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『アスタ、まぼろしの花』/【創作大賞2026】エンタメ原作部門

    ●あらすじ
    14歳のジョビーは、なかなか自分の進路を決められずにいた。亡き祖父の遺した「こうと決めたらとことんやれ」という言葉は、彼にとって誇りであり、呪いでもあった。
    そんなある朝、ジョビーはパン屋でエネシス族の少女アスタと出会う。明日15歳の誕生日を迎えるアスタは「私には時間がないの。今日1日付き合って」と、彼に「やりたいことリスト」を突きつける。
    戸惑いながらも彼女と街を巡るうちに、ジョビーはアスタの本当の願いを知る。それは、かつて彼女を人として尊重してくれた大切な「お兄ちゃん」にもう一度会うことだった。自分で何ひとつ決められなかった少年は、少女の願いを叶えるため、初めて自分の心に従って走り出す!

    ●
    午後の暖かい日の光が降り注ぐ校庭からは、級友たちの無邪気な笑い声が響いていた。夢中になってボールを追いかけて、投げたり、蹴飛ばしたり。空振って尻もちをついた子を見て、ゲラゲラと笑っている。ルールや目的なんて何もない。でも、彼らにとっては、それが最高の娯楽なんだろう。

    僕は電気の消えた薄暗い教室の窓際で、じっと机に座っていた。机の上には、「進路出願表」と書かれた紙が置かれている。仰々しく、国家の紋章が押印されている。
    これは「国家の威光を体現した書面」であり、軽々しく扱うことは許されないものなのだ…と、進路指導の先生が言っていたっけ。

    僕はペン先を紙に近づける。でも、インクが紙にくっつく直前で引っこめ、またペンを置いてしまった。

    もう何回、この動作を繰り返しているだろう。
    どれくらいの時間が経っただろうか。

    たった数文字。
    自分のしたいことを書くだけなのに。

    僕は力なく、目の前の進路出願表に目を落とした。
    □職業訓練校 [    校/   コース]
    □ギムナジウム[   学部/     科]
    □兵学校   [    軍/    兵種]

    僕らは15歳になると、この3つのどれかの道に進む。
    その宣誓を、進路出願表の提出によって行うのだ。

    でも、僕のそれは、まっさらなままだった。

    トラップ先生は椅子に座って、静かに文庫本のページをめくっている。

    アルベリア・トラパットーニ。
    たしか、もうすぐ70歳になるらしい。
    街の神父であり、僕のクラスの担任でもあり、自宅で孤児院を経営していた。

    進路出願表の提出期限はとっくに過ぎている。
    提出していないのは僕だけ。とても大事な書類だから、トラップ先生はきっと学校からお叱りを受けている。

    それでもトラップ先生は、「何か相談したいことがあったら言いなさい」と言うだけで、それ以上の催促をしようとはしなかった。

    僕も孤児だった。
    いや、「孤児になった」というほうが正確かもしれない。

    昨年の冬、たったひとりの家族だったじいちゃんが死んだ。
    街の人たちは、じいちゃんを「ドン・ヴァレリオ」と呼んでいた。

    トラップ先生は「ヴァレリオさんは義賊だ」と言っていた。
    「無法者とか、悪党だなんて罵る人たちもいるけれど、ヴァレリオさんはあの人にしか救えない人たちを救ってきた。立派な人だ」って。

    葬儀は地域の人が手伝ってくれて、立派に執り行われた。
    地域の人たちはじいちゃんの死を深く悲しみ、悼いたみ、僕に心から同情してくれた。何人にハグされたか分からない。

    でも、僕は少しも泣けなかった。

    僕は再びペンに手を伸ばそうとしたけれど、やはりその手を引っ込めてしまった。

    じいちゃんはよく言っていた。
    「こうと決めたからにはとことんやれ」
    「勝った負けたも、損か得かも、ぜんぶ後の話だ。今じゃねえ。迷った時はテメーのここに聞け」
    そう言って、僕の心臓のあたりをぐいぐいと指でつつくのだった。

    その言葉のおかげで、実際に迷いが晴れたことはない。
    むしろ、余計に優柔不断になった気がする。

    じいちゃんは、僕がどの道を選んでも「お前が決めたのならそれでいい」と言うだろう。

    じいちゃんの子分たちは、「坊ちゃんはドンによく似ている。いつかドンのようになって、街のために生きるんだろうな」なんて言う。僕がじいちゃんの「いはつ」を継げば、みんなが喜ぶって。

    「いはつ」……「衣鉢」
    へえ、そういう意味か。僕には、その進路もあるってこと?
    いや、無理でしょ。

    みんな、じいちゃんを通して僕を見る。

    本当に好きな道を選んでいいのなら、僕はどこか遠く、誰も僕のことを知らない場所へ行ってしまいたい。

    気づくとトラップ先生は僕のそばに立って、微笑んでいた。

    「ジョヴィーニョ、何を選んでもいいんだ。キミにはその権利がある」

    何を選んでもいい? 権利って…何?

    いっそ「ジョヴィーニョはこうしろ」って強制されたほうが楽だ。
    僕が何に向いているか、先生なら教えてくれたっていいじゃないか。

    僕が何を選ぼうが、将来何になろうが、それは僕の勝手であって、先生には関係ないってこと?

    頭の中がぐるぐるする。
    分かってる。先生のせいじゃない。
    僕がダメなだけだ。

    「焦らなくていい」
    トラップ先生は僕の頭に手を置き、撫でてくれた。
    こんな僕に、トラップ先生はいつも優しくしてくれる。

    「キミにはあの誇り高いお祖父様の血が流れている。自信を持って決めなさい」

    その言葉が聞こえた瞬間、頭の中で火花が飛び散るような感じがした。
    「じいちゃんは…関係ないだろ!」

    気がつくと、進路出願表をビリビリにやぶって、先生に投げつけていた。
    「国家の威光」が見る影もなく、バラバラになって床に散らばる。トラップ先生は、信じられないものを見るような目で僕を見た。

    「ジョヴィーニョっ!?」

    その声が発せられるよりも先に、僕は教室から駆け出していた。

    ●
    翌朝、街のパン屋「グレッグ・ブレッド」には大行列ができていた。
    店主のグレゴリーさんには悪いけれど、大人気店だから、ではない。

    だって、行列の原因は僕だから。

    僕はカゴに置かれたいくつかのパンを眺め、ウンウンと唸り続けていた。
    何分、いや何十分こうしているかを考える余裕はもうない。
    申し訳なさすぎて、グレゴリーさんの顔を見ることもできない。

    とにかく、一刻も早く、今日の朝ごはんを選ばなくては。

    名物の塩胡桃パンは残り2つ。
    食べたい。人気商品だし、僕の好物でもある。
    でも、後ろに並んでいる人たちの中にも、これを食べたい人がいるかもしれない。

    それならば、たくさん残っているトマトハムサンドにするか。
    「店主自慢の!」とPOPが添えられているのが、かえって物悲しい。これを買えばグレゴリーさんは上機嫌で包み紙にくるんで、クッキーもオマケしてくれる。

    でも僕は、あまりトマトが好きじゃない。
    いや、「グレゴリーさんの使うトマト」が、かもしれない。
    だって、やたらと酸味が強いんだもの。

    トラップ先生からは昨夜、連絡が届いた。
    「ジョヴィーニョ、すまなかった。明日、直接謝りたい。そして、いっしょに進路出願表の再発行手続きをしよう。キミに寄り添いたいんだ」

    晴れない思いは残っているけれど、行かなければならない。
    進路出願表を提出しなければ、退学処分だし。

    トントン!と、気ぜわしく指先でカウンターを叩く音が聞こえてきた。
    店主のグレゴリーさんがこっちを見ている。
    後ろの行列からは、咳払いや舌打ちも聞こえている。
    「朝メシのパンなんて、なんでもいいだろうに」
    「とっとと決めてくれないかね」
    そんな声も聞こえてきた。

    僕だってそう思う。

    ああ、なんで僕はこんな簡単なことも決められないんだろう。

    おそるおそる後ろを振り向くと、ひとりの少女の姿が目に入った。

    レモン色のサラサラとした長い髪が風に揺れる。
    陽の光に照らされて、雪のように白い肌は輝いて見えた。
    ふわふわと浮いてしまうんじゃないかと思うほど、小さくて細い体。

    まるで妖精のようーー

    苛立ちを露わにする人たちの中でひとり、おいしいパンが待ちきれないと言わんばかりにワクワクした顔で列に並んでいた。

    少女はその透明感には似つかわしくない、くすんだグレーのローブを纏まとい、腕にはシルバーのバングルを身に付けていた。

    エネシス……だ。

    まわりの人たちは時折、怪訝そうな目を少女に向けていた。けれど、少女はまったく意に介していないようだった。

    このあたりにエネシスが来るのは珍しいな。

    そんなことを考えてぼーっと彼女に見とれていたら、大きなふたつの影が僕の目の前を覆った。行列から大柄の若者が出てきて、僕を睨みつけていたのだ。

    「クソガキがっ、おせーんだよ!」
    「買わねーならとっとと列から外れろ」

    「あっ、すみまっ…」
    僕が言い終わる前に、一方の若者が僕を突き飛ばした。
    僕の体は軽々と吹っ飛び、陳列台にぶつかって、クロワッサンが宙を舞う。

    「あっ、こらっ!」とグレゴリーさんが飛び出してきたけれど、それより先に妖精さんが僕と若者の間に割り込んできた。

    「ちょっと! 何するのっ! せっかくのパンがもったいないじゃないっ!」

    誰よりも体の小さい少女が、ごつい男たちを睨みつけている。
    グレゴリーさんも、行列に並ぶ人たちも、そして僕も呆気に取られた。

    若者たちは少女の身なりを見て、すぐに気づいたようだ。
    「エネシスのガキがえらそーに。通報すんぞっ」
    「エネシスは居住区画で大人しくしてやがれっ」

    少女は、さらに若者たちをキッと睨みつける。
    それから、僕のほうを向いて手を差し伸べてきた。
    「大丈夫? ケガはない?」

    そのとき、若者のひとりが彼女に向かって太い手を伸ばしてきた。
    「エネシスは耀成ようせいだけやってりゃいーんだっ」

    「あぶないっ」
    気づくと僕は、その若者に体当たりしていた。
    でも、僕の軽い体では、そいつを押し倒すこともできない。

    「こんのガキっ!」
    「あっ!」
    僕はあっけなく振り払われて、通りに投げ飛ばされた。

    「いてて…」
    ぶつけた腰をさすっていると、そこにもうひとりの若者の拳が飛んでくる。

    「だめっ!」
    少女の叫び声が響き、僕はギュッと目をつぶった。

    その瞬間、「ぐえっ」「いででっ」という、みっともないふたつの声が聞こえた。ゆっくりと目を開けると、ザスとギースが後ろから若者たちの腕をひねり上げていたのだ。ふたりとも、じいちゃんの子分だ。

    ザスが若者たちの耳元で何事かを囁く。すると、若者たちは目を丸くして僕のほうを見て、それから「失礼しました〜!」「これでお許しを〜!」と言って、ポケットの中のお金をばらまいて逃げていった。

    きっと、「知らねーのか? ドン・ヴァレリオの孫だぞ」「この街にいられなくなってもいいんだな」「ダメにしたクロワッサン代を払って今すぐ消えろ」というようなことでも言ったんだろう。

    「坊ちゃん、ケガは?」
    「お嬢ちゃんも大丈夫かい?」
    ザスとギースは何事もなかったかのように、僕らに言った。

    「私は大丈夫! でも、あの子が…」
    少女は僕に駆け寄ってきて、ケガがないか僕の体をあちこち見てくれた。少女が頭を動かすたびに髪の毛の甘い香りが鼻腔をくすぐるから、僕は思わず頬を赤らめてしまった。

    「坊ちゃんも隅におけませんねえ」
    「可愛い彼女のために体を張るなんて、さすがドンの御孫だ」
    ザスとギースは、僕と少女を見てニタニタと笑っている。
    助けてもらったのは確かだけど、ああ、うっとうしい。

    「うるさいな。助けなんて必要なかった。みんなが見てる。どっか行ってよ」

    ふたりは「へーへー」「お騒がせしましたね」とおどけた様子で去っていった。周囲の人たちは僕らを遠巻きに見たまま、ヒソヒソと何かを話している。

    「やれやれ…まったく」
    グレゴリーさんが散らばったクロワッサンを片付けながらため息をつくのが聞こえて、僕は慌てて店内に戻った。

    「ごめんなさい、買います! えっと…」
    カゴのパンに目を戻すと、少女が顔を横に並べて、「私はねー、この塩胡桃パン!」と屈託のない笑顔で指さした。

    「ちょっとっ、キミは列の後ろに戻らないとダメじゃないか」
    「いいじゃない。あなたの友だちってことで」
    「横入りはダメだよ!」
    「あなた…あれね。カタブツってやつ?」
    「なっ…」

    ●
    結局、少女は列の後ろに並び直したが、彼女の順番が来た時にはもう塩胡桃パンは残っていなかった。

    僕と彼女は並んで近くのベンチに座り、いっしょにトマトハムサンドを頬張った。
    「すっぱっ!」
    彼女は心底びっくりしたように言う。
    僕も一口かじってから言う。
    「う〜…! だろ、びっくりするよね」
    「あーあ、食べたかったなあ、塩胡桃パン」
    「また今度、買いに来ればいいじゃないか」

    彼女はじっとトマトハムサンドを見つめ、ぽそっとこぼすように言った。

    「今度があれば、ね」

    僕はこのとき、まだその言葉の意味を分かっていなかった。

    ⚫︎
    彼女はあっという間にトマトハムサンドを食べきった。
    指についたソースをペロリと舐め、ベンチからトンッと降りると、両手を広げて立った。

    「うん、慣れればけっこうイケるかも!」

    このトマトハムサンドを褒めた人に初めて出会った。
    僕はまだ半分も食べ終えていない。

    「あなた、強い友だちがいるのね」
    「あいつらは友だちじゃないよ」
    「じゃあ、誰?」
    「じいちゃんの子分」
    「ふーん。じゃあ、おじいさんも強い人なのね」
    「……なんでそう思うの?」

    彼女は僕をまっすぐと見つめて、さも当然というように言った。

    「だって、あなたのおじいさんだもの」

    会ったばかりなのに、僕の何が分かるというのか。
    両手で握るトマトハムサンドからソースが溢れ出て、地面にこぼれ落ちた。
    酸味が強すぎるのは、ソースのせいかもしれない。

    「ねえ、あなた。この街の人だよね? ちょっと付き合ってくれない?」

    彼女はいたずらな笑みを浮かべ、小さなポーチに手を突っ込むと、ガサゴソと探って1枚の紙を取り出した。

    「じゃーん!」

    誇らしげに僕に見せつけてきた紙には、「やりたいことリスト」と書かれていた。

    ——————
    ①デートがしたい
    すてきな彼と街を歩けたら、もうそれだけでいい!
    ②オシャレなお洋服を見たい
    分かってる。見るだけ、見るだけ。しちゃくだけでも…ダメかな?
    ③本屋さんに行きたい
    あの本、売っているかな
    ④人気のお芝居を見たい
    ケンドリックは背中で芝居をする、だったかな?
    ⑤おいしいスイーツを食べたい
    シャルカラ堂のラムティラミスはぜったい!
    ⑥的あてゲームであそびたい
    私だってあてるんだから!
    ⑦おけしょうしたい
    ふふふ、美へのタンキュウはレディのたしなみなの
    ⑧アモルマリンスターを見る
    今の季節にしか咲かないまぼろしの花
    ⑨プロメサの高台から街の景色をながめたい
    一生わすれないから
    ⑩好きな人とキスしてみたい

    ——————

    紙はしわくちゃで、何度も消して書き直した跡がある。

    「これは……えっ、これ全部!?」
    「もっちろん! だから私には時間がないのっ」
    「時間がないって?」
    「18時にはおうちに帰らないといけないから」

    今は朝8時を過ぎたところだ。

    「18時までにこれ全部は無理だよ」

    「なら、これ!」
    ——————
    ⑧アモルマリンスターを見る
    今の季節しか咲かないまぼろしの花
    ——————

    「アモルマリンスター…聞いたことないな」
    「このあたりに咲く花だってことは分かってる。この花だけはかならず見たい!」
    「そんなに大事なんだ?」
    彼女は真剣な眼差しで頷いた。

    なんとかしてやりたいとは思う。
    「他のことなら、なんとかなりそうな気も…」
    と言いながら「デート」や「キス」という文字を見て、僕は思わず頬を赤らめた。

    そんな僕の反応を見て、彼女の表情がコロッと変わる。
    「ふふーん、お坊ちゃまにはちょっと早すぎたかなあ」
    「なっ!? そんなわけないだろ!」
    「どうかな〜」
    「このあと用事があるから、ちょっと考えただけだ。それまでだったら……いいよ」
    「やった〜! 決まりねっ!」
    彼女は飛び跳ねて、無邪気に喜んだ。

    すっかり彼女の術中にハマったようだ。
    でも、僕の心も浮き立つものを感じずにはいられなかった。

    ●
    僕とアスタは並んで歩いていた。

    アスタ。

    彼女の名前だ。
    それ以外のことはまだ何も知らない。

    「好きな食べ物は?」
    「家で過ごすのと、外で過ごすのはどっちが好き?」
    「好きな作家はいる?」
    「お芝居はよく見るの?」
    「何をしているときがいちばん楽しい?」

    聞きたいことはいっぱいあったけれど、ガツガツしすぎちゃいけない。
    女の子に良い印象を与えるには、「男の余裕」ってやつが大事なんだそうだ。ザスとギースが言っていた。
    あっ……これって、アテになるのかな。

    「ジョビー! 本屋さん、あったよ!」

    ジョビー。
    僕のこと、らしい。

    「ジョヴィーニョ。本名はジョヴァンニエル。小さい頃に死んじゃった父さんと同じ名前なんだけれど、ジョヴィーニョは『小さいジョヴァンニ』って意味らしくて」

    アスタにそんな説明をしたら、あっさりとこう言われた。

    「ジョビー」
    「えっ?」
    「長いから。あなたはジョビー」
    「いや…」

    僕をそう呼ぶ人はいない。
    「ジョヴィーニョ」か、「坊ちゃん」か。
    みんな、たいていそのどちらかで僕を呼ぶ。

    「僕はジョビーか」
    そう言葉を漏らすと、ふいにアスタが僕の頭を撫でてくれた。彼女は何も言わなかったけれど、父さんのことを慰めてくれた気がして、僕は自然と目をつむった。

    僕がそんなアスタとのやりとりを思い返していると、彼女はもう通りに面した本屋に入っていた。僕も慌てて追いかけた。

    クラレンスさんがやっている、街の小さな本屋「イル・リブレリア」。
    ここから歩いて30分ほどの官庁街には、もっと大きな本屋さんもあるけれど、僕は「イル・リブレリア」が好きだった。

    アスタはウキウキとした顔で、端っこからすべての棚を眺めていく。
    僕はその後ろをついていったが、
    「あっ、最新刊が出てたんだ!」
    と大好きなファンタジーノベルシリーズの最新刊を発見して、思わず声を上げた。

    『ドラゴン・ストーリーズ』
    貧しい家に生まれた男の子が実は神に選ばれた勇者で、少年時代に自分をいじめていた戦士長や魔導士を引き連れて、姫の病を治すためにドラゴンの秘薬を探して旅する物語だ。

    「えー、何それ?」
    とアスタが覗き込んできて、僕はドキッとする。
    彼女はふいに、すごく近くに来るんだ。

    「あ〜、剣と魔法とか、ドラゴンが出てくるやつ? 男の子ってホント、そういうの好きね〜」
    「うるさいな。小さい頃から読んでいるから、習慣で買っているだけだよ」

    級友たちから「いつまでそんなガキの本、読んでるんだよ」ってバカにされてから、もう人前で持ち歩くことはしなくなったけれど、今でも新刊の発売をいちばん楽しみにしている本だった。

    アスタは棚にズラーっと並ぶ『ドラ・スト』を見て、目を丸くした。
    「こんなにたくさん!? そんな面白いの?」
    「もちろんさ! 勇者ウラルと戦士長ジュリアスは小さい頃から仲が悪いんだけど、ローザ姫を大事に思う気持ちはいっしょなんだ! で、いつもふたりの仲違いからトラブルになって…」

    夢中になって語る僕を見て、アスタはクスクスと笑った。
    「ジョビー、今でも大好きなんじゃない〜。剣と魔法は永遠ね〜」
    「うう…、いいじゃん別に」
    「うん、いいと思うよ。好きなものは、いつまでも好きだもの」

    不思議な言い方だと思ったけれど、その言葉は僕の心をスッと軽くしてくれた。

    「じゃあ、私も読んでみよっかな〜」
    「ホント? じゃあ、僕が持っているのを貸すよ!」
    「ありがと」
    彼女はにこっと微笑んだ。

    彼女の笑顔はきれいだ。
    けれど、どこか寂しさを含んでいる気がした。

    僕は『ドラゴン・ストーリーズ』の最新刊を買った。
    彼女は『リドリー・ラスコフ 時間と空間』という本を買った。どうやら、「てつがくしょ」らしい。

    「その本がほしかったの?」
    「うん、近所の本屋さんにはなくて」
    「難しそうな本だね」
    「そうだね。いつか私もこの本を読めるようになるから」

    僕じゃない、他の誰かに言っているように聞こえたけれど、僕はほんの違和感を覚えた程度で受け流してしまった。

    ●
    「好きな食べ物は目玉焼きとポタージュスープだよ」
    「へ〜、僕はスクランブルエッグ派だな。ケチャップをたくさんかけるんだ」
    「お散歩するのも、おうちで本を読むのも好き!」
    「じゃあさ、好きな作家は?」
    「えーっとね、ヨル・サリバンとピーター・リャスカフと…」
    「リャスカフもいいよね! 不思議なお話ばかりだけど、最後には感動するんだ」
    「分かる〜!」

    僕らは歩きながら、もう何年もいっしょにいる友だちのように、夢中になっておしゃべりしていた。ふたりとも話したいことがいっぱいあって、前のめりになって歩くからフラフラして何度もぶつかっちゃって、そのたびにお互いの顔を見合わせて笑い合った。

    さっき本屋を出たあと、会話に困っていたらアスタにこう言われたんだ。
    「ジョビーっておしゃべり苦手?」
    僕は正直に白状した。
    「女の子とどんな話をすればいいのか、よく分からなくて」
    すると、アスタは弾けたように笑った。
    「そんなこと考えてたの? ふつーに話したいことをしゃべればいいんだよ〜」

    そのあとは堰を切ったように、アスタとたくさんのおしゃべりをした。アスタがなんでも素直に答えてくれるから、僕も自然と自分の思っていることを言えたんだ。

    一般市民とエネシスの子がこんなに仲良く歩いているのは、きっと珍しい。だからか、街の人たちは怪訝な目を向けてきたけれど、僕らはまったく気にしなかった。

    こんなに可愛い子とデートしているんだと思うだけで、僕は胸がワクワク、ドキドキした。ずっと、この時間が続けばいいのにって。

    僕は何の気なしに聞いてみた。
    「エネシスって15歳になったら、耀成役務ようせいえきむに就くんだろ?」

    エネシスの体からは、耀素ようそという不思議な力が溢れ出ている。
    その耀素を抽出してつくるエネルギーが、この国のさまざまな動力源となっていた。耀素の生成はエネシスにしかできないことで、だから彼らの自由は大きく縛られ、それ以外の仕事を選ぶことはできない。

    僕とは真逆だな、と思った。はたして、どっちがいいんだろう。

    「何か、他にやりたいことはないの?」
    「考えたこともなーい」
    アスタにしては、淡白な返事に聞こえた。

    「大変だね」
    「別に。痛いとか怖いとかはないみたいだし……大事なお仕事だもの」

    エネシスについて授業で習ったことはあったけれど、本人から直接話を聞くのは初めてで、なんだか新鮮だった。

    「でも、みんな同じでしょ。大人になったら仕事をして、お給料をもらう」
    「そうだけど…」
    「別に良いの。何をしていても、私は私だから」

    私は私、か。
    すごいな。
    心臓のあたりがズキンと鳴った気がした。

    ●
    ふと、アスタが洋服屋さんのショーウインドウの前で立ち止まった。

    その視線の先には、可愛い花柄のワンピースを着たマネキンが立っている。明るいピンク色の生地で、腰にはアスタの髪色に似たレモン色のリボンが巻かれていた。頭には、顔が隠れるほどの大きな麦わら帽子が被せられている。

    僕はアスタの横に並んで言った。
    「かわいいね」
    「うん」
    アスタが纏うくすんだグレーのローブは、何度も洗濯を繰り返しているのだろう。生地がかなりよれて、傷んでいた。

    トラップ先生が言っていた。
    「エネシスは一目でそうと分かるよう、スチールグレーのローブとシルバーのバングルを身につけることが義務付けられているんだよ」

    「なぜですか?」
    僕らは好きなものを自由に着ることができるのに。

    「なぜか。それは、私には答えるのが難しい問いだね。でも、ジョヴィーニョの疑問は大切にしてほしいと、私は思う」

    ガキ大将のトーマスが鼻をほじりながら言った。
    「パパは、『あいつらの立場を分からせるためだ』って言ってたよ〜!」
    ドッと笑いが広がった。あざけるような笑い声に、僕は少しも同調することができなかった。

    僕はこのワンピースを着て、麦わら帽子を被ったアスタの姿を想像した。

    一面に色とりどりの花々が咲き誇る原っぱ。
    無邪気に駆けるアスタの、ワンピースの裾がひらひらと風でたなびく。
    ふいに立ち止まったかと思うと、風で飛ばないように麦わら帽子を手で押さえながら、僕のほうに振り向く。そして、満面の笑みを浮かべて手を振るんだ。

    「似合うよ、きっと」
    「…………」
    ショーウインドウに添えられたアスタの手が、かすかに震えていた。

    ——————
    ②オシャレなお洋服を見たい
    分かってる。見るだけ、見るだけ。しちゃくだけでも…ダメかな?
    ——————

    「……よし」
    僕は顔見知りの店主であるマーガスさんがいることを確認し、店内に入った。

    「おや、ジョヴィーニョ。ウチに来るなんて珍しいね」
    マーガスさんは、にこやかに出迎えてくれた。

    僕が耳元で説明すると、マーガスさんはショーウインドウを眺めるアスタを見て顔色を変えた。
    「だめだ、だめだ! バレたら大変なことになるよ」
    当然の反応だった。

    アスタは不安そうに、僕らを見ていた。
    通りのほうを指差して、「いいよ。行こう」と言っているようだ。

    「ちょっとだけでいいんだ。5分だけでいい。店を閉めて、カーテンをしてさ。試着室の中だけでいいから!」

    マーガスさんは僕とアスタを交互に見てため息をつく。
    そして、ゆっくりと頷いた。

    僕は飛ぶようにアスタの元へ戻り、彼女を店内に招き入れた。試着室に通そうとしたとき、彼女にしては珍しくやたらと怯えて、「いいよ。帰ろうよ」と何度も言った。「僕らに迷惑がかかる」と。

    それでも僕は、僕にしては珍しく、強引にアスタを店内に引き込んだ。
    マーガスさんはテキパキと店の入口に「close」の札をかけ、すべての窓をカーテンで隠し、ショーウインドウからワンピースと麦わら帽子を取ってきた。

    僕はそれらを受け取り、アスタといっしょに試着室に押し込んだ。
    アスタは諦めたようにワンピースと麦わら帽子を受け取り、試着室のカーテンを閉める。

    しばらくして、彼女の「いいよ」という声を合図に試着室のカーテンを開けると、そこには想像を超えるほど美しい一輪の花が咲いていた。

    いつもは明るく元気なアスタが、おなかの前で指を絡ませ、もじもじとしている。

    「……どう?」
    「……………」

    「何か…言ってよ」
    「あっ、うん…、とても、よく、似合ってる…」

    マーガスさんは「はあ」と呆れたような声を出して、肘で僕をつつく。
    僕は反射的に背筋をピンっと伸ばし、全身から汗を吹き出しながら言った。

    「とても…可愛いよ…」

    「というか……」

    「……美しい」

    アスタははにかんで笑い、「ありがとう」と言った。

    それからしばらく、アスタは鏡に映る自分の姿を見ていた。
    時折くるっと回る。色々な角度から、今の自分の姿を目に焼き付けているようだった。

    ●
    それから僕らは、ケンドリック・ライオネルが主演する話題の芝居を観て、シャルカラ堂でラムティラミスを食べた。

    「やっぱり甘〜いっ! ほっぺたが落ちそう!」
    「う〜、僕も初めて食べたけど、これは甘ぁ〜い」
    僕はあまり甘いものが得意じゃなくて、ぐ〜っと顔をしかめる。すると、その顔がおかしかったのか、アスタはケラケラと笑った。

    「やっぱりケンドリックは背中で芝居をする?」
    「うーん、分かんない。でも、前よりも面白かったと思う」
    「初めてじゃないんだ?」
    「まあね」

    ケンドリックの芝居は、たぶんエネシスの居住区画で行われたことはない。
    「じゃあ、いつ?」と聞きかけて、僕は口をつぐんでしまった。
    理由は分からないけれど、キュッと胸が締め付けられるような感じがしたんだ。

    「じゃあ、あのリストのメモ書きは誰かの受け売り〜?」
    「いいじゃない〜。分かるようになりたかったのっ!」
    彼女はほっぺたを膨らませ、それからまた一口、ラムティラミスを食べて、その甘さに目を細めた。

    アスタは、表情がくるくると変わる。
    僕にはないものを、たくさん持っている。

    アスタは、僕よりずっと不自由なはずなのに。
    どうして、あんな風に笑えるんだろう。
    ただ、ありのままの姿で、まっすぐだ。

    僕は違う。
    僕はいつも不機嫌で、怯えて、不安がってーー。
    そんな顔をみんなに見せているのは、素直さじゃない。
    「なんで分かってくれないんだよ」って、当てつけだ。

    アスタはポーチから、「やりたいことリスト」を取り出した。
    「え〜と、これと…これもクリアね」
    済ませたことにチェックを入れていく。

    「花は見つからないね」
    歩きながら気になる花が目にとまれば、全部アスタに見せた。
    でも、どれも「全然違う」と首を横に振った。

    本屋のクラレンスさんも、服屋のマーガスさんも、「名前も聞いたことない」って言っていた。

    ザスとギースが知っているわけはないし、そもそもあいつらに頼るのは嫌だ。

    あと知っていそうなのは、トラップ先生くらいか。

    「あっ、トラップ先生!」
    僕は思わず声をあげて立ち上がった。

    「えっ、何…?」
    アスタはびっくりして、キョロキョロと辺りを見回した。

    時計を見ると、トラップ先生との約束の時間をとうに過ぎていた。
    「大変だっ! 行かないとっ!」
    「えっ?」
    「言ったろ。用事があるって」
    「でも、まだ…」
    アスタはリストをギュッと握り締めた。

    「うーん…! そうだ! 本屋のクラレンスさんに聞いたら、それぞれの場所を教えてくれるよ!」
    「そんなの楽しくない。クラレンスさん、花のことは知らなかったし」

    「…………」
    彼女はリストを握ったまま、俯いていた。
    何か迷っているようだった。

    それから、彼女は意を決したようにポーチから別の紙を取り出し、切実な声で僕に言った。
    「ジョビー、お願い…! 私には…今日しかないの」
    その紙には国家の紋章が押印され、「居住区画外出許可証」と書かれていた。外出許可期間は今日の朝7時から夕方18時まで。

    「18時にはおうちに帰らないといけないから」という彼女の言葉が脳裏によみがえる。そうか。彼女は…エネシスは、この紙がないと、居住区画から自由に出ることもできないのか。

    でも…。
    でもさ! なんで今になって、こんな大事なものを出してくるんだよ。
    最初から教えてくれれば、別の方法を取れたかもしれないのにっ!

    そんな言葉を無理やり呑み込んで、僕は彼女にもっとひどい言葉をぶつけてしまった。
    「無理なものは無理だ。僕だって将来がかかっているんだ」
    「将来って何?」
    「将来は将来だろ。自分がなりたいものを決めて、進路出願表を出して…」
    いつまでも、ぐずぐずと決めないでいたくせに。

    アスタの顔に濃い陰が差した。

    しまった、と思った。

    「いいよ、行って…」
    ひどく冷たい言い方だった。

    「アスタ…」

    「無理やり付き合わせて…ごめんね」
    アスタは感情を殺した声で言って立ち上がると、そのままひとりで歩いて行った。

    僕は呆然と、その場に立ち尽くした。
    心臓がズキズキと痛む。

    僕の将来のためには、早くトラップ先生のところへ行かなければならない。でも、今すぐアスタを追いかけないといけないような気もした。

    テーブルの上には、彼女の「やりたいことリスト」が置かれたままだった。

    トラップ先生のところへ行くべきか。
    アスタを追いかけるべきか。

    またこれだ。

    そのとき、ふいに強い風が吹いて、リストが通りのほうへと飛んで行った。
    僕はほとんど無意識のうちに、それを追いかけた。

    こんなものを追いかけて、拾って、何になる。
    リストが大事なら、アスタを追いかければいい。

    それでも、僕はリストに向かって手を伸ばした。
    リストに指が触れる直前、通行人にぶつかり、尻もちをつく。
    そこでまた、別の人にぶつかりそうになる。

    「いてっ!」
    「わっ、何?」
    「あぶねーなっ! 気をつけろ!」

    怒られ、驚かれ、通行人たちに迷惑そうな目で見られても、僕の視線はリストの行方を追っていた。

    リストが通りの反対側に落ちる。
    僕は這いつくばりながら、そのリストのほうへ進んだ。

    這いつくばって通りを横切りながら、僕は泣きたくなった。
    僕はいつもいつも、大事なことを自分で決めることができない。

    今もそうだ。大事なことから目をそらすために、さももっと大事なことがあるような顔をして、逃げようとしている。

    じいちゃんのせい。
    リストのせい。
    じゃあ、今度は何のせいにする?

    僕は決められなかったんじゃない。
    逃げていたんだ…、ずっと、ずっと。
    このままじゃ…。

    脳裏をよぎるのは、アスタがふとしたときに見せる寂しそうな顔。

    アスタのところに…行かなきゃ…!

    膝を擦るように這ったせいで、ズボンの膝小僧は破れ、血が滲んでいた。
    心臓はズキズキと、さっきよりも大きな音を立てていた。

    リストの目の前まで来た時、誰かの手でそのリストが拾い上げられた。

    「キミ、大丈夫かい?」
    温かい男性の声だった。
    「やだ、血が出ているじゃない。手当てをしなきゃ」
    優しい女性の声だった。

    見上げると、若い夫婦が心配そうに僕を見つめていた。
    お母さんの足に隠れるように、幼い男の子が立っていた。

    旦那さんはリストの文字を見た瞬間、息を呑んだ。
    「アモルマリンスター…」
    それは花の名前を読んだというより、誰かの名前を呼んだみたいに聞こえた。その声は、心なしか震えているように聞こえた。

    「あっ、あの…その花を知っているんですか!?」
    「あ、ああ…確かに開花するなら今日あたりもしれないね」
    「ちょっと、あなたたち。今はそんな話…」

    僕は奥さんの言葉を遮って言った。
    「場所を教えてくださいっ!」

    「ええっと…そうだ。プロメサの高台に行く途中、小川の流れる草はらがあるんだけれど、ちょうど今くらいの時期に咲くんだ。たった数日だけ、ね」
    「誰に聞いても分からなかったのに」
    「すごく希少な花で、図鑑とかにもめったに載っていないからね。よほどの花好きか、学者くらいじゃないと、知らないかもしれない」

    僕の心臓がドクン!とひと際大きく鳴った。

    「こうと決めたからにはとことんやれ」
    「勝った負けたも、損か得かも、ぜんぶ後の話だ。今じゃねえ。迷った時はテメーのここに聞け」

    じいちゃんの声が聞こえた気がした。

    「ありがとうございます…!」
    気がつくと僕は、ご夫婦に頭を下げて駆け出していた。

    トラップ先生、ごめん!

    アスタ、分かったよ。
    キミの見たかった花のありかが。

    なんで、そうしたいのか自分でもよく分からなかった。
    自分の将来を棒に振ってまで、彼女の見たい花を探すことになんの意味がある?

    それでも、僕の心臓の鼓動はずっと叫んでいた。
    行け、行け、行けっ!
    僕はその鼓動に身を任せて、とにかく走った。

    ●
    アスタは、いっしょにトマトハムサンドを食べたベンチに座っていた。
    しょぼくれた様子で指をいじっている。

    「アスタっ」

    「ジョビー…」

    「えっ…ちょっとあなた。ケガしているじゃない!?」

    僕は構わず、アスタの腕を掴んで言った。
    「花のある場所が分かった!」

    「ちょっと……えっ、今なんて?」

    「アモルマリンスター。プロメサの草はらだ」
    「ホント!?」

    僕はアスタの手を引っ張って駆け出した。

    ⚫︎
    旦那さんが言っていた小川の流れる草はらに、僕とアスタは土まみれになって這い回っていた。アモルマリンスターは咲いていなかった。

    夏と秋がすれ違う時期、ほどよい湿度と温度が保たれた場所にたった数日間だけ、花を開かせる。

    まだ開花条件が揃っていないのかもしれない。

    「時期じゃないのかもね」
    アスタは残念そうに、そしてどこか自分を納得させるかのように言いながら立ち上がった。

    日が暮れかけていた。
    アスタの外出許可時間の終わりが、刻一刻と迫っていた。

    「まだ分からないよ。あっちのほうも探してみよう! もしかしたら…っ」

    「もういいよ。……あの花はね、夜になる少し前に青く光るの。空の色を目いっぱい吸い込んだみたいに…」

    彼女は美しいものを見るように目を細める。それから、思い出すように辺りを見回して、力なく微笑んだ。
    「だから……咲いていたら、遠目にも分かる」

    物事はこうと決めても、そう簡単にうまくいくものではない。
    そんなふがいない思いで地面を見つめていると、アスタが言った。

    「昔ね、お兄ちゃんと見たんだ」

    アスタは懐かしそうに目を細めて言った。

    「私が7歳くらいのときかな。お兄ちゃんが連れてきてくれて、このあたりでその花を見たの」

    アスタには、お兄ちゃんがいるのか。

    「私、お兄ちゃんのことが大好きだった。
     ううん、今も大好き。
     物知りで、優しくて、私にたくさんのことを教えてくれた」

    「今は…いっしょに暮らしていないの?」

    「本当のお兄ちゃんではないの。近所に住むお兄ちゃん」

    胸がキュッとなった。

    「お兄ちゃんはエネシスじゃないけれど、エネシスにも親切だった。いや、そういうのをまったく気にしていない…っていうのかな」

    「私がエネシスなんて嫌だって泣いたとき、お兄ちゃんは言ってくれたの。
    『アスタはアスタだよ』って。
    ……お兄ちゃんだけは“私”を見てくれた」

    「お花にとっても詳しくてね。アモルマリンスターは見た人を幸せにするまぼろしの花だって。花言葉は…」

    「花言葉…」

    「幸福な愛」

    胸の痛みが強くなるのを感じた。

    「でも、お兄ちゃんは突然いなくなった」
    「……なんで?」
    「分からない。ある日、お兄ちゃんのおうちに遊びに行ったら、おばさんが出てきて、『あの子はもうここにはいない』って…」

    「ごめんね…ジョビー」
    アスタは俯いた。体を震わせていた。

    「花が咲く時にここに来れば、会えるんじゃないかって思ってた」
    絞り出すような声だった。

    「それしか…手がかりがなかったから」

    僕の心はザワザワとざわめき立っていた。
    たまらず聞いた。

    「じゃあ、あの10のリストは…?」

    「ごめん、ごめんね…」
    彼女は両手で顔を覆って言った。

    「私は明日15歳になる」

    その言葉に思わず、ハッとした。

    「今度があれば、ね」
    「私には…今日しかないの」
    ようやく分かった、アスタがそう言った言葉の意味が。

    「いつか私もこの本を読めるようになるから」
    「やっぱり甘〜いっ!」
    「でも、前よりも面白かったと思う」
    「分かるようになりたかったのっ!」
    引っかかっていた言葉の意味が、腑に落ちていく。

    「好きなものは、いつまでも好きだもの」
    僕の心を軽くしてくれたあの言葉も意味も…。

    これまで感じていた違和感の正体が、1本の線でつながっていく気がした。

    アスタは続けた。
    「お兄ちゃんと食べた塩胡桃パン。
     お兄ちゃんがお勉強の本を買う間、本屋さんの外で待っていた。
     大人しく待っていると、ごほうびにラムティラミスをごちそうしてくれた。
     私はこのローブを着ないとお外に出られないけれど…、一度でいいから可愛いワンピースを着て、きれいにお化粧をして、お兄ちゃんのとなりを歩きたかった…」

    「で、ここでアモルマリンスターを見て、高台から街の景色を見た」
    と僕は言葉を注いだ。

    アスタは頷いた。

    「今日のデートは……ぜんぶ、お兄ちゃんとの思い出だったんだ」

    僕のその言葉に、アスタは力なく頷いた。

    「ずっといっしょにいたかった。
     あの日みたいな1日をもっとたくさん過ごしたかった。
     ううん、ふつうの毎日でいいの。
     不自由でも、他のみんなにさげすまれていたってかまわない。
     お兄ちゃんがそばにいてくれたら…」

    わかった。

    「でも、お兄ちゃんはいなくなった。
     なんで? どこ?
     どんなに探しても見つからない。
     ああ、もうお兄ちゃんはいないんだ。
     いっしょにいられないんだ」

    もういい。

    「分かってる。
     もう分かってるから。
     会えなくなっても、時間だけは進むの。
     朝が来て、ごはんを食べて、お散歩して、本を読んで、眠る。
     そうしているうちに、お兄ちゃんがいない日のほうがどんどん増えていく」

    もういいよ、アスタ。

    「私がほしいのは未来じゃない。今なの」

    ああ。
    今、はっきりと分かった。

    そうだ。キミは何も悪くない。
    今しかできないことを、今できるかぎりのことを、目いっぱいやろうとしただけだ。その小さい体で。すぐにでも潰れてしまいそうな、やわらかい心を抱えて。

    「もし……お兄ちゃんに会えたら…どうしたい?」

    「……最後にもう一度だけ名前を呼んで、抱きしめてほしい。
     『ありがとう』『大好きだよ』って伝えたい。
     それだけでいい…」

    ずるい、と思った。
    アスタが、じゃない。

    僕は自分の将来を選べる。
    でも、彼女は何も選べない。
    お兄ちゃんと離れ離れになることも、自分がエネシスとして生きていかなければならないことも。何ひとつとして、だ。

    それなら、14歳最後の日にたった1つのお願いくらい、叶ったっていいじゃないか。

    僕は空を仰ぎ見た。

    「とことんやれ」
    僕は自然とつぶやいて、心臓のあたりをガッと掴んだ。

    僕はアスタの「やりたいことリスト」に付き合って、今日1日を過ごしてきた。こんな1日はもう二度とないと思うほどに、素敵な時間だった。

    付き合うと約束した。
    だったら、最後の最後まで彼女の願いを叶える。
    それも、いちばん大切な願いを。

    僕はまっすぐアスタを見つめて言った。
    「アスタ、お兄ちゃんの名前を教えてくれる? あと顔立ちとか、背格好とか…」

    アスタは涙の残る目で、不思議そうに僕を見た。

    「……エリオ。エリオ・リヴァイアーノ」

    きっと彼女は、何度もその名を呼んだことだろう。
    ズキズキする胸の疼きは止まらない。
    でも、もうそんなことは関係ない。

    「分かった。ちょっとここで待っていて」
    戸惑うアスタを置いて、僕はその場を離れた。

    ピュイイイイィィィ!!

    指笛を鳴らすと、少しして、息を切らしたザスとギースが草むらの向こうから現れた。

    僕はふたりに頭を下げて言った。
    「ふたりの力を借りたい。大事なことなんだ」
    ザスとギースはお互いの顔を見合い、ニッと笑ってから、ゆっくりと頷いた。

    ●
    ザスとギースの情報網はさすがだった。
    あっという間にお兄ちゃん、つまりエリオ・リヴァイアーノの住所を見つけてきた。

    ザスは住所の書かれた紙を僕に渡して言った。
    「俺らができるのはここまでだぜ」
    ギースが続けた。
    「いちばん大事なことは自分でやる。分かるよな、ジョヴァンニエル」
    初めて彼に本名で呼ばれた。

    僕は力強く頷いた。

    その住所を訪ねると、ドアの向こうに現れたのは、さっきリストを拾ってくれた旦那さんだった。家の奥で、息子と手を繋いだ奥さんが「あら?」と不思議そうにこちらを見ている。

    僕が事情を話すと、旦那さんはすごく驚いていた。同時に複雑そうな表情を浮かべた。
    「僕はきっと彼女を傷つけた。だから、合わせる顔がない」って。
    「知らないです、そんなこと。プロメサの高台で彼女が待っています。彼女には、もう時間がない」僕は力ずくでも連れて行きたかった。あと少し、エリオさんが何も言わなかったら、きっと僕は彼の胸ぐらを掴んでいた。

    エリオさんはきつく目をつむって、それから奥さんと息子のほうを見た。
    そして、「分かった。行こう。すぐに支度をするよ」と答えてくれた。
    僕は「ぜったいだよ!」と念押しして、アスタをとどまらせるために一足先に高台に走った。

    ●
    街のはるか向こうに見える地平線に、夕日がかかろうとしている。
    時間はもうほとんど、残っていなかった。

    アスタは高台の柵に手を置き、遠くに沈んでいく夕日を見つめていた。

    穏やかな風が、彼女のレモン色の髪を揺らす。

    風で揺れる髪を耳にかける仕草も、その横顔もーー。
    全部忘れたくないと思って、僕は彼女を見つめ続けた。

    同時にソワソワしていた。
    来て…くれないのか。

    「ありがとう、ジョビー」

    ふいに名前を呼ばれ、彼女のほうを見た。

    ——————
    ⑨プロメサの高台から街の景色をながめたい
    一生わすれないから
    ——————

    「またひとつ、私のお願いを叶えてくれた」
    「でも…」
    「いいの。分かってた、会えるわけないって」

    彼女は遠くを見つめて、言った。

    「あの日、お兄いちゃんとね、ここにふたりで立っていたの。
    『見てごらん、これが僕らの住む街だ』って。

    『さっきのパン屋も本屋も、あんなに小さく見える。歩く人たちも、とてもちっぽけだね。僕らの住む家はここからは見えないほど、もっと遠くにあって…でも、みんな同じ街に暮らしている』

    『恥じる必要も、呪う必要もないんだよ。アスタはアスタらしく、生きていけばいい』

    そう言って、頭を撫でてくれた」

    僕はじっとアスタを見つめていた。
    エリオさん…!

    「もう…帰らなきゃ」
    アスタは小さく息を吐いてから、そう言った。

    時間が迫っている。
    門限破りは許されない。

    「もう少し、もう少しだけ…いっしょにいたい!」
    僕はたまらず、アスタの手を強く握った。

    「ジョビー…。うれしいけど、ダメだよ」
    「だってもう、会えるかどうかも分からないんだろ! だから、あと少しだけ…! 少しだけでいいんだ…。ぜったいに間に合うように家まで送り届けるから…」

    僕は懇願するようにアスタを見つめた。

    「どうしたの、なんか変だよ?」
    「頼むよ、アスタ…」

    頼むよ、エリオさん。何してんの…!

    「ジョビー、ごめんね…」
    アスタは穏やかに微笑んで、それからゆっくりと僕の手をほどき、くるりと背を向けた。

    そのときーー

    ピュイイイィィィン!!
    ピュイイイィィィン!!

    と張りのある指笛が2回、鳴り響いた。

    僕はハッとして顔を上げる。

    アスタも驚いた顔で空を見上げた。

    「何? さっきも聞こえたけれど…」

    アスタが不思議そうに辺りを見回した。
    そして、視線を前に戻したその時、彼女の体に強い緊張が走った。

    僕も、彼女の視線の先に目を向けた。

    そこには、エリオさんと奥さんのソフィアさん、そして息子のピムくんの姿があった。ピムくんはエリオさんの腕に抱かれて、スヤスヤと寝息を立てている。

    アスタは目をまん丸くして、固まっていた。

    「うそ…、なんで……」

    エリオさんとソフィアさんが目を合わせると、ソフィアさんは愛する夫から眠る我が子を預かった。

    エリオさんがなぜソフィアさんとピムくんを連れてきたのか、僕にはよく分からなかった。できる限りのことを見せたかったのかもしれない。ソフィアさんは、慈しむようにピムくんの頭を撫でている。

    アスタはどう思っただろう。
    彼女はエリオさんたちをじっと見つめて、固まったままだ。

    ピムくんを抱いたソフィアさんがその場を離れると、エリオさんが改めてアスタに向き合った。その表情は強張っているように見えた。

    目の前にいる、かつて本当の妹のように愛情を注いだ少女に、自分の都合で一方的に関係を絶ってしまったアスタに、どんな言葉をかけていいのか分からないでいるようだった。

    アスタはきっと、それ以上に戸惑っているに違いない。
    足が震えていた。
    何かを言おうとして口が動くけれど、言葉が出ない。

    静寂ーー

    僕は目を閉じ、少し呼吸を整えた。
    そして、叫んだ。

    「アスタ!」

    彼女の名前を。
    まっすぐに。
    思いを込めて。

    アスタの肩が、小さく震えた。
    彼女も目を閉じ、呼吸を整えたようだった。
    それから、ギュッと拳を握った。

    アスタが飛ぶように駆け出し、エリオさんに全力で抱きつく。

    「お兄ちゃんっ!」

    アスタに抱きつかれ、エリオさんの両手が宙を泳ぐ。
    でも、その両手はすぐにアスタの背中をギュッと抱きしめた。
    アスタもさらに強く、お兄ちゃんを抱きしめた。

    アスタ。よかったね。
    胸の奥がズキンと疼く。
    たまらず、空を見上げた。

    それから僕はふたりに背を向け、静かにその場を離れた。

    そのまま街に戻るための下り坂を下っていると、後ろから聞き慣れた声がした。

    「いいんですかい? 最後まで見届けなくて」

    「いいよ。これでいいんだ」
    僕は振り返らずに答えた。
    ザスとギースは顔を見合わせて、ヒュ〜と口笛を鳴らした。

    素敵な人たちだと思った。アスタが心から慕った人も、その家族も、そして何より、たまたま出会って1日をいっしょに過ごした同い年の少女も。

    いつか僕も、心から大事にしたいと思える人と巡り会って、穏やかに微笑み合って歩いていけたらいいな。

    ザスとギースにあとから聞いたんだ。
    あの時の僕の背中が、じいちゃんそっくりに見えたって。
    それを聞いた時、僕はなんだかちょっとだけ誇らしい気持ちになった。

    アスタは今頃、お兄ちゃんに思いの丈を伝えていることだろう。
    そして、また明日からきっと、彼女らしく日々を生きていくに違いない。

    彼女がどんな日々を過ごすのか、想像もつかない。
    でも、今日のことが彼女の力になるのなら、そんなに嬉しいことはない。
    さようなら、アスターー

    「あっ」「おっ」
    ザスとギースの間の抜けた声が聞こえたかと思うと、僕の背中にドン!という衝撃が走った。

    「こら〜! 勝手に帰るな〜!!」

    「あ、アスタ!?」

    背中にアスタが抱きついていた。

    「お兄ちゃんは…?」

    「もういいの。いちばんのお願いは叶ったから」

    それから僕の首に腕を回して、ギュッと強く抱きしめてきた。

    「ジョビー、ありがとう! 大好きだよ!!」

    ザスとギースはニヤニヤと、僕を茶化すような顔をしているに違いない。
    絶対にふたりの顔は見られない。

    「ううっ、アスタ…苦しい…って」

    アスタはパッと背中から飛び降りると、僕の手を握って引っ張った。

    「約束! まだ残ってる!」

    僕がキョトンとした顔を浮かべると、
    「も〜! 間に合うように家まで送ってくれるんでしょ?
     初仕事の前日に門限破りはまずいって〜!
     ほら、走る!」
    と僕の手を引いて走り始めた。

    「ああ!」

    僕はアスタを追い越して、今度は僕から彼女の手を引っ張って走った。
    「もちろん! ほら、はやく走らないと遅れちゃうぞ!」
    「あっ、ちょっと〜!」

    今日が人生最高の日かどうかは分からない。
    けれど、今日という日があった。
    ただそれだけで、僕はきっと自分に誇りを持てるだろう。

    明日、朝一番でトラップ先生のところへ行こう。
    自分で決めたことを伝えるんだ。
    その後のことは、またその時考えればいい。

    今はただ、走れ!

    僕らが駆け去ったそばの草むらに、青く光る一輪の花が咲いていた。
    まるで空の色を吸いこんだみたいに、美しく、美しく、その花びらを輝かせて。

    〜おわり〜


     
     
    漫画原作をつくっています。創作大賞2026に『アスタ、まぼろしの花』で参加。自分の進路に悩む少年と大事なものを探しに来た少女が出会い、ともに1日を過ごす物語です。よかったら、読んでみてください。

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