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【エッセイ】愛も無常。


    差し出したこころはその手を掴むのか
    咲き乱れるこの愛も無常

    こんな短歌を詠んだ。

    結婚報告が身の回りで増えてきて、
    愛ってなんだろうな、と漠然としたものに自分なりに輪郭をつくりたくなった。


    まず、私が「愛とは?」と問われて思い浮かぶなかで、最も強いのは家族愛である。
    ただ、生まれた家庭の家族の間にある家族愛と、赤の他人と育んでいく愛は、少し違うものだと思う。友情の中にある愛もこれらとは違う。私の周りにも愛はたくさんあるけれど、
    「結婚(またはそれに準ずる関係性)」という形の愛のことを、私はまだ知らない。
    それでも考える。


    愛というのはいつでも変わらないのだろうか。
    愛が不変なものであれば、この世のあらゆる暴力はとっくになくなって、争うこともなくなる気がする。身近なところで言うと、夫婦喧嘩や親子喧嘩は誰もしなくなるし、離婚という制度も制度として破綻してしまうのではないか。喧嘩はなくならないし、離婚という制度もなくならない。なんなら、浮気も不倫もなくならない。というか、私が想像するあたたかで自由な愛とは違う、縛り付ける愛や、力が強すぎる愛の形もあるのかもしれない。そういう愛は、最初からそういう愛の形なのか、どこか途中で形が変わるのか。


    この世の一切の現象は絶えず変化し、不変なものはない。これをあらわす言葉を「諸行無常」というらしい。どこかで聞いたことがある。お坊さんが言ってたかもしれない。仏教用語では、「無常」という言葉を、「すべてのものが絶えず変化して、少しの間も同じ状態にとどまっていないこと。」と定義しているようだ。人の世は儚いから、死という意味が含まれることもあるみたい。



    人の心は絶えず変化する。それは私も知っているし、よく分かっている。6秒待っても怒りは収まらないし、3秒で人を嫌いになることもある。その3秒で恋に落ちることもあれば、5秒前に既に恋に落ちてる時だってある。それくらい、人の心はコロッと変わる。最初は同じ形の好きだったとしても、時間が経つと嫉妬や怒りや哀しみが好きにくっついてきて、形が変わってしまうこともある。好きだと差し出したこころと同じ熱量と純度のこころが、常に返ってくるとは限らない。私も、自分に差し出された愛を同じ熱量と純度で常に返し続ける自信はないし、どこかで燃料切れを起こしてしまいそうである。


    そもそも、差し出したこころを受け取ってもらえるかも分からない。差し出したこころが掴むのは、同じ純度の愛かも知れないし、もっと熱量の高い愛かもしれない。そもそもなにも掴めないかもしれない。そのこころがなにを掴んで、なにを掴めなかったのか、こころが私のもとで開かれるまでは分からない。なんだか、運まかせすぎる。


    そのこころがなにかを掴んできて、掴んだものに染められるかもしれない。その染まった愛が、また私から誰かに差し出されたとき、そのこころが次になにを掴みとってくるかは分からない。哀しみや憎しみを掴んでくるかも。もっと冷たくなるかも。一度染められたとしても、それが永久に続くとは限らない。私もまた、その愛を差し出した時と同じ熱量と純度で受け取れるかは分からない。間違えて、別のこころを掴んでしまうかも。



    咲いた花は必ず枯れる。風に吹かれて乱れた花も、穏やかに光を浴びる花も、花瓶で水を吸いあげる花も、必ず枯れる。生きているから。私は愛も生きていると思うから、整った愛も、美しい愛も、乱れた愛も、壊れてしまった愛も、いつかは枯れると思う。けど、うまく枯れることができたら、ドライフラワーみたいになるかもしれない。でも、愛も所有者がいなくなれば最後は死ぬ。


    この世の一切の現象に不変なものがないのと同じように、やっぱり愛も無常なのだと思う。


    ならせめて、
    咲き乱れるくらいいいかもしれない。

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