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『栄光の残骸に咲く』


    栄枯盛衰とは、誰の人生にも静かに訪れるものなのかもしれない。

    かつては人に囲まれ、仕事にも恵まれ、未来はどこまでも続くように思えた。しかし時が流れるにつれ、一人、また一人と人は離れていった。信じていた人に裏切られ、順調だった仕事は減少し、売上も収入も少しずつ失われていく。

    それでも立ち止まることはできなかった。失ったものを取り戻そうと、がむしゃらに働き続けた。だが、その代償は大きかった。体は悲鳴を上げ、頸椎圧迫、末梢神経障害、歩行困難、そして顔面麻痺。昨日まで当たり前だったことが、当たり前ではなくなった。

    人生のどん底で見えたのは、自分の無力さと孤独だった。

    それでも、すべてを失ったわけではなかった。僅かな後遺症を抱えながらも、生きている限り、まだ終わりではない。

    そして今、たどり着いた場所が「note」。

    ここは単なる発信の場ではない。栄光も転落も、裏切りも病も、絶望も再起への願いも、そのすべてを言葉に変える場所。

    失敗の数だけ物語があり、傷の数だけ伝えられることがある。

    またそれは失った人生を嘆くためではなく、新しい人生を築くために記す。

    私は今、このnoteに自分のすべてを賭けている。

    かつて繁栄を極めた日々から一転、周囲の信頼や経済的基盤を喪失し、さらには身体の自由まで奪われる過酷な試練に見舞われました。深刻な疾患による機能不全や不自由さを抱え、深い闇の中にいた自身が、表現の領域を見出すまでの軌跡を綴ります。

    - 盛況だった時代-


    以前の私はというと繁栄とは少し大袈裟かもしれませんが仕事も人も集まっていて、そのサイクルはうまく回っていた方でした。

    仕事を取らなくてもほとんどが先方さんからの依頼や発注を受注するだけ、いわばむしろそれだけでも十分な位、形やスタイルは形成されていた程だった。

    外注さんや下請けさん、時には人数分以上にかかる材料費や経費も当たり前ですが支払いをする事も出来てきました。
    旅費や交遊費なんかも当たり前のようにポンポン支払っていました。

    単価や金額の良かった出張や遠征もあり、大変でしたが楽しさもあり沢山行きました。

    いつも複数で稼働していた日々は楽しく、沢山の経験や思い出があります。それは今でもいい思い出です。

    毎日みんなで食べる昼食もグルメ旅のように楽しむ事ができ、感想をいいあったり、明日は〇〇に行ってみようと探検したり、それも午後からの良いパフォーマンスや明日への一歩へと繋がっていました。

    いやらしい意味では決してありませんがそんな毎日にかかる食事代や休憩の差し入れなんかも当たり前に全部捻出する事ができていました。

    信頼されていた自分
    信用していた仲間

    これが基盤となっていて人数もいた為、仕事量や大きさも比例するように発注先からも仕事の受注が沢山ありました。また当然それに伴い収入や売り上げに反映し、上手く回る事が出来ていたのかもしれません。もちろん一緒にやってくれる仲間がいたからこそでした。

    側から見れば順風満帆に見えていたかもしれません。車を買い、新車を一台、二台と入れ替えようと、ローンを組んでもすんなり通り、機材や道具も必要であってもなくても買いたい時にポンポン買えて、支払いも問題なく出来てしまっていた。
    時には支払いやお金を回す為にお金を借り入れしては支払いと返済をした事も何度もあり、そんな借り入れの融資も金融機関からはすんなり承諾もいつも降りた。

    しかしそういった様々な資金の問題や調達、工面と向き合う事は事業主としては切っても切り離せない当たり前の事ですが
    それは決して楽なものではありませんでした。

    - 崩れ去る平穏な日常-



    20年以上でしょうか、業界に入ってからだと25年程になっていました。その中でも当然苦しい時期があり、色んな時期を経て一番良かったなと振り返る時期は半分も満たない時間でした。

    最初に独立をした1人は5年間お世話になりましたと自分でスタートを切った私の兄弟でした。
    5年といえどかなりの戦力となり、頼れる存在になっていた時期での辛いタイミングの事でした。


    私の兄弟が加入した当初からサポートして教えてくれていた一人前の彼がいました。彼は私のところとは別の得意先の仕事も受注しながら並行していて、皆で助け合いながら行ったり来たりもしていましたが、また彼も程なくしてこの頃を境に忙しくなり出し仕事も増えやがて私のところへ来る事も次第に無くなってしまいました。


    最後の1人は私が開業して間もなく加入した人物でした。人には色んな事情や紆余曲折あるもので、当時は彼を匿い、守って行くという事となり迎え入れる事になりました。

    その彼も一番長い時間を一緒に過ごした分、色んなことがありました。
    彼からは私自身が人間不信になる事も何度もされました。
    それでも私は行き先の無い彼を思うと、正してあげる事がきっと彼の為でもあり、いつか変わって、理解してくれると信じていました。

    それも今となっては私の勝手なお節介で勘違いだったのかもしれません。
    そんな彼も最後に、私の前から居なくなってしまった。


    売り上げや業績が少し上向きで安定しだした頃、インボイス制度が始まりました。これを機に個人から会社設立へと駆け足で移る人も多かったと思います。
    私もこの時に、みんなでやって行こうと思い会社設立へと移りました。

    ですが、3人が私の周りから居なくなったのは一年も経たない期間での出来事で、会社設立をして間もなくでした。それからというもの業績や売上は右肩下がりへグングン落ちる一方でした…

    自分ではただただ何とかみんなの生活や仕事を切らさずに上手く回るサイクルを考えるばかりでも、周りから見れば天狗になっていると思われいたり、何もせずに自分だけ遊んでいると言われたり、謳歌しているようにも見えたその様は人の目には良く映っていなかったのかもしれません。

    お互いにその大変さや気持ちが理解出来ずに感謝の気持ちも薄れてゆき、やがて忘れてしまい、どこかでそれもまたお互いに当たり前になってしまっていたのかもしれません。

    助けていたつもりが助けられていたという現実に気が付いた時にはもう既に手遅れでした。

    -転落したどん底で見た裏切り-


    私の兄弟は独立して、あまり仕事がないながらも1人がむしゃらに頑張っていました。
    急に1人になった私を助けに来てくれたりして、それはそれでいい関係が築けました。
    音信不通の彼は行方がわからなくなってしまっていたのですが、もう一人の一人前の彼も忙しい合間をぬって私を助けにきてくれたりしていました。

    ですが、音信不通の彼と一人前の彼はお互いに連絡を取っていて私の知らないところで密かに一緒になり仕事をしていたのを知りました。

    ただ一言、私は言って欲しかった。ただそれだけでした。

    連絡が取れない、知らない、わからない、と言っていたのに、騙されていたようで裏切られた気持ちになってしまいました。

    悪気があって騙そうなんて思っていない事くらい私もわかっていました。
    今までみんなで同じ時間をずっと過ごして来た中で人間性も理解していて、もちろん信頼していました。

    でも、彼からは謝罪の言葉や真意などの説明はありませんでした。

    追求して話し合う事も出来ましたが、しませんでした。

    きっと、私にも原因があっただろうし、言えない事だって人には沢山あります。
    人を恨んだり、文句を言ったり、妬んだり、人のせいにして責めたりする事は自分自身にとってもいい結果にはならない。
    そう思い、ただ頑張って行こうと決めたのです。

       

    -再起の鐘と、絶望の足音-
       神は二度、私を突き落とした



    私は1人になってから「さぁ、これからだ」とがむしゃらに頑張っていました。開業したての頃のように決して若くはない体にムチを入れながらも「やってやるんだ!」と奮起しながらも負担は全て1人になり、やはりとても楽なものではありませんでした。

    道具や材料の運搬、ちょっとした忘れ物まで、複数人いれば自分や誰かが出来ていた小さな事も全て負担は当然1人になってしまいます。
    それにより効率よく要領よく考えて動かなければ仕事の捗りも大きく左右され、その積み重ねが一月の稼ぎに現れます。

    出来るだけ多く、早く、効率よく仕事をこなす事が1人で仕事をやる上でのセオリーですが、やはりそれにも限界はあります。当然、体にもです。

    なんとか小さな仕事をこなして食い繋ぐ中、繁忙期がやってきました。

    私は1人でやってやるんだ!と大変でしたが頑張りながらも楽しんでいました。
    仕事の期日をキチンと守り、自分の出来るペースで一日を終え、疲れた体で子供を迎えに行く日常が、当たり前の中での幸せでした。
    それは失った全ての裏側にあった喜びと幸せでした。

    -崩壊してゆく体-



    繁忙期の中でのある日の朝の事でした。多忙の中、ギックリ腰を発症してしまっていた私😢

    これは経験者しかわからないかもしれませんが激痛でして、くしゃみや咳はビビって出来なくなります。というよりも出る前に痛みが先にきて引っ込みます。当然体を反ったり倒したりなんて痛くて出来ません😖

    いつも通り起きて服を着替えていました。
    右足の裏が痺れたような感じがしていたのですが、「変な寝方をしていたのだろう」
    と、あまり気にせずに仕事に向かいました。

    お昼頃になっても足の痺れは引く事もなく、今度はちょっと酷くなったような気もして、おまけに何だか冷たい感じがしてきたのです。

    監督さんにも
    「今日、なんか顔が変だよ?大丈夫?疲れてるんじゃないの?ちゃんと休まなきゃ駄目だよー」

    なんて会話を少しして、疲れにはコレがいいよなんてお勧めの栄養剤の話をし、明日には治るだろうと思っていました。

    翌朝、痺れは両足裏になり足は温度を感じなくなったみたいに冷たく感じ、手にも軽い痺れが感じ出しました。

    何かおかしいな、酷くなってる気がすると思いながらも顔を洗おうと水を触った時でした。

    「冷たっ!」


    と、最初は気のせいかな?と思い妻にも聞いたのですが、「普通に水だよ?普通の温度、なんで?」
    と言われ、お湯を出して顔を洗おうと思ったのですが今度は熱湯のように

    「熱っ!」


    と熱く感じたのです。

    痺れが原因かと、それしかなかったのですがその足裏の冷たい感じや手足の痺れ、温度の感知の異常は日に日に酷くなり、手足共に指先の感覚がなくなり、背中や背骨のあたりを指で掻いても背中も触っているという感覚がありませんでした。

    そんな中、立てない、歩けないといった訳ではありませんでした。
    仕事には期日があります。
    やらなければいけない仕事をそれでも続けていました。

    「今月末までにあとこれだけあるけど間に合うから大丈夫だ、絶対終わらせる」

    ただただ頑張るんだ、やりきるんだと頑張っていました。

    四季の中でも気候の丁度いい春だったのにも関わらず体中は寒気がし、季節外れの厚着を毎日しながらそれでも仕事を続けていたら翌朝仕事に行こうと家の玄関で靴を履こうと片足を土間に着いた時、カクっと膝が折れ、こけてしまいました。

    あれ?


    と思い、玄関にもう一度上がろうとすると足が重く股関節あたりから足を両手で添えてやらないと思うように自分の意思では上がらなくなりかけていました。

    ちょっとした玄関のアプローチや段差でも足を下ろすと足腰に全く踏ん張りが効かず転倒してしまうようになり、とにかくゆっくり歩き壁や手摺りや柵があれば持って歩かなければもはや普通の歩行が困難になっていました。

    もう完全に異常だとはわかっていましたが、病院へ行く日を取れないスケジュールだったのもあり、代わりに頼める人もみんな忙しくて誰もいませんでした。
    とにかく今は仕事を期日までに終わらせる事を優先して、終わらせた後すぐに病院へ行こうと妻とも話をしていました。

    しかし進行が悪化していた症状は待ってはくれず更に酷くなっていきました。

    落として転がる小銭を拾おうと咄嗟に小走りしようとすると足が出なくなり、走る事も出来なくなっていました。
    仕事で急いで走る事も当然出来なくなるどころか、壁を触っていないとフラフラし真っ直ぐ歩けなくなり、階段なんて足を毎回両手で太ももの裏から添えなければ上がる事も出来ず、それは両腕にも現れ何かを持って階段を真っ直ぐ上がるなんて事はまず無理で、肩より上に両腕は上がらなくなってしまいました。

    これで一体どうやったら、どんな仕事が出来るんだ?

    と思いましたが、それでも体を引きずりながら頑張っていました。

    毎日体中に湿布を何枚も貼り、家に余っていた痛み止めを飲み続けながら過ごしていました。

    -麻痺-


    体の自由を完全に奪われ、家の中をフラフラしながら生活し仕事が終わるまで過ごしていた朝、いつものように歯磨きをし、口を濯ぐ時クチュクチュとすると閉じた口の片方から水がピュッピュッと出たのです。

    あれ?


    ともう一度やってみるとまた口から水が出るのでした。
    どれだけ力を入れてもそれは同じでした。
    鏡を見ながら口を開けたり閉めたりしてみると顔の左右が非対称だとわかりました。
    片方は普段通りの動きは出来ていたのですが、片方は思うように動かず、目を閉じる動作やウィンクも出来なくなっていました。

    それから口を開けてハンバーガーやおにぎりといった大きさの食べ物は顎が開かなくなってしまい、噛む力も気付いた時には急激に困難になり、飲み込む力や食べる早さも無くなっていっていました。

    極力麺類や食べやすい物を選んでいましたが、麺をすする力や、ティシュで鼻をかむ力も通常に比べると相当無くなっていました。

    そんな中、やり遂げる為に1人で頑張っていると今度は後頭部の痛みが出だしたのです。
    それは毎日、一日中続きました。

    歩く事や走る事、休みの日に小さなグランドで子供がやりたいと始めだしたばかりの野球やサッカーを一緒にしてやる事も出来なくなり
    日々の生活の中で当たり前に出来ていた事も出来なくなり
    食べる事や噛む事
    顔の表情や筋肉といった
    体の動きや足腰全てにおいての力や機能
    押す力や引く力、握力なども奪われていきました


    自由が効かずままならない体を引きずりながら生活していると
    いっそ死んだ方が今はきっと楽なんじゃないかとも思ったりした程、それはとてもキツく、辛く、大変でした。

    毎日死んだように疲れきった顔をして家に帰ると笑顔で「おかえり〜パパ」と言ってくれる子供と妻

    自由の効かない異変だらけの頼りない体で、子供と妻に不安な思いや心配をかけていると思うと申し訳ない気持ちでいっぱいで、妻の顔や子供の無邪気な笑顔を見ると、避けられなかった現実が悔しくて、そうなってしまった自分が情け無くて、何度も、何度も。
    泣きそうになりました。

    -病院と診断結果-


    最初にいった病院ではあまりよく診てもらえず、効かない薬を飲まされ続け、二度、三度と歩くのも本当にやっとの体で病院に呼ばれました。

    少しでも、一日でも、半日でも早く体の状態を軽く出来るだけでもと願っていたにも関わらず、案内されたのはまた後日改めて別の病院で脊損センターへと紹介状をもらい、CTやMRIを撮りまた最初の病院へと行かなければなりませんでした。

    そもそも最初の病院はMRIがあると電話で確認した上で行ったのに、ありませんでした。
    何も解決しない時間がまた体を蝕むようでしたが、とにかくキツくて血圧もバカみたいな数値を出し、とても何かを言える元気もありませんでした。

    もちろんその日にいきなりMRIなんてよほど運がよくないと空いていませんが、承知の上で私はとにかく原因がわかったり、症状や状態を少し和らげるだけでも助かると思い、行ったのですが何もわからず変わらない日々が続きました。

    最終的には大きな病院に移り頭のMRIやCTまで再度精密に検査してもらう事が出来ました。

    考え過ぎだったり、大袈裟だとしても、もしも大病だったりした時は、もう覚悟するしかないと思い検査を受ける前の日は家族で撮った沢山の携帯フォルダの写真を子供が産まれた時からのものを妻と子供が眠りについた後、1人で「懐かしいなぁ」とニコニコしながら見返していました。

    頸椎圧迫に坐骨神経症
    手根管症候に伴う末梢神経障害
    顔面麻痺

    それとギックリ腰も☺️

    これらが原因との診断結果でした
    幸い脳は異常無しで大丈夫だと言われた時は本当に一番安心しました😮‍💨


    正直、後頭部の痛みが始まった時は体の状態も踏まえた時、「ヤバいだろうな」と勝手に覚悟してました。
    今まで生きてきた中の痛みの中で経験した事もなく、初めての最大級だったのもあり何の予測も出来ませんでした。
    恐怖と不安。ただそれだけと、あとは結果を受け入れる覚悟しかありませんでした。

    それからは貰った薬を飲み続けてもすぐには改善されず、徐々に徐々に、本当に少しずつ和らいでいく様子でした。

    病院でも休養が一番と言われたので、仕事は出来ませんでしたし、繁忙期の仕事はキッチリ終わらせてたので休む事にしました。

    ほとんど完治とまではなりませんでしたが、歩けるようになり、軽く走れるようにもなり、右目眼球の僅かな痛みを除くと、麻痺も治り、足も腕も上がるようにもなり、僅かに左足のアキレス腱神経と右肘と指に後遺症が残りましたが子供とサッカーは出来るようになりました。軽くですが…。
    子供と普通に遊べるようになった事も何より嬉しい事でした。

    -中東情勢と更なる仕事への影響と減少-


    普通に体が戻るまで3か月かかりました…
    その矢先にニュースで毎日流れ出した中東情勢によるナフサ問題でした…

    せっかく体が治ってきだし、さぁ今からだ!という時にまた神は私を突き放すのでした。

    -鳴らない電話-


    ナフサの影響は甚大で携わる業種や物資に大きく関わっていた事をこれを機に知った事も多いでしょう。

    建築資材やシンナーをはじめとする建築物に纏わるほとんどの物が手元に届かず、仕事や現場があっても材料がない。
    逆に今度は材料がなんとか確保出来ても、ナフサの物資停滞で工事を始めようにも完成させる事が出来ないという事がわかっているので工事がストップ、延期、という現状が蔓延しだした。

    仕事が何かないかなとあたれる所に連絡を入れて情報交換をしてみるも、無いから他の仕事を探していると言っていたり、出来ない仕事もとらなくてはならない状況だと言っている方もいた。

    見積もりばかりで、値上げ値上げで金額がまとまらない上に返事も出来ず、相手からの返事も出にくい事態にまでなっているようでした。

    新規の仕事先や挨拶回りを動いてみるも、やはり今の状況下では全てにおいて「控え」が起きている現状は否めない。

    欲しい時に仕事はないもので、難しいものです。
    それでも生きていかなければいけないから人生とは過酷です。

    しかし中東情勢とナフサ問題、物価高騰を始め資材や材料も大幅値上げ、着工数は減り、現場は止まり、リフォームは中止、仕事は無くなり、依頼や仕事の電話は2ヶ月の間、一度も鳴る事はありませんでした。そして今に至ります。

    僅かに後遺症が残る体で
    多くの人や仲間
    仕事や環境を失い
    今またやっとたどり着いたのが
    この情勢でした

    私は神に見放されてしまったのでしょうか

    もう本当に見放されてしまったのでしょうか


    これからどうやって生きていき
    家族を守っていこうかと考えた

    これから先
    溢れる程の仕事に恵まれたとしても
    万全の状態ではない今の体では
    もうきっと昔のようには
    人を笑顔にして喜んで貰える様な仕事も出来ないだろうと思った時、noteにたどり着いた。

    こんな私にも書く事が出来る
    そして
    言葉には人生を変える力があること。

    だから私は書く。

    成功したからではない。
    立派な人間だからでもない。

    転落したからこそ、
    絶望を知ったからこそ、
    書ける言葉がある。

    これは
    私の再出発の記録。

    朽ちていく人生を嘆くためではなく、
    残された人生を生き抜くために。

    何度転んでもいい。

    そのたびに立ち上がった証を、
    私はここに刻み続ける。



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    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    名もなき書き手。 言葉の力と本の魅力に惹かれ、いつか自らの想いと描いた物語を一冊の本として世に届けられることを夢見る。 誰かの言葉に救われたように、いつかきっと… また人間関係や孤独、恋愛、人生、日々の思いなんかも執筆しています。気軽に寄ってもらえる、そんな居場所になりたい。

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