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リミナぎ杴

    ― 神の戯れと、その記憶 ―

    プロローグ

    夜明け前、男は海岸に立っていた。

    岩井海岸の砂は、この時間まだ夜の湿り気を含む。水平線の向こうがかすかに白みかけているだけで、空も海もまだほぼ同じ色だ。境界が溶けている。どこまでが空でどこからが海か、目では判別できない。

    カヤックは砂の上で静かに待っていた。艇体の側面に、製造メーカーが印刷したモデル名が読める——LEELA。
    その意味と響きの良さが、この艇を選ぶ最後の一押しになった。縁というものは、往々にして理屈より先にやってくる。

    宗像渉、五十一歳。
    千葉市内でビジネスホテルを経営して、十年になる。前職を辞めて飛び込んだ世界だ。朝は宿泊客を見送り、昼は従業員の顔色を読み、夕方は資金繰り表とにらめっこ。そんな日々を続けてきた男が、休みの朝だけ南房総へ車を走らせ、海に出る。

    渉の胸には、ひとつのしこりがあった。
    三日前、長谷川が辞めると言ってきた。開業以来ずっとフロントを預けてきた、渉より十ほど年上の男だ。深夜のトラブルも、口うるさい常連も、新人の教育も、すべて長谷川が黙って引き受けてきた。渉が外に出て新しい商談をまとめられたのも、背中を任せられる長谷川がいたからだった。
    理由は、田舎の母の介護だという。筋は通っている。引き止める言葉がないことくらい、渉にもわかっていた。それでも最初に湧いたのは、心配でも感謝でもなく——裏切られた、という冷たい感覚だった。帳簿の貸方と借方が、ひとりでに頭の中で動きだす。長谷川に貸しがあるとでもいうように。そんな勘定をしてしまう自分に、渉は嫌気がさしていた。
    答えの出ないまま、渉は海に来た。

    昨日の夕方、ホテルの近くの小さな洋菓子店に寄った。一年程前にできた店だ。気がふさいでいて、まっすぐ帰る気になれなかった。ガラスケースの焼き菓子をいくつか買った。応対した若い女性は、ほとんど言葉を発しなかった。会釈と、こちらが戸惑うほど丁寧な手つきだけで、品物を包んでくれた。無愛想とは違う。何か、声以外のものが伝わってくる人だった。渉は釣り銭を受け取りながら、不思議と心が少しほどけるのを感じた。その包みは今、ザックの中にある。海の上で食べるつもりで、持ってきた。

    ライフジャケットのバックルを締めようとして、渉は少し手間取った。ここ一、二年で、腹まわりに肉がついた。締め具合を一段ゆるめながら、まあ、こんなものだろうと思う。パドルを握る手の甲には、いつのまにか薄いしみがいくつか浮いている。五十一歳。それでも、海の上ではまだ若いつもりでいられる。少なくとも、そう思い込んでいるあいだは。
    LEELAを波打ち際まで引いた。コックピットに体を沈め、腰を落ち着ける。砂底の感触が消え、艇が浮力を持つ瞬間——いつもここで、何かが入れ替わる気がした。陸の人間から、海の生き物へ。

    パドルを一度、軽く持ち上げた。ブレードの先から、海水が一滴、糸を引いて落ちた。滴は海面に小さな輪を描き、次の瞬間にはもう、どれがその滴だったのか見分けがつかなくなっていた。
    渉はその様子を、なんとなく目で追っていた。それから、パドルが水を捉えた。
    渉は朝日とともに、沖へ向かって漕ぎ出した。

    第一章 物差しの国

    一時間ほど漕いだところで、渉は館山湾の沖合に停止した。
    パドルをLEELAの艇体に渡し、両腕を休める。この時間の館山沖は、驚くほど静かだ。鋸山の稜線が北に黒く見え、南には伊豆大島のシルエットが浮かぶ。漁船が遠くを横切るが、それすら遠い世界の出来事のように感じる。

    水を飲もうと、デッキのウォーターボトルを手に取った。
    薄い青色の、シンプルなボトルだ。側面にフィンランド語で何か書いてある。三年前、ヘルシンキ郊外の湖でカヤックを借りた際、湖畔の小さな売店で間に合わせに買ったものだった。

    あの夏のことを、渉はよく覚えている。
    出張の帰り、二日だけ寄り道した。白夜に近い季節で、夜の九時を過ぎても空が薄明るかった。湖面は鏡のように静かで、白樺の林が水に映っていた。
    漕いでいると、岸辺の小屋でサウナに入った人たちが、次々と湖に飛び込む声が聞こえた。笑い声。水しぶきの音。誰かが渉に気づいて手を振った。渉も振り返した。言葉は通じなくても、何かが通じた。
    あの時、渉は確かに「いい国だな」と思った。人々の顔が、どこか静かで柔らかかった。日本の同時刻の通勤電車のなかで見かける、削られて空になったような静けさではなく、最初から満ちていたような——そんな静けさだった。

    そのボトルを今日も持ってきたのに、特に理由はない。容量が大きく使いやすいからだ。しかし館山の海の上でフィンランドの文字を見ていると、あの湖の静けさが戻ってくる気がした。

    昨夜、スマートフォンで見た記事を思い出した。「世界幸福度ランキング発表——フィンランドが九年連続首位、日本は六十一位」。

    六十一位。
    フィンランドのあの湖で感じた和やかさは、確かに本物だった。けれど、あれだけが幸せの形なのだろうか。うまく言葉にはならないが、その順位の付け方に、どこか小さな引っかかりがあった。記事には、幸福度を測る変数が書いてあった。GDP、社会的支援、健康寿命、自由、寛大さ、腐敗の少なさ——六つ。一見、中立で普遍的に見える。

    渉はボトルを艇に戻し、水平線を眺めた。
    この、館山沖の朝の静けさを、どうやって数字にするんだ。

    物差しは、測ろうとしたものしか測れない。測ろうとしなかったものは、存在しないことになる。

    フィンランドが幸せで、日本が幸せでない——その結論は、ある特定の「幸せの形」を正解とした時にだけ成り立つ。個人が自律し、自己を表現し、経済的に豊かであることを「よい状態」とする、その価値観の中でだけ。

    集団の和、義理と恩、無常を受け入れる心——それらは、その物差しには刻まれていない。日本人が「幸せですか」と聞かれて控えめに答える傾向も、数字には映らない。

    思い出したのは、かつて読んだ短い話だった。

    ※

    都会から来たコンサルタントが、港でのんびり釣りをしている漁師に言った。
    「なぜもっと働かないんですか。事業を拡大すれば、もっと稼げる」
    漁師は首を傾げた。「なんのために?」
    「成功すれば、いつか好きな時間に釣りができる」
    漁師は静かに笑った。「私は今、すでにそうしています」

    ※

    渉はこの話を、以前は「漁師の勝ち」という話だと思っていた。しかし今、海の上でもう一度考えると、少し違う気がした。

    コンサルタントが間違っていたわけではない。世界を見聞し、事業を拡大する——その経験も、確かに豊かさの一形態だ。問題は、漁師を「遅れている」と見たその視線にあった。自分の物差しだけが物差しだと思い込む、その盲点に。

    「日本は一律に遅れている」——その言葉そのものが、西洋的価値観の押しつけである可能性がある。

    渉はパドルを再び手に取った。漕ぐでもなく、ただ水面に触れさせる。
    波紋が広がり、消えた。

    第二章 文明という波

    太陽が水平線を離れた。
    渉は南へ漕ぎ始めた。館山の岬を遠くに見ながら、体が動きたい方向へパドルを引く。

    漕ぎながら、考えは続く。

    さっき自分は、幸福を測る物差しを疑った。けれど、と渉は思う。その物差しを生み出した文明そのものは、本当に幸せへ向かっているのだろうか。

    幸福度の物差しが西洋的な価値観の産物だとすれば——個人主義、自己表現、経済的豊かさを最上位に置く価値観——その価値観そのものが、実は現代の問題の根っこでもあるのではないだろうか。

    個人の権利、私有財産、競争原理——近代がつくりあげた仕組みは、確かに多くのものを人類に与えた。渉のホテルも、その恩恵の上に成り立っている。自由も、豊かさも、渉自身がその果実を受け取ってきた。

    自分さえよければいい。今だけよければいい。経済最優先。

    環境が壊れていく。房総の海も、かつてより透明度が落ちたと漁師たちは言う。それでも経済成長は止まらない。今だけよければいいからだ。未来の世代のツケなど、今の帳簿には載らない。

    人々の心も疲弊していく。うつ病、孤独死、過労死。豊かになったはずなのに、なぜか。自分さえよければいいという文法が、共同体を解体していくからだ。

    渉のホテルにも、過労で倒れたスタッフが過去に一人いた。若い男だった。開業まだ数年、繁忙期が続いて人手が足りなかった。残業が積み重なっているのは知っていた。しかし止められなかった。経営者として、渉は今でも時々その判断を思い出す。
    あの時も、現場で踏ん張ってくれたのは長谷川だった。倒れた若者の穴を、長谷川が黙って埋めた。渉が事後の対応に追われている間、何も言わずに現場を支えていた。
    ひとつ、忘れられない夜がある。その騒動のさなか、渉が深夜のフロント裏で一人、放心したように立ち尽くしていた時だ。足音もなく長谷川が現れ、何も言わずに缶コーヒーを一本、渉の手に握らせた。まだ温かかった。「社長」とも「大丈夫ですか」とも言わない。ただ自分の缶を開けて、隣で一緒に飲んだ。二人とも、ひとことも喋らなかった。缶の温もりと、隣に人がいるという事実だけが、あの夜の渉を支えていた。
    ——その長谷川が、辞める。胸のしこりが、また疼いた。自分は結局、人を「戦力」としてしか見てこなかったのではないか。その勘定をしてしまう自分が、もう答えを言っている気がした。

    パドルを止め、息を整えた。少し漕ぎすぎた。

    かつて読んだ、エックハルト・トールの一節が浮かんだ。

    ※

    Egoの本質は「もっと、もっと」という飢えだ。満足した瞬間に次の欲望が生まれる。Egoは自分が存在し続けるために、常に「何かが足りない」という感覚を必要とする。

    ※

    経済成長とは、その渇きを燃料にして動く機械なのかもしれない。

    仏教はこれを「渇愛」と呼んだ。満たされることのない渇き。それが苦の根源だと、釈迦は二千五百年前に説いた。

    そして渉は、それを他人事として聞いていたわけではなかった。自分もその渇きの中で生きてきた。もっと客を、もっと売上を——その動機で十年走ってきた。文明を批判する資格など、本当はない。自分もまた、その流れの中の一滴だ。

    ただ、流れの中にいる者として、ふと立ち止まって考えてみたかった。なぜ自分たちは、これほど豊かになっても渇き続けるのか。

    ただ、その仕組みはどれも「私」と「他者」の境界線を前提にしている。その境界線が、豊かさと同時に、孤独や渇きも生み続けているのかもしれない。与えられたものと、奪われたものは、同じ根から来ている。

    崩壊するのだろうか。それとも変容の前夜なのだろうか。

    遠くを通った漁船の波が、LEELAの舳先を順に持ち上げた。
    艇はゆっくりと揺れ、また静かになった。

    第三章 丸木舟の記憶

    正午近くになって、渉は艇を止め、おにぎりを食べた。
    鳥が南へ飛んでいくのを目で追いながら、去年の秋のことを思い出した。

    加曾利貝塚の博物館へ行ったのだった。千葉市内にある縄文時代の貝塚で、特別展示として丸木舟の復元品が展示されていた。
    その解説文に、渉は思わず足を止めた。縄文人たちは、この千葉の海へ丸木舟で漕ぎ出していた——と書いてあった。五千年以上前、木をくり抜いただけの舟で外海へ出て、貝を採り、魚を獲り、時には遠い島へも渡ったという。

    渉はその復元品をしばらく見ていた。全長四メートルほどの、ごつごつした木の塊。現代のカヤックとは似ても似つかない。しかし本質は同じだ。水に体を浮かべ、沖へ向かう。

    五千年前の縄文人と今の渉が、同じ千葉の海を漕いでいる。

    その時感じた不思議な連続性を、渉は今また思い出していた。

    縄文時代は戦争がなく、平和だったと言われる。暴力による死亡率が、世界の他地域と比べ際立って低かったという研究もある。一万年以上、同じ列島で人々が生き続けた。

    だが、と渉は思う。平和だったことと、幸せだったことは、同じではない。暴力は、骨に残る傷で測れる。しかし幸せは、骨に残らない。病気の苦しみ、寒さ、飢え、愛する者との別れ——それらは数字にならない。一万年の平和の中で人々が満ち足りていたのか、別の苦しみを抱えていたのか、私たちは知らない。

    今のこの国も、戦争はなく、豊かで、安全だ。それでも、幸せかと問われれば、人は口ごもる。平和と幸福は、どうやら別の物差しで測られている。

    だから「縄文ユートピア」という語られ方を、渉は鵜呑みにしない。それはたいてい、現代人の不満の鏡だ。競争に疲れた人には「協調の時代」に、自然破壊に怒る人には「共生の時代」に見える。過去は、見る者の渇きを映してしまう。

    それでも、これだけは確かだ、と渉は思った。

    幸せだったかどうかはわからない。それでも、五千年前の人間も、こうして海に出ていた。
    パドルの形は違う。艇の素材も違う。しかし、水の上に浮かぶ感覚は、きっと同じだ。波が艇底を叩く感触。潮の匂い。水平線の遠さ——。

    渉はLEELAの艇体を手で軽く叩いた。
    リーラ。神の遊戯。
    縄文の人間も、この海で同じ遊戯の中にいた。時代が変わっても、海は変わらない。遊戯は続いている。

    第四章 表層と深層

    午後の光の中、渉は再び漕ぎ始めた。今度は岩井へ向けて、ゆっくりと。

    五千年変わらない海。その上で、渉は自分自身の問いに戻っていった。文明だの時代だのと大きなことを考えてきたが、結局、自分はなぜ、これほど幸せを探し続けてきたのだろう。

    幸せを求めれば求めるほど、幸せは遠ざかる——これはなぜだろう。

    求めるという行為には「今、ない」という前提が隠れている。「幸せになりたい」と思う時、すでに「今はない」と宣言している。

    ホテルを始めた頃、渉は毎月の数字に一喜一憂していた。売上が目標を超えれば浮き立ち、下回れば沈んだ。何かを達成するたびに、次の何かが必要になる。ゴールポストは常に動いた。

    これが表層の幸せだ、と渉は今思う。条件付きの幸せ。何かがあるから幸せ。しかしそれは常に、失う可能性と隣り合わせだ。

    そして渉は、もう一歩進んで考えた。
    条件を追いかける時、人は足りないものを埋めようとして動いている。欠乏が動機になっている。しかし、もともと満ちているのだとしたら——埋めるためではなく、あふれ出るものを表現するために動くことになる。不安から動くのか、充足から動くのか。渉はまだ掴みきれていなかったが、その問いの輪郭だけは、確かに見えてきた気がした。

    パドルをLEELAの艇体の上に渡し、漂流しながら考えた。

    海を見ていて、渉は一つのイメージを得た。

    嵐の日の海面。波が波を呼び、収拾がつかない。風が変われば、また新たな波が立つ。表層はいつも、外の条件に翻弄される。

    しかし水深百メートルでは——台風が来ても、ほとんど動かない。嵐を知らぬように、深海は静かに在る。

    心も同じだ。

    表層には、喜怒哀楽の波が立つ。売り上げが落ちれば不安になり、長谷川が辞めると言えば動揺する。これは自然なことで、否定する必要はない。波は立って当然だ。

    しかし深層には、条件に左右されない静けさがある。

    仏教が言うニルヴァーナ。ヴェーダーンタが言うアーナンダ——至福。トールが言う「今ここ」の臨在。アリストテレスが言ったエウダイモニア。東西の智慧は、異なる言葉で似た方向を指しているのかもしれない。

    渉は水面に手を浸した。
    十一月の南房総の海は、もうかなり冷たい。その冷たさが、思考ではなく感覚に引き戻してくれる。

    そして気づいた。

    表層の波も、深海の凪も、同じ水でできている。
    境界すら、ない。

    荒れた海面を「表層」、静かな深海を「深層」と呼んで分けているが、それは人間が便宜上引いた線だ。水そのものに、上も下も、表も深もない。

    幸福とは、感情ではなく存在の様態なのかもしれない。求めて得るものではなく、余計なものが剥がれた時に残るもの。波が「幸せかどうか」を感じているだろうか。感じていない——ただ、在る。

    その「ただ在る」という状態が、本来の幸せの姿なのではないか。
    ——とはいえ、明日ホテルに戻れば、また数字に一喜一憂する自分がいるに決まっている。悟ったような気になっているだけかもしれない。渉は少し苦笑した。気づきとは、何度もつかんでは取りこぼし、また拾いなおすものなのだろう。それでいい、という気もした。

    渉は手を引き上げ、水を切った。しばらく、何も考えずにいた。

    第五章 滴の気づき

    午後も半ばを過ぎた頃、渉はパドルを艇体の上に渡し、空を仰いだ。
    雲が一つ、ゆっくりと形を変えながら流れていく。白く、柔らかく、盛り上がった輪郭が、午後の光の中でふっくらと光っている。

    生クリームみたいだ、と渉は思った。

    その言葉が浮かんだ瞬間、昨日の夕方の洋菓子店の女性の顔が浮かんだ。ほとんど言葉を発さず、ただ丁寧に焼き菓子を包んでくれたあの若い女性。

    そういえば、と渉は思い出した。あの店を、以前テレビで見たことがある。地域の新店を紹介する番組だった。店主は幼い頃から場面緘黙症で、人前に出ると声が出なくなる、と。だからレジに立つのは家族で、彼女はいつも厨房にいるのだと。画面の中で、彼女は黙々と生クリームを絞っていた。声は出ないのに、その手だけは、迷いなく動いていた。
    昨日の夕方、店先に立っていたのは、その人だったのかもしれない。声の代わりに、あの丁寧な手つきが、何かを渉に手渡していた。

    番組を見た時、渉は「不憫だ」と思った。あんな不自由を抱えて生きるのは、どれほど辛いか。人生は不平等だ、アンフェアだ、と少し悲しくもなった。

    しかし昨日、あの店で心がほどけたことを思うと、その見方が揺らぐ。

    哀れみとは、距離を前提とする感情だ。「あの人はかわいそう、私は幸いにも違う」——上から見下ろす視線が、その中に入っている。同情は親切に見えて、分離を強化する。

    しかし——

    もし全ての存在が、大海の波がはじけて生まれた、それぞれの一滴だとしたら。

    場面緘黙が、良かったわけではない。その不自由に意味があった、と言いたいのでもない。ただ彼女は、その不自由を抱えたまま、それでもあれだけの温かさを、声の代わりに手から手へ届けていた。不自由が消えたわけではない。しかし、それを「かわいそう」の一語で塗りつぶすことの浅さに、渉は気づく。

    それは哀れみではなく、敬意だ。同じ水の、違う形。

    滴という比喩を、渉はもう少し追った。

    宇宙という大海から、一滴が生まれる。海から分かれた瞬間、その滴は「分離」を経験する。私とあなた、内と外——境界が生まれ、孤独が、不安が生まれる。そして滴は幸せを探し始める。自分が幸せの海から生まれたことを忘れて。

    人生とは、この忘却と想起の物語ではないか。

    もともと幸せの一部である自分が、幸せを理解しようとしている。
    海水が「海とは何か」を探している。

    渉は小さく笑った。
    微笑ましい話だ。

    その時、何かが見えかけた気がした。手を伸ばせば触れられそうな、しかしまだ言葉にならない何かが。掴もうとすると逃げてしまう、薄明かりのようなもの。渉はそれを無理に掴もうとせず、ただ、その気配の中に座っていた。

    第六章 リーラ

    西の空が赤みを帯び始めた頃、渉は岩井海岸へ最後の漕ぎを始めた。

    体は十分に疲れていた。肩甲骨の内側が熱い。しかし不思議と、重さがない。体の疲れと心の軽さが、同時にある。

    漕ぎながら、渉はLEELAという名前のことを改めて考えていた。

    リーラ。神の遊戯。
    艇を買った時は、辞書的な意味をなぞっただけだった。しかし今、一日の漕ぎを終えようとしている渉の中で、その言葉が初めて中身を持ち始めていた。宇宙が神の自己を楽しむ遊びなのだとしたら——悲劇も喜劇も、苦しみも歓びも、全てがその遊戯の一部だ。波が立つのも、凪ぐのも、嵐が来るのも、同じ遊びの中の出来事だ。

    今日一日の漕ぎの中で渉りついた場所が、買った時には知識でしかなかったその言葉と、静かに重なった。

    この艇に乗って今日漕いできたことも、リーラだ。
    十年間、ホテルを経営し、従業員と悩み、押し寄せる環境変化の波と格闘してきたことも、リーラだ。
    あの洋菓子店の店主が、人前では声を失くしたまま、それでもお菓子を作り続けていることも、リーラだ。
    五千年前の縄文人が、丸木舟でこの海に漕ぎ出したことも、リーラだ。
    フィンランドの湖で、夜の九時に湖へ飛び込んだ人たちが笑っていたことも、リーラだ。

    どれが正しくて、どれが間違っているのではない。全部、同じ海の、違う波だ。

    ふと、あのフィンランドのウォーターボトルのことを思った。今日一日、デッキに乗っていた。薄い青のボトル。フィンランドで買い、日本の海でも使っている。
    あの湖で手を振った人たちを、渉は思い出した。言葉も文化も、幸福の形も違うかもしれない。しかし同じ水でできた滴として、一瞬つながった。

    それで十分だ、と渉は思った。

    そして、長谷川のことが、また浮かんだ。
    今度は、朝とは違う形で浮かんだ。長谷川は、渉が「与えた」から存在していたのではない。彼もまた、彼自身の海から生まれた一つの滴だ。十年間、たまたま同じホテルという水たまりで、渉の滴と長谷川の滴が隣り合っていた。それだけのことだったのかもしれない。今、彼は母のもとへ還ろうとしている。滴が別の流れへ移るのを堰き止める権利など、はじめから誰にもなかった。
    問題は何も解決していない。長谷川は辞めるし、フロントには穴があく。求人も引き継ぎも、明日からまた頭の痛い現実が待っている。それは変わらない。
    変わったのは、渉の中の温度だった。裏切られたという冷たさが、いつのまにか薄れている。代わりに浮かんできたのは、あの夜の缶コーヒーの温もりだった。何も言わずに手に握らせてくれた、あの一本。十年間、同じ水たまりで隣にいてくれた。それは「与えた・返してもらう」という帳簿にはどうしても載らない種類のものだった。
    帰ったら、ちゃんと礼を言おう。引き止めるためでなく、ただ、礼を。あの夜、自分が握らせてもらった缶コーヒーの一本を、今度はこちらから渡せたらいい。それくらいのことしか、できないけれど。

    波が一つ、LEELAを後ろから押した。渉はその力を借り、岸へ加速した。

    夕暮れの岩井海岸が、オレンジ色に染まっている。砂浜に人影がいくつか見えた。犬を連れて散歩する人。子供を抱いた夫婦。カメラを持った老人。それぞれの一日の、それぞれの夕暮れを過ごしている。

    全員が、同じ水でできた滴だ。

    最後の波に乗って、LEELAが砂底を擦った。渉は艇から降り立った。
    足が砂を踏む。重力の感覚が戻ってくる。陸の人間に戻る瞬間。

    エピローグ

    艇を引き上げながら、渉は今日一日を整理しようとした。しかし、できなかった。考えは言葉になる前に、別の何かになっていた。

    ライフジャケットを外し、LEELAの横に腰を下ろした。日中の陽射しを吸った砂は、しっかりと乾いていた。夜明け前に踏んだ湿った砂とは、もう別物だ。空は夕焼けから夜へ、ゆっくりと移ろいつつある。

    渉は静かに笑った。

    ザックから、焼き菓子の包みを取り出した。昨日、あの店主が声の代わりに、丁寧な手つきで包んでくれたものだ。一つ口に運ぶ。素朴な、しかし作り手の時間がそのまま伝わるような味がした。声がなくても、これだけのものが手から手へ渡る。渉はもう一度、海を見た。

    今日の旅の出発点は「世界で一番幸せな国はどこか」だった。しかし帰り着いた場所は「どこにいても、すでに幸せの中にいる」だった。

    フィンランドも日本も、結局は同じ海の上だった。

    明日からまた、同じ資金繰り表と向き合い、同じように宿泊客を見送るのだろう。何も変わらない。ただ、欠けたものを埋めるためでなく、満ちたものがあふれるように——そんなふうに動けたら、と渉は思った。海の上で輪郭だけ見えていた問いに、いつのまにか、体のほうが先に答えはじめていた。

    コンサルタントも漁師も、どちらも正しい。

    せっかく滴になる機会を得たのなら、滴にしかできない経験をするのもまたよし。
    どうせもともと幸せなのだから。

    渉はLEELAの艇体に印刷されたモデル名を、指でなぞった。

    LEELA。
    リーラ。
    神の遊戯。

    買った時、この名前は艇を選ぶ最後の一押しになった。ただ響きがよかった。意味も、よくわかっていなかった。
    しかし今は少し違う気がする。
    自分がリーラを選んだのではなく——リーラが、自分を選んだのかもしれない。

    嵐の日も、凪の日も、海は海だ。
    波は立っては消え、消えては立つ。
    その全てが、同じ水でできている。

    五千年前も、今日も、明日も。
    滴は海へ還り、また滴になる。

    還りながら、滴は思い出す。
    自分がはじめから、海であったことを。

    幸せを探している、その意識そのものが、
    幸せでできている。

    了

    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    海とカヤックが好きです。 釣り糸を垂れながら、幸せや意識、生きる意味について考えています。 経営の傍ら綴る言葉が、本来そこにあった幸せを、誰かが思い出すきっかけになれば。

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