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長編小説【計算と弾道】②

    https://note.com/80200731/n/n43b6ed7a8125

    第二章:熱鉄の弾道

    【1】

    昭和五十三年、夏。 東京の東側、隅田川から吹き付ける風には、排気ガスとどぶ川の匂い、そしてどこか爛れたような人間の欲望が混ざり合っていた。

    若き日の金守は、その混沌とした街の喧騒を、すり減った革靴の底で踏みしめながら歩いていた。当時の彼は二十七歳。リーゼントをバチバチに固め、仕立ての悪いダブルのスーツを着ていたが、中身はただの「お調子者のチンピラ」に過ぎなかった。 妾の子供で寺の実家を飛び出し、行くあてもなく流れ着いたのが、この新興の博徒系組織「黒誠会(こくせいかい)」の事務所だった。

    「おい、モリ。またサボってんじゃねえぞ」 年上の兄貴分に頭を小突かれても、金守は「へへっ、すんません!」と白い歯を見せて器用に頭を下げた。彼には、極道を極めてのし上がろうという大層な野心などなかった。ただ、カタギの世界の退屈な規律に馴染めず、かといって一人で飢え死にする度胸もない。世渡り上手な愛想笑いと、逃げ足の速さだけを武器に、裏社会の隙間で調子よく生き長らえていた。

    その日の夕方、事務所の空気は不気味なほど弛緩していた。 組長や幹部たちはよその会合に出払っており、古い雑居ビルの三階にある事務所に残っていたのは、金守を含めて若い衆がたったの三人。西日が差し込む十畳ほどの和室で、金守は近くの中華屋から取った出前のカツ丼を貪り食っていた。

    「やっぱり夏はカツ丼に限るな。この甘辛いタレが畳の匂いと混ざって、余計に食欲をそそるわ」 プラスチックの丼に顔を埋め、プラスチックの箸で豚カツを口に放り込む。脂の旨味と出汁の香りが口いっぱいに広がり、金守は至福の表情を浮かべていた。隣では、同僚の若い衆が寝転がって週刊誌を読み、もう一人はテレビのプロ野球中継をぼんやりと眺めている。 窓の外からは、遠く都電の走る音と、蝉の鳴き声が途切れ途切れに聞こえていた。

    いつもと変わらない、退屈で、ほんの少し不穏なだけの日常。 だが、その日常の底には、すでに真っ赤に熱された「破滅の弾道」が近づいていた。

    ガツン。

    一階の、ビル全体の入り口にある鉄製の防火扉が、異常な力で叩きつけられるような重低音が響いた。 金守の箸が、ピタリと止まる。 「……なんだ?」 寝転がっていた男が顔を上げた。次の瞬間、古い木造の階段を、複数が猛烈な勢いで駆け上がってくる、激しい足音が建物を震わせた。ドタドタドタドタと、それは明らかに尋常な訪問者のそれではない。獲物を追い詰める猟犬の足音だ。

    「おい、まさか――」 テレビを見ていた男が立ち上がろうとした、まさにその時だった。

    バガァン!!

    事務所の木製のドアが、内側の鍵ごと粉々に蹴り破られた。 衝撃波と共に飛び散る木片。その奥から現れたのは、顔を黒い布で覆い、手になめらかな黒い金属の光沢を握りしめた、敵対組織「大日本狂仁会」の暗殺部隊だった。

    【2】

    時間が、引き伸ばされたように遅くなる。 突入してきた先頭の男の腕が、まっすぐにこちらへ突き出された。その手にあるのは、軍用の自動拳銃――トカレフ。

    ドン!!

    鼓膜を直接針で刺すような、凄まじい爆音が狭い和室に炸裂した。 テレビの前に立っていた若い衆の胸から、鮮血がパッと霧のように吹き飛ぶ。男は声も出せずに後ろへ倒れ込み、テレビの画面に激突して火花を散らした。

    「狂仁会だ! ぶっ殺せ!」 怒号が響く。続けて二発、三発と銃声が連射された。 ガシャァン! と和室のガラス窓が粉々に砕け散り、夕方の風が無残に吹き込んでくる。コンクリートの壁に当たった弾丸が、バチバチパチィン! と眩い火花をハジけさせ、鋭い破片を撒き散らした。一瞬にして部屋の中は、目に刺さるような白い硝煙と、鼻を突く強烈な火薬の焦げ臭さで満たされる。

    金守の頭の中は、一瞬で「真っ白」になった。 爆音があまりにも大きすぎて、逆に鼓膜が音を拒絶し、世界の音が完全に消え失せた。 自分のすぐ横、わずか数センチの空間を、強烈な熱風が通り過ぎていく。弾丸が巻き起こした空気の渦だ。それが背後の柱を削り、木屑を顔に浴びせる。

    目の前では、さっきまで食べていたカツ丼の器が銃弾に撃ち抜かれ、粉々にハジけ飛んでいた。飛び散る黄色い卵、タレの染みたご飯、そして赤黒いタレが、青畳の上にベッタリと広がっていく。

    (死ぬ)

    理屈ではない。二十七年間、調子よく生きてきた金守の肉体が、細胞の全生命を懸けて危険信号を鳴らしていた。極道としてのメンツがどうとか、そんな上っ面の思考は一瞬で消し飛んだ。頭の中にあるのは、たった一言だけ。

    『死んでたまるか』

    金守は、カツ丼がひっくり返った黒塗りの重い座卓を、火事場の馬鹿力で横ざまに引き倒した。それを盾にするようにして、畳の上を這いつくばりながら影へと滑り込む。 すぐさま、座卓の表面にベベベン! と激しい衝撃が走り、木片が飛び散る。トカレフの銃弾が、座卓を貫通しかけている。あと数秒ここにいれば、肉体を蜂の巣にされるのは確実だった。

    逃げるか? いや、入り口は奴らに塞がれている。窓から飛び降りれば三階だ、コンクリートに叩きつけられて死ぬ。 生き残る道は、ただ一つ。 目の前の「死そのもの」を、自分の手でぶちのめす以外にない。

    金守は、ズボンの後ろポケット、ベルトの隙間に深く差し込んでいた、錆びかけた回転式拳銃(リボルバー)を引き抜いた。手が激しく震えている。冷や汗が目に入って視界が滲む。

    ドアの向こうから、さらに二人の男が乱入してくるのが見えた。寝転がっていたもう一人の若い衆も、すでに下腹部を撃たれて血の海でのたうち回っている。残されたのは、自分一人。

    いつもはお調子者で、誰にでもヘラヘラと笑いかけていた金守の顔から、人間らしい感情がすべて剥ぎ取られた。 奥歯がガチガチと鳴るのを、噛み潰すようにして止める。目元がギリギリと引き絞られ、両目が完全に「三角形」に吊り上がった。それは、獣が獲物を屠る時の、あるいは己の命を守るためだけにすべてを捨てた生物の、狂気の眼光だった。

    【3】

    座卓の陰から、金守は身を乗り出した。 狙いを定める時間なんてない。射撃の技術なんて、ろくに訓練もしていないチンピラには皆無だ。 だが、金守の身体は、肉体の奥底に眠っていた「生への本能」だけで動いていた。

    突入してきた先頭の男の、その眉間の「一点」だけを三角形の目で凝視する。世界が静止したかのような錯覚の中、金守はリボルバーの引金を指がちぎれんばかりの力で引き絞った。

    ガツン!!!

    腕を骨ごと突き上げるような、凄まじい反動が金守を襲う。 放たれた一発の銃弾は、硝煙を切り裂き、まっすぐに先頭の男の顔面へと吸い込まれた。男の頭部が不自然に後ろへと弾け、手に持っていたトカレフが天井に向けて暴発する。男の身体が、糸の切れた人形のようにドサリと畳に崩れ落ちた。

    「この野郎!!」 二人目の男が、金守に向けて銃口を修正する。 コンマ一秒の遅れが、どちらの命を奪うかの境界線。金守は叫び声すら上げず、狂ったようにリボルバーの引金を連射した。

    ドン! ドン! ドン!

    激しい閃光が狭い部屋を照らす。二発目が男の肩をぶち抜き、三発目が胸の中央を捉えた。男は血を吐きながら、もんどり打って壁に激突し、そのまま崩れ落ちた。 三人目の男が、その光覚に怯んで一歩後退する。徳次郎は座卓を蹴り飛ばし、返り血で真っ赤に染まったスーツのまま、獣のようにその男へ飛びかかった。残った弾丸を、至近距離から男の腹部へと叩き込む。

    カチ、カチ、カチ。

    弾切れのシリンダーが虚しく回る音が響いた時、ようやく世界の「音」が金守の耳に戻ってきた。

    ジリジリと鳴り続けるテレビの砂嵐の音。 窓の外から聞こえる、何事もなかったかのような蝉の鳴き声。 そして、ハァ、ハァ、と、自分の喉から漏れる、壊れた蛇腹のような荒い呼吸の音。

    床を見渡すと、そこには三人の狂仁会の男たちと、二人の仲間の身体が、無造作に転がっていた。畳は、カツ丼のタレと、大量の赤黒い血液が混ざり合い、異様な臭気を放っている。 金守は、自分の着ている白いシャツが、誰のものかも分からない返り血でドロドロに汚れているのを見つめた。 恐怖は、なかった。ただ、身体の芯から湧き上がる「生きている」という強烈な熱さと、命を毟り取ったという生々しい感覚だけが、彼の両手に残っていた。

    「……生き、た」

    金守は銃を床に落とし、その場にへたり込んだ。 お調子者のチンピラはこの日、死んだ。そして、地獄の硝煙の中で命を掴み取った、一人の極道が誕生した瞬間だった。

    【4】

    「――とまぁ、そんな感じよ」

    パチ、と再び現実の音がして、俺は我に返った。 ここは令和の、梅雨の和室だ。 金守じいちゃんは、いつの間にか元の「お調子者の老人」の顔に戻り、冷え切ったビールを喉を鳴らして飲んでいる。 「カツ丼を見るたびに、あの畳に広がった血の匂いを思い出すんだよなぁ。だから真朝、お前も飯は残さず食えよ。命がけで食う飯は、美味いんだからな」

    親戚たちは、誰も言葉を発することができない。伯父の持っていたビールコップは、微かにカタカタと震えていた。さっきまで「今の若い者は」と偉そうに語っていた大人の威厳なんて、じいちゃんが放った本物の「昭和の暴力と狂気」の前に、塵のように吹き飛んでいた。

    俺は、自分の手のひらを見つめた。 スマホの画面には、相変わらずどうでもいいニュースの通知が並んでいる。だが、今の俺には、その画面がいかに薄っぺらく、命の通っていないものに見えるか。

    じいちゃんたちが生きてきた世界は、決して綺麗でも、効率的でもなかった。コスパなんて言葉で割り切れるものは何一つない。 コンマ一秒の遅れで死ぬ世界。数字一つで仲間が全滅する世界。 そんな地獄のバトンを繋いで、繋いで、その結果として、今、この「退屈で平和な現代」が用意されているのだ。

    じいちゃんの斜め向かいで、母方の三次じいちゃんが、静かに俺を見て頷いた。その目は、まるでこう言っているようだった。

    ――さあ、お前はこの世界で、どうやって生きるんだ?

    胸の奥の熱が、さらに勢いを増して燃え広がる。 もう、スマホの画面に逃げ込むことはできない。俺は、ポケットの中の白紙の進路希望調査票を、強く、強く握りしめた。

    https://note.com/80200731/n/ne301aa116f0d

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