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夫の絶対領域に救われる

    何度目かの待ち合わせをしたある日、彼はピンク色のシャツに七分丈のチノパンを履いていた。パンツの先には彼の毛深い脛とスポーツソックスが層をなし、禍々しい絶対領域がお目見えしている。

    長年の貧血が祟ったようなフラつき。どうにか体勢を立て直し、歩き出した彼の背を追う。シャツの背中には、でかでかとしたフルーツパフェがプリントされていた。

    「デリシャス!」
    唐突な美味しさの表明に、危うく百年の恋から覚めそうになる。

    もしかして、と思う瞬間は今までも何回かあったが、ついに気がついてしまった。この人、とてもダサい!!!


    会社帰りのスーツ姿でも、「おしゃれかそうじゃないか」分かってしまうものである。彼と最初に待ち合わせした日から、ファッションが得意じゃないことは分かっていた。
    リクルートスーツに父のお下がりだという通勤リュック。革靴もシャツもくたくた。長く野球でピッチャーをしていたがっしりとした肩幅が、なんだか貧弱に見える。

    初めて私服で会ったときは、白いTシャツに黒いジーンズだった。同じ白T黒パン界隈でも中の下くらいの印象であったが、私にとっては「ちょうどいい」と思った。おしゃれな人とは並んで歩く自信がなかったから、ちょっと寂れたファッションセンスは好ましかった。
    それに、どうやらおしゃれには興味がなくても「どんな格好が望ましいか」は分かっていそうだ。だからそのベーシックカラー、選んだんでしょ。

    隣を歩いて恥ずかしくなければ、それでいい。全身ユニクロでも、GUでも、古着でもなんでも。

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    そんな勝手な安心を抱いていたからこそ、目の前のフルーツパフェに殴られた。

    彼は普段通り、最近の仕事のことをサラサラと話す。自分の服装に違和感などないのだろう。今、私が脳震盪を起こしそうになっていることも、それなりのものを着れば五百倍は見た目が良くなることも彼は知らない。

    待ち合わせまで胸に抱いていた、思わず早足になってしまうトキメキは、切り干し大根のようにしなしなになってしまった。この日を指折り数えて、何を着ようかファッションショーを開催し、鏡の前でポーズを決めてきた。前日にはちょっと高いパックもつけたのだ。

    それなのに、こんなガワだけの問題で恋をぶっ壊されそうになっている。なんて癪に障る。私は、外見で人を判断するような人間ではないはずだ。絶対領域の隙間から、使命感が芽生えた。

    人はダサいと損をする。彼のためにも私のためにも、彼を「普通に見られる」ファッションにしてやりたい。
    私は決してオシャレ番長ではないけど、この人の「ダサい」を「普通」にしてやるくらいのことはできるかもしれない。

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    昔、私は日常的に「ダサい」という言葉を浴びせかけられていた。姉のお下がりや祖母が買ってきた「質は良いけど地味な服」を着ている私は、みんなの流行に疎かった。ドクロやバラがあしらわれたロックな柄のデザインにショートパンツ、ニーハイソックス、という格好が当時最も「おしゃれ」とされていたので、無理はない。

    思春期に、外見で馬鹿にされるというのはなかなか堪える。
    「まともな学校生活を送るためにも、おしゃれにならなければ」
    人権を守るべくニコラ、セブンティーン、ノンノとあらゆるファッション誌をハシゴし、発売日に本屋に走る子どもだった。

    モデルの着こなしだけでなく、豆粒のような文字で書かれている服のブランド名や値段まで読みこんだ。ペーパーテストをやったら満点は固いだろう。
    いくら頭でっかちになっても、当時の私にできることは百円ショップでボーダーのニーハイソックスを買うことくらいだった。それでも少しずつ、私は「おしゃれ」がどういうものなのか学んだ。

    制服を着るようになった頃、私は人生で初めておしゃれな側にまわった。泊まり込みのイベントで着る私服に懸けた結果である。

    センスが磨かれたわけではない。雑誌で見たファッションをそのまま転用し、なんなら載っている商品そのものを109へ探しに行ったりしていた。服だけ見れば雑誌スタイリストが選んだ服だったのだ。
    等身の悪いマネキンになった私は錯覚した。自分はもうダサくない。おしゃれなのだ。
    大学生にもなるとバイトを始め、109がネット通販になった。昼夜も場所も状況も問わず、雑誌でよく見るブランドの服を買い回る。

    ただ、クローゼットを開いたとき、「おしゃれ」な服をしばらく着ていないことに気がついた。
    私はいつも決まった服―それもノーブランド―を手に取ってしまう。手元には有名ブランド服が溢れているのに。服を見るだけなら惚れ惚れするほど綺麗で可愛いのに、鏡に映った自分が、どうしても好きと思えなかったのだ。

    「どんな服がおしゃれと認定されるか」
    これは分かる。ずっと勉強してきたことだ。だが、私はずっと、「何を着たら私自身を好きになれるか」が分からないままだった。何を着ても、自分はぼんやりと霞んでいた。

    味方になってくれるはずのブランド服は、いつの間にか私に「ダサい」と突き付けてきた。それを家に隠している今も、隣を歩く彼がダサい。どこにいっても私が「ダサい」動かぬ証拠のようだった。


    彼氏おしゃれ化計画は、洋服をプレゼントするところから始めた。
    「彼氏 ダサい」と検索すると、同じ悩みを持つ同志が洋服の贈り物を勧めていたのだ。

    とりあえず着やすそうなパーカーからはじめ、シンプルなシャツやトレーナー、仕事用のネクタイなどをプレゼントした。彼は面白いように垢抜けていく。
    もはや彼は「推し」のようになっていた。もっと売れるはずなんだと信じて、スタイリスト業にも力が入る。
    男性のゆるいパーマが好きと会うたびに言いまくってイメチェンさせた時は、アボカドの皮をむいたくらい変わっていた。

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    計画開始から一年ほど経ったある日、彼が買い物に誘ってくれた。
    「ズボンのこと『パンツ』っていうの何なの、それはただのパンツやん」
    ファッションなんて興味ないですよ。そんな悪態をつきながら。
    試着室で「これは微妙」「こっちの方がいい」と選り好みを始める。ついに自分の見た目に興味を持ったのだ。

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    極め付けはパーソナルカラーと骨格診断だった。似合う色合いを「春夏秋冬」と四等分に名前をつけ、骨格を三タイプに分ける。占いもMBTIもくそくらえという彼は半信半疑だったが、「七分丈は似合わない」と断言された瞬間だけは目を輝かせた。
    「なんか違うと思っていたんだ」

    「人間を四等分に分けられるはずがない」と毒づきながら、なんだかんだ参考にして服を選ぶ彼。フルーツパフェの面影は、もうほとんど消えていた。

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    彼と結婚した秋の日。婚約指輪のお礼にオーダースーツを贈ることにした。

    「婚約指輪の半分くらいの値段でちょうどいい」
    「スーツなら仕事で使うでしょう」
    色々と建前はあったが、実は私自身、フルオーダーの洋服を作ってみたくてたまらなかった。生地や裏地、ボタンの形状、その細部に至るまで自分の思い通りにできるなんて、絶対に自分好みのものが出来上がる。
    クローゼットに好きじゃない服を渋滞させて墓場にしている身としては、夢みたいな話だ。そして私の「推し活」の集大成でもある。

    日本橋のオーダースーツ店。おしゃれなスーツに眼鏡をかけた、いかにもアパレルな店員さんに気後れしながらも、カウンセリングが始まる。

    夫を正面に捉えた店員さんの目の片隅をちろちろ動きながら、これはどうだあれはどうだと考えを巡らせる私。
    彼は遠慮しているのか、数多ある生地のなかで一番安い生地しか手に取らない。「値段が上がっても大丈夫だから」と促しても、あまり個性が分からない生地や、地味なものをチョイスする。

    せっかくのオーダーなのに。
    もっと遊べるのに。
    もっと格好良くなるのに。

    「こっちがいいんじゃない?」控えめに提案しながら、むくむくと夫のスタイリストとしての自分が顔を出す。

    スーツの裏地を選んでいるときだった。
    「こういう裏地もおしゃれですよ」
    そう言われたのはシャンパンゴールドの裏地。

    ごくり。ちょっと濃紺っぽいスーツにこれなら、絶対にいい仕上がりになる。少し華やかになって脱いだ時もかっこいい。これだ。絶対これだ。

    ところが夫は、
    「いや~こっちかな~」
    と黒っぽい裏地を指さした。国会なら野次である。それじゃあ既製品と変わらないじゃんか!

    「いや!絶対こっち!シャンパンゴールド!」
    気が付けば私は店員さんの前で全力でプレゼンをしていた。

    身を乗り出してスーツ作りに介入してきた私を見て、夫はちょっと引いていた。店に入る前に囁いた「今日はあなたのパトロンだから」なんて嘘じゃないか、という顔をしている。
    結局私の熱量が彼の弱々しい反論を押し切り、シャンパンゴールドの裏地が採用された。強情な私に、彼の顔には「やれやれ」と書いてある。


    だが、出来上がったスーツを受け取ったとき、彼は目を輝かせた。
    ぴったりなのはもちろん、絶対に既製品にはない紺地にさりげない黒のストライプ。遠くから見るとネイビーに見えるが、控えめながら存在感があり、チラリと見える裏地もおしゃれ。

    「めちゃくちゃかっこいい…!」
    鏡の中の自分にほれぼれする彼。嬉しそうにニマニマして、その後も「友達の結婚式で褒められた」と報告してくれる。
    「これはオーダーして自分で作ったのだ」と得意げに話しているようだ。


    彼は静かに、私の「おしゃれ」がちゃんと「おしゃれ」だと証明してくれた。

    センスなんてものではなかったのだ。この人の前では、傲慢なくらい素直に自分の好きが言える。

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    あれからもう二年以上たった。
    気が付いてみれば私のクローゼットはユニクロやノーブランド品ばかりになっている。

    かつて私が血眼になって欲しかったのは、「私はおしゃれな側にいる」という確証だった。でも、彼のオーダースーツがバシッと決まったあの日、私のいびつな承認欲求はいとも簡単に満たされた。

    一時期は「一万円以上の服」を信仰していた私が、先日、ネット通販で千六百円のパンツを買った。妊娠中の腹回りにも優しく、デザインも大満足。「少し安っぽく見える」というレビューなんて、今の私にはどうでもいい。

    あの日呪いかのように思えた絶対領域は、やっぱり世間で言われるとおり聖域だったのかもしれない。あの聖域のおかげで、私は長年の呪縛から解放された。


    どこへ行くにも完全武装していた私は、今や地元をスウェットで歩いている。これでいいのだと、胸を張って。

    ただ先日、夫が真顔で言った。
    「おばちゃんみたいだからその服で会社行ったらだめだよ」
    地元とはいえ、その一言は少し刺さる。私はダサくなったらしい。別にスーパーくらいならいいけどさ、と付け足す彼に私は言った。

    「じゃあ今度、私の服を選んでよ」

    今度は私をおしゃれにしてほしい。
    仕方ないなあ、とでも言いたげに、彼は首をすくめた。

     
     
    エッセイスト。内気の内側と、エッセイのあれこれ。

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