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福島旅行のささやかな記録

    友人に声を掛けてもらい、福島の沿岸部を北上するかたちで旅行してきた。言うまでもなく、東日本大震災でもっとも甚大な被害を受けた地域のひとつである。原子力災害という不条理な傷は、15年の歳月を経たいまでも依然として癒えていない。数多くの人々の懸命な努力によって、なまなましく裂けていた巨大な傷がすこしずつ縫合されてきたという事実も、当然軽視するべきではないだろう。しかし、この傷が「すっかり」癒えることなどそもそもあり得ないということもまた、心に留めておく必要がある。

    震災当時、僕は横浜に住む小学生だった。学校もそろそろ終わろうかという頃に大きく揺れた。こまかいことはほとんど覚えていないが、全校生徒が校庭に避難し保護者の迎えを待っているとき、とつぜん大きな黒い雲が出て一気に陽が翳ったことだけは妙なほど鮮明に記憶されている。太平洋沖、震源地、津波、原子力発電所、放射性物質――これらの単語は9歳の少年にとってあまりにもよそよそしく、ほとんど理解できていなかったような気がする。あの揺れと翳った陽、その経験が遠くで起きた未曾有の大災害と時を同じくしているということをすこしずつ知るわけだが、いまだにそれがうまく飲み込めていないというか、しっくりきていない感じが残り続けている。言葉にするのは難しいが、防衛本能にも似た、出来事に対する信じがたさ、とでも言えるだろうか。

    グズグズと予定時刻を遅らせながら曖昧に都内で待ち合わせ、高速道路を飛ばして東日本大震災・原子力災害伝承館(以下、「伝承館」と略記)に向かった。渡辺和生氏の設計による、ゆるく弧を描くガラス張りの一面が印象的な建築である。中に入ると左手正面がそのガラス面で、外には関連施設である復興記念公園の芝がひろがり、さらに先に海が見える。

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    白んではいるが、ぼんやり青くなっているところは海

    一昨年逝去された西田敏行氏がナレーションを務める映像を視聴し、らせん状のスロープを上って展示室に向かう。震災以前の、地域における原子力発電所の位置づけ――経済発展をもたらしてくれた、安全でクリーンなエネルギー――、原子力発電の仕組み、事故発生の原因、事故発生後の時系列的な展開、人々の混乱。避難所生活や風評被害など、中長期化する様々な問題。復興へ向けた取り組み。おそらく零れ落ちてしまっている事柄もあるにはあるのであろうが、それほど大きいとも言えないスペースを丁寧に活用した誠実な展示であるように僕には見えた。もしあえてけちをつけるのであれば、100%安全などということはあり得ない「原子力発電所」という装置を地域に押し付けたうえで、一切の責任を取らないどころか雇用や経済効果を生み出したと吹聴してさえいた大都市《東京》への言及が(僕の見落としがなければ)なかったこと、くらいである。「沖縄には米軍基地を、福島には原子力発電所を。私たちはでっかいビルをたくさん建てます……。」これは当然のことながら政治あるいは行政だけの問題ではない。

    付記。この記録を書くために伝承館のwikipediaを確認したところ、「展示・口演に関する課題」という項が立てられていたのだが、展示内容の課題として挙げられているものの多くは僕の行った2026年6月28日の段階で改善・修正がなされている。一例を挙げておこう。wikipediaには「最大で15メートル超の津波が押し寄せる可能性が震災前に試算されつつも、東電が津波対策を先送りしていた件についても言及されて」いない、との記述がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%83%BB%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%81%BD%E5%AE%B3%E4%BC%9D%E6%89%BF%E9%A4%A8#)(2026年6月30日閲覧)。しかし実際には、15m超という具体的な数字こそ出てこないとはいえ、「建設時の想定を超える津波が起きる可能性が高いことや、その場合すぐに炉心損傷に至る脆弱性を持つことが、繰り返し指摘されていた。しかし、東電はこの可能性を軽視し、安全裕度のない不十分な対策にとどめていた」という事故調査報告を引きつつ、「対策を怠った人災」とまで言及されている(下部「参照①」)。また、「大熊町にあった双葉病院の入院患者とその系列の介護施設入所者44人が避難中に衰弱死した件など、原発事故の関連死についても具体的な展示はない」との記載があるが、これもまた改善され、病院での苦々しい出来事が残されたトリアージタグとともに説明されていた(下部「参照②」)。推察するに、wikipediaの筆者が悪意のある文章を書いたのでは全くなく、伝承館がオープン当初抱えていた様々な欠陥をひとつずつきちんと克服していった、ということなのだろう。いずれにしても、当該の項目には「現在の」事実とは異なる記述が数多く含まれており、今後伝承館について関心を示した方々に不必要な悪印象を与えかねない。「wikipediaを安直に、無批判に信用してはいけないよ」というそこここで何度も繰り返されてきた忠告を改めて実感しつつ、然るべき対応を望むところである。


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    参照①
    (本文で引用したのは右上の箇所)


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    参照②

    展示はある意味で禁欲的というか、抑制的なところがあって、ダイナミックな津波の映像とか、大切な人を失った残された者のインタビュー映像とか、見学者に安直なカタルシスを誘うようなものはほとんどなかった(もちろん津波がやってくる映像がないわけではないのだけれど、すべてを押し流して家屋や自動車を呑み込んでいく、というようなものはなかったはずだ)。これはきわめて正当な判断だと僕は思う。津波の映像は単なるスペクタクルとして見られるべきではないし、上記のようなインタビューも素朴な「悲劇的物語」として見られるべきではない。ただでさえ情緒的になりやすい事柄を扱い、それを「伝承」しようという意図をもつのであれば、見学者には理智的な態度を崩さずにいてもらう必要があるだろう。もちろん、感情によるところの共感が無用の長物だ、などということが言いたいわけではない。具体的な惨状のリアリティは、人と人という微視的な単位によってはじめて生じてくるものであるはずだ。しかし、斯様の災害を「伝承すること」は、震災発生当時の諸々の体制や力学を理解することなしには成立しない。防波堤、予備電源、緊急時の制度設計、そしてそれらを包み込んでいた「安全神話」、正常性バイアス、楽観主義。人文科学を含めた、科学を根拠として「危ないよ」と言い続けていた者を、軽視する時代の「空気」。災害が伝承されること、というのは、その災害を語り継ぐということだけではなくて、具体的な惨禍のリアリティに根差したうえで、いつでも繰り返しうるこの「空気」に抗うその態度を持つことによってはじめて達成されるのだと僕は思う。

    このように書くと、伝承館の展示は頭でっかちで、人々の痛ましい記憶は抽象化されている、と思われかねないが、そういうわけではない。揺れと同時に止まった小学校の時計、混乱をきわめる病院内、避難先に残されたメモの数々、情報を整理した模造紙、避難生活によって管理できなくなった家畜を屠殺せざるを得ないと知らせる通知書。展示室を出た先の通路にも読売新聞社写真部による震災の記録写真がたくさん飾られていたのだが、この一連の記録写真にはとりわけ込み上げてくるものがあった。見つからない家族をたった一人探し続ける壮年の男性。変わり果てた沿岸部の街を眺める母と子。すっかり何もなくなってしまった、家のあったであろう野原に花を手向ける老夫婦。そして、避難先の体育館で小学校の入学を迎え、皆に送られる二人の少女。苦々しさ、痛ましさ、感銘、錯綜した感情は名状しがたいが、それを名状しがたいと片付けてしまうこともまた後ろめたく……。名状しがたいものを凝視せよ、というアウシュヴィッツを論じたアガンベンの言葉を想起しつつ、この思いをとにかく手放さずにいよう、ということを決意して伝承館を後にした。このnoteはある意味で、その決意の個人的な宣誓でもある。

    ところで、この旅行を企図した段階で、友人と僕は「この旅行は旅行である」ということをあらかじめ決めていた。とどのつまり、伝承館をはじめとして、その周辺に残された傷は傷として受け止めたうえで、そこに沈潜するのではなく、いまの福島をそれとして楽しもう、ということである。この決断じたい身勝手と言ってしまえばそれまでなのだが、当時僕らはそれが一番いい選択だと思ったし、すくなくとも僕はいまでもそう思っている。

    そういうわけで僕らは相馬に北上し、ホテルに荷物を置いてあたりを散策して、いかにも美味しそうな店構え(清潔感があるが、過剰に現代化されているわけでもなく、きちんと地元に愛されている気配がする)の鮨屋に入った。常連と思しきお客さんでカウンターは8割ほど埋まっており、大将は歓談しながらてきぱきと仕事を進めている。東京から来た若造の二人組、これはあまり相手にされないパターンか、と内心思っていたのだが、その予想はあっさりと裏切られることになる。近くの漁港で獲れた魚を握りで数貫頼んで、うまいうまいと食べ進めるうち、なにやら頼んでいない刺身やらつまみやらが続々と出てきたのである。「日曜の夜だからさ、悪くしちゃってもしょうがないから!」と言いながら、海鞘(ほや)の刺身、マグロの目玉の煮つけ、マグロとカツオのブツ、鰆の刺身などなど、これでもか、というほど充実したラインナップでもてなしてくれた。おすすめを伺って選んだ日本酒も、「飲んじゃっていいから!」と言って、一升瓶に3分の1ほど残っているのにこちらに渡してくる。最後まで残っていたお客さんも非常に親切な方で、日本酒を一杯おごってくれたばかりか、興味があるなら翌朝漁船に乗って遊覧航行してみるか、とまで提案してくれたのである。そんな夜だったからこそ痛飲し、翌朝あまりに体調のすぐれなかった僕たちは最終的に断りをいれる羽目になったのだが、そういう誘いをしてくれたことじたいが嬉しく、本当にいい思い出になった。

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    マグロとカツオのブツ盛り合わせ。
    今見ても信じがたい量である

    翌日は昼前まで動けなかったのだが、僕はつけ麺を、友人はラーメンを食べてある程度回復し、宮城県との県境そばにある(相馬市じたいが県境の都市だ)松川浦のあたりで遊んだ。浜の駅、という道の駅の親戚みたいなところで土産物を物色し、港で昨日お客さんから聞いた漁船を探して(水色の映える美しい漁船がちゃんと見つかった)、灯台へ行った。僕は灯台フリークである。この鵜ノ尾埼灯台はサイズこそ大きくないが、四角柱なのが珍しく、楽しみにしていた。

    崖の上に立つ白い灯台が、その崖に上りかけたところで見えなくなる。潮害に強いクロマツの茂る細い道をくねくねと進み、さて灯台はどの方向か、と思うころ、正面に真っ白の灯台が現れた。ひとくちに灯台と言っても地理条件は様々で、犬吠埼のようにひらけたところもあれば、このように足元が自然に満ちていることもある。この灯台が動いているところは見られなかったが、昼でも霧の強かったこの日、すっと立つ角ばったこの灯台は力強く見えた。

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    鵜ノ尾埼灯台

    松川浦に面するホテルで日帰り入浴をさせてもらい、帰京の道中で焼肉屋に入ってたらふく食べた。鮨と焼肉、日々のキャッシュフローを考えれば身の丈に合わない豪遊だが、福島は万物が美味いのだから致し方ない。長い高速の道中、何を話していたのかはもはや判然としないのだが、何はともあれまた来たいね、ということは言った言わないを問わず共有していた気がする。

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    牛の中落ち。
    脂身と赤身の塩梅が最高でした

    今度は果物もたくさん食べたい。そしてそれまでもそれからも、この旅行で感じ、考えたことを忘れずにいたいと思う。

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