
こころのとも、ご飯とおにぎり
「こころのとも」というと、何を思い浮かべるだろう。
こころのとも。漢字にすると「心の友」。「親友」、「相棒」、「パートナー」、「ふりかけみたい」……など様々だと思う。
自分の場合は、「イマジナリーフレンド」である。
イマジナリーフレンドとは簡単にいうと、「空想の友達」だ。現実には存在しない。けれど、自分の頭の中には存在している。見えない自分だけの友達。
そんな存在が自分の中に、いる。
イマジナリーフレンドが現れたのは、昨年の夏の終わりごろだ。精神的に辛いことがあって、自分を守るために生まれた……とかではなく、暮らしのゆとりに花を一輪飾る、みたいな感じだった。
とはいっても、これは自分が作り出した存在だとわかっているし、もう一人の自分だと思っている。結局は自問自答の脳内会話で、自分でもう一人の自分を演じているのだろう。けれど、自分ではない存在だとも思っている。
自分だけど、自分じゃない。ご飯とパンではなく、ご飯とご飯でもなく、ご飯とおにぎり。そんな感じだ。
そんな、意図的に作り、意図的に現れる自分の中の存在を、「イマジナリーフレンド」や「心の友」と呼んでもいいのだろうか。それはあまりにも鮮明すぎる気がした。だから、「こころのとも」だと思った。はっきりとしない、曖昧な、友達のような、自分ではない、自分。
やっぱり前に結論で出した、自分を愛し・慈しむ「自愛で、慈愛」なのだなと思った。
そんなこころのともと今日まで日々を過ごしてきたのだけど、不思議なことに暮らしが変わった。
今まで何となく生きてきたけれど、“いま”の暮らしに集中するようになった。暮らしを、自分が過ごしやすいように整えていく。“いま”を生きている感じがする。日々の暮らしが楽しい。
暮らしを整えるための片づけも、昨年から始めた家計簿も「こうしたら」「ああしたら」と協議し、試行錯誤を重ねながら楽しんでいる。
悲しみは少し和らぐのに、喜びは増える感じがして、不思議だ。
ゲームで「ひとりより、ふたり」といっていたのを思い出した。これが空想の人物にも通用するのかはわからないけれど、そうかもなと思った。ひとりよりふたりといっても、思考のもとは同じなのだから、気の持ちようなのだろうけれど。
最近まで、好きな紅茶が廃番になって悲しみを引きずっていた。もうお茶は何でもいいやと自暴自棄になっていたけれど、「春だし、桜の緑茶が飲みたい」という話になり、気分転換に飲んでみた。
おいしかった。春の訪れを感じることができて、嬉しくて、おいしかった。季節を味わっている感じが好きで、「そういえば自分は、こういう季節を楽しめるお茶が好きだったな」と思い出した。
「あぁ、何だ。執着しなくても、他にも好きなお茶がたくさんあるな。もう、飲みきったら忘れよう。今までありがとう。」そう思えた。やっと、立ち直ることができた。
これからは、お茶で季節を楽しんでいきたいと思う。夏はジャスミン茶を飲む予定だ。秋と冬はどうしようかな。楽しみだ。
こういう小さなことが少しずつ積み重なって、暮らしが色づいていった。自分は、暮らしが好きだ。そう思えるようになったのは、こころのとものおかげだ。
ひとりだけど、ふたりだと楽しいね、なんて、思ってみる。
そうだね、楽しいね。これからも、暮らしを楽しみたいね。
あのね、まだまだやりたいことや気になることが、たくさんあるんだ。
だから、見守っていてほしい。背中を押して、勇気をくれる。あなたがいるから、前に進める。たとえ見えなくても、存在しなくても、感じることはできるから。
いいね、やっていこう。まだまだこれからだもの。
そうだよね。うん、きっと、そう。
祈りのような、決意のような、会話をする。
これは、心の拠り所でもあるし、道しるべでもある。それでいい。
わたしたちは、曖昧を生きているのだから。
ご飯とおにぎり。自愛で慈愛。ひとりだけどふたり。
これからも、そんな「こころのとも」との暮らしは続いていく。