
あととり
「あのおじさん誰?」と遊びに来た同級生が言った。「えっと、親戚のおじさん」と僕は答える。「親戚多いな」という反応は、もうわかっている。親戚が多いのは事実だが、大抵の場合それはごまかしに過ぎなかった。
運転手やお手伝いさん、庭のおじさん、昔奉公で来ていて定期的に挨拶しにくるおばあさん、出入りの外商や米屋、その他知らない家族の仕事の関係者。平成元年の僕の生活の周りにはそういう人たちがたくさんいて、そのことをちゃんと説明すると変な空気になる。「うちは別にお金持ちじゃないんだ」と言うともっとそうなる。だが、僕の服は随分前からジャスコで買ったものだったし、出入りするおじさんの一部は-そのことを知ったのは随分後のことだが-借金取りだった。あまりお金はないのだ。
僕の家は、この地域に根ざして300年以上の伝統を誇る、いわゆる旧家だ。戦前には軍需産業への投資が当たり一時的に莫大な資産を築いたが、殆どの事業は既に廃れ、かろうじて残る小さな会社と不動産収入で屋敷と生活を維持していた。それでも家族と周囲の人々から、その歴史を継ぐ長男として誕生の祝福を一身に受け、高さ10mを超える巨大な鯉のぼりや南国風の庭の植栽が贈られた。
冗談のようだが、ママやパパなどの後に最初に覚えた一般名詞の1つは、「あととり」だった。親子の鳥みたいなイメージを頭に浮かべながら、「あととり」と言っていた。だが、跡取りという語彙が、家の外側でほとんど使う機会を持たないことを知るのに、そんなに時間はかからなかった。僕自身を形容するはずの言葉が、まるで存在しないように感じられた最初の経験だった。
「あのおじさん」の通じなさは、基本的にそれと同じことだった。説明すればするほど、人との距離が生まれる。そして、ほとんどの場合、やや不快な自慢をされたという着地になる。「あととり」という言葉も、「あのおじさん」の説明も、気づけばごまかしの言葉に置き換わるようになっていった。自分のことを素直に語れる場所はどこかにあるだろうか、という長い問いを心の片隅に隠しながら。
昭和末期の頃、僕の家はとても落ち着かなかった。借金がたくさんあり、争いが絶えなかった。事業を分け合っていた姉弟、伯母(承子)と父(勘一)が、経営戦略をめぐって対立し、家族と周囲の人々を二分していた。承子は次期当主として育てられた勘一より20も年上で、堂々たる体躯に支えられた男まさりの胆力が評価され、先代が早逝した後の家業を任されていた。若い頃にあった縁談はことごとく断り、家の統率者であることを選んだ。だが、厳しい市場環境において投機的な気質が祟り、会社の負債は膨らんだ。金融機関は、経営者を交代しなければ抵当権を行使する意思を隠していなかった。徐々に、会社幹部たちの中に勘一を担ぐ動きが活発化していた。姉弟は同居しているにも関わらず、強い緊張関係を誰にも隠せなかった。800坪の屋敷の広さが許容する居室の物理的距離が、かろうじてこの同居を成立させていた。
そんな中、僕は生まれた。承子に子はおらず、僕が後継者であることだけは、全員が一致して認める事実だった。承子はそんな僕に決して乱暴なことはしなかったが、僕は伯母を恐れていた。承子はしばしば祖母や母を怒鳴りつけ、祖母が叩かれるのを見るのは1度や2度ではなかった。僕の母は気が強かったから、我慢の限界が来ると反撃を始め、言い争いはエスカレートした。目の前で声を荒げる大人たちを見るたび、僕はその周りをぐるぐると走り回ったりした。時々争いはおさまったが、そうでないこともあった。そんな時は「あー」と言いながら耳を塞いだ。
承子は僕に、よくお菓子をくれた。そのお菓子は時に古かったり、開封済みだったりしたが、可愛がっているという気持ちは伝わってきた。しかし、僕はできるだけ伯母に会うことを避けていた。食事で隣になるのを露骨に嫌がって、父にたしなめられたこともあった。
親族間では孤立した承子だが、彼女を慕う子分格もいた。付き人、運転手やお手伝いさん、取引先の土建屋のおじさん。土建屋のおじさんは、荒っぽい取引がある時に同席して、ボディガード役を務めていたらしかった。彼らは忠実さに対する報酬について、承子の気前が良いことを知っていた。借金取りも、持続的な収入源が確保される承子の体制を望んでいた。だから、僕の家に出入りするおじさんたちの説明は、余計に複雑だった。
自らの娘に怯えていた祖母鶴子は、公家に連なる華族柳田家の出で、上品で優しく、静かな人だった。その一方で、早逝した夫の正当な後継が長男であるという信念は強く、勘一が大学卒業後一般企業に就職して数年すると、承子に相談もせずに、家に戻るよう声をかけたのだった。そのような態度が承子の暴力性の背景にあることを、多くの人は知らなかったし、知ったとしても気に留めてはくれなかった。
最終的に承子の敗勢を決定づけたのは、その粗野な人格をよしとしない鶴子の兄、柳田真の意思表示だった。銀行の介入を最後に踏みとどまらせていたのは柳田の顔であり、経営陣の刷新をしない限り、この無形の援助から撤退することを承子に伝えた。柳田は妹が結婚後に経験した数々の受難に寄り添ってきた。その時間の蓄積は当然、母親を傷つける姪への同情を上回っていた。
それでも、承子は諦めなかった。自分の主張をまとめたテープレコーダーを作り、ありとあらゆる関係者に送付した。多くの人にとって、その内容は理解し難いものであったが、承子の精神の強固さに敬意を示す人はいた。しかし短期間の最後の精力的な抵抗の最中に、承子は病に倒れ、糸が切れたようにおとなしくなった。それからほどなく彼女は身を引き、旅行に出かけたり、突然関係各所に高級な蘭を送りつけたりしながら、ぼんやりと時間を過ごすようになった。
僕の幼少期は、居住空間に密接して燃え盛る、承子と勘一の家をめぐる戦いと共にあった。それでも、僕はそれほど辛いと思っていなかった。みんな僕にはとても優しく、大事にしてくれた。餅つきや月見などの年中行事では、たくさんの親戚、会社の職員や数世代前の奉公人の農家のグループなどが集まり、わけもなく楽しかった。例えこの楽しさが家の外側で一切理解されないとしても、手放せないと思っていた。
何より僕は他の誰の家とも違う、歴史ある大きな家と庭が気に入っていた。ある時には新緑が揺れる春の風や、全面に広がる秋の紅葉を眺めながら、かつての大金持ちと同じように、静かな時間を過ごした。別の時には庭の奥を探検し、謎めいた煉瓦の壁があったり、昔使っていた石柱が倒れているのを見つけたりして、ワクワクした。ある日、「あの家怖い。なんか古いしボロくない?」と無邪気に言った同級生に驚きはしたが、美しさへの自信は揺るがなかった。
正月になると、柳田家に家族で挨拶に訪問するのが、慣わしだった。一部が文化財に指定されている屋敷で、父はいつもかしこまっていた。かしこまっていたのは父だけではない。柳田の名前が聞こえる時、多くの人は同様に襟を正すような態度を見せた。近隣にある柳田庭園は子供ですら知っている有名な観光地であり、歴史ドラマにも登場する柳田家を知らぬ者は、ほとんど見たことがなかった。
来客慣れしている柳田家の子どもたちと遊びながら、ふと、この家の子たちも「あのおじさん」の説明に悩むのだろうか、と思った。でも、説明の必要は、多分ないように思えた。この家にはきっと訳のわからない人は来ないし、教科書を開けば名前が載っている名門の「あととり」が何を指すのか、疑問の余地もない。
僕はまた、仲間を見つけ損なったような気がした。
その朝、僕は寝坊した。「朝ごはん、手間取ってたのよ。中山さん頼んだから急ぎなさい。」焦った顔で、母親が言った。「先生に怒られてきなさい」と言うタイプではなかった。承子専属だった会社の運転手は、最近時間を持て余し、よく家で待機状態になっていた。中山は少し荒っぽい声で行くよ、とだけ言うとかなりのスピードで小学校に向った。僕はハラハラしながら、学校に間に合うこと、そしてそれ以上に、この光景が誰にも見つからないことを、切実に祈った。始業5分前に到着した僕は、振り返りもせずに教室に駆け込んだ。
「あ、さっきのおじさん誰?」少し後に、同級生が聞いた。一瞬の落胆は大きかった。しかし、同時になぜか、あの柳田家での感覚を、少し思い出していた。
「うちの会社の運転手さん。先生に言わないで。」
「えー、どうしよっかな。ていうか、車ボロくなかった?」
「バレた?」僕は少し笑みを浮かべて答えた。
※実体験をモデルとしていますが、プライバシーに配慮し、具体的な個人名や家族構成、その他出来事の細部は変更しています。ご了承ください。