選択肢がある社会と、選択できる社会は、同じなのだろうか。
選択肢が増えれば、人は自由になる。私は、なんとなくそう思ってきました。でも、制度があっても使えない。支援があっても頼れない。「選んでもいい」と思えないこともある。では、私たちが「本人が選んだ」と呼んでいるものは、本当にすべて、その人が選べたものなのでしょうか。「選べる」ということを考えてみました。
選択肢は、多い方がいい。
私は、なんとなくそう思ってきた。
仕事を選べる。
住む場所を選べる。
学校を選べる。
病院を選べる。
働き方を選べる。
選択肢が増えることは、自由が増えることだと思っていた。
地方について考えるときも、同じだった。
地方では、都市部に比べて選択肢が少ないことがある。
仕事。
教育。
医療。
交通。
買い物。
だから、地方でも選択肢を増やせばいい。
そう考えていた。
でも最近、少し引っかかるようになった。
選択肢があることと、それを選択できることは、本当に同じなのだろうか。
病院があれば、病院を選べるのか。
たとえば、病院がある。
車で一時間の場所に。
制度上は、選択肢がある。
でも、車を運転できない人にとって、その病院は本当に選択肢なのだろうか。
では、バスを走らせればいい。
交通手段ができれば、病院へ行ける。
でも、一日に一本しかなかったら。
診察時間と合わなかったら。
では、オンライン診療があればいい。
家から診察を受けられる。
でも、スマートフォンを使えなかったら。
こう考えていくと、少しずつ見え方が変わってくる。
問題は、選択肢の数だけではない。
その選択肢まで、たどり着けるかどうか。
なのかもしれない。
仕事があれば、働き方を選べるのか。
仕事も同じかもしれない。
求人がある。
だから、仕事を選べる。
本当にそうだろうか。
子どもの迎えがある。
家族の介護がある。
通勤できる時間が限られている。
求人票には、たくさんの仕事が並んでいる。
でも、その人が実際に選べる仕事は、ほとんど残っていないかもしれない。
数字の上では、選択肢がある。
けれど、その人にとっては選択できない。
そう考えると、
「選択肢がいくつあるか」と「その人がいくつ選べるか」は、別の話なのかもしれない。
では、選べない理由をなくせばいいのか。
ここまで考えると、答えは簡単に見える。
選択肢を増やすだけではなく、そこまでの障害をなくせばいい。
交通がなければ、移動を支える。
情報がなければ、届ける。
デジタルが苦手なら、誰かが手伝う。
子育てや介護があるなら、それを支える。
そうすれば、選択できる人は増える。
私は、いったんそう考えた。
でも、ここでもう一つ引っかかった。
支援があれば、人は本当に選べるのだろうか。
「選んでもいい」と思えるだろうか。
制度がある。
相談窓口もある。
「困ったら相談してください」と書いてある。
それでも、相談できない人がいる。
「これくらいで相談してはいけない」
「もっと大変な人がいる」
「人に迷惑をかけたくない」
そう思っていたら、その人にとって相談窓口は、本当に選択肢なのだろうか。
仕事でも同じかもしれない。
休む制度がある。
上司も「休んでいい」と言っている。
それでも、
「自分だけ休めない」
と思っていたら。
制度上は、選べる。
そこへたどり着くこともできる。
それでも、選べない。
ここまで来て、私はようやく気づいた。
選択肢と選択の間には、いくつかの扉があるのかもしれない。
選択肢が、存在していること。
その選択肢まで、たどり着けること。
そして、
「私は、それを選んでもいい」と思えること。
選択肢を用意するだけでは、自由にはならない。
アクセスできるようにするだけでも、まだ足りないのかもしれない。
私にも、選ばなかったことがある。
ここで、自分のことを考えてみた。
私にも、
「やらなかったこと」はたくさんある。
あとから考えれば、選択肢はあった。
でも、そのときは選ばなかった。
忙しかった。
知らなかった。
誰に聞けばいいか分からなかった。
少し怖かった。
周りに迷惑をかけると思った。
そして、もしかすると、
「自分がそれを選んでもいい」と思えていなかった。
そんなこともあった気がする。
外から見れば、
「本人が選ばなかった」
で終わる。
確かに、最後に選ばなかったのは私だ。
でも、
その一言だけで、本当に全部説明できるのだろうか。
「本人が選んだ」で終わらせていいのだろうか。
こんな言葉に出会うことがある。
「若者は都会を選んだ」
「住民が利用しなかった」
「参加する人が少なかった」
「本人が希望しなかった」
もちろん、本当に本人がそう選んだ場合もある。
その選択は尊重されるべきだと思う。
でも、その前に、
その選択肢を知っていたのか。
そこまでたどり着けたのか。
誰かに相談できたのか。
そして、
それを選んでもいいと思える状況だったのか。
そこまで見てからでなければ、
「本人が選んだ」と言い切れない場合もあるのではないだろうか。
でも、「選べなかった」と決めつけてもいけない。
ここまで書いて、また一つ怖くなった。
では、
「選ばなかった人には、選べない事情があった」
と考えればいいのだろうか。
それも少し違う気がする。
何もかもを、
「仕方がなかった」
「環境のせいだった」
「選べなかった」
と説明してしまえば、
今度は、その人が自分で選んだことまで奪ってしまう。
本人が、
「私はこれを選んだ」
と言っているのに、
外から、
「いや、あなたは選ばされたのだ」
と決めつけることもできてしまう。
それは、理解ではなく、
別の形でその人の選択を奪うことになるのかもしれない。
だから難しい。
「本人が選んだ」で切らない。
でも、
「本人には選択肢がなかった」とも決めつけない。
その間にあるものを、もう少し丁寧に見なければならないのだと思う。
選択を見たあとも、その人を見続けられるだろうか。
誰かの選択を見たあと、
私たちは、その人に名前をつけることがある。
「都会を選んだ人」。
「参加しなかった人」。
「支援を利用しなかった人」。
「残った人」。
「出ていった人」。
そう名前をつければ、説明は簡単になる。
でも、その人が、
何を知っていたのか。
何にたどり着けなかったのか。
何を怖いと思ったのか。
何を選んでもいいと思えなかったのか。
そこまで見れば、
同じ「選ばなかった」でも、まったく違って見えるかもしれない。
選択肢を増やす、その先に。
選択肢を増やすことは、やはり大切だと思う。
一つしかないより、二つある方がいい。
でも、それだけではない。
選択肢がある。
そこへたどり着ける。
困ったときには誰かに頼れる。
そして、
「これを選んでもいい」と思える。
そのうえで最後は、
自分で選べる。
ここまで考えてきたのに、
私はまだ、
誰かの選択を見て、
「本人が選んだ」
とも、
「選べなかった」
とも、
簡単には言えない。
だから最後に、二つの問いを置いておきたい。
私たちが、
「本人が選んだ」と呼んでいるものの中に、
本当は、選べなかったものが混じってはいないだろうか。
そして、
「選べなかった」と思っているものの中に、
本人が大切に選んだものまで、隠してはいないだろうか。
選べることについて考えていたら、その先にもう一つ問いが残りました。
選択を個人に委ねることと、その選択に伴うものまで個人だけに委ねることは、同じなのでしょうか。
▶︎『子どもを育てることは、どこまで家庭だけのことなのだろうか。』
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