
その壁は、彼の自画像だった。佐伯祐三ーパリの路地に刻まれた、猛々しさと洗練
3年以上も前のことだ。
会社帰りの夕暮れ、僕は東京ステーションギャラリーの煉瓦造りの空間にいた。 開催されていたのは『佐伯祐三展』。
展示室を進むにつれ、僕はひとつのモチーフの前から動けなくなってしまった。 佐伯が30歳という短い生涯を閉じる直前、狂ったように精力的に描き続けた、パリの街並みの「壁」だ。
それは、決して写真のようにリアルというわけではない。それなのに、ホントに鳥肌が立つくらい細部まで描き込まれていて、ただただ圧倒的な質感でこちらに迫ってくる。
隣にいた女性たちが「素敵〜、お洒落〜」と連発していた通り、構図も画法も抜群に洗練されているのだが、その表層のモダンさの向こう側に、「狂気」に近い執念があることに僕は気づく。
結核に冒され、吐血しながらも、何かに急かされるようにキャンバスに向かい続けた佐伯。 あの壁を見ていると、ひとつの確信が胸に湧き上がってくるのだ。
「あの壁は、佐伯自身の自画像だったのではないか」と。

ユトリロの「母性」と、佐伯の「猛々しさ」
パリの壁、と聞いて僕が真っ先に思い浮かべるのは、大好きなモーリス・ユトリロの絵だ。 しかし、似ているようでいて二人が描く壁は決定的に違っている。
ユトリロの描く壁には、ふんわりと母の胸に包み込まれているような、どこか哀愁を帯びた暖かさがある。孤独ではあっても、そこには救いがあるのだ。


一方で、佐伯の壁はまったく違う。
そこにあるのは、自らを追い詰め、命を削り取りながら、世界の核心に触れようとする「猛々しいエネルギー」と、ヒリヒリとした孤独だ。見る者を優しく受け入れるどころか、圧倒し、峻拒するような無骨さがある。
ではなぜ、彼の絵はこれほど泥臭い情念に満ちているのに、同時に圧倒的にお洒落で洗練されて見えるのだろうか。
その秘密は、壁に刻まれた独特な「文字(アフィッシュ・広告ポスター)」にある。


無骨なエネルギーに、洗練を添える「文字」
佐伯が描くパリの街角には、鋭く震えるような線で、グラフィカルな文字がサササッと書き込まれている。
もし、あの壁に文字が一切なく、ただ泥臭い絵の具の塊だけだったとしたら、それは単なる重苦しい「情念の絵」で終わっていたかもしれない。 しかし、そこにパリのモダンな文字が、佐伯の繊細なタッチで刻まれることによって、絵の中に一気に「都会的な洗練」と「スピード感」が宿るのだ。


無骨で原始的なエネルギーの中に、最高に尖ったモダンなセンスが同居する。あのアンバランスさ、張り詰めた神経そのもののような線の魅力があるからこそ、僕は彼の壁の前で、吸い寄せられるように立ち尽くしてしまうのだろう。
もし、彼が30歳で世を去らず、もっと長く生き続けていたら、この「自画像としての風景」は一体どんな変化を遂げていたのだろうか。
あの日の夕暮れ、展示を観終えて美術館を一歩出たとき、東京駅のいつもの雑踏が広がっていた。さっきまで見ていたパリの壁の残像のせいで、見慣れた景色がどこか奇妙に現実感を失って見えたことを覚えている。
あれから3年以上が経った。
けれど今でも、ふと街のどこかで古びた壁やかすれた文字を見かけるたび、僕の心はあの煉瓦造りの空間へ、そして佐伯が命を燃やした薄暗いパリのストリートへと、鮮やかに出戻っていくのだ。