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広い国で、狭い気持ちのまま生きている

    五十代も後半になって、私はようやく日本を離れた。
    若い頃から海外生活に憧れてたくせに、気づけば半世紀以上、日本。
    いやもう、どんだけ腰が重かったんだ私。

    若い頃は、外したいのに外せない“あれこれ”が多すぎた。
    でも五十代になって、いくつかの枷(結婚とか離婚とか、子育てとか、親の介護とか)が自然と外れはじめた頃、今のパートナーとのご縁があった。
    オーストラリアに来たのは、どっからどう考えても見切り発車(見切り発車でもしなきゃ、私は一生日本で重い腰を上げられずにいたと思う)。

    暮らし始めの頃は、それはそれは毎日浮足立っていた。
    何を見ても何を聞いても楽しい。
    でもその「楽しい」は、わりとすぐに
    「ん?」
    「いやいや…」
    「勘弁してくれ」 に変わった。
    勘弁してほしい気持ちになるのが早い。早すぎる。

    思えば私は、この“アップして撃沈”のパターンをずっと繰り返してきた。
    18歳で地元を離れて東京で始めた学生生活。
    何でもある街に意気揚々と踏み出して、撃沈。
    何でもあるけど、私には何にもなかった(都会のキラキラは、私にはくっついてくれなかった。)

    社会人になっても、何かに(誰かに)期待しては期待通りにいかず、 誰かの期待に応えようと必死になっても、なぜか「そうじゃない、そうじゃない」「なんでそっち?」の展開ばかり。
    期待しすぎる自分が悪い、妄想を膨らませる自分が悪い―― 頭ではわかってるのに、その同じ頭が懲りずに期待と妄想を繰り返す(このへん、我ながら学習能力の低さがもはや才能の域)。

    一体私は何回、アップとダウンを繰り返してきたんだろう。
    もう数えるのも億劫だ。
    そんな私だからこそ「間もなく還暦」というタイミングで飛び出した。
    どこかに「今度こそ」があったから。
    (この“今度こそ”が曲者だってことには、うっすら気づいてる。なのに、毎度やる)

    さて、今回ばかりは、アップとダウンに「日本人だから」がついて回る。
    日本で積み重ねてきた習慣や価値観が、この国ではこれっぽちも通用しない場面に何度も出くわす。
    (もちろん、日本の習慣が全部優れてるとか、そういう話では全くない)

    しかもその「通用しない場面」は、派手なイベントじゃなくて、日常のほんの些細なところに潜んでいて、私を困惑させたり、イライラさせたり、挙句には怒らせたりする(怒らせるなよ、オーストラリア)。

    たとえば、オージーたちの終わりの見えない長話(長い。ほんと長い)。
    たとえば、帰りたい私と、まだ話したいパートナーとのお呼ばれ攻防(帰らせてくれ)。
    たとえば、「つかめりゃいいじゃない」と言わんばかりの箸の持ち方(いや、気になるんよ)。
    たとえば、ペットシッターで訪れた家の、やたらと多いドア(迷路か?)。
    たとえば、広い土地なのに、どこへ行っても知り合いに出くわす町の狭さ(広いのか狭いのか、どっちかにして)。

    どれも大したことじゃない。
    でも、その「大したことじゃない違和感」が積み重なると、じわじわ心の奥に沈殿していく。
    若い頃なら笑って流せたかもしれない。でも今の私はムリ。ほんとムリ。
    長年かけて身についたこだわりや習慣に、ここへ来て自分が一番驚いている(こんなに頑固だったっけ、私)。

    「手放しで喜べない海外生活」。
    幸せと思いたいのに、どうしてこんなにしんどいんだろう。
    この国の人々は親切で、自然は美しく、生活は穏やか。
    それでも、想定以上の頻度で「ここは私の居場所なんかな?」が私を追い詰める。
    (いやほんと、しょっちゅう来る、この感覚。)

    30年前、二十代でオーストラリアに移り住んだ日本人の友人が言った。
    「その違和感を超えたら大丈夫。それって、この国で生きていくための入口みたいなものじゃない?」
    ……いやいや。こんな狭くて居心地のよろしくない入口、わざわざ肩すぼめて通りたくない。

    なんといってもアラ還。
    自分の満足できる居場所づくりに注ぐパワーは、できれば出し惜しみたい。
    (節約できるものは節約したい年齢。)
    これは、五十代で初めて海外に移り住んだ私が、 日々の違和感に振り回されながら、必要最低限の抵抗モードでなんとかやり過ごそうとするお話。
    (全力は出せない。あくまで“必要最低限”。)

    追記:私のパートナーもその家族も、友人たちも日本語は一言も話せない。つまり、この後に出てくる彼らとの会話は全部英語。私の脳みそは 一日じゅう英語の荒波をサーフィンし続けていて、夕方にはもう板から落ちて砂浜で伸びている(耳のシャッターもガラガラ閉店)。

    ※そんな“必要最低限モード”の私が、最初に撃沈したのがこれ。
    オーストラリア名物(と勝手に呼んでいる)終わりの見えない長話。

    【話好きにもほどがある】
    オーストラリア人は、とてもおしゃべりが好き。
    「やぁやぁ、ちょっと寄ってみたよ」とか言いながら訪ねて来て(アポなし)。
    「よく来たね、コーヒーでも飲んでいきなよ」と嬉々としてパートナーがコーヒーを作る。それを飲みながら話し込み。

    2時間経過。

    「そろそろ失礼しようかな」と立ち上がり、
    「あ、そういえばね」と、立ったまま20分話し込み。

    「いやぁ、そろそろ行かないと」と玄関まで移動して、
    「来週なんだけどさ」とか言って、そのまま玄関先で20分話し込み。

    「さて、本当に行かないと」と車のところまで移動して、
    車のドアを開けて、「この前さぁ」とか言って、立ったまま20分話し込み。

    …つまり、「そろそろ失礼する」と立ち上がってから1時間経過、というのも珍しくない。

    この工程、「今、洗濯途中なんだよな」とか「今日は買い物に行かないと」とかグルグル考える私には、ストレス以外の何物でもない。
    訪ねてくる彼らが、いつでも会えるご近所さんだったりすると、なおのこと。

    私のストレスとは裏腹に、パートナーは無類のおしゃべり好き。
    何時間でもしゃべっていられる(本当に、何時間でも)。
    なので、私にとっての不毛な数時間の後、客人を送り出した後に彼は必ず
    「あ~、楽しかったね。いい時間だったよ」
    と大満足。 不毛な数時間のおかげで、その日彼がするはずだったこと(ドアの修理とか倉庫の整理とか)は全てストップ、翌日以降の彼がやる気になる日まで繰り越される(いつになったらやるんだよ)。

    「毎度これは無理なんだけど」と私が訴えると、
    「え? じゃあ無理して一緒にいなくていいのに」

    はぁ? いいの?

    パートナー曰く、都合が悪いならはっきり言って、自分の用事を優先させればいいんだ、と。

    いいんかい。

    というわけで、初めのころは律儀に全行程お供していた私、
    今では自分の都合や予定が最優先。
    かなりのストレス軽減。

    かく言う私も、実は相当なおしゃべり。日本語を喋らせたら何時間でもいけるクチ。
    (家に遊びに来た友達と話し込んで、気がついたら夜が明けていたなんてこともある)

    英語は母国語じゃないが、気の置けない女友達相手だと楽しめる。
    だから、私が本当におしゃべりしたい時は、予定を組んで(アポなし厳禁)、女友達と外に落ち着くことにしている(カフェとか)。
    だいたい盛り上がる話題は万国共通(察してください)。
    夫たちがいない所で時間を気にせずに話し込みたいから。

    ※で、おしゃべりを楽しむと言えば、次はホームパーティー。これがまた、手強い。

    【帰ると言ったら帰る!】
    オーストラリア郊外の住宅事情は、ご想像の通り、日本のそれとはまるで違う。
    平屋建てが多く(土地が広いから)、バックヤード(裏庭)も大きく(土地が広いから)、
    最低でも車二台分の車庫も標準装備(土地が広いから)。

    都市部では事情が違ってくるものの、私の暮らすエリアの友人たちの家は、
    「人を呼ぶことを前提にデザインされている」、まさにそんな造り。
    (ちなみに、私の住まいは質素で庭もない。ここではちょっと珍しいタイプ)

    ベッドルームはもちろん、シャワールームやトイレも余分に1つや2つ。
    キッチンやリビング、庭にもテーブルやソファ、そしてバーベキューコンロ。
    いつ誰が訪ねて来ても、泊まりに来ても慌てる必要がない。

    というわけで、こちらではランチやディナーに呼んだり呼ばれたりがしょっちゅう起こる。
    誕生日パーティーは言うに及ばず、何でもない日にランチパーティー、ディナーパーティー。

    私が及び腰になっているのが、15〜20人くらいの大人数のホームパーティー。
    この「誰が来るのかわからない大人数パーティー」が苦手。はっきり言うと大嫌い。
    できることなら逃げてしまいたい。
    理由は、ものすごく疲れるから。

    仲の良いオーストラリア人の友人が「まさにそれな」を言ってくれた。
    「おしゃべりが楽しめる最大人数は6人ね。それ以上になると収拾がつかないもの」

    その通り。

    「人数が多いったって、結局は少人数に分かれて話すんだから、問題ないんじゃ?」と思った人?
    甘い。
    たとえ少人数に別れようと、全く会話に参加できないことがある(むしろ、私の場合はその方が多い)。
    なぜなら…
    ・席の位置が悪くて、うまく会話に参入できない
    ・話題のテーマに全く興味がない
    ・グループに一人でしゃべり続ける不届き者がいる

    私の知っているオージーたちは(ほぼ100%)、話したくて話したくてウズウズしているので、「ここぞ」という切り込みポイントを見つけたが最後、そこから自分の語りに没頭してしまう。
    そういうのを何人も相手にしている私にできることはただ一つ。

    ただ聞いているフリ。
    たまに英語が理解できないフリまでしてやり過ごす(正真正銘、1ミリも理解できないことだってある)。

    これが長時間ともなるとただの苦行。

    「もうこれ以上ここにいるのは本当にシンドイ」とパートナーにSOSを出しても、
    「もうちょっと様子見て、ね」
    となかなか切り上げない。
    なぜなら(繰り返すが)彼はこういう場面が全く苦にならないから。
    そんなことが何度か続いた時、ついにブチ切れて宣告した。

    「今日という今日は、私が帰りたいと言ったら帰りますからね!」
    すると彼は、
    「君は本当に失礼な人だよね」
    何がよ?
    「僕はね、呼ばれた先で、一番最初に帰る人にはなりたくないんだよ。失礼じゃないか」

    はぁ?

    「何言ってんの?
    必ず誰かは一番最初に帰る人になるんだよ。
    むしろ、先陣を切ったら他の人も帰りやすくなるじゃないの!」

    「とにかく、僕は失礼な人になりたくないの」
    だとさ。

    こんなことがあって、私は仲の良い日本人の友人(件のオーストラリア歴30年)に聞いてみた。
    こういう時、どうしてる?って。
    すると彼女は、
    「最初っから車2台で行くわよ。そしたら私の帰りたい時に帰れるから。
    パートナー? 放っておいて平気よ。いつだって彼の方がしゃべりたいんだから」

    その手があったか。
    オーストラリアのお呼ばれ文化、そろそろ新参者から昇格したい。

    ※実は、ホームパーティーには、もうひとつ私をザワつかせる場面がある。 そう、箸。
    ここでも日本人のこだわりが邪魔をする。

    【つかめりゃいい、じゃないのよ】
    私が箸を使って食事をするようになったのは、3歳か4歳か…。
    気が付けば当たり前のように箸を使っている。もちろん、とても正しく。
    最近では3歳になった孫娘が箸を使いたがるようになり、息子夫婦が必死に教えているのを
    「しっかり覚えるのですよ」と温かな眼差しで見守っている。

    私の箸にまつわる記憶といえば、
    あれは忘れもしない、小学校2年生のある日の夕飯。
    突然、父親が私を怒鳴りつけた。

    「なんだ、その箸の使い方は!」

    えええええ、今?
    さんざん目の前で箸、使ってたじゃん。
    今まで何も言わなかったじゃん。

    その後、数日かけて箸使いの特訓が始まった。

    昭和の頑固おやじを地で行く父の、理不尽な「箸特訓」。
    (「巨人の星」の飛雄馬とその父を想像していただきたい)

    そのおかげで、私はどこに行っても恥じることのない 「正しい箸の使い方」 を習得し、現在に至る。

    箸の使い方で、その人を見る目が変わる。

    大好きな俳優が食レポ番組でひどい箸づかいをしていると、一気に幻滅する。
    俳優やタレントに限らず、初めて一緒に食事をする時に相手の箸づかいがよろしくないとガッカリする。

    日本では「正しい箸づかい」の基準がしつけ、ひいては 人格評価にまで直結する。
    そう思うのは私だけ?
    あまりにもひどい箸使いをする人を見ると、「この人、どんな家庭で育ったんだ?」といらぬ想像までしてしまう(まさに老婆心)。
    箸先の角度、箸の持ち方、器の持ち方、食べ物のつまみ方…。
    こうした細かい美意識が重なって「正しい所作」とされる。

    ところが、アジアの他の国はそうではない。
    箸は「道具」であって、
    「食べ物がつかめれば、それでOK」。

    「正しく持ててこそ箸が使える」という日本の感覚とは、まったく別もの。

    たまに、お呼ばれしたテーブルで、
    「私、箸が使えるのよ」と嬉々として披露するアジアの人たちがいて、
    「どれどれ?」と見ると…
    「げげっ」 という持ち方、使い方。

    それでもオーストラリア人からしたら、
    「すごい、箸で食べてる!」 となる。

    違うのよ、つかめりゃいい、てもんじゃないのよ!
    と声を大にして言いたいが、これは日本人にしかわかってもらえない感覚。

    もちろん、オーストラリアでも箸はじわじわと人気らしく、正しく箸を使えるオーストラリア人もどこかにはいるだろうけど、私は今のところ会ったことがない。

    ましてや我がパートナー。
    私が日本から持参した箸を初めて見たとき、興味津々で練習したものの、10分もしないうちに「指がつるから無理」と投げ出して、それっきり(お前のそういうところがよ)。

    こちらにもナイフやフォークのマナーはあるが、心配していたほど厳格ではなくて、内心ホッ。
    途中でナイフをフォークに持ち替えようが、なんなら無理してナイフを使わずとも、
    結局は 「周りを不愉快にしなければOK」 という感じ。

    「周りを不愉快にしなければOK」こそが、
    楽しく食事をする基本と言われれば、その通り。

    しかし、こと箸に関しては!
    箸に関しては!
    不愉快になる基準が他の国とはまるで違う日本人の私は、そのほどよい着地点を見つけられない。

    …つかめりゃいい、じゃないのよ。やっぱり。

    ※箸でザワついたあとに待っていたのが、家のドアと鍵。
    これがまた、笑えないレベルでややこしい。

    【どこ“に”でもドア】
    実は私は無類の動物好きで、日本では中型犬二頭を老犬介護して見送った。
    こちらでも大型犬の散歩を通じて、あっちゅー間に犬友達・ご近所友達が増え、最近はペットシッターとしても重宝がられている。
    そんな流れで、パートナーの姪っ子から「犬と猫の世話を泊まりがけでお願い」と頼まれたのだが―― ここからが、オーストラリアの家の“ドアと鍵地獄”の始まりだった。

    日本で住んでいた家の出入口は2か所。玄関と庭の引き戸だけ。
    シンプル・イズ・ベスト。

    ところがオーストラリアの一軒家は、というと----。
    フロントドア、パティオドア、バックドア、ランドリーのドア、バスルームのドア、ガレージのドア。
    そして全部に網戸。全部に鍵穴。

    多い。とにかく多い。
    てか、網戸に鍵、いる?

    ある時、パートナーの姪っ子にペットシッターを頼まれた。
    家族で海外旅行する間、犬1匹と猫2匹の世話を、泊りがけでしてほしい、と。

    その家にはドアが山ほどあり、さらに増築中で新しいフロントドアまで増えてる。
    私がビビっていると、姪っ子が安心させるように教えてくれた。

    「大丈夫、鍵は一個で全部いけるから」
    …あ、そなの?

    しかも、新フロントドアは指紋認証タイプで、姪っ子のご主人が私の親指を早速登録。
    「鍵いらないよ。親指で開くから」

    便利だ、ハイテク。

    念のため、バックドア近くのキーロッカー(暗証番号で開ける小さな箱)も教えてもらって、万が一に備える。

    で、翌日。

    買い物から帰って、ハイテクドアに親指を当てると、ドアが言う。

    「Invalid fingerprint」(無効な指紋です)
    いやいや、昨日登録したよね?
    「なんでよ!」と連打しても、
    「あんたの指紋なんて知らん」の一点張り。

    五回目で、
    「System locked for security」
    (セキュリティのため、システムをロックしました)
    昨日登録したばかりなのに、もう私を忘れたと言う。

    これだからハイテクは。

    こういう時のためのアナログ。
    「万が一」のキーロッカーからスペアキーを取り出し、網戸を開ける。

    ありがとう、アナログ。

    ところが次のメインドアに鍵が入らない。

    姪っ子は移動中で連絡がつかず、お義姉さんに電話すると、
    「あらやだ、網戸とメインドアの鍵は別よ。
    あの子、メインドアの鍵を使ったことないから“一種類だけ”なんて言ったのね」

    その「使ったことない鍵」を、内側からしっかり施錠したのが、この私。

    お義姉さんがスペアキーを探してくれる間、私は家の周りをもう一周。
    真剣に、窓から入れないかと手を伸ばしたり、足を引っかけたり。

    結論、無事、入邸成功。
    しかも、旧フロントドアから堂々と。

    あろうことか、旧フロントドアの施錠が網戸ごとすっぽ抜け、いとも簡単に開いた。

    危機管理意識、低すぎる。

    後日、別の家でペットシッターをした時、そこはドア4か所、網戸と合わせて鍵穴8か所。
    ハイテクドアはなし。
    「ということは鍵は2種類ですね」と言った瞬間、
    「うちはね、全部別なんだよ。鍵は8個。紛らわしいよね」」
    …そう来たか。

    こうかと思えばそう来ることが多すぎる、オーストラリア。

    ※家の中でこれだけ振り回されるなら、外はどうなのか?
    お察しの通り、外は外で、また別の意味でクセが強い。

    【広いのに狭い町】
    南オーストラリアの田舎町は、とにかく広い。
    少し車を走らせれば、羊や牛、馬、カンガルー、果てはアルパカまでがのんびり草を食んでいる。
    空も道もどこまでも続いていて、目的地までがいちいち遠い。
    そう、いちいち遠い。

    ちなみに、日本の人口密度は1km²あたり325人。
    対して南オーストラリアは1km²あたり1.62人。
    日本の約200分の一。

    ……なのに、外出すると高確率で知り合いに会う。
    おかしくない?
    1km²に二人以下しかいないはずなのに、なぜ私はこんなに知り合いに遭遇するのだろう。

    理由は、考え込むほどのこともなく、あっさり解明した。
    人が少ないので、商業施設も少ない。つまり、外出先の選択肢が少ない、それだけ。
    スーパー、ショッピングモール、カフェ……ほとんどの人の“行きつけ”が重なる。
    その結果、一日に一人どころではなく、
    スーパーで一人、郵便局で一人、カフェで一人……。
    「今日は三人に捕まったな」という日も。

    捕まる…失礼、会うのは一向に構わない。
    「あら、こんにちは。元気? 元気よ。じゃあ、またね」で済むなら何の問題もない。

    厄介なのは、彼らの立ち話が長いこと。
    立っているのに、なんなら昨日も会ったのに、どうしてそんなに話すことが?

    あぁ、一周回ってこのエッセイの最初の話に戻ってしまった…。

    視力が良い私は、遠目でも知り合いを素早く察知する。
    「今日は勘弁して」という日は、さりげな〜く(怪しまれないように)パートナーを誘導しつつ、知り合いの視界から外れるように動くのが最近の得意技。
    それでも、うまく回避したと思ったのに、駐車場でばったり会って元の木阿弥……ということもあるからギリギリまで油断できない。

    そして一番の弊害は、私のパートナー(毎度!)がこの立ち話をこよなく愛していること。
    話し始めたら最後、私にできることは、ひたすら待つ、それのみ。
    (さすがに車一台で一緒に出かけて、彼を置き去りにして帰ってくるほどの度胸なし)
    面白いことに、高確率で夫たちの方が話し込む(てか、空気読めない夫たち)。
    妻たちは「あなたたちも忙しいんじゃない?」とか「この後の用事が…」と、うまく切り上げようとするのに、オージー夫たちは「そうだよね」と相槌を打ちながら、話を終わらせる気配ゼロ(この辺のことは最初の話でも)。

    ここで私が強引に急かそうものなら、
    「君は失礼だ」「あんたのおしゃべりが長いんだ」論争が始まり、面倒くさいことこの上ない。

    私は外出するとき、複数の用事をまとめて済ませたい(ガソリン代だってバカにできない、いや、切実)。
    たった一つの用事のために外出するなんてもってのほか。
    同じガソリン代をかけるなら、あれもこれも一気に済ませたいし、日本ではそれを当たり前のようにこなしてきた。
    それがここでは、誰かに会った瞬間に計画が崩れ落ちる。

    すべての立ち話が苦痛か? いやいや、そんなことはない。
    私だって友達と会えば楽しくて話し込むことはある。

    日本では、そこそこの地方都市に住んでいる。面積だけ考えれば、そっちの方がよっぽど狭いのに、買い物で知り合いに会う確率はほぼゼロ。
    選択肢が多いから、人が分散する構図。
    仮に知り合いに会っても、軽く挨拶を交わす程度で終わり。
    どうしても話したければ「じゃあ、日を改めて」となる。「相手は忙しいだろう」という前提だから。

    広いのに「逃げ場がない」オーストラリアの田舎町。
    狭いのに「誰とも会わない」日本の地方都市。
    どちらが好きかと聞かれたら、「どっちもどっち」が私の答え。
    大切なのは、適切な距離感。
    パートナーよ、わかる? 
    適切な距離感なんだよ?

    海外に住んでるからって、別に人生が輝くわけじゃない。
    むしろ、日々の違和感にいちいち足を取られてる時点で、たいしたもんじゃない。
    ストレスの原因は、国が違うから――なんて単純な話じゃない。
    「あ〜、もう、ヤダヤダ」と毒を吐く羽目になるのは、だいたい “人”。
    どこの国でも、人が一番めんどくさい。
    …そんな当たり前のことに、この歳になってようやく気がついた(ほんと今さら)。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    日本とオーストラリアのあいだで暮らしながら、日常の中の小さな“えっ?”やユーモアを拾っています。 日本語と英語のあいだを行き来しつつ、文化のズレや気づきを淡々と言葉にしています。

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