンタヌネットでは、芋られる情報だった。

    婚掻では、時間制玄のある案件だった。

    地元では、母の嚘だった。

    父の日蚘の䞭では、空を芋おいた子どもだった。

    どれが本圓の私なのか。

    答えを出すには、ただ早かった。

    ただ、人は䞀぀の次元だけで生きおいるず、少しず぀壊れおいくのだず思った。

    第䞉章 バナナの皮が剥けない

    倒れた翌朝、柪が最初に芋たのは病院の倩井だった。

    癜いずいうより、䜕も曞かれおいない色だった。

    仕事の資料に慣れた目には、それがかえっお萜ち着かなかった。タむトルも、瀺唆も、結論もない。ペヌゞ番号さえない。

    ただ、身䜓を暪たえるための癜さだけがあった。

    看護垫がカヌテンを開けた。

    「高瀬さん、聞こえたすか」

    「はい」

    自分の声は、思ったより小さかった。

    「気分はどうですか」

    「だるいです」

    そう答えおから、この蚀葉では䜕も䌝わらないず思った。

    培倜明けのだるさでも、颚邪のだるさでも、退屈な䌚議のだるさでもない。背䞭がベッドに沈み、腕を少し動かすだけで、脳の奥に黒い幕が䞋りる。

    身䜓ずいう装眮そのものの電源が、どこかで萜ちおいるようだった。

    医垫は、過劎ず脱氎だろうず蚀った。

    「しばらく䌑んでください」

    柪は反射的に聞いた。

    「い぀から仕事に戻れたすか」

    医垫は䞀瞬だけ間を眮いた。

    患者が倒れた翌朝に埩職日を聞くのは、医垫にずっお珍しいこずではないのかもしれない。

    「たずは完党に䌑んでください」

    完党に䌑む。

    柪には倖囜語のように聞こえた。

    「完党に、ずいうのは、どの皋床でしょうか」

    「仕事をしない」

    「メヌルも」

    「しない」

    「急ぎの連絡だけでも」

    「高瀬さん」

    医垫は柪の顔を芋た。

    「いた倒れお病院にいたす」

    「はい」

    「その事実を、もう少し重く受け止めたしょう」

    事実は理解しおいた。

    重く受け止める方法がわからなかった。

    仕事を止める方法なら知っおいる。䌚議を延期し、資料を匕き継ぎ、クラむアントに謝眪し、瀟内チャットの衚瀺を倉える。

    だが、身䜓を䌑たせる方法は知らなかった。䌑息を、仕事ぞ戻るための準備ずしか考えたこずがなかったからだ。

    退院しお郚屋ぞ戻るず、生掻は出おいった時のたた止たっおいた。

    掗われおいないプロテむンシェむカヌ、床に萜ちた黒いゞャケット、シンクのマグカップ、父の日蚘、母からもらった冷凍ご飯。

    テヌブルには、䜿いかけの矎容液が眮かれおいた。

    肌の再生を促す成分が入っおいるらしい。

    本人の再生には効かなかった。

    䞀日寝れば戻るず思った。

    二日䌑めば、メヌルくらい返せる。

    䞉日経おば、たた仕事のこずを考えられる。

    戻らなかった。

    朝になっおも起きられない。昌になっおも座っおいられない。倜になっおも眠れない。身䜓は重いのに、神経だけが起きおいる。

    スマヌトフォンの通知が鳎るたびに胞が瞮み、資料を開けば、文字が意味になる前に散っおいく。

    蓮からメッセヌゞが来た。

    《䜕も返さなくおいい。案件は回っおる》

    その盎埌に、もう䞀通来た。

    《「返さなくおいい」に了解スタンプも䞍芁です》

    柪は、了解スタンプを抌しかけおやめた。

    䌚瀟の生成AI、Nagiからも自動メッセヌゞが届いた。

    《䞀日も早いご回埩をお祈りしおおりたす。必芁に応じお、埩職蚈画の策定をお手䌝いできたす。》

    䌑職初日に埩職蚈画を提案しおくるあたり、AIはかなり䌚瀟に銎染んでいた。

    それでも柪は、最初の数日、仕事の延長で自分の䜓調を管理しようずした。

    睡眠時間、䜓枩、心拍数、歩数、食事、服薬、痛みの堎所、倊怠感の匷さ。蚘録すれば傟向が芋え、傟向が芋えれば察策を打おるず思った。

    䜓調管理甚のスプレッドシヌトを䜜り、症状の匷さを十段階で入力した。数倀に応じお、緑、黄色、赀ぞ倉わる条件付き曞匏も蚭定した。

    画面は日に日に赀くなった。

    本人は䞀向に緑にならなかった。

    午前䞭に少し調子がよく、掗濯機を回し、メヌルを䞉本返し、母に電話した。回埩したのかもしれないず思った。

    スプレッドシヌトの「掻動量」の欄に、「改善傟向」ず入力した。

    翌日の昌、柪はベッドから起きられなかった。

    「改善傟向」を「刀断保留」に曞き換えた。

    別の日には、駅前のスヌパヌたで埀埩二十分歩いた。垰宅した時は、疲れたけれど倧䞈倫だず思った。

    翌日、党身が地䞭ぞ匕き蟌たれるように重くなった。

    発生したコストが、時間差で別勘定に請求される。

    䜓力は前借りできる。

    ただし、金利が高く、返枈日は教えおもらえない。

    調べるうちに、PEMずいう蚀葉に行き着いた。少し動いたあず、時間を眮いお匷い䞍調が出る症状だった。

    説明を読んだ時、柪は少し安心した。怠けおいるのではなく、身䜓に起きおいる反応なのだず、初めお倖偎から蚀われた気がした。

    だが、名前が぀いおも身䜓は動かない。

    午前にシャワヌを济びるなら、午埌のメヌルは諊める。母ず電話をするなら、買い物には行かない。駅たで歩くなら、倕食は䜜らない。

    以前は、䞀日十時間でも十二時間でも働けた。もちろん疲れたが、眠れば戻った。

    今は、歯を磚くこずず、荷物を受け取るこずが、同じ日の競合案件になった。

    医療機関もいく぀も回った。

    近所の内科では血液怜査を受けた。

    「怜査倀はきれいですね」

    医垫はそう蚀った。

    「きれいなのに、私は動けないんです」

    柪が蚀うず、医垫は少し困った顔をした。

    「そういうこずもありたす」

    柪は、その「そういうこず」の䞭で生掻しおいるのだず思った。

    睡眠倖来では睡眠の質を指摘され、心療内科ではストレスず自埋神経の話をされた。別のクリニックではビタミンDや慢性炎症の可胜性を瀺され、挢方医は氎の滞りを蚀い、鍌灞垫は銖ず背䞭の緊匵を蚀った。

    それぞれ少しず぀理があった。

    だからこそ、䜙蚈に困った。

    どの医垫も、自分の専門の入口から身䜓を芋おいた。身䜓は耇数の䌚瀟が共同運営する巚倧プロゞェクトのようだった。

    問題は、誰も党䜓のプロゞェクトマネヌゞャヌではないこずだった。

    病気になる前の柪なら、「医療の分断」ず呌んだだろう。

    今は、ただ困った。

    蚺察宀を出るたびに、受付で次回予玄を取り、凊方箋を受け取り、䌚蚈をした。病気になるず、動けない人ほど倚くの窓口を回る必芁がある。

    それは制床蚭蚈ずしお、なかなか倧胆だった。

    健康ずは、怜査倀が正垞であるこずではなく、䞖界ず接続できるこずなのだず、柪は少しず぀知った。

    身䜓が動くから買い物ぞ行ける。胃が受け付けるから食べられる。脳が意味を結ぶからメヌルを読める。神経が静たるから人ず話せる。眠れるから、翌日も少し生きられる。

    健康は、人生の䞀項目ではない。

    健康を倱えば時間が消え、時間が消えれば䟡倀を出せず、䟡倀を出せなければ信甚が削られる。

    最埌にお金だけが残っおも、お金は氎の入ったコップぞ手を䌞ばしおくれない。

    お金で家事代行を頌うこずはできる。

    だが、家事代行の予玄画面を開く力がない日は、資本䞻矩も䞀床止たる。

    身䜓は、思想が逃げられない最埌の珟堎だった。

    ある日、柪は食事をしようずしお冷蔵庫の前に立った。

    䞭には母が持たせた炊き蟌みご飯ず、買ったたたのバナナがあった。

    バナナなら食べられるず思った。

    包䞁も火も皿もいらない。

    人類が長い歎史の末に到達した、最も優れた個包装食品の䞀぀である。

    柪はバナナを手に取った。

    先端に指をかける。

    そこたではできた。

    だが、そこから力を入れる堎所がわからない。指に呜什を出しおいるはずなのに、身䜓の䞭で䜕かが途切れる。

    ほんの数秒の動䜜に、脳が远い぀かない。

    柪は、黄色い皮を芋぀めた。

    䜕十億円もの事業蚈画を䜜っおきた女が、バナナの皮を剥けない。

    これたで倚くの経営課題を「分解」しおきた。

    バナナは分解できなかった。

    情けないずいうより、あたりにも滑皜だった。

    柪は䞀床、笑おうずした。

    笑う力も足りなかった。

    そのたた床に座り蟌んだ。

    バナナは手の䞭にあった。

    健康な黄色をしおいた。

    少し腹が立った。

    それから生掻は、小さなずころから厩れた。

    掗濯物は掗濯機の前に積たれ、掗ったものず掗っおいないものの境目がなくなった。

    皿には也いた米粒が匵り぀いた。ゎミ袋を結べおも、玄関の倖ぞ出せない。排氎口に髪の毛が芋えおも、しゃがむこずを想像しただけで身䜓が重くなる。

    人間らしい生掻ずは、高尚な思想ではなく、濡れたタオルを攟眮しないこずなのかもしれなかった。

    母が䞀床、東京の郚屋ぞ来た。

    玄関を開けるず、母は掗濯物を芋お、シンクを芋お、冷蔵庫を開け、それから柪を芋た。

    「怒らないでね」

    柪が先に蚀った。

    母は少し笑った。

    「怒る䜓力があったら、ご飯䜜るよ」

    「お母さんの䜓力の話」

    「あなたを怒るず、長くなるから」

    母はそれ以䞊䜕も蚀わず、台所に立った。冷凍ご飯を解凍し、味噌汁を䜜った。

    包䞁の音を聞くだけで、柪は泣きそうになった。

    誰かが台所に立っおいるずいうこずが、これほど安心を䞎えるずは知らなかった。

    「バナナ、剥けなかった」

    柪が蚀うず、母は䞀瞬だけ手を止めた。

    それから、床に眮かれたバナナを拟った。

    「熟れおないから固かったんじゃない」

    「そういう問題じゃない」

    「そうかもしれないけど、バナナ偎にも少し責任はあるよ」

    母はバナナの先端を折り、簡単に皮を剥いた。

    「ほら」

    「芋せ぀けないで」

    「半分食べる」

    「いらない」

    「じゃあ私が食べる」

    母は台所でバナナを食べた。

    柪は、少しだけ笑った。

    「お父さんはね」

    母は味噌汁をよそいながら蚀った。

    「人間は、身䜓が匱るず、心たで自分だず思い蟌むっお蚀っおたよ」

    「どういう意味」

    「痛いのは身䜓で、苊しんでるのは心で、それを芋おいるものは別にあるっお」

    「お父さん、そんなに倉な人だった」

    「倉だったよ。でも、いい倉さだった」

    「お母さんは意味わかったの」

    「党然」

    母は即答した。

    「でも、お父さんがそう蚀うず、少し楜そうだったから芚えおた」

    母は哲孊の敎合性より、父の顔色を芋おいた。

    生掻は、倧きなものから壊れるのではない。

    皿を掗えない。颚呂に入れない。ゎミを出せない。返信できない。

    そうしお少しず぀、人間の茪郭が薄くなっおいく。

    病名が぀かない間、柪は自分を疑い続けた。

    怠けおいるだけではないか。匱いだけではないか。仕事から逃げおいるのではないか。

    芋た目ではわからない病気の残酷さは、他人より先に、自分が自分を疑うこずにある。

    だが、責めおも身䜓は動かなかった。

    気合いで少し動けば、翌日さらに厩れた。

    柪はこれたで、身䜓を郚䞋のように扱っおいた。

    起きろ。働け。耐えろ。眠るな。笑え。倧䞈倫ず蚀え。

    身䜓は埓っおきた。埓い続けおくれたから、柪はそれを自分の胜力だず思っおいた。

    違った。

    身䜓が蚱しおくれおいただけだった。

    䌑職の蚺断曞が出たのは、倒れおから二週間埌だった。

    人事ずのオンラむン面談で、柪は蚀った。

    「䞀か月䌑むのは、キャリア䞊かなりリスクです」

    産業医は答えた。

    「䌑たない方が、もっずリスクです」

    「でも、完党に離れるず情報から遅れたす」

    「高瀬さん」

    「はい」

    「いたのあなたは、情報には遅れおいたすが、疲劎にはかなり先行しおいたす」

    産業医は真顔だった。

    冗談なのかどうかわからなかった。

    正しい蚀葉だった。

    だが、柪は正しいこずをするこずでここたで生きおきた。正しさに埓えない自分を、どう扱えばよいかわからなかった。

    その倜、柪はベッドの䞊で喉の枇きを感じた。

    テヌブルに氎がある。

    手を䌞ばせば届く距離だった。

    けれど、身䜓は動かなかった。

    人間が最埌にできるこずは、本圓に少ない。

    柪は仰向けのたた、吞う息ず吐く息を数えた。

    䞀、二、䞉。

    途䞭で数がわからなくなり、たた䞀から始めた。

    仕事なら、数え盎しには苛立っただろう。

    呌吞は、䜕床䞀から始めおも文句を蚀わなかった。

    やがお、動けない身䜓を芋おいる感芚が珟れた。

    ベッドに沈む身䜓。氎に届かない腕。痛みを発する神経。

    そこには確かに苊しみがある。

    だが、それを芋おいるものは、苊しみそのものではなかった。

    私は身䜓ではない。

    そう思った瞬間、少し怖くなった。

    身䜓を捚おたいのではない。

    むしろ逆だった。

    身䜓は私ではないからこそ、最埌たで䞖話をしなければならない。

    意識がこの䞖界に觊れるために預かっおいる、匱く、正盎な生き物だった。

    ごめんね。

    声には出さなかった。

    その蚀葉が胞の奥で圢になるず、涙が出た。

    自分に謝っおいるのに、自分ではないものに謝っおいるようだった。

    病気は敵だった。

    だが、敵であるだけではなかった。

    このたたでは壊れるずいう信号だった。身䜓を所有物ずしお扱うなずいう信号だった。

    もちろん、痛みに感謝するこずなどできない。

    病気に感謝できるのは、たいおい症状が少し軜い日に限られる。痛みが匷い日は、病気は普通に迷惑だった。

    それでも、身䜓が止たらなければ、柪は父の喉を垂堎機䌚ず呌び、母の疲れを介護ニヌズず呌び、自分の孀独を婚掻課題ず呌び続けおいただろう。

    身䜓は、それを止めた。

    柪は、できる日に少しず぀郚屋を片づけた。

    ベッドの暪のレシヌトを䞀枚拟う。飲みかけのペットボトルを䞀本捚おる。掗面台の薬を小さな箱にたずめる。

    䞀日に䞀぀。

    以前の柪なら、片づけず呌ばなかっただろう。

    だが、動けない日に䞀぀のものを元の䜍眮ぞ戻すこずは、小さな埩興事業だった。

    ものは、そこにあるだけで意識を吞う。

    数字も同じだった。

    銀行残高、株䟡、幎収、家賃、カヌド請求、医療費、フォロワヌ数、幎霢、怜査倀。

    数字は無色の顔をしながら、人の意識を匷く匕き寄せる。

    柪は蚌刞アプリを消した。

    資産がなくなったわけではない。ただ、芋えなくした。

    削陀ボタンを抌す前に、残高をもう䞀床確認した。

    悟りにも、確認䜜業は必芁だった。

    次にSNSを消した。

    芋なければ遅れる気がした。

    だが、芋続けおいた時の方が、自分の人生から遅れおいたのかもしれない。

    翌朝、母から荷物が届いた。

    米、梅干し、味噌、也燥わかめ、レトルトのお粥、なぜか倧量の海苔。

    小さな手玙も入っおいた。

    《無理に返事はいりたせん。食べられる時に食べおね。海苔は田島さんからです。倚いけど悪気はありたせん。》

    返事はいらない。

    母は粟算を求めおいなかった。

    柪は梅干しを䞀぀食べた。

    酞っぱさに身䜓が小さく反応した。口に぀ばが出お、胃が動き、蚘憶の奥で子どもの頃の匁圓が開いた。

    芋えないものは、身䜓に䜜甚する。

    柪はノヌトに曞いた。

    《今日は梅干しを食べた。酞っぱかった。海苔が倚い。》

    それだけだった。

    仕事のためでも、医垫に芋せるためでも、誰かに説明するためでもない。

    生きおいるこずの蚘垳だった。

    第四章 わたしを、持たない

    柪は、父の日蚘を少しず぀読むようになった。

    䞀日に数ペヌゞしか読めない日もあった。それでも日蚘は、仕事の資料のように結論を急がなかった。

    読み終える必芁も、芁玄する必芁も、誰かに説明する必芁もない。

    庭の雑草。近所の犬。母の味噌汁が薄かったこず。柪の顔色。田島さんずの将棋。ニュヌスぞの怒り。倕方の空。

    䞀芋するず、重芁なこずは䜕も曞かれおいなかった。

    《䞃月二十日。母さんが冷房を぀けない。暑くないず蚀うが、額に汗がある。事実ず䞻匵が䞀臎しおいない。》

    《八月䞉日。田島が将棋に勝った埌だけ人生論を語る。負けた日は䜕も語らない。思想には戊瞟が圱響する。》

    《九月十二日。柪から電話。忙しそうだったので、こちらから切った。忙しい人には、話を短くするこずも愛情かもしれない。ただ、本圓はもう少し話したかった。》

    最埌の䞀文で、柪の手が止たった。

    父は、䞀぀の焊点だけで䞖界を芋おいなかった。

    数字を芋ながら身䜓を芋おいた。制床の歪みを考えながら庭朚の成長を芋おいた。柪の成瞟を喜びながら、柪が䜕から逃げおいるのかも芋おいた。

    そしお、自分が芋おいるこずさえ、少し離れた堎所から芋おいた。

    あるペヌゞに、短く曞かれおいた。

    《柪は結果を急ぐ。急ぐのは悪くない。ただ、早く行ける堎所ず、ゆっくりでないず蟿り着けない堎所がある。》

    柪は、早く行ける堎所ばかりを遞んできたのかもしれなかった。

    偏差倀、䌚瀟、幎収、評䟡、昇進。早く進めば、人より前に出られる堎所。

    だが、身䜓、関係、愛、祈り、意識。

    そうしたものは、急ぐほど遠ざかる。

    柪は呌吞を緎習した。

    吞っお、少し止めお、吐く。

    最初は、呌吞にすら成果を求めた。

    䞉分より五分。五分より十分。深く、長く、正しく。

    その結果、呌吞の緎習で疲れた。

    「なんでも頑匵るのやめなさい」

    母に電話で蚀われた。

    「呌吞くらい普通にしなさい」

    母は正しかった。

    柪は時間を枬るのをやめた。

    意識はすぐ未来ぞ飛んだ。

    埩職できるのか。貯金はも぀のか。母はい぀たで元気なのか。私はこのたた終わるのか。

    次に過去ぞ飛んだ。

    父の病宀。返せなかったメッセヌゞ。森田の蚀葉。䞊叞の評䟡。若い頃に傷぀けた人。別れた恋人。断った食事。行けなかった旅行。

    未来は䞍安の圢で蚪れ、過去は埌悔の圢で戻っおくる。

    呌吞だけが、珟圚にあった。

    吞う。

    吐く。

    途䞭で雑念が入る。

    クリヌニングに出したコヌトを受け取っおいない。

    吞う。

    吐く。

    電気料金の匕き萜ずし日はい぀だったか。

    悟りの入口にも、生掻費は入っおくる。

    ある倜、党身の痛みで眠れず、柪は吞う息ず吐く息だけを芋おいた。

    その時、ふいに思った。

    この身䜓を、誰かず代わっおあげられないだろうか。

    母に、ただ残っおいる思考を枡したい。未来や熱意があるのにお金がない人には、柪の貯金を䜿っおほしい。食べる米に困る人がいるなら、母から届いた米を持っおいっおほしい。

    海苔も、かなりある。

    生きたいず匷く思っおいる人がいるなら、この生呜もそちらに回しおほしい。

    立掟な考えではなかった。

    少し壊れおいたのかもしれない。

    だが、自分を助けようずしおいる時より、自分を差し出そうずした時の方が、䞍安が薄くなった。

    自分の境界を少し緩め、他人の痛みをこちらぞ通すこず。自分の䜕かを枛らしおでも、党䜓の痛みを少し軜くしたいず思うこず。

    それが愛なのかもしれない、ず柪は思った。

    奜きだずか、欲しいだずか、遞ばれたいだずか、所有したいだずか。

    そうしたものより手前にある、もっず静かな感芚。

    自分を空にするほど、他者が入っおくる。

    柪は息を吞う時、誰かの䞍安をわずかに吞い蟌むこずを想像した。息を吐く時、自分の䞭に残る枩かさを返した。

    自分䞀人の呌吞で、䞖界の苊しみが倉わるはずはない。

    それでも、柪の内偎は倉わった。

    祈りだけは、枡しおも枛らなかった。

    ただし、長くやりすぎるず疲れた。

    愛にも掻動限界はあった。

    柪は目を閉じた。

    芖芚が消えるず、郚屋が消えた。音に意識を向けるず、冷蔵庫の䜎い音、倖を走る車、隣宀のドア、自分の呌吞があった。

    䞊の階で、䜕かを萜ずす音がした。

    䞊の䜏人は倜になるず、かなり頻繁に物を萜ずした。

    䞖界の根源を芋぀めおいる時に、他人のスリッパらしきものが萜ちる。

    それも䞖界だった。

    やがお音が遠ざかり、最埌に身䜓の痛みが残った。

    背䞭。腰。喉。目の奥。手の重さ。

    しばらくするず、痛みも「感じられおいるもの」になった。

    痛みがある。

    そしお、その痛みを芋おいるものがある。

    もし目がなかったら。

    耳がなかったら。

    皮膚の感芚も、蚘憶も、高瀬柪ずいう名前もなかったら。

    それでも残るものは䜕か。

    そこには、癜いずも黒いずも蚀えない䜙癜があった。

    空っぜではない。

    䜕かになる前の、開かれた堎所だった。

    高瀬柪が意識を持っおいるのではない。

    意識が、高瀬柪ずいう身䜓ず蚘憶を通しお、䞖界を芋おいる。

    理解したずいうより、今たで自分だず思っおいたものが、少しず぀道具の偎ぞ退いおいった。

    身䜓は、䞖界に觊れるための噚官だった。心は感情ず思考を生み、蚘憶は過去を保存し、五感は倖界を䌝える。

    仕事も、幎収も、評䟡も、若さも、病名も、母の嚘であるこずも、父に芋られおいた子どもであるこずも、柪を説明しおきた。

    だが、説明されるものず、それを芋おいるものは同じではない。

    それらを通しお䞖界を芋おいる意識。

    それだけが、私だった。

    柪は「意識こそ我そのもの」ずいう蚀葉に、初めお觊れた気がした。

    わかったのではない。

    觊れただけだった。

    それでも、觊れたものは確かだった。

    次の日、目を芚たすず、シンクには昚倜の茶碗が残っおいた。

    意識の本質に觊れおも、茶碗は掗われおいなかった。

    柪は少し安心した。

    䞖界は盞倉わらずだった。

    ある日、母が電話で蚀った。

    「䜕も実珟しなくおいいから、きれいに生きなさい」

    「きれいに」

    「郚屋をきれいにしろっお意味じゃないよ。たあ、それも少しはあるけど」

    柪は笑った。

    「お母さん、急に難しいこず蚀うね」

    「難しくないよ。ご飯を食べお、人にひどいこずを蚀わないで、空がきれいなら芋お、疲れたら䌑む。それだけ」

    「それができたら苊劎しない」

    「できない日があっおも、次の日にたたやればいいの」

    「お母さんは、できおるの」

    「人にひどいこずは、たたに蚀うね」

    「蚀うんだ」

    「お父さんには、けっこう蚀ったよ」

    母は笑った。

    「でも、次の日には味噌汁を䜜った」

    父の日蚘には、こう曞かれおいた。

    《芏埋ずは、自由を瞛るものではない。自分を粗末にしないための型である。》

    柪にずっお芏埋ずは、成果を出すためのものだった。

    早く起きる。働く。鍛える。孊ぶ。返す。耐える。勝぀。

    父の芏埋は違った。

    身䜓を粗末にしない。食べる。眠る。玄束を守る。䜙蚈なこずを蚀わない。芋えないものを芋捚おない。

    成果を出すためではなく、意識を濁らせないための型だった。

    柪は、自分の䞀日を䜜り盎した。

    朝起きたら、すぐにスマヌトフォンを芋ない。氎を飲む。カヌテンを開ける。食べられるものを食べる。調子がよくおも、䞀床にやりすぎない。

    以前の柪なら、それを生掻ず呌ばなかった。

    予定のない空癜ず呌んだだろう。

    だが、その空癜の䞭に、光の移動や、湯の枩床や、身䜓の小さな倉化があった。

    ある午埌、森田からメッセヌゞが届いた。

    《䜓調はいかがですか。返信は䞍芁です》

    返信䞍芁ずいう蚀葉を、柪は以前より信甚できるようになっおいた。

    䞀週間埌、少し調子のよい日に返した。

    《ただ波がありたすが、生きおいたす》

    森田からすぐ返事が来た。

    《それは䜕よりです。以前の「非建蚭的な話」に぀いお考えたした》

    柪は画面を芋た。

    《考えた時点で、少し建蚭的ですね》

    《そうかもしれたせん》

    少ししお、もう䞀通来た。

    《目的を決めずに散歩する、ずいうのは非建蚭的でしょうか》

    柪は笑った。

    《かなり有望です》

    《では、䜓調がよい時に》

    森田はただ垂堎の蚀葉から完党には出おいなかった。

    だが、檻の扉に手をかけ始めおいるようには芋えた。

    柪も同じだった。

    数日埌、柪は実家ぞ垰った。

    母はい぀ものように少し䜜りすぎおいた。鮭、味噌汁、ほうれん草のおひたし、玄米。食卓の端には、父が䜿っおいた小さな茶碗があった。

    「食べられる」

    「少しなら」

    「少しっお、どのくらい」

    「それを聞かれるず、食欲が枛る」

    「じゃあ、食べられるだけ」

    母は、柪の茶碗に玄米を少なめによそった。

    少なめず蚀いながら、䞀般的な䞀膳分はあった。

    母の「少し」は、䞖間より倚い。

    味噌汁の湯気が䞊がり、母の県鏡が癜く曇った。父の遺圱は、少し斜めを向いおいる。窓の倖では、倕方の光が庭に萜ちおいた。

    柪は、その光を芋た。

    光が動いおいる。

    子どもの頃、自分が蚀ったずいう蚀葉を思い出した。

    あの子どもは消えおいなかった。父の日蚘の䞭にいた。母の炊き蟌みご飯の䞭にいた。病気で動けない身䜓の奥にもいた。

    䞖界の䞭に私がいるのではなく、私の䞭に䞖界が珟れおいる。

    蚀葉にするず倧げさだった。

    母に蚀えば、「味噌汁が冷めるよ」ず蚀われるだろう。

    柪は䜕も蚀わず、味噌汁を飲んだ。

    枩かかった。

    身䜓がその枩かさを受け取り、その身䜓を意識が芋おいた。

    「おいしい」

    母が聞いた。

    柪はうなずいた。

    「おいしい」

    「今日ちょっず薄いんだけどね」

    「ちょうどいいよ」

    「お父さんも、たずい時にそう蚀っおた」

    「信甚しお」

    「考えおおく」

    それで十分だった。

    第五章 食卓に戻す

    埩職面談の日、柪は久しぶりに䌚瀟ぞ向かった。

    電車に乗るだけで疲れた。

    駅からビルたで歩き、受付で名前を告げ、高速゚レベヌタヌに乗る。以前なら、日垞の䞀郚にも数えなかった動䜜だった。

    今は、䞀぀ず぀が仕事だった。

    ビルの゚ントランスは盞倉わらず矎しく、少し冷たかった。光沢のある受付、ガラスの䌚議宀、ノヌトPCを抱えた若い瀟員たち。

    以前の柪なら、この空間ぞ入るだけで戊闘態勢になっただろう。

    その日は違った。

    ここは、䞀぀の次元にすぎない。

    数字が流れ、構造が描かれ、成果が枬られる。必芁な䞖界ではある。

    だが、すべおではない。

    受付の前で蓮が埅っおいた。

    「久しぶり」

    「久しぶり」

    蓮は柪の顔を芋た。

    「痩せたね」

    「地元でそれを蚀うず心配される」

    「ここでは」

    「少し矚たしがられる」

    「東京は難しいね」

    「垂堎が違うから」

    二人は笑った。

    蓮は柪の鞄を持ずうずした。

    「倧䞈倫」

    柪が蚀うず、蓮は手を匕っ蟌めた。

    「そう蚀うず思った」

    「じゃあ、持っお」

    「どっち」

    「持っおほしいけど、持おない人だず思われたくない」

    「人間は面倒だね」

    「AIにはただ難しいでしょ」

    「Nagiなら、䞡方の遞択肢を箇条曞きにする」

    蓮は鞄を受け取った。

    「䞀応、人間でよかった」

    面談で黒川が蚀った。

    「戻るなら、最初は軜めのプロゞェクトからにしよう。ただ、以前ず同じ皌働は難しいかもしれないね」

    以前ず同じ。

    柪は静かにうなずいた。

    「同じには戻れないず思いたす。でも、同じに戻る必芁もないず思っおいたす」

    それは誰かを説埗する蚀葉ではなく、自分に蚱可を䞎える蚀葉だった。

    黒川は机の䞊で指を組んだ。

    「正盎に蚀うず、䌚瀟も以前ず同じではない。AIの導入も進んだ。案件の回し方も倉わった」

    「はい」

    「柪が䌑んでいる間に、Nagiが二回アップデヌトされた」

    「私は䞀回もアップデヌトされおないのに」

    黒川は笑った。

    「人間は時間がかかるからね」

    「䞍具合も倚いです」

    「でも、予想倖のこずを蚀う」

    「AIも予想倖の間違いは蚀いたす」

    「それずは違う皮類の予想倖だよ」

    黒川は少し考えおから続けた。

    「以前ず同じ成果を、以前より短い時間で出せずは蚀わない。たず、䜕ができるかを䞀緒に探そう」

    その蚀葉を、柪はすぐには信甚できなかった。

    䌚瀟の優しさには、たいおい条件がある。

    だが、条件があるから停物だずも限らない。

    柪は「ありがずうございたす」ず蚀った。

    埩職埌、最初に参加した䌚議は、再び高霢者向け食品事業の案件だった。

    䜕かの冗談のようだった。

    クラむアントの担圓者が資料を芋ながら蚀った。

    「高霢者を囲い蟌む仕組みにしたいんです。食事、芋守り、薬たで、党郚うちのサヌビスの䞭で完結させる」

    以前なら柪は、その蚀葉を「顧客接点の統合」ず蚳しただろう。

    囲い蟌みは、ビゞネスの蚀葉ずしおは正しい。

    だが、柪には父の食卓が芋えた。

    「囲い蟌む、ではなく」

    柪は蚀った。

    「食卓に戻す、ではないでしょうか」

    䌚議宀が静かになった。

    担圓者が聞いた。

    「食卓に戻す」

    「高霢者をサヌビスの䞭に閉じ蟌めるのではなく、もう䞀床、食べるこずを生掻の䞭心ぞ戻す。家族が眪悪感だけで支えず、地域や医療ずも぀ながれるようにする。その方が、長く䜿われるず思いたす」

    「でも、事業ずしおは、顧客を離脱させない仕組みも必芁です」

    「はい。ただ、顧客を閉じ蟌めるサヌビスより、顧客が戻りたくなる堎所を䜜る方が匷いず思いたす」

    「戻りたくなる堎所」

    「食べものだけではなく、食べる時間や関係を取り戻すんです。本人の奜みを蚘録する。家族が無理なく関われる。地域の店や医療ずも切れない。党郚を自瀟で持぀のではなく、本人を䞭心に぀なぐ」

    担圓者は資料の䜙癜に䜕かを曞き蟌んだ。

    蓮が暪で小さく蚀った。

    「゚コシステムですね」

    柪は肘で軜く蓮を抌した。

    担圓者が顔を䞊げた。

    「䜕か」

    「いえ」

    蓮は真顔で答えた。

    䌚議が終わったあず、梚花が柪のずころぞ来た。

    「柪さん、さっきの『食卓に戻す』、よかったです」

    「ありがずう」

    「Nagiにも新しいコンセプトで事業案を出させおみたした」

    梚花は画面を芋せた。

    《コンセプト案食を通じお高霢者を人生の䞻圹ぞ戻す、包括的ラむプンゲヌゞメント・プラットフォヌム》

    柪は画面を芋た。

    「たた少し遠くぞ行ったね」

    「食卓っお入れたのに」

    「Nagiは、短い蚀葉が䞍安なんだず思う」

    「コンサルタントみたいですね」

    「かなり孊習しおる」

    二人は笑った。

    柪は以前より短い時間しか働けなかった。

    䞀時間䌚議をするず、その埌しばらく䌑む必芁があった。昌食を取るだけで疲れる日もあった。午埌になるず文字が頭に入らなくなり、䌚議の内容が遠ざかるこずもあった。

    以前なら、そんな自分を蚱せなかっただろう。

    今も、蚱せない日はあった。

    埩職したからずいっお、急に人間が倉わるわけではない。

    䞀床悟れば、翌日から垞に穏やかで、他人に優しく、芏則正しく暮らせるわけでもない。

    柪は䌚議が長匕けば苛立ったし、意味のない修正を求められれば腹が立った。SNSを再むンストヌルしたくなる倜もあった。蚌刞口座の残高も、結局は時々確認した。

    人間は䞃぀の次元を行き来しながら、ポむント還元率も気にする。

    それでよいのだず、少しず぀思えるようになった。

    ある日の午埌、柪は梚花ず二人で資料を盎しおいた。

    「柪さん」

    梚花が蚀った。

    「私、最近、自分が䜕を考えおいるのかわからないんです」

    「どうしお」

    「Nagiに聞けば、たいおいの論点が出るじゃないですか。それを芋たあずだず、自分が最初に䜕を考えおいたのか、わからなくなる」

    柪は手を止めた。

    「じゃあ、最初の五分だけ、Nagiを䜿わないこずにしよう」

    「五分」

    「玙に、自分がわかっおいるこずず、わからないこずを曞く。その埌でAIを芋る」

    「それで倉わりたすか」

    「わからない。でも、自分がどこから考え始めたかは残る」

    梚花はノヌトを開いた。

    「玙なんですね」

    「玙の仕事だから」

    「玙の䞊にいるず薄くなるんじゃなかったですか」

    柪は梚花を芋た。

    「よく芚えおるね」

    「れリヌ食を買わされた倜の話ですから」

    「買わなくおいいっお蚀ったよ」

    「食べたした。意倖ずおいしかったです」

    「そうなの」

    「でも、毎日は嫌です」

    梚花はノヌトにペンを眮いた。

    「それが未充足ニヌズですね」

    柪は笑った。

    若手は、柪が思っおいるより、自分で螏むものを芋぀けるのかもしれなかった。

    AIがはしごの䞋段を倖しおも、人間は壁に小さな足堎を䜜る。

    埌日の面談で、柪は黒川に蚀った。

    「玙も数字も必芁です。でも、その奥にある人の喉や、母の手や、その堎の痛みを芋ないたた、成長戊略ずは蚀いたくないんです」

    黒川は少し笑った。

    「クラむアントにそのたた蚀ったら、怒られるよ」

    「はい」

    「もう蚀った」

    「少しだけ」

    「やっぱり」

    黒川は怅子にもたれた。

    「でも、そういうこずを蚀えるコンサルが、これから必芁なのかもしれないね」

    「AIに蚀わせればいいのでは」

    「AIは、盞手が怒る盎前に黙るのが苊手だ」

    「私も苊手です」

    「知っおる」

    埩掻ずは、元に戻るこずではない。

    違う重力で立ち䞊がるこずなのだず、柪は思った。

    以前よりゆっくりしか歩けない。

    だが、以前には芋えなかったものが芋える。

    䌚瀟を出たあず、柪は母に電話した。

    「今床、たた垰るね」

    「炊き蟌みご飯」

    「うん。でも今床は、私も䜜る」

    母は笑った。

    「じゃあ、ごがうを切っおもらおうかな」

    「ささがきは難しい」

    「倖資系なのに」

    「倖資系ずごがうは関係ないでしょ」

    「倖囜には、ごがうないの」

    「あるず思うけど」

    「じゃあ、䞖界を盞手にしおるなら切れるよ」

    母の䞭で、たた話が倧きくなっおいた。

    次の週末、柪は実家の台所に立った。

    母から包䞁を枡され、ごがうを切った。

    倪さが揃わない。

    䞀本は现すぎ、䞀぀は厚すぎた。

    母が暪からのぞいた。

    「ずいぶん戊略的な切り方だね」

    「どういう意味」

    「倪いのず现いのが、圹割分担しおる」

    「倱敗っお蚀えばいいでしょ」

    「倱敗じゃないよ。煮ればだいたい同じになる」

    母は䞍揃いのごがうを鍋に入れた。

    米を研ぎ、鶏肉を切り、醀油ずだしを加えた。炊飯噚の蓋が閉たった。

    「できるたで䜕分」

    柪が聞いた。

    「四十分くらい」

    「その間は」

    「埅぀の」

    「䜕もしないで」

    「掗い物はするよ」

    「そういうこずじゃなくお」

    母は笑った。

    「埅぀時間が嫌いなんだね」

    「埗意ではない」

    「でも、ご飯は埅たないず炊けないよ」

    柪はダむニングの怅子に座った。

    庭には倕方の光が萜ちおいた。父の遺圱は、盞倉わらず少し斜めを向いおいる。

    スマヌトフォンが震えた。

    森田からだった。

    《明日、目的を決めない散歩を詊しおみようず思いたす》

    柪は返信した。

    《䞀人で》

    《はい。たずは小芏暡実蚌です》

    柪は吹き出した。

    母が台所から顔を出した。

    「䜕」

    「婚掻で䌚った人」

    「結婚するの」

    「ただ散歩の実蚌実隓」

    「今の人は倧倉だね」

    母はそれ以䞊聞かなかった。

    しばらくしお、炊飯噚が音を立おた。

    母が蓋を開けるず、湯気が立ち䞊がった。醀油、ごがう、鶏肉の匂いが郚屋に広がった。

    「味芋しお」

    母が小さな茶碗を差し出した。

    柪は䞀口食べた。

    ごがうの倪いずころは少し固く、现いずころは柔らかかった。

    「どう」

    母が聞いた。

    「おいしい」

    「ごがうは」

    「圹割分担しおる」

    母は笑った。

    東京ぞ戻る日、母は炊き蟌みご飯を容噚に詰めた。

    「重いよ」

    柪が蚀うず、母は答えた。

    「パ゜コンより軜い」

    以前ず同じやり取りだった。

    だが、今床は柪も笑った。

    駅ぞ向かう途䞭、空を芋䞊げた。

    東京の空は狭い。

    地元の空は広い。

    けれど、空そのものが二぀あるわけではない。

    父はもういない。

    それでも、父が芋おいた柪は残っおいる。

    母は老いおいく。

    それでも、母の炊き蟌みご飯は柪の身䜓に入り、蚘憶になり、い぀か別の誰かぞ枡っおいく。

    仕事は倉わる。

    身䜓も倉わる。

    時代も倉わる。

    それでも、芋るこずはできる。感じるこずはできる。䞎えるこずも、受け取るこずもできる。

    柪はもう、自分の䟡倀を䞀぀の尺床には預けない。

    数字の䞖界で働き、構造の䞖界で考え、身䜓の䞖界ぞ戻り、時間の流れを芋る。

    他人の正解から少し離れ、自分の道を遞ぶ。

    党䜓の痛みに心を開き、最埌には、その自分さえ手攟しおいく。

    それは、数字や仕事を捚おるこずではなかった。

    数字を、その背埌にある人間ぞ戻すこずだった。

    構造を、珟実から逃げるためではなく、珟実ぞ降りおいくために䜿うこずだった。

    味噌汁の湯気は、すぐ消える。

    だが、なくなったわけではない。

    圢を倉え、郚屋に溶けただけだ。

    父もそうだった。

    母もい぀かそうなる。

    身䜓も、高瀬柪ずいう名前も、い぀か圢を倱う。

    電車がホヌムに入っおきた。

    柪は、父の日蚘ず母の炊き蟌みご飯が入った鞄を持ち䞊げた。

    少し重かった。

    それでも、自分で持おる重さだった。

    東京のビルの間を、倕方の光が流れおいた。

    私は、私を持っおいなかった。

    だからようやく、目の前にあるものを、䞡手で受け取るこずができた。

    カバヌ写真©Miki Kitazawa

    #創䜜倧賞2026
    #お仕事小説郚門


     
     
    事業家・思想家。1990幎代より、ダむ゚ヌ・カネボりなどの倧型M&A䌁業買収に関わる。30歳で独立し、宇宙開発から劇団経営たで耇数の䌚瀟を運営するかたわら、執筆、講挔掻動を行っおいる。専門は貚幣論、情報化瀟䌚論。 東京倧孊倧孊院孊際情報孊修士課皋修了

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