
SNSの賢者と保育園の先生
ぼんやり眺めていたSNSに、ある投稿が流れてきた。ホームレスに施しを与えた旨の報告と、受け取っているホームレス男性の姿。
投稿主が男性に哀れみを感じたことが事実ではあっても、一方で頭の片隅ではこうも書こうか、いやこうも書こうかとあれこれ〝効果的〟な文章を考えながら、施しを与えている手とは反対の手でカメラを構えて撮影していたのだろう。これを見たとき、私は言いようのない不快感を覚えた。
画面の向こう側の景色は、どこか歪んで見えた。低光量で手ぶれしているせいだけではあるまい。カメラを向けられ、コンテンツとして消費されるその困窮者は、生身の人間としての尊厳を剥ぎ取られ、誰かの承認欲求を満たすための「風景」扱いされている歪みだ。
私の批判にはこう対抗されるだろう。「偽善であっても、何もしないよりマシだ」と。この盾は、一見説得力がある。しかし一皮むけばこうだ。恵まれる側が感謝という選択肢以外を持てないという極めて傾斜した両者の状況を利用して、救う側は自身の〝善き物語〟を正当化する。
相手の生活を支えられるほどの分厚い札束で頬を張るならまだしも、手頃な金で相手の尊厳を叩き潰す。彼が差し延ばした掌に乗せていたものは、小銭ではなく、差し出した魂ではなかったか。
しかし今こうして批判の言葉を発している私自身が、他者の不幸をダシにして評価されたいという醜い欲望を抱えていることは紛れもない。ホームレス男性に対するポストに批判的な投稿をしようかと大上段に振りかぶる刹那、巣くっている醜い欲望にどうにか気づく。口を噤み、自分を見つめ直す。
いつもこのように必死に仮面で覆い隠し、羞恥心という名の「鏡」を持ち歩くことで、なんとか自分を律している。私は鏡を大切にしていきたい。しかし、この鏡はあまりに身近にあるがゆえに、その存在を忘れがちになる。
喪失とは、逆説的にその存在を突きつけられる経験だ。その鏡を叩き割って失ったあとに初めて、そこにあった存在の重さに気づき、自分がどれほど傲慢であったかを思い知る。その痛みこそが、人間を人間に押しとどめて魂を成長させるための、避けては通れない通過儀礼だ。
──そんなことを考えて、私もまた、鏡について〝効果的〟な投稿をしようかと企てていた矢先、6歳になった娘のすすり泣く声に気づいた。
ついさっきまで機嫌よく遊んでいたはずなのに驚いてわけを聞くと、昨年、保育所の先生から貰った手紙をたまたま見つけ、読み返して、泣いていたのだという。手紙を受け取った当時の5歳の彼女にとって、手紙は手紙に過ぎなかった。文字が読めなかった彼女に代わって私が読み上げ、それを聞いた彼女は先生から貰った手紙に無邪気に喜び、そして短い喜びが過ぎ去った後は無造作に放り投げていた。しかし、1年を経て、ようやく文字を覚えた彼女は、文字以上の大切なものを会得していた。
先生は転属してもう地元にはいない。喪失を通じ、もう会えない先生という「かけがえのない他者」の存在を、自分自身の心の中に深く刻み込んだのだ。彼女が流した涙は、かつて自分が無関心に放り投げたその紙切れに、確かな「想い」が宿っていたことを理解した瞬間の、痛みを伴う成長の証だった。
喪失と向き合うことで、他者が自分の外の世界に住んでいることを知ったのだろう。彼女は他者を道具として扱うような、あのグロテスクな領域とは無縁の場所へ、静かに一歩を踏み出した。
SNSという濁流の中では、他者の痛みを「風景」として消費する者が、英雄のように称賛されることがある。たとえその風景が荒野であっても、グロテスクなフラッシュライトは誘蛾灯のごとく作用する。群れ集まった観客を逆手にとってハックする者が「賢い」とされる。だが、本当の豊かさとは、画面越しに「善人」を演じることではなく、会えない誰かを想い、自分の内なる鏡と向き合って泣くことができる、その静かな想像力の深さにあるのではないか。
手紙を抱きしめて泣く娘の背中を見ながら、私は思う。喪失を悼むという切なくも美しい営みこそが、過剰な承認欲求が支配するこの時代において、私たちが手放してはならない人間としての誠実さの一つなのだと。それはこの小さな胸の中にさえ宿せることができるのだ。
知らず知らずに荒涼とした景色を内側に広げていた張本人の一人である私は、荒野の真っただ中に小さな花が咲き初めていることを知り、心からの安堵を得た。