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Photo bytachiki_kitaoka

ピカソはまだタマゴだった

    草薙 渉

    あらすじ
     20世紀初頭に恋人の父を斬った木村弘次郎は、実家や仲間の援助からパリに逃亡洋行して世捨て人となる決心をした。その船の中で出遭ったスペイン人の青年は、まだ無名で名もない画家だった。彼との関りを通じて、後にエコール・ド・パリと呼ばれる様々な画家たちとの濃厚な関係がスタートする。

    「絵璃子殿、自分はいま、六千総屯級の外洋船『土佐丸』にて、横濱港から西へ四十五日目の航行中であります。そしてこの遠い異郷の洋上から、絵璃子殿に心からのお悔やみを申し上げます。
     いまの自分が、そのようなことを言える立場ではないことは百も千も承知の上で、絵璃子殿のご心中いかばかりのことかと、心から案じているしだいであります。そして聡明なる絵璃子殿におかれましては、どうか心を静めて最後までこの文をお読みくださるよう、切望するばかりであります。

    今般の……、つまり二月前のあの事件は、おそらくは絵璃子殿のこれまでの十七年の人生において、最も衝撃的で悲劇的な厄災であったと推察いたします。その重大事件について、思いがけずもこの自分が当事者となってしまったいじょう、ここに自分の知るかぎりの詳細を、正直に書こうと思うのであります。
     二月前のあの牡丹雪の夜、千鳥ヶ淵で絵璃子殿のお父上を惨殺した真犯人は、まぎれもなくこの自分なのであります。
     我々には……、つまり絵璃子殿のお父上と自分には、いつか対決せねば済まない志の違いというものが存在しておりました。名は伏せますが、絵璃子殿のお父上にはその上層部からの密命があり、また自分には師事するお人の言外の意向があって、そのようなしがらみのあれこれから、つまるところあの夜のあの事件に収斂していったというのが、おおよそのところなのです。
     あの夜、絵璃子殿のお父上と自分は、連れだって神楽坂の料亭を出た後、人気の失せた千鳥ヶ淵を歩いておりました。世を二分した大西郷と大久保卿の征韓論から、近年顕著な露西亜の東征脅威まで、長く激しい議論に疲れ果て、ほとんど無言で歩いておりました。どうしても噛み合わないもの。水と油のごとく混じり合えないものを、自分同様お父上も感じられておられたのだと思います。
     そして靖国から七本目の桜の木の下にさしかかったところで、その緊張の糸が弾けたのであります。
     立ち止まったお父上が、黙ったまま腰の軍刀をすらりと抜かれました。自分もまた抜刀におよび、二人は六尺ほどの間合いをおいて対峙いたしました。
     お父上は軍用ピストルを所持していたにもかかわらず、あえて軍刀を抜かれたのは、やはり自分と絵璃子殿への交錯した葛藤の果ての行動であったのだと、後になって思い至ったしだいであります。
    自分とお父上は、同じ間合いのまま五つほど呼吸を数え、そしてどちらからともなく白刃を交わしました。そこからは瞬時の出来事でした。
    北辰一刀流のお父上の切っ先が自分の左かいなを二寸ほど抉り、それと同時に自分の軍刀がお父上の左胴を深く払っておりました。すべては瞬間で、自分には手加減をほどこす余裕もなく、したたかにお父上の胴を払っておりました。
    お父上はその場に静かに崩おれ、自分は左かいなから流れ出る鮮血を押さえながら、微塵の余裕もなくその場から走り去りました。自分はまったくもって動転し、そのままどこをどう走ったのか、未明には品川の知人の家の前に立っておりました。
     おりから熟睡中の友人を叩き起こし、ほとんど希薄な意識のまま事の顛末を伝えました。医者である友人は即座に対応してくれ、熱い手当を施してくれました。大量な出血にもかかわらず、おかげで自分はどうにかこうにか命を取り留めたしだいなのです。
     そして何日かを昏睡のままにおくり、また何日かを養生のために費やしながら、自分はあの一瞬の事件を何度も何度も反芻いたしました。あの折のお父上の所業……。いやしくも北辰一刀流のお父上が自分に後れを取るとは解しがたく、あれはお父上が自分と絵璃子殿とのことを慮っての覚悟の所業であったのだと、感涙に噎んだしだいであります。
     しかるに自分はその後自死することもあたわず、はたまた自分の同志への配慮もあって官憲に出頭することも叶わず、悶々と友人の家で過ごしました。
     やがてその友人の連絡から、同志たちの総意で消息を絶つということにあいなりました。同時に自分の薩摩の実家へも連絡がおよび、急遽駆けつけた実家の執事が相応の金子を都合し、逃走隠匿の手配をなしてくれました。そして自分は周囲の言うがままに、まるで呆けた人のように、気がつくとこの欧州航路『土佐丸』の乗客となっておりました。
     絵璃子殿。自分は決してお父上に対し微塵の私怨もなかったことを、あなたにだけはわかっていただきたかったのです。自分は男として、自分の信念にしたがって行動しただけで、それは、あえて自分に胴を斬らせたお父上におかれましても、まったく同じ心境であったと推察するしだいなのであります。
     思えばお父上は立派な侍であらせられました。自分などにはおよびもつかない、気高いお方でありました。そんなお人を手に掛け、おめおめと国を捨て旅立った自分なのであります。
     遠い洋上の夕靄の中で、こうして忌まわしいばかりのことがらをしたためている自分が、いまは何やら現実の自分とは思えません。思えば薩摩の名のある家に生まれてこの方二十二年、ことさらな苦労もなく文武に邁進してこれた自分の人生は、あの雪の千鳥ヶ淵で終焉をとげたようです。
     自分はこの上は生きて再び日本の土を踏むことなく、遠い異郷の街で風狂のままに棲息していこうと、そう思い決めております。せめては嗜好する詩歌や絵画に心を遊ばせ、いずれの日にか異郷の街角で野垂れ死ぬことこそが、おのれにふさわしいと念願するところなのであります……』

    「手紙ですか?」
     背後からの声に振り返ると、厚い紺色のジャケットを着た白髯の船長が立っていた。
    「やあ」
    木村が会釈すると、船長は「いい黄昏なので、木村様と一献傾けようと思いましてね」と、手に下げていた酒瓶と二つのブランデーグラスをテーブルに置いた。船長の向こうに、暮れかかった群青の海面がどこまでもひろがっていた。
    「いよいよ明日ルアーブルかと思うと、何だか感傷的になってしまって」と万年筆を置いた木村は言った。
    「そのお手紙、何でしたら私が投函しておきましょうか?」
     ごぼごぼとブランデーを注ぎながら船長が言った。
    「いや、いいんだ。まだ書きあげていないし、実のところ投函するつもりはさらさらない。
    それにしても、船長は日本語が上手だ」
    「ジャポンの船を預かる以上、喋れないと船員への指示もできませんしね。苦労しました。木村さまは、フランス語は?」
    「子供のころ、近所にいたカトリックの宣教師さんによく遊んでもらったので、少々は」
    「それは幸いだ。だったら明日上陸しても何とかなる」と、船長は笑った。
     デッキには二人の他に人影はなく、輪郭の滲んだ朱色の大輪が水平線に沈もうとしていた。そこから伸びた朱い帯が、暮れなずむ大海原に揺れていた。
     木村は船長の勧めるままにグラスを受け、二人は軽くグラスを合わせた。
    「しかしずっと見ていましたが」とブランデーを一口すすった船長は言った。「木村様は、そのお手紙をしたためながら泣いておられたような……」深い皺の刻まれた船長の横顔が朱色に染まっていた。
    「そんなことはないさ」と木村は慌てて答えた。
    「三等船室に、木村様にそっくりな客がいて」と船長はグラスを揺らしながら言った。「昨日の晩、その客が下のデッキにうずくまって泣いていたのです。バルセロナから乗ったスペイン人なのですが、何でも自殺した友人を思い出したとか言っていました」
    「………」
    「だれしもそれぞれの事情を抱えていて、老、病、死、別……。人間には哀しいことがたくさんあって、抱えきれないときには、あんな風に思い切り泣けばいいんです」
    「自分は、泣いてなんかいませんよ」と木村は言った。
    「とりわけ海の上というのは、男が泣くには最適の場所です」
    「まあ、いいさ」
     木村は小さく頭を振りながら、遠い水平線に半分沈んだ朱い大輪を見つめた。その上に細くたなびいた筋雲が赤黒く焼かれて、その形が古い絵地図で見た日本列島に似ていた。
     房総半島と伊豆半島の間のあのあたりに、絵璃子がいる……と、再び熱いおもいが込みあがってきたとき、船長がまた木村のグラスにブランデーを注ぎ足した。
    「あの朱色は、モネの『印象』のようですね」と船長が夕日を眺めながら言った。
    「モネのあれは、日の出の絵さ」と木村が引きつった笑顔で言った。
    「私が三十二で二度目の離婚を決意した日に、キャピュシーヌ大通りのナダール写真館で見た、あの絵にそっくりです」と船長は夕日を見つめたまま言った。「ドロドロの思いの中で、あの日の私には、どう見てもあの絵が夕日にしか見えなかった」
    「泣いたんですか?」と木村が船長の顔を覗くようにして訊いた。
    「泣きました」と船長がぽつりと答えた。「もう三十年も昔のことなのに、あの日のあの朱色は、今でもありありと思い出せますよ」
     老船長はそう言って、ゆっくりとグラスに口をつけた。
     夕日の最後の朱いひとかけらが、たおやかに揺れる群青にふっと沈んだ。

    『絵璃子殿。自分と絵璃子殿とは、幼少のころより親同士が取り決めた許婚(いいなずけ)でありました。自分が二十五になり、絵璃子殿が十九になったら二人は祝言をあげるのだと親から言われ、自分でもずっとそう思い決めておりました。
     しかしながら今般のあの事件で、自分にはそんな資格などないと痛感いたしました。それはこの自分が、絵璃子殿のお父上を惨殺してしまったというそのことよりも、あのおり即座に自死できなかった己があまりにも不甲斐なく、慙愧に堪えないからであります。
     死など恐れないと常々人にもいい、自分でもそう思い込んでいたはずが、現実に遭遇した命のやり取りの後、不覚にも機を逸してしまったことが悔やまれてなりません。人は結局、さまざまな悔やみを抱えたまま、生かされていく宿命なのでしょう。
     自分はお父上のご冥福を祈りつつ、潔く自死できなかった悔やみを抱えつつ、二十二で隠棲の生涯に入ろうと思い決めたしだいであります。とりあえずは好みの油彩画など買い求め、身辺に飾って流れ去る時を静かに眺めていようと思っております。
     絵璃子殿。くどいようでありますが、この自分のことは一日も早く忘却し、絵璃子殿ほんらいのあの無類の頬笑みを取り戻されることを、切に切に望んでいるしだいであります。
    明治三十七年春。
    絵璃子殿
                              木村弘次郎拝』

    「ほら、あのカウンターの一番奥にいるのが、先刻お話しした男ですよ」
     かなり込み合った三等船室のショットバー。白髯の船長が控えめに指差すあたりを、木村は目を細めて眺めた。
    「まあ、自分に似ている男を見てみるというのも、長い船旅の一興というやつか」
    「人間だれしも、自分に似ている人間が世の中に三人はいると言いますが、あのスペイン人は、まさに木村さまにそっくりですよ」
     グラスの当たり合う音。人々の哄笑。髭の船長はそう言いながら、人々をかき分けるように進んでいった。どんなに似ていると言っても、スペイン人では、と船長の太った背中を追いながら、木村は小さく頬笑んでいた。

    「パブロさん。お連れの方はどうしました?」
     船長はそう言いながら、カウンターの一番端にいる男の肩を叩いた。
    「あぁ船長。あいつは風邪をひいたらしいよ。下で寝ている」
     パブロと呼ばれたその青年は、カウンターに両肘をついたままそう言った。厚手の派手なコールテンの上着に、ネクタイ代わりにブルーのスカーフを結んでいた。その青年の横顔が、木村に奇妙な懐かしさを感じさせた。
    「今日は元気そうですね」と船長が言って、「あぁ、昨日ほど哀しくはないさ」と、青年が応えた。 
    「ところで以前にお話しした一等船室のお客様なんですが、この方ですよ」
     船長はそう言って、嬉しそうな顔のまま木村の肩を抱いた。
    「………」
     青年がこっちに向き直って、その顔を見つめたまま、木村は唖然となった。なんと、これは今朝キャビンで髭をあたるときに鏡に映っていたおれの顔じゃないか。自分の……、よくわからないけれど、あっち側にいる自分が、こっちを見ているようじゃないか。
     そのまま、少しの間二人はじっと見つめ合っていた。二人の間にいる船長が、にやりとした顔で二人の顔を見比べていた。
    「いやいや、こいつはまったくお笑いだぜ」
     パブロと呼ばれたスペインの青年が瞳を全開にして言った。そしてそのまま、あたりを憚らず大声で笑い転げた。それをきっかけに、木村も抑えきれないように笑った。「まったく、なんてこった」と、思わず日本語で叫んでいた。
     狭いバーにいる全員が、何事かとこっちを見ていた。それに気づいた船長が、「明日の昼には、この船はルアーブルに入港します」と声を張り上げた。「よい航海がまっとうされる前夜祭として、いまここにおられる方々に船長から一杯奢らせてもらいます」
    「イェィ~~」
     バー全体からどよめきが上がって、そのどよめきの中で二人はまだ笑い転げていた。
    「しかし異邦人なのに、こんなに似ている人間がいるとは、信じられん」とスペイン青年は笑いながら言った。「あんたは、チャイニーズかね」
    「いや、ジャパニーズだ」
     木村も、込みあげてくるものを抑えきれないように答えた。
    「おぉ、ジャポン! あのゴッホが死ぬほど焦がれたという、あのジャポンか」と大きな瞳を見開いた青年が嬉しそうに言った。「そうか、そうか」
    「しっかし、まさに瓜二つとはこのことだ」と木村が言ったとき、「そうだ船長」とスペインの青年がひらめいた顔で言った。「二人でちょっと一緒に来てくれないか。こりゃあ面白いことになった」
    青年はそう言うと、グラスに残った酒を一息に呷った。
    「来てくれって、何処へ?」と船長も慌ててグラスを呷った。
    「いいから、下のデッキだ。あんたたち二人に、是非とも見せたいものがあるんだ」
    「見せたいもの?」と木村が言った。
    「ああ、そうさ。ちょうどいい。とにかく着いてきてくれ」
     スペインの青年はそう言って、さっさと歩き始めた。木村と船長は怪訝な顔のまま、青年の背中を追った。

     三等船室のデッキで待っていると、青年が何か平ったいものを抱えて戻ってきた。
    「ちょっとそこのカンテラを、持っていてくれないか」
     青年はそう言って、何枚かの板状のものを選んでいた。そして、「あぁ、これこれ」と、一枚の板を抜き出した。
    「これって、油絵じゃないか」と木村は言った。「あんたが描いたのかい」
    「そうさ。おれは何を隠そう、大芸術家なんだ。今世紀最大の、大天才と思ってくれてもいい」
     スペインの青年は自慢顔にそう言って、手にした一枚の油絵を翳した。
    「あなたが絵描きだったとは、知りませんでした」と船長が翳された絵に顔を近づけた。油絵はカンテラに照らし出されたごく狭い範囲だけ、ぼんやりと光っていた。
    「うーん、どうにも暗くてよく見えないなあ」とカンテラをさらに近づけた木村が唸った。
    「だったら、この上のスモーキング・ルームに行きましょう。あそこなら電燈もある」
     船長がそう言って、腰に下げた鍵束を手にした。そして上部デッキに続くドアの鍵を開け、「どうぞ」と手招きした。言われるままに木村が入り、スペインの青年が慌てて何枚かの絵を抱え込んだ。

    「どうだ。この絵こそ、まさにあんたそのものだろう」とスペイン青年は誇らしげに言った。
     それはさほど大きな絵ではなかった。暗いコバルトブルーを背景にして、襟を立てた黒いマントの青年が、じっと宙を見つめている絵だった。
    「二十歳の自画像なんだ」とスペイン青年は言った。「今もそうだけれど、このころは色々とあって、だからこんなに暗い目をしている」
    「うーむ」と木村の横に立っていた船長が唸った。「これはまさに、今の木村様と同じ目ですよ」
    「自分は」と木村はその絵を見つめたまま言った。「こんなに暗くないし、哀しくない」
     そう言いながら、絵の中の青年の焦点の失せたうつろな眼差しが、とても他人とは思えなかった。
    「親友だったカサヘマスが、モデルに使っていたジェルメーヌという娘に失恋した。彼は物事を思いつめるタイプで、その失恋が耐え切れずに自殺してしまった。これは三年ほど前の、そのころに描いたものさ」とスペイン青年は言った。
    「身辺に哀しいことがあって、だからこんなうつろな眼差しで……」と船長が納得したように言った。
    「おれはね」とスペイン青年は小さく頭を振りながら言った。「親友が死ぬ前も死んでからも、ジュルメーヌとはただならぬ仲にあったんだ」
     木村が絵から顔を起こし、青年の横顔を見つめた。船長がちいさく頷きながら、じっと絵を見つめていた。
    「この絵には、署名がないようだが」と木村が絵に顔を近づけながら言った。
    「おれはパブロ・ピカソ。この絵の前までは、父方の姓の『P・ルイス』で署名していたが、これからは『ピカソ』にするつもりだ」
    「この絵を、自分に譲ってくれないか」と木村が青年に向き直って言った。「これを身近に飾って、何かの戒めとしたいんだ」
    「高いよ」と青年がずるそうな目で言った。
    「かまわない」と木村が答えた。
    「そうくると思っていたよ。いやいや、パリに着いたらアパルトマンを借りなきゃならないし、実のところ途方に暮れていたんだ」と青年が心から嬉しそうに笑った。

     
     
    売れない物書きにて候。 大昔「小説すばる」の新人賞となって以降、ノンジャンルの長短さまざまな小説を書いており、 noteでは、掌篇小説や一般書サンプルの掲載なども企てており〼。  なお他頁ながら、blogsは https://blog.ameba.jp/ucs/top.do

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