
書くことで、整う。届かなくても、続ける理由。
おはようございます。りゅうちゃんです。
竹は節目がたくさんあるから真っ直ぐ長く伸びます。
noteを書き続けて、今日で170日になります。
とはいえ、特別バズったことはありません。
フォロワーが急に増えたり、「スキ」が連打されたり、そんな派手な変化もないまま、地味に投稿を重ねてきました。
数字は気にならないわけではありません。
ただ、いちいち反応に振り回されるのがしんどくなって、途中からは意図的に距離を置くようにしました。
それでも書いているのは、書くこと自体が、自分にとって機能しているからです。
書くと、自分の調子がわかる
書こうとすると、自分の内側にあるものが見えてきます。
その日考えていたこと、考えていなかったこと。
心の重さ、逆に、言葉が軽く跳ねる調子。
「自分が何を思っているか」は、案外書くまでわかりません。
文字には感情がない。なのに、なぜ動かされるのか
古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』に、こんな一節があります。
文字そのものに感情は宿らない。
音もなく、匂いもなく、手触りや映像もくっついていない、無機質で扁平なツールが、文字というものだ。
たしかに、文字そのものには温度も感情もありません。
それでも人は、文字に泣かされるし、救われる。ぼく自身がそうです。
なぜそんなことが起きるのか。
届く文章には、構造がある
古賀さんは続けてこう述べています。
書きことばへの翻訳に必要なのは『論理』であり、論理に基づいた前後の文脈である。
感動を届けるのは、感情そのものではなく、その道筋。
AだからB、BだからC。読み手が自然にその流れに乗って、「気づけばそこにいた」と思える構造。
強い言葉や派手な表現よりも、その「運び」の方がずっと重要なのだと思います。
続ける理由は「届けたいから」ではない
もちろん、誰かに読まれたい気持ちはあります。
noteを書き始めた頃は、正直に言えば、そこに重心がありました。
でも今は、「書くことで整う」「考えられる」という感覚の方が大きくなっています。
それが、続ける理由です。
読まれなくても無駄にはならない
170日書いてわかったのは、「読まれない=価値がない」ではないということ。
読まれても、読まれなくても、文章は自分のために機能してくれます。
あとで振り返ったとき、「あの日こう考えていた」と思い出せるだけでも、意味があります。
今も、noteを開くたびに、少し期待する気持ちがないわけではありません。
けれど、読まれなかったとしても、それはそれで大丈夫。
書くという行為は、読み手がいなくても、十分に成立するのだとぼくは思います。