
◆『白い朝を探して』 エピローグ
春だった。
海の近くの小さな部屋。
白いカーテン。
窓の向こうでは、
朝の海が静かに揺れている。
◇
床には、
書きかけの原稿。
開きっぱなしのノートPC。
飲みかけのコーヒー。
空になったビール缶。
脱ぎっぱなしのシャツ。
ギター。
環は床へ寝転がったまま、
いつの間にか眠っていた。
◇
最近の環は、
作家として少しずつ仕事をしていた。
派手な成功ではない。
でも、ちゃんと自分の言葉で生き始めている。
それが、昔よりずっと自然だった。
◇
創作へ入ると、
今でも時間感覚が消える。
気づけば夜。
トイレも我慢している。
身体が固まって、
ソファーから床、
床からベッドへ移動しながら書いている。
コーヒーは冷める。
でも、もうそんな自分を責めていなかった。
◇
窓から、春風が吹き込む。
白いカーテンが揺れる。
その奥で、
彼が静かにコーヒーを淹れていた。
環へ無理に話しかけない。
集中を邪魔しない。
変えようとしない。
ただ、同じ空間に自然に存在している。
◇
彼はマグカップを持ったまま、
眠っている環を見る。
少し笑う。
「環、これ飲む?」
環はぼんやり目を開ける。
「……何時?」
「昼前」
「うわ、またやった」
環は顔を覆いながら笑う。
彼も笑う。
責める空気はない。
ただ、生活が流れている。
◇
環は起き上がり、
そのまま彼へ軽く抱きつく。
「ありがと」
小さくキスをする。
彼は、
「はいはい」
と少し笑う。
それだけ。
でも、その距離感が妙に心地よかった。
◇
昔の環なら、
この距離を不安だと思ったかもしれない。
選ばれたかった。
見捨てられたくなかった。
必要とされたかった。
愛されるために、
どこかで無理をしていた。
◇
でも今は違う。
そこにあるのは、
呼吸できる静けさだった。
同じ空間にいても、
互いを侵食しない距離。
沈黙が苦しくない時間。
◇
環はコーヒーを飲みながら、
床へ散らばった原稿を見る。
ノートPCの画面には、
書きかけのタイトルが映っている。
『真綿の檻』
環は少しだけ目を細める。
昔、
あの檻の中で、
必死に呼吸していた自分を思い出す。
でも今は、ちゃんと外の風を知っていた。
◇
窓の向こうでは、
白い朝の海が静かに揺れている。
春風が、
白いカーテンを静かに揺らしていた。
◇
昔の環は、
過去を思い出すたび、
失敗だったと思っていた。
恋も。
共同体も。
救済を信じた日々も。
全部、
間違いだったのだと。
◇
でも、
春風の中で静かに気づく。
◇
違った。
私はその時々で、
本気だった。
誰かを愛した。
誰かを信じた。
救われたいと思った。
救いたいとも思った。
その願いは、
時に誰かを苦しめ、
時に自分も傷つけた。
それでも、
あれは確かに、
あの頃の私の愛だった。
◇
だからもう、
過去を裁かなくていい。
私は、
あの頃の私を連れて、
ここまで歩いてきた。
◇
白い朝は、
夜を忘れるために訪れるものではない。
夜を通り抜けた人だけが知る、
静かな光だった。
環は窓を開ける。
春の風が、
部屋いっぱいに流れ込む。
ゆっくり息を吸う。
そして、
静かに笑った。