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書くことで、整う。届かなくても、続ける理由。

    りゅうちゃん

    おはようございます。りゅうちゃんです。
    竹は節目がたくさんあるから真っ直ぐ長く伸びます。


    noteを書き続けて、今日で170日になります。
    とはいえ、特別バズったことはありません。

    フォロワーが急に増えたり、「スキ」が連打されたり、そんな派手な変化もないまま、地味に投稿を重ねてきました。

    数字は気にならないわけではありません。
    ただ、いちいち反応に振り回されるのがしんどくなって、途中からは意図的に距離を置くようにしました。

    それでも書いているのは、書くこと自体が、自分にとって機能しているからです。

    書くと、自分の調子がわかる

    書こうとすると、自分の内側にあるものが見えてきます。
    その日考えていたこと、考えていなかったこと。
    心の重さ、逆に、言葉が軽く跳ねる調子。

    「自分が何を思っているか」は、案外書くまでわかりません。

    文字には感情がない。なのに、なぜ動かされるのか

    古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』に、こんな一節があります。

    文字そのものに感情は宿らない。

    音もなく、匂いもなく、手触りや映像もくっついていない、無機質で扁平なツールが、文字というものだ。

    古賀史健、『取材・執筆・推敲』、2021、p.175

    たしかに、文字そのものには温度も感情もありません。
    それでも人は、文字に泣かされるし、救われる。ぼく自身がそうです。

    なぜそんなことが起きるのか。

    届く文章には、構造がある

    古賀さんは続けてこう述べています。

    書きことばへの翻訳に必要なのは『論理』であり、論理に基づいた前後の文脈である。

    古賀史健、『取材・執筆・推敲』、2021、p.175

    感動を届けるのは、感情そのものではなく、その道筋。

    AだからB、BだからC。読み手が自然にその流れに乗って、「気づけばそこにいた」と思える構造。
    強い言葉や派手な表現よりも、その「運び」の方がずっと重要なのだと思います。

    続ける理由は「届けたいから」ではない

    もちろん、誰かに読まれたい気持ちはあります。
    noteを書き始めた頃は、正直に言えば、そこに重心がありました。

    でも今は、「書くことで整う」「考えられる」という感覚の方が大きくなっています。
    それが、続ける理由です。

    読まれなくても無駄にはならない

    170日書いてわかったのは、「読まれない=価値がない」ではないということ。
    読まれても、読まれなくても、文章は自分のために機能してくれます。

    あとで振り返ったとき、「あの日こう考えていた」と思い出せるだけでも、意味があります。

    今も、noteを開くたびに、少し期待する気持ちがないわけではありません。
    けれど、読まれなかったとしても、それはそれで大丈夫。

    書くという行為は、読み手がいなくても、十分に成立するのだとぼくは思います。


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