
アン、今日もフラれたな🍙第3話 倉敷の白壁とままかりを握るカフェ
姫路の白い城が、朝の後ろへ小さくなっていった。
大和風太郎は、荷物を積んだ少しボロい旅用自転車のペダルを踏んでいた。
荷台には寝袋。
小さな鍋。
釣り竿。
着替えの袋。
そして、昨日もらったいかなごのくぎ煮のおにぎりの記憶が、まだ舌の奥に残っていた。
甘辛い味。
白いタオルのにおい。
サロン藤堂の古い鏡。
藤堂サキの、少しだけ笑った顔。
風太郎は、空を見上げた。
「アン」
「なんや」
犬用キャリーの中で、赤いバンダナを巻いた柴犬アンが顔を出した。
「わし、2県目でもう2回失恋してるんやけど」
「せやな」
「ペース早ない?」
「風太郎の場合、恋が早いんやなくて、負けが早い」
「朝からきついな」
「寝起きのツッコミは切れ味ええねん」
風太郎は苦笑いした。
風は少し冷たかった。
姫路でもらったおにぎりの包み紙は、リュックのポケットに入れてある。
捨てられなかった。
あの町に、自分がいた証のような気がした。
「でも、サキさん笑ってたな」
アンが言った。
「うん」
「ほな、ええ失恋や」
「失恋に、ええも悪いもあるんか」
「ある。相手の未来を祝える失恋は、まだ食べられる」
「食べ物で表現するな」
「風太郎には一番伝わるやろ」
風太郎は言い返せなかった。
その通りだった。
やがて、道の向こうに県境の標識が見えた。
風太郎は背筋を伸ばした。
「アン、岡山や」
「来たな」
「儀式や」
風太郎は自転車のベルを鳴らした。
チリン。
小さな音が、朝の道に飛んだ。
風太郎は『桃太郎』を鼻歌で口ずさんだ。
桃太郎さん
桃太郎さん
おこしにつけたきびだんご〜♫
ひとつわたしに下さいな〜♬
少し外れたメロディだけが、風に混じった。
「岡山と言えば、きびだんごやな」
アンはすぐに言った。
「もらう前提で県に入るな。旅人やなくて追いはぎや」
「追いはぎは言いすぎやろ」
「ほな、腹ペコ期待犯」
「罪名がかわいい」
「せめて働いてから食べ」
「はいはい。働きますよ」
風太郎は笑ってペダルを踏んだ。

岡山の空は高かった。
道沿いの田んぼには、朝の光が入っていた。
自転車のタイヤが、細かい砂を踏む。
アンの赤いバンダナが、キャリーの中で小さく揺れる。
風太郎はまだ旅人として未熟だった。
どこで泊まるかも決めていない。
今日の仕事も、まだ見つけていない。
でも、不思議と怖さは少し減っていた。
堺にも、姫路にも、人の手で握られたおにぎりがあった。
それを思うだけで、前へ進めた。
倉敷に着いたのは、朝の早い時間だった。
美観地区の白壁は、まだやわらかい光を受けていた。
川沿いの柳が、ゆっくり揺れている。
石畳には、昨夜の湿り気が少し残っていた。
ほうきの音がする。
サッ。
サッ。
年配の男性が店の前を掃いている。
別の女性が、川沿いの落ち葉を集めている。
観光客はまだ少ない。
それでも、スマホを持った人が白壁に向かって写真を撮っていた。
「きれいやなあ」
風太郎が言った。
アンが鼻を動かした。
「きれいな町は、朝から誰かが掃いてるんやで」
風太郎は、ほうきを持った人たちを見た。
たしかに、白壁だけが町をきれいにしているわけではなかった。
足元を掃く手がある。
観光客に道を聞かれて、笑って答える人がいる。
写真には入らない裏路地で、ゴミ袋を運ぶ人がいる。
風太郎はスマホで単発仕事を探した。
美観地区の朝清掃。
集合場所は近かった。
「アン、仕事見つけた」
「よし。これできびだんごに近づいたな」
「やっぱり食べる気あるやん」
「アンは働く人の味方や。働いたら食べてええ」
風太郎は清掃の受付をすませ、ほうきを受け取った。
アンは犬用キャリーから降り、赤いバンダナを揺らしながら、風太郎の横に立った。
「犬も掃除するんか」
受付のおじさんが笑った。
アンは胸を張った。
「監督です」
おじさんは一瞬固まったあと、すぐに笑った。
「ほな、しっかり頼むわ」
「人間はすぐサボるからな」
「アン、やめろ。採用初日や」

風太郎は石畳を掃いた。
落ち葉を集める。
紙くずを拾う。
川沿いの柳の下には、小さな菓子の袋が落ちていた。
観光客が歩く前に、町は整えられていく。
その手伝いをしていると、少しだけ町に入れてもらえた気がした。
ただ、風太郎はまだ不器用だった。
落ち葉を集めるつもりが、風で店の前へ押しやってしまった。
ほうきの先が水桶に当たり、桶がぐらりと揺れた。
バシャ。
水が石畳に広がった。
「わ」
風太郎があわてると、古民家の木の戸が開いた。
暖簾を手にした女性が出てきた。
落ち着いた顔だった。
少し癖のあるショートボブ、生成りのリネンシャツに、色落ちした倉敷デニムのカフェエプロンをつけている。
年齢は35歳くらい。
目はやさしいが、眠れない夜をいくつか知っているようにも見えた。
女性は水たまりを見て、風太郎を見た。
「そこ、入口です。お客さんより落ち葉が先に入ってきます」
怒鳴らない。
でも、言葉はしっかりしていた。
風太郎は頭を下げた。
「すみません。落ち葉の団体客を誘導してしまいました」
女性は少しだけ目を細めた。
「団体客なら、せめて予約してからにしてください」
アンが小さく言った。
「風太郎、静かな人に静かに怒られてるで」
「わかってる」

女性は暖簾を出した。
そこには「ゆいの蔵」と書かれていた。
「橘ユイです。この店の店主です」
「大和風太郎です。旅の途中です」
アンが一歩前に出た。
「柴犬アンです。風太郎の監督です」
ユイは少しだけ驚いた。
「しゃべるんですね」
「はい。必要なことだけ」
風太郎が横で言った。
「だいぶ必要以上にしゃべります」
「風太郎の反省が足らんからや」
ユイは、今度は少し笑った。
風太郎は、その笑顔に胸が鳴った。
アンがすぐ見た。
「早い」
「何が」
「胸の音」
「聞こえるんか」
「顔で聞こえる」
「怖い犬やな」
「恋に弱い人間の方が怖いわ」
清掃が終わるころ、ユイの店からコーヒーの香りが流れてきた。
古い木の戸。
白い壁に合う小さな花。
木のテーブル。
棚に並んだ器。
店の奥には、ままかりを使った小さな皿が並んでいた。
風太郎は、皿洗いの単発仕事も探していた。
ちょうど、ユイの店で昼前の手伝いが必要だった。
「朝から入口を水浸しにしたお詫びで、働かせてもらえませんか」
風太郎が言うと、ユイは少し考えてからうなずいた。
「皿を割らない自信はありますか」
「割らない努力はあります」
アンが言った。
「自信はないらしい」
ユイは笑った。
「では、努力の方でお願いします」
昼になると、店に観光客が入ってきた。
若い女性の2人組が、店内を見て声を上げる。
「かわいい」
「この器、写真映えする」
別の夫婦は、メニューを見て丁寧に注文した。
「この建物、古いんですか」
ユイは笑顔で説明した。
「はい。元は古い蔵だったんです。できるだけ柱を残して直しました」
夫婦はうなずき、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
風太郎は皿を洗いながら、その様子を見ていた。
いい客もいる。
町のことを聞く人もいる。
でも、そうでない人もいた。
午後、派手な帽子をかぶった若い観光客が店先に立った。
「かわいい。写真だけ撮っていいですか」
ユイは一瞬だけ困った顔をした。
けれど、すぐに笑った。
「あ、はい。どうぞ」
観光客は入口の暖簾、木のテーブル、窓辺の花を撮った。

料理は頼まなかった。
椅子にも座らなかった。
「ありがとうございました」
軽い声だけを置いて、出ていった。
ユイは笑顔のまま、器を棚に戻した。
その手が、少しだけ遅くなった。
アンが小さく言った。
「写真だけ撮って、店の気持ちは置いていくんやな」
風太郎は水の中で手を止めた。
ユイは聞こえていた。
でも、何も言わなかった。
昼過ぎ、地元の年配の女性たちが店の前を通った。
買い物袋を持ち、ゆっくり歩いている。
1人が、ゆいの蔵の暖簾を見た。
「あの店は観光客向けじゃ」
別の人が言った。
「地元のもんが入るには、ちょっと気取っとる」
風太郎は、皿を拭く手を止めた。
ユイはカウンターの奥で聞こえないふりをした。
でも、肩が少し固くなった。
風太郎は、つい言ってしまった。
「地元の人も観光客も、仲良くしたらええんちゃいますか」
ユイの手が止まった。
店の中の空気が、少し冷たくなった。
ユイは静かに言った。
「それができたら、こんなに困っていません」
風太郎は、しまったと思った。
悪気はなかった。
でも、悪気がないから軽くなる言葉もある。
アンが風太郎を見上げた。
「風太郎、きれいな言葉で雑に丸めたらあかん」
「ごめん」
風太郎はユイに頭を下げた。
「すみません。また、ちゃんと聞く前に言いました」
ユイは深く息を吸った。
「また?」
「旅先で、たびたび」
「学習途中なんですね」
「はい。犬に毎回補習されてます」
アンはすました顔で言った。
「成績はまだ赤点や」
ユイは少しだけ笑った。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
閉店後のゆいの蔵は、昼間とは違う顔をしていた。
観光客はいない。
木のテーブルを拭く音だけが、静かに響く。
洗った器が、水切りかごの中でかすかに触れ合う。
コーヒーの残り香が、柱の木の匂いに混ざっている。
外には白壁の通りがあり、川沿いの柳が夜の風で揺れていた。
風太郎はカウンターの端に座り、アンは足元に座っていた。
ユイは、最後の器を棚に戻した。
「私、東京で働いていたんです」
風太郎はうなずいた。
今度は、口を挟まなかった。
「忙しくて、いつも時間に追われていました。倉敷に帰れば、自分の場所を作れると思ったんです。古い蔵を直して、器を選んで、町の雰囲気に合う店にして」
ユイは、店内を見回した。
「SNSでは、ありがたいことに人気が出ました。観光客も来てくれます。でも、写真だけ撮って帰る人もいる。地元の人からは、観光客向けって言われる」
風太郎は、昼間の声を思い出した。
あの店は観光客向けじゃ。
地元のもんが入るには、ちょっと気取っとる。
ユイは小さく笑った。
「帰ってきたのに、ここにいる感じがしないんです」
アンが、ゆっくりユイを見上げた。
「帰る場所って、住所だけやないで。自分のごはんを待ってくれる人がおる場所や」

ユイは、少し驚いた顔をした。
「ごはんを待ってくれる人」
「せや。店って、商品だけ売る場所ちゃうやろ。誰かが座って、湯気の向こうでほっとする場所や」
風太郎は、アンの言葉を聞きながら、堺の子ども食堂を思い出した。
姫路の美容室も思い出した。
誰かが待っている場所。
誰かが座れる場所。
「わしも、まだ住所らしい住所はないです」
風太郎は静かに言った。
「会社から逃げて、旅に出て、まだ自分がどこにおるのか、ようわかってません。でも、堺でおにぎりもらって、姫路でおにぎりもらって、少しずつ思うんです。居場所って、建物だけやないんやなって」
ユイは、黙って聞いていた。
風太郎は、そこで止めた。
これ以上話すと、自分の話でユイの夜を埋めてしまいそうだった。
翌朝。
風太郎は、清掃の人や地元の老人たちに話を聞いた。
川沿いで落ち葉を集めていた年配の男性は、ほうきを止めずに言った。
「ユイちゃんが悪いわけやない。でもな、この辺、どんどん観光の町になっていく。住んどる者は、背景みたいになるんよ」
「背景」
「写真撮られるやろ。家の前でも、洗濯物の近くでも。笑って言うんや、すてきですねって。すてきなんはええ。でも、ここで暮らしとる者の面倒くささまでは写らん」
別のおばあちゃんは、買い物袋を持って立ち止まった。
「あの店は観光客向けじゃ」
風太郎は、今度はすぐに反論しなかった。
アンが前に出た。
「ほな、地元の人が座りに行ったらええやん」
おばあちゃんは目を丸くした。
「犬が簡単に言うな」
アンは尻尾をゆっくり振った。
「簡単なことを難しくして、みんな寂しくなってるだけちゃうんか」
おばあちゃんは、ふんと鼻を鳴らした。
「そんなん、若い子の店に年寄りが行ったら邪魔やろ」
風太郎は静かに聞いた。
その言葉の奥に、責める気持ちだけではないものがある気がした。
邪魔かもしれない。
場違いかもしれない。
そう思って入らない人もいる。
ユイも、入ってほしいと言えない。
どちらも、遠くから見ているだけだった。
その日の夕方、風太郎はゆいの蔵で皿を拭きながら言った。
「朝ごはん、どうですか」
ユイは首をかしげた。
「朝ごはん?」
「観光客向けの特別メニューやなくて、地元の人が普通に座れる朝ごはんです。ままかり、味噌汁、卵焼き、漬物、白ごはん。映えは弱いかもしれんけど、湯気は強いです」

アンが言った。
「風太郎、腹減ってる時は企画が出るな」
「否定できへん」
ユイは考え込んだ。
「地元の人、来てくれるでしょうか」
「わかりません」
風太郎は正直に言った。
「でも、店の中に座ってもらう理由は作れます。写真撮る人には、写真だけでもいいけど、できれば1杯飲んでいってくださいって、やわらかく貼り紙する。観光客にも、町で暮らす人がいるってわかる小さなカードを置く。地元の人に、昔の町の話を聞く日を作る」
ユイはカウンターに手を置いた。
「それ、私が言わないとだめですね」
「はい」
風太郎はうなずいた。
「わしが言うたら、また雑に丸めます」
アンも言った。
「ユイさんの店や。ユイさんの言葉で開けた方がええ」
ユイはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりうなずいた。
「朝ごはん会、やります」
その声は、少し震えていた。
でも、決めたのはユイ自身だった。
初めての朝ごはん会の日。
倉敷の白壁は、まだやわらかい光を受けていた。
川沿いの柳が、朝の風で揺れている。
ゆいの蔵の中には、味噌汁の湯気が立っていた。
卵焼きの甘い匂い。
ままかりの甘酢の香り。
地元の漬物。
白ごはん。
古い木のテーブルに、派手ではない朝ごはんが並んでいる。
風太郎は、少し緊張していた。
ユイはもっと緊張していた。
暖簾は出してある。
店の前には貼り紙もある。
写真だけでもいいですが、できれば1杯飲んでいってください。
朝ごはん、あります。
町の話も、聞かせてください。
時間だけが過ぎた。
誰も入ってこない。
ユイの手が、エプロンの端を握った。
「やっぱり」
その時、暖簾が揺れた。
昨日のおばあちゃんが入ってきた。
買い物袋を持っている。
「まだ、食べられるん?」
ユイは一瞬だけ固まり、それから笑った。
「はい。どうぞ」
おばあちゃんは、少し照れくさそうに座った。
続いて、朝清掃をしていた男性も入ってきた。
「味噌汁だけでもええか」
「もちろんです」
観光客の夫婦も入ってきた。
カメラを持っている。
料理を見て、すぐに写真を撮ろうとした。
風太郎が、やわらかく声をかけた。
「写真もええですけど、まず味噌汁いきませんか。湯気は、撮るより浴びた方がええですよ」
アンが言った。
「風太郎、たまにうまいこと言うな。腹減ってる時だけ」
店内に笑いが起きた。
観光客の夫婦は、少し恥ずかしそうにカメラを下ろした。
「じゃあ、いただきます」
味噌汁をひと口飲んだ夫が、目を細めた。
「あったかいですね」
おばあちゃんが、ままかりを食べた。
しばらく黙って、もう一口食べる。
それから言った。
「こういうのでええんよ」
ユイの表情が変わった。
泣きそうではない。
でも、肩から何かが少し落ちたような顔だった。
「昔はな、この辺にも朝から開いてる店があってな」
おばあちゃんが話し始めた。
観光客の妻が聞いた。
「そうなんですか」
「そうよ。観光客なんか、今ほどおらんかった。川沿いで子どもがよう遊んどった」
「この町に住んでるんですか」
「住んどるよ。写真にはあんまり写らんけどな」
観光客の妻は、少し考えてから言った。
「じゃあ、今日は写真だけじゃなくて、話も持って帰ります」
おばあちゃんは照れたように笑った。
「話は重いで」
アンが横から言った。
「おにぎりより重いもんもある」
風太郎は言った。
「アン、それは深いんか浅いんかわからん」
「噛んだらわかる」

朝ごはん会は、大成功ではなかった。
満席にもならなかった。
SNSで大きく広がったわけでもない。
それでも、地元のおばあちゃんが座った。
清掃の男性が味噌汁を飲んだ。
観光客が写真だけでなく、話を聞いた。
ユイの店に、初めて地元の朝が入ってきた。
その湯気の向こうに立つユイを見て、風太郎の胸はまた鳴った。
ユイが、おばあちゃんに言う。
「ごはん、おかわりできますよ」
その声が、昨日までより少しやわらかかった。
風太郎は、恋に落ちるには十分すぎると思った。
アンが横から見上げた。
「またや」
「まだ何も言うてへん」
「顔が言うてる」
「顔、うるさいな」
「持ち主に似たんやろ」
昼過ぎ。
朝ごはん会の片付けが終わったあと、ユイのスマホが鳴った。
画面を見たユイの表情が変わった。
風太郎は、その小さな変化で、少しだけ嫌な予感がした。
ユイは店の奥で電話に出た。
声は静かだった。
「うん。久しぶり」
風太郎は皿を拭く手を止めた。
聞くつもりはなかった。
でも、店内が静かで、声の端だけが届いた。
「今日、朝ごはん会をしたの」
「地元の人が、来てくれた」
「私、ちゃんと話したい。逃げずに」
電話が終わったあと、ユイは風太郎のところへ来た。
「夫です」
風太郎の心の中で、旗がまた下りた。
「夫」
「東京にいます。離婚の話も出ていました。ずっと、ちゃんと話せていなくて」
ユイは、棚の器を見つめた。
「でも、今日、地元の人と話してみて思ったんです。私は、ここでも東京でも、ちゃんと話す前にあきらめようとしていたのかもしれない」
風太郎は、笑おうとした。
うまく笑えたかどうかはわからなかった。
「夫がいるんは強い。これは反則や」
アンがすぐ言った。
「反則ちゃう。人生や」
「犬に人生言われた」
「犬かて、待つ寂しさくらい知ってる」

ユイは、アンの言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「風太郎さん、ありがとうございます」
風太郎は首を振った。
「わしは皿洗いと、雑な発言と、ちょっとした荷物運びをしただけです」
「それでも、聞いてくれました」
風太郎は黙った。
告白する前に失恋した。
でも、不思議と、胸の痛みは静かだった。
ユイが夫ともう一度話す。
それは、風太郎が入る場所ではない。
「ちゃんと話してください」
風太郎は言った。
「話すの、怖いですけど」
「怖い時は、味噌汁飲んでからでええと思います」
アンが言った。
「風太郎は腹を中心に世界を回しすぎや」
ユイが笑った。
出発の朝。
美観地区はまだ静かだった。
白壁の町並みに、朝の光が薄く入っている。
川沿いの柳が揺れ、石畳を掃くほうきの音が聞こえた。
サッ。
サッ。
ゆいの蔵の前には、暖簾が出ていた。
中には、昨日のおばあちゃんがもう座っていた。
湯気の立つ味噌汁を前に、ユイと何か話している。
風太郎は旅用自転車の荷物を締め直した。
寝袋。
小さな鍋。
釣り竿。
犬用キャリー。
アンは赤いバンダナを整えてもらい、きりっと座っていた。
ユイが店から出てきた。
手には竹皮の包み。
「これ、持っていってください」
風太郎は両手で受け取った。
「ままかりの甘酢ほぐしです。おにぎりにしました」
包みから、甘酢の香りが少しだけ立った。
朝の光と一緒に、風太郎の手に乗った。

アンにも、小さな包みが渡された。
「アンちゃんには、塩なしの白ごはん」
アンは鼻を近づけた。
「ユイさん、できる店主や」
「犬に認められると、うれしいですね」
「なかなかの称号やで」
風太郎は、おにぎりを見つめた。
また目の奥が熱くなる。
アンが言った。
「風太郎、また米に負けてる」
「米は毎県強いねん」
「そのうち全国制覇されるな」
「もうされかけてる」
ユイは笑った。
その笑顔は、最初に会った時より少し軽く見えた。
風太郎は、色紙を出した。
ゆいの蔵の古い木のテーブルに置き、筆ペンを持つ。
何度か息を吸ってから書いた。
白い壁には
人の暮らしの
影がある
ままかりひと口
町が戻る
アンが色紙を見た。
「字はまだ旅の途中やな」
風太郎は肩を落とした。
「そこ、毎回成長せんな」
アンは、少しだけ尻尾を振った。
「でも、言いたいことは届いてる」
ユイは色紙を両手で受け取った。
「店に飾ります」
「字、ほんまにあれですよ」
「旅の途中なんでしょう」
風太郎は笑った。
「はい。字も人生も」

出発の時間になった。
風太郎は自転車にまたがった。
アンは犬用キャリーに乗る。
ベルを鳴らす。
チリン。
小さな音が、白壁の通りに広がった。
ユイは店の暖簾を整えた。
中には、地元のおばあちゃんが座っている。
観光客の夫婦も、また来ていた。
写真だけではなく、味噌汁を前にしている。
アンだけが、少し振り返った。
風太郎は気づかないふりをした。
「アン、次は広島や。牡蠣とかあるかな」
アンは前を向いたまま言った。
「食べ物で県を覚えるな。まあ、アンも嫌いやないけど」
「嫌いやないんかい」
「旅の楽しみは否定せえへん。浅ましさは刺すけど」
「厳しい旅の相棒やな」
「甘いのはおにぎりだけでええ」
風太郎は笑って、ペダルを踏んだ。
白壁の町が、少しずつ後ろへ流れていく。
川沿いの柳が風に揺れた。
石畳のほうきの音が遠くなる。
荷台には寝袋。
小さな鍋。
釣り竿。
手元には、ままかり甘酢ほぐしのおにぎり。
胸には、3回目の失恋。
けれど、その痛みは、朝ごはんの湯気のようにあたたかかった。
「風太郎」
「なんや」
「ユイさん、ちゃんと店におったな」
「うん」
「ほな、ええ町やった」
風太郎は、前を見た。
道は西へ続いている。
広島へ。
尾道へ。
坂道と海のある町へ。
まだ見ぬ誰かの、泣きたいのに笑っている顔へ。
自転車のベルが、もう一度鳴った。
チリン。
赤いバンダナが、朝の風でふくらんだ。
風太郎とアンの旅は、まだ3つ目の町を出たばかりだった。

