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毒林檎の愛と魔鏡の妃

    一章 未だ覚めぬ姫──と、覚めた計算者


     小人の集落の外れ、雪解け水が石畳を濡らす小屋の中で、その女性は寝台に横たわっていた。

     黒い髪、白い肌、赤い唇。深い眠りというより、精巧に彫刻された死の模倣だった。口元には食いかけの林檎。傍らに静かな香りが漂い、小人たちはその美しさを前に、小屋の外で肩を寄せ合っていた。

     通報から七分後。

     王国法医学調査局の主任調査官ハロルドが現場に到着した。七分という数字は、通常より二十分は速い。しかし誰もその数字を不審に思わなかった。有能な人間の行動は、常に速い。

     「証拠の汚染を防ぐため」という言葉と共に、ハロルドは小人たちを全員、小屋の外に出した。そして扉を閉めた。

     一人になった。

     ハロルドは寝台の傍らに膝をつき、女性の手首を取った。脈を確認する標準的な動作。しかし次の瞬間、彼の指先はわずかに力を込めた。二回、一定のリズムで。暗号だ。

     すぐに返答があった。寝台の上の女性の指が、極めて微細に、二回動いた。

     「白雪姫様」ハロルドは声を潜めた。「仮死の深度、心拍数、ともに計画通りです。薬の効果は七十二時間。その前に、全てが終わります」
    ハロルドは一瞬だけ、横たわる彼女の顔を見つめた。死を模した静寂の中ですら、美しかった。
    初めて会った夜のことを、ふと想起する。
    スラム街の裏路地。雨。血。あの時、自分は彼女に拾われたのだ。
    ――いや。
    違う。気付けば、自分から跪いていた。
    「……必ず、玉座へ」
    その声は、部下のものではなかった。

     横たわった女性の睫毛は動かなかった。しかし意識はあった。複数の毒草からなる特殊な調合物が、肉体を死の縁まで落としながら、聴覚と最低限の神経応答だけを鋭く残していた。外から見れば完璧な仮死状態。しかし彼女の頭の中では、今この瞬間も、計算が動いていた。

     「エドワード様の側も、予定通りに動き出しています。反王妃派の各所への連絡は、夜明け前に完了します」

     ハロルドは懐から二つのものを取り出した。王妃の紋章が入った細工のリボン、そして毒の成分が残る細い鼈甲の櫛。両方とも、正規の調達ルートではなく、入念に用意された「証拠品」だ。ハロルドは現場の目立たない位置に、それぞれを滑り込ませた。

    だがハロルドの指が、ほんの一瞬だけ止まった。
    ――配置が早すぎるか?
    王妃が動いていない。静かすぎる。
    「……いや」
    小さく息を吐き、思考を切り捨てた。
    「計画は速度が命だ。想定外を恐れて鈍る方が、失敗に近い。遅れの方がリスクだ。」
    そう呟くと 彼は立ち上がり、扉を開け、小人たちの前に戻った。

    「では、始めます」

     その顔は、ハロルドの「調査官」としての顔だった。

     「――姫様が。白雪姫様が、誰かに毒を盛られています。急いで調査局に連絡を」

     「白雪姫様!まさか、かの名高きお姫様だったとは!!」「ああ、姫様・・!なんてこと!」「一体、誰がこんな酷いことを」悲痛な声が、小屋の中に響いた。

     寝台の上で、彼女は冷たく計算していた。そのわずかな逡巡を、彼女は聞いていた。
    言葉ではない。呼吸の間。指の止まり。
    「……賽は投げられた。」
    白雪姫は、心の中で切り捨てた。
    計画は十分に速い。速さは、迷いを上回る。

     舞台は、始まった。

    二章 傀儡たちの蜂起と、密書の告白


     王宮が動いた。恐るべき速度で。

     「王妃が姫様を毒殺した」という情報は、ハロルドが調査局に速報を打った瞬間から、既に用意されていた回路を走り始めた。

     宮廷の廊下に散らばる男たちが、一斉に目を醒ました。

     彼女がその美貌と、計算された弱みの見せ方で手懐けた若い貴族たち。積年の不正を握られ身動きの取れなくなった宮廷高官たち。己も気付かぬうちに承認欲求やプライド、権力欲に火を付けられた軍の将校たち。彼女は彼らを一人ずつ、それぞれ異なる種類の見えない鎖で繋いでいた。

     「王妃を弾劾せよ。罪なき姫様に手を下した大逆人だ」

     本来であれば数週間かかる手続きが、六時間で完了した。その速度が何を意味するかは、後に事態を整理した者には明白だった。手続きは準備されていた。必要だったのは、引き金となる情報だけだ。

     王妃が地下牢へと連行された。

     ハロルドは勝利を確信した。城下の隠れ家で、あらかじめ用意していた紙を広げた。宛先はアルビオン王国の第一王子、エドワード。暗号ではなく、直筆だった。速度を優先した。

    ペンを持つ指が、わずかに震えていた。
    恐怖ではない。高揚だった。彼女の描いた世界が、現実へ変わる瞬間に立ち会っている。
     
    『計画は成就致しました。王妃は拘束され、宮廷は我々の陣営が掌握しております。次の段階――「KISS計画」の実行を。姫様のお迎えを願い奉ります。全ては事前のお約束通りに。近々姫様と貴公の婚約を公式に発表し、両国の友好を宣言いたします。その時は間もなく。』

     封をして、信頼できる使者に手渡した。「急げ。夜明け前に届けよ」

     使者は走り出した。

     ハロルドは、その使者が一刻も経たないうちに死ぬとは、知らなかった。

     ――「KISS」。眠れる姫を目覚めさせる甘美な計画の中で、エドワード王子は、自分が駒に過ぎないことを、夢にも思っていなかった。彼は信じていた。彼女が自分を愛していると。
    そして、その信頼には理由があった。白雪姫は、少なくとも彼の前では、一度も嘘を吐かなかったからだ。
    「あなた様といる時間だけが、わたくしは真に自分らしく在れますの」
    月明かりの庭園で、彼女はそう言ったことがある。
    エドワードは、その言葉を、生涯で最も幸福な記憶として抱えていた。
    彼女がその直後、彼を利用した国家統合の計算を始めていたことなど、知る由もなかった。
    自分が彼女を救いに来ることを待っていると信じていた。

     しかし、寝台で眠り続ける彼女の計算には、「KISS」の先がある。

     エドワードと婚約する。両国の統合を演出する。しばらく後、狩りの最中に事故が起きる。悲報が届く。未亡人として喪に服す。両国の権力を引き継ぐ。その筋書きはすでに、詳細まで書かれていた。

     彼女はエドワードの前で「少なくとも」完全な嘘は吐かなかった。だが、それでもなお、彼女にとって最大かつ唯一信用に値するもの──自分自身の力と野心にとっては、障害に過ぎなかった。

    三章 鏡が見ていたもの


     拘束された王妃は、地下牢の壁に背を預けながら、静かに時間を数えていた。
    冷えた石の感触が手に触れるが、不安はない。
    知っている、というのは王妃の最大の武器だった。

     彼女は不思議な黒曜石の鏡を持っていた。その鏡は、時折「閃光」を映した。断片的な映像が、理由も分からず表面に現れる。それは、普通には知ることが出来ないはずの遠く離れた地の出来事であったり、人々の噂であったり。実に様々だった。
    だが、鏡は実にきまぐれだった。常に情報が流れてくるわけではない。そもそも、全く反応しない瞬間もある。それでも「鏡よ鏡・・・」と呼びかけることで、稀に反応を引き出すことができることもあった。

     鏡の「閃光」が初めて姫の部屋を映したのは、六ヶ月前のことだった。

     夜の室内。机と炉と黒髪の女。その女が炉に何かを投げ込もうとして、止めた。止めた後、しばらく見つめた。それから引き出しに仕舞った。その映像だけでは、誰の部屋かも、何の書状かも分からなかった。

     しかし、次の閃光が来た。先王の寝所の廊下。夜明け前の一瞬。そして翌朝、廊下の外で泣き崩れる黒髪の女。

     王妃は繋いだ。二つの断片を。そして調べた。先王が「突然の病」で急逝した夜の記録を。宮廷医師の診断書の内容を。侍女たちの証言の細部を。

    白雪姫は、王妃にとって実の子ではない。
    先王が「偶然」出逢った孤児だった。天使のような笑顔と愛嬌の前に王はたちまち虜になり、僅かな時間の間に、子に恵まれなかった老いた王と王妃にとっての養女の地位を手にし、「白雪姫」と呼ばれるようになった。

    だが、鏡は知っていた。
    あの娘が、他者を魅了するために計算され尽くした狡猾な頭脳、「か弱さ」とは対極にある自らの強さ一つで、スラムからのし上がってきた孤児だということを。

     結論は出た。
    「我が夫である王を殺したのは、あの娘──白雪姫だ。」
    だが、それは証明ではない。鏡の閃光は断片だ。断片を繋いだ推論に過ぎない。外れれば、ただの妄想だ。法廷では成立しない。
    それでも王妃は、迷わなかった。
    「確証など不要」
    外れていれば、王妃自身が失脚していた。だが、それでいい。重要なのは、“相手が次に何をするか”だ。
    あの娘は必ず、次の一手を打つ。ならば、その一手を待ち、刈り取ればいい。

    王妃は待った。あの娘が次に何をするかを、計算しながら。

     毒林檎の事件が起きたとき、王妃は鏡の前で、六ヶ月前から積み上げてきた計算が正しかったことを確認した。

     「やはり自作自演か。毒婦が・・」

     王妃の読み通り、あまりにも手際良く無数の兵士が彼女の部屋を荒々しく訪れ、普段なら目にしない下級役人から「白雪姫殺し」の重罪が高々と読み上げられた。
    あえて抵抗しなかった。拘束された。地下牢に連行された。なぜなら、その方が有益だったからだ。

     拘束されることで、宮廷の中に潜む不忠の者たちが、一斉に動き出す。宮廷とはそういう場所だ。強者が倒れたと見えた瞬間に、隠れていた者たちが姿を現す。王妃はその瞬間を、糸を張り巡らせた絡新婦(じょろうぐも)を思わせる妖しい瞳の輝きと共に待っていた。

     地下牢への連行の直前、王妃は一つだけ、密かに命令を下した。

     受け取った者は十二名。彼女が長年かけて育てた、本当の意味での直属の者たちだ。公式の記録にすら「存在しない」ことになっている精鋭たち。

     「エドワード王子の使節を狩れ。ハロルドを仕留めろ。反王妃派の主要人物を始末しろ。そして――白雪姫を始末しろ。全て、六時間以内に」

     十二名は夜の闇に溶けた。

     ハロルドが密書を書き終えて使者を送り出したのは、その三時間後のことだった。使者は出発から一刻も経たないうちに、街道の暗がりで倒れた。密書は王妃の側に渡った。密書の内容は、王妃の計算を全て裏付けた。

     王妃は地下牢の壁に背を預けたまま、静かに時間を数えながら呟いた。
    「……なるほど」
    焼き捨てるべきか、一瞬だけ考えた。この書状は危険だ。存在そのものが、こちらの先読みを露呈させる。
    だが――
    「使える」
    泳がせる価値がある。
    奴らは、自分たちの計画がまだ生きている可能性、一抹の希望にすがろうとする。
    信じたい可能性を信じさせていた方が、残りもまとめて炙り出せる。
     
    王妃は不敵に笑う。
    「小娘が。泥の中から這い上がってきたことは、称えてやろう。しかし、這い上がった先に私がいるとは、迂闊だったな」

     六時間後。王妃は地下牢から出た。

     自らの足で、扉を押して。

     宮廷は静かだった。静かすぎた。六時間前に声高に王妃の罪を叫んでいた者たちの姿が、どこにもなかった。彼らがどうなったかを、残った者たちは誰も問わなかった。問えなかった。問うことが、自らの存在を危険にさらすと、本能で理解していた。

     王妃は玉座の間に向かいながら、ただ一つだけ考えていた。

     あの娘はまだ、生きているだろうか。

    四章 覚醒の怪物


     計算では、今ごろエドワードが来ているはずだった。

     小人の小屋を包む静寂は、計画の成功を示す静寂ではなかった。

     薬の効果が薄れ始めていた。七十二時間の仮死は設計通りだったが、強い感覚刺激が加わると、意識の浮上が早まる。彼女の聴覚と皮膚感覚は、計画された眠りの底から、何かを拾い始めていた。

     扉が開く音。

     足音。一人だけ。足音の間隔が、平静を装っている。しかし重心が低い。つまり、臨戦状態だ。

     来たのは、エドワードではない。

     暗殺者は寝台の傍らに立ち、覆面の下から横たわる「死体」を一瞥した。美しかった。
    しかし同時に、訓練された本能が僅かな違和感も拾った。
    ──静かすぎる。昏睡しているにしては、空気が張り詰めている。だが、依頼は明確だ。美しさも今の仕事には関係がない。
    「迷うな」
    一瞬の躊躇による判断の遅れは失敗に直結する。暗殺者は逆手に持った短剣を、白雪姫の胸元目がけて振り下ろした。
    「美しいまま、永遠に眠るが良い。姫君よ…!」

     その瞬間。

     意識が完全に覚醒した。

     薬物による仮死から意識が戻る過程には、通常、数分から数十分の漸次的な覚醒が必要だ。しかし彼女の覚醒は違った。脅威の認識が先に来て、身体がそれに引き摺られる形で起動した。スラムの路地で鍛えた身の危険への嗅覚が、意識の復帰を待たずに反射的に動いた。

     金属が肋骨をかすめた。

     致命傷を外れた短剣が、右脇腹の肉を深く抉り、肋骨に罅を入れた。激痛が神経を走り、むしろそれが意識を完全に引き戻した。

     暗殺者が体勢を整えようとしたが、遅かった。

     彼女は寝台の上で身体を起こし、暗殺者の腕を掴み、逆関節に一撃を加えた。短剣が床に落ちた。暗殺者が驚愕に目を見開いた。眼が合った。

     「・・・誰に向かって、刃を向けているのかしら?」

     声は低いが、雪のように可憐に透き通っていた。激痛の中にいるとは思えない声だった。

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    「・・・跪きなさい。私は『姫』よ?白雪姫。誰よりも、美しく気高い・・・!」

     次の瞬間が速かった。暗殺者の記憶にはない。強い怒気と衝撃が走ると同時に気管を掴まれ、床に投げつけられ、首骨が折れた。その一連の動作が、計算された順序で、無駄なく実行された。スラムで生存するために磨いた身体能力は、煌びやかに着飾った衣服の下に隠されていた生臭いものだ。

     暗殺者は声を上げなかった。上げる時間がなかった。

     床に広がった血は、ほぼ全て、暗殺者のものだった。

     彼女は右脇腹を押さえながら、周囲を確認した。

     誰もいない。

     ハロルドも、エドワードも、誰の気配もない。あるのは、自分を殺しに来た者の死体だけだ。

     「……計画が、漏れていた」

     三秒で把握した。おそらくハロルドは死んだ。そしてエドワードも予定よりずっと早く。反王妃派は壊滅している。そして王妃は、もう地下牢にいない。
    ハロルドの声が耳の奥に残っていた。あの一瞬の、呼吸の止まり。指が石畳に触れる音が、半拍だけ消えた間。言葉ではない。しかし確かに、迷いがあった。「遅れの方がリスクだ」と彼はその後、小さく呟いた。だから早く動いた。だから死んだ。
     
    「エドワード様・・・」
    エドワードに考えを巡らせたとき、彼を呼ぶ声が自然と出てきた。
    彼女はそれ以上考えることを止め、暗殺者の上着を引き裂き、脇腹の傷に巻いた。きつく縛る。血が滲む。無視した。

     次の追っ手が来る前に、動かなければならない。

     彼女は夜の森に走り出した。

     痛みは感じていた。しかし痛みを感じながら走ることを、彼女はスラムで学んでいた。痛みは、まだ生きている証拠だ。痛みがある間は、続けられる。

    五章 亡命の果てに──怪物が邂逅(かいこう)する場所


     
    城門はすでに制圧されていた。

     王妃の直属の者たちが、夜のうちに近衛兵の一部を入れ替えていた。白雪姫はそれを、城門の手前二十歩程度の間合いで看破した。兵の立ち方が違う。重心の置き方が、訓練を受けた者のそれではなく、待ち伏せ用の構えだ。

     正面突破しかなかった。

     彼女は迷わなかった。城門に向かって走り込みながら、先頭の兵の槍を躱し、その腕を使って二人目を崩し、三人目の手首を折った。負傷した右脇腹から、動くたびに血が滲んだ。しかし手が止まらなかった。スラムで生き伸び成り上がった女の本性には、公平さも気品もない。全ては生き延びるためだけに徹底して合理化されている。

     それでも城門を完全に抜けるには代償が必要だった。すれ違いざまに長槍の穂先が脇腹の傷を再び浅く裂いた。痛みは知っていた。続けた。

     馬を奪った。夜の荒野に駆け出した。

     隣国、エドワード王子の国であるアルビオンに向かいながら、彼女は計算を続けていた。もしエドワードの軍がまだ生きていれば、彼を動かすことはできる。彼は自分を信じている。その信頼は本物だ。利用できる本物の感情は、偽物の証拠より強い。まだ、間に合う可能性がある。

     だが国境の荒野に差し掛かったとき、彼女は馬の速度を落とした。

     月明かりの中に、旗が立っていた。

     アルビオン王家の軍旗だ。しかし旗は風になびいているのではなく、地面に突き刺さっていた。旗の裾が泥にまみれている。夜のうちに戦闘があった。

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    「遅かったわね」──声は、前方から来た。

     馬上の王妃が、月光の中に立っていた。揺れる炎の光を受けて、その衣が暗く光る。背後に、整列した兵の列。左右に、さらに数列。彼女が来ることを、正確に予測していた者だけが敷ける包囲だった。

    「お前のお気に入りの人形は、一足先に地獄へ送った。優しく、してやったわ。お前が彼のために用意していた最後よりは、ずっとね」

     白雪姫は馬の上で動かなかった。だが白雪姫の睫毛が、ほんの僅かに揺れた。それが痛みによるものではないことを、王妃だけは見抜いていた。白雪姫の右脇腹の血が、鞍に滲んでいた。

     二つの選択肢を瞬時に計算した。突破は不可能だ。逃走路は全て塞がれている。降伏すれば処刑される。交渉材料はない。カードは全て失った。

     しかし彼女の眼は、死んでいなかった。

     十年かけて作り上げた全てが、今夜、灰になった。ハロルドも。エドワードも。反王妃派も。積み上げた算盤の全てが、ひとりの女に読み切られ、ひとり残らず始末された。

     それでも眼は、燃えていた。

     「……見事ね」

     白雪姫は静かに言った。降伏の言葉ではなかった。憎しみの言葉でもなかった。それは、強者が強者に向けるときだけ使える、ある種の敬意だった。

    次の瞬間。白雪姫が馬上から宙を舞い、王妃に蹴りかかる。
    だが王妃は最小限の動きでかわし、白雪姫が痛めた脇腹に回し蹴りを当てる。
    「っ・・!」

    睨み合う白雪姫と王妃。
    「ハロルドが死んだ時点で、三通りの可能性が考えられた」
    白雪姫が、静かに呟く。
    「使者が捕まったか、裏切ったか。あるいは──最初から読まれていたか」
    王妃は何も答えない。
    「恐らく三つ目ね。あなたは全てを同時に刈り取りに来た」
    白雪姫がゆっくりと王妃を見据える。
     「・・・完敗ね。私に誤算があったとしたら、どこを間違えたのかしら?」
    白雪姫が不敵に笑いながら言うと、王妃は答えた。

     「私もお前と同じ。何もないところから始めた女だということよ」

     白雪姫は、その言葉を聞いて、くすくすと可笑しそうに笑った。

     「――なら、可愛い後輩を見逃して頂けないかしら? お ひ め さ ま ?」

    白雪姫が、一歩、また一歩と歩きながら取り囲む兵士たちに躊躇なく近づく。
    周囲の兵はその得体の知れぬ狂気と気迫に恐怖を感じ、一歩、また一歩とジリジリと後ずさりする。
    次の瞬間、白雪姫は怯える兵士から槍を奪った。考えてからではなく、手が先に動いた。槍の重心を確かめながら半歩踏み込み、柄の端を石畳に突いた。身体が宙に浮いた。脇腹が悲鳴を上げた。無視した。騎馬兵の首に足が当たり、鞍が空いた。着地の衝撃で傷口が開いたが、それより先に手綱を握っていた。
    誰も止められなかった。一切の迷いがなかったからだ。迷いのある動きには、隙がある。隙には、手が出る。しかし迷いのない動きは、それ自体があまりにも美しい壁になる。
    次の瞬間、荒野の闇の中へ、白雪姫を乗せた馬が走り出した。

     王妃は追撃の命令を、出さなかった。
    追えば仕留められるかもしれない。だが確実ではない。追い詰めるほど化ける女だ。それは分かった。
    もう一つ、分かったことがある。
    あの娘が夜の荒野に消える一瞬、月明かりの中で見えた横顔が、何かに似ていた。王妃はその「何か」に一秒だけ触れ、それから静かに蓋をした。感傷は、判断を鈍らせる。自分がそれを許さないことは、自分が一番知っている。
    「逃がした方が、価値がある」
    生き延びれば、必ずまた盤上に戻ってくる。その時こそ、完全に潰せばいい。

     「生き延びられるものなら生き伸びなさい、小娘。だが、お前にはもう、逃げ場はない」

     王妃の呟きに、白雪姫は振り返らなかった。しかし、その言葉が背中に刺さるのを、感じた。

     刺さったまま、抜けなかった。

     それが何を意味するのかを考える余裕は、今夜の彼女にはなかった。――だが、まだ手はある。盤は壊れたが、駒は残っている。
    1からではない。ゼロよりは上だ。

     ただ、走った。血を流しながら。馬が荒野を蹴る音だけが、夜の静寂の中に響いた。


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