
『婚活の肖像』 第19話|エピローグ ── 肖像の向こう側
── あなたには生きる価値がある
たとえ、それが「普通」じゃなかったとしても
*
向かいの女性がラウンジを背に去っていった。
彼女はこれから、どんな選択をするのか。
それは私が決めることではない。
ただ、その選択が
彼女を確かな未来に導くことは間違いない。
私の鞄の中には、
もう何年も前から大切にしている
一冊の厚いスクラップブックがあった。
そこには、
彼女たちの「その後」が記されている。
式場の写真、新居の通知。
「正しさだけではないことが
少しだけ分かった気がします」
と、美しい文字で書かれたカードも。
そして何よりも多いのが、
生まれたばかりの赤ちゃんの写真だ。
私は、彼女たちの顔が思い出せない。
赤ちゃんの顔だって、
スクラップブックを閉じた瞬間、
滲んで溶けていく。
それでも、その表紙に手を添えると
不思議と聞こえてくるものがある。
それは、この世界に新しく加わった命が放つ
力強く、瑞々しい、一点の曇りもない音。
私は、かつてその音を、
自分の内側から聞くことを強く望んでいた。
十年間の、不妊治療という名の
出口の見えない暗いトンネル。
毎日、自らお腹に注射針を突き刺し、
毎月、真っ白な検査結果を見つめた。
悪意のないアドバイスの形をした、世間の正論。
「次世代に命を繋いでこそ一人前」という、古い物差し。
当事者でもない外側の人間たちが放つ、
悪意のない言葉たちは、
いつだって容赦なく私を裁いた。
孫を抱けない
両親の気持ちを思うと涙が溢れた。
── けれど
自分の命が繋がらないと悟ったとき、
私は気づいた。
私の指をすり抜けていった未来たちを
私ではない誰かの物語の中に
そっと着地させることは
できるかもしれない、と。
私が婚活の戦略に没頭したのは、
単なるビジネスのためだけではなかった。
感情に溺れていたら、
私はとっくに壊れていた。
だから私は、感情を排した、
戦略という避難所に辿り着いた。
顔も名前も知らない、
いつか生まれてくる子供たち。
その子たちが健やかに、
愛し合う両親のもとに、
生まれてこられるように。
今日も私は、自分の全神経を研ぎ澄ませ、
「ノイズ」に耳を傾ける。
── これが、私。
不意に、かつての友人の顔が脳裏をよぎる。
私は長い間、
彼女の背後に立ち続けていた。
言葉を選び、戦略を組み、失敗を未然に摘み、
成功はすべて彼女の名前で世に出した。
彼女が産休に入り、
母としての幸せを享受している間も
私は彼女の影となることを選んだ。
「これからは、
ひとりでやっていこうと思う」
あの日、彼女は穏やかな声でそう言った。
それは感謝でも怒りでもなかった。
ただ淡々と、彼女の決意として告げられた。
そして最後の彼女の言葉。
「最近ね、子供ができてから
世界がまるごと変わった気がするの」
彼女は、幼い子の寝顔を見つめながら、
穏やかに続けた。
「同じお母さん同士じゃないと
わからないことって、やっぱりあって。
これからは、そういう人たちと
一緒にいたいなって思うようになったの」
そこに、悪意はなかった。
だからこそ、言葉を返せなかった。
傷ついたと言えば、
この幸福な母親を困らせるだけだ。
間違っていると言えば、
僻んでいると思われるだけだ。
私はただ、微笑んで、
「そうね」と言った。
顔の分からない私にとって、
彼女は私がこの世で最も精密に、
最も情熱を注いで描き出した
「最高傑作の肖像画」だった。
その肖像画が、
自らの意志で自らの顔を塗りつぶした。
それは、彼女の世界に、
もう私の居場所はないということだった。
それだけのことが、
胸の奥に、静かに沈んでいった。
── けれど。
スクラップブックを胸に抱く。
そこには、今日もラウンジで送り出した
女性たちから届くであろう、
未来の足音が静かに響いている。
ふと、周囲を見渡してみる。
やはり、そこに映る顔はすぐに消える。
けれど、周囲から聞こえてくる音は、
以前よりもずっと、
穏やかで澄んだものに変わっていた。
「お疲れさま」
顔を上げる前に、その声で分かった。
彼はいつも、私が探さなくていいように
先に声をかけてくれる。
隣に腰を下ろした彼が差し出した大きな手に、
そっと自分の手を重ねる。
── 顔で見つけられなくても大丈夫。
このあたたかい手こそが、私の帰る場所。
彼は、私の手をそっと包んだ。
彼の温度が心地良かった。
昔、私のこの特性を、初めて伝えたとき、
彼はしばらく黙っていた。
「じゃあ、外で待ち合わせする時、
どうやって僕だと分かるの」
私は少し考えてから答えた。
「声と、手と、歩き方」
彼は自分の手を見つめていた。
「それだけ?」
「それだけで、十分よ」
それだけで分かるのは、
多分、彼だけだけど。
それは黙っておいた。
彼は、その夜から、
待ち合わせでは必ず先に声をかけてくれる。
そして必ず、手を差し出してくれる。
何も言わずに、ただそうしてくれる。
彼のその気遣いを、私は顔より先に覚えた。
優しさは、顔より深いところにあるから。
私は知っている。
この人は、私を裁かない。
欠落を、欠落のまま
受けとめてくれる。
だから私は、
今日も人の本質に触れにいける。
顔が分からない私だからこそ、
見つけられたものがある。
顔が分からない私だからこそ、
信じられた愛がある。
私の視線に気づくと
彼は照れくさそうに笑った。
「今日の夜ごはん、どこで食べようか」
「どこでもいいわ」
「それ、一番困るやつ」
私は微笑み、新しく注文した
温かい紅茶の香りを吸い込んだ。
彼はまだ、夕食の候補を考えている。
真剣な顔で、でも少し楽しそうに。
その横顔を、私はしばらく見ていた。
今夜も、この顔は消える。
でも、この時間は消えない。
ここには、どんな美しい景色よりも確かな、
幸福な時間が流れていた。
*
「先生」は、今日もホテルラウンジで
あなたを待っています。
あなたがここを去ったあと、
彼女は二度とあなたを
見つけることはできません。
だから、安心してお話しください。
あなたは何を話しに来ましたか?
『婚活の肖像』・完