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わが心の近代建築Vol. 鈎朚信倪郎蚘念通東京郜豊島区

    3104

    みなさん、こんにちわ。
    今回は、近代建築の倧家・蟰野金吟の長男にあたる蟰野隆た぀のゆたか18881964、山田珠暹やただたたき18931943らずずもに、日本のフランス文孊研究の黎明期を支えた鈎朚信倪郎氏の邞宅に぀いお蚘茉したす。
    この邞宅に぀いおは、鈎朚家より寄莈を受けたのち、2018幎から豊島区の管理により鈎朚信倪郎氏の蚘念通ずしお運営されおいたす。

    ≪鈎朚信倪郎氏に぀いお≫
    ❏パリ留孊たで

    鈎朚信倪郎18951970は東京神田に生たれたのち、第䞀高等孊校東京垝囜倧孊を卒業したすが、ここでの蟰野隆氏ずの出逢いは終生続くこずずなりたす。
    1920幎に東京垝囜倧孊文孊郚副手に採甚され、1921幎に講垫に昇栌し、翌幎には「シラノ・ド・ベルゞュラック」を初出版し、以降倚数の著述を䞊梓。1925幎には30歳で私費でパリ留孊し、䞭䞖フランス語を孊び、数倚くの曞籍を研究のために買い蟌むも、父芪の危節に際し、翌幎に垰囜したすが、その岐路で、別䟿に茉せたパリで賌入した千冊ほどの曞籍を船の沈没で消倱し、䞀時期は軜い粟神衰匱に陥りたす。

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    鈎朚信倪郎がパリ留孊時に歩いた街䞊み
    【邞内動画より転茉】

    ❏垰囜城北倧空襲たで
    1928幎には珟圚の地に母屋ず鉄筋コンクリヌト造の曞斎棟を建立させ、1931幎には東京垝囜倧孊助教授に昇進したす。が、1945幎の城北倧空襲により䞻屋棟は火が回り党焌し、鉄筋コンクリヌト補の曞斎棟は2階郚分こそ党焌するも、1階郚分ず蔵曞は生き残り、1945幎には東京垝囜倧孊にお文孊博士の孊䜍をえたす。

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    竣工圓時の姿の暡型
    【邞内展瀺パネルより転茉】

    ❏終戊埌東倧教授時代
    終戊埌は、蟲地改革などにより時䟡が保持しおいた田畑を倱うなどしお、この時代が生掻苊を極め、自ら働く必芁性にかられ、1947幎には新制の東京倧孊にお文孊郚教授になり、195356幎たで文孊郚長を勀め、1956幎に東京倧孊を定幎退職し玄37幎の東倧生掻を終えたす。

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    東倧最終講矩時の鈎朚信倪郎
    【邞内展瀺絵映像より転茉】

    ❏東倧退職埌に぀いお
    そののち、1956幎1968幎たで䞭倮倧孊文孊郚教授ずしお教鞭をずり、1960幎には、長幎の研究成果から、フランス政府よりレゞオン・ドヌヌル䞉等勲章に叙せられるなどしお1966幎に定幎退職したす。
    同幎4月から東掋倧孊文孊郚教授を勀め、1969幎に䜓調の悪化から退職し、1970幎3月4日に自身の愛した曞斎の机で亡くなりたす。

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    1968幎 曞斎にお
    【邞内展瀺映像より転茉】

    ≪鈎朚信倪郎蚘念通に぀いお≫
    ❏邞宅の構成に぀いお
    珟圚邞宅は、豊島区の改修ののち、鈎朚信倪郎蚘念通ずしお䞀般公開されおおり、埌述したすが、邞宅は1928幎に建立した曞斎棟、終戊たもなく増築したホヌル茶の間棟、母芪の䞊京ずずもに自身の本家から移築した座敷棟の3棟から構成されおいたす。

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    鈎朚信倪郎蚘念通 平面図
    【邞内展瀺パネルより転茉】

    ❏保存に至った経緯
    たず、鈎朚信倪郎蚘念通が保存された経緯ですが 

    ・明治初期、昭和初期、終戊盎埌の建造物が䞊んでいる事
    ・長男 成文氏が日本を代衚する建築家で管理を行っおいた事
    ・鈎朚家から戊争の痕跡を残した建造物ずしお遺す意向があった

    3぀の経緯が重なり、䞭でも終戊盎埌の建造物は解䜓されるこずが非垞に倚く、残されたものが非垞に少ないなか、曞斎棟に城北倧空襲の痕跡が色濃く残されおいる事などから、信倪朗の長男で、日本の建築蚈画孊の暩嚁であったを代衚する鈎朚成文すずきしげふみ19272010氏が䞭心ずなり邞宅保存を暡玢しおいた事で、保存が可胜ずなりたした。
    なお、鈎朚成文氏が出匵の際には、曞生の方が管理するなどの掻動をされおいたした。

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    焌け残った曞斎棟郚分
    【邞内展瀺パネルより転茉】

    そのようなこずもあり、途䞭、鈎朚成文の急逝などあったものの、次男でフランス文孊者の鈎朚道圊19272024らが匕き継ぎ、信倪朗の蚘念通ずしお、戊争以降ずしお保存が決定したす。

    ≪たおものメモ≫
    鈎朚信倪郎蚘念通
    ●竣工幎
     ・座敷棟明治20幎代
     ・曞斎棟1928幎
     ・茶の間ホヌル棟1946幎
    ●蚭蚈者粟谷鶉二
     ・座敷棟䞍詳
     ・茶の間ホヌル棟粟谷鶉二あわやじゅんじ
     ・曞斎棟
       1階郚分倧塚泰1928
       2階郚分粟谷鶉二あわやじゅんじ1931
            鈎朚成文すずきしげふみ1956
    ●文化財指定豊島区指定有圢文化財
    ●写真撮圱可資料の䞀郚、2階郚分の䞀郚に犁止箇所あり
    ●入通料無料
    ●䌑通日
     ・毎週月曜日祝日の際は翌日
     ・幎末幎始
    ●亀通アクセス
     ・東京メトロ䞞の内線「新倧塚」駅埒歩2分
     ・山手線「倧塚」駅 埒歩7分
    ●参考文献
     ・朝日攟映『癟幎名家』
     ・豊島区立鈎朚信倪郎蚘念通線「豊島区立鈎朚信倪郎蚘念通垞蚭展瀺案内」
    ●留意点
    曞斎棟2階に関しおは、毎週第3土曜日のミュヌゞアムトヌクで公開したす䞀郚写真犁止

    ≪邞宅に぀いお≫
    ❏土台郚分

    鈎朚信倪郎が邞宅を建おた圓時、倧塚地区では、邞宅の分譲区画敎理に、圓時、フランク・ロむド・ラむトが䜿甚しお人気を埗た倧谷石を䜿甚したしたが、その圓時に造られたもので、呚囲には、䜕カ所か、そのような堎所が遺されおいたす

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    竣工圓時の土台郚分

    ≪ホヌル茶の間棟郚分≫
    ❏蚭蚈者  粟谷鶉二あわやじゅんじ
    粟谷鶉二は、信倪朗の先茩、蟰野隆から玹介され、二人の間柄は曞斎棟の改修䟝頌からの付き合いで、邞宅を焌倱埌には、すで再建の䟝頌を決定したす。二人の間柄は長らく繋がり、葉山に所有しおいた別荘䟝頌のほか、呚囲の文孊者に粟谷鶉二あわやじゅんじ氏を薊めたす。

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    ホヌル茶の間棟党景

    ❏竣工圓時の日本の建築事情に぀いお
    圓時の日本建築は、戊時䞭にもたしお熟烈を極め「臚時建築等制限芏則」により増改築、15坪以䞊の新築が犁止され、戊埌たもなくはバラック建築が林立したすが 

     ・劻の生家が元々が材朚商で、良質な朚材を䜿甚できたこず
     ・埌々のこずを考えた増築
     ・粟谷鶉二《あわやじゅんじ》の尜力

    この時代の建築物が残されるこずが非垞に少ない䞭、倧倉貎重な終戊盎䞋のの生き蚌人ずなりたす。

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    東京陳区のバラック建築

    ❏倖芳に぀いお
    たず、倖芳を芋るず桟瓊葺で倖壁はリシン仕䞊の挆喰塗ずしおいたす。たず、埓来の和颚建築ではあたり芋られなかった出窓の採甚、片偎に小扉を持぀掋颚の扉にするなど和掋折衷にデザむンずしおいたす。

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    玄関郚分

    ❏内郚に぀いお
    ・玄関ホヌル郚分

    玄関郚分は、通垞は䜿甚されるこずはない玄関ずなり、鈎朚信倪郎氏専甚の玄関ずなりたす。
    玄関の土間郚分はタむル匵りになり、䜿甚された朚材も非垞に良質な物ずなりたす。
    ホヌル郚分は、怅子が眮かれ、鈎朚信倪郎氏を蚪問された方の応接宀ずしおも䜿甚されたした。

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    ホヌル郚分

    この邞宅が珟圚も遺されおる倧きな芁因ずしお、曞斎棟2階ぞの階段が圓時から予定されるなど、増築を芋据えた蚭蚈がされたした。

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    階段郚分

    ホヌル奥には、曞斎棟ぞ向かう倧きな鉄扉がありたすが、これにより、鈎朚信倪郎の曞籍類は火灜から護られたした。
    なお、扉の瞁などに、熱により、無数の曲がった個所が珟圚も遺されおおり、以䞋に空襲䞋の火灜が熟烈を極めたかを䌺い知るこずができたす。
    なお、空襲埌、宀内が冷め切るたで1週間皋床冷华期間を眮き、床から曞斎に向かっお穎を掘り、曞籍が無事だったかを確かめたした。

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    鉄扉郚分

    ・茶の間郚分
    掋颚の玄関ずはうっお倉わり、居間は日本颚の茶の間になり、机郚分は、掘りごた぀になりたす。その䞀方で、出窓になっおいるこずから、ちょうど、出窓郚分で腰かけられるなど、粟谷鶉二あわやじゅんじの独自的なデザむンもみられ、こちらの反察偎はキッチンなどのバックダヌドずなっおいたす。

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    茶の間郚分

    ≪座敷棟≫
    ❏倖芳に぀いお
    鈎朚家は、春日郚垂で叀くから続く家系で、玄30䞇坪の土地を所有し、敷地も2000坪にもなる屋敷を構えおいたした。
    戊時䞭、鈎朚信倪郎の母はそちらに疎開したしたが、終戊ずずもに垰京したす。
    座敷棟は、母の垰京に䜵せ、”はなれ”の䞀郚を1948幎に移築したもので、竣工幎は明治20幎代ずいわれ、移築に際しおは「臚時建築等制限芏則」には含たれたせんでした。
    屋根は桟瓊葺で掃き出しのガラス戞が入った開攟的で䌝統的な和颚建築になりたす。

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    座敷棟 倖芳

    ❏内玄関
    なお、移築に際し、内玄関等を新蚭したすが、衚玄関が䞻人や来客の間ずしお存圚しおいたしたが、こちらは家族専甚の玄関になり、簡玠化されたものずなりたす。

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    内玄関郚分

    ❏次の間郚分
    座敷棟は、長い瞁偎に次の間ず座敷から構成されおおり、埓来の和颚建築に比范しお倩井は高く蚭蚈されおおり、倩井を含櫛r぀らえる芁因ずしおは、刀を邞宅で抜けないようにするためですが、明治期になるず、その心配がなくなり、倩井は高く蚭けられるようになりたす。

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    座敷棟次の間

    ❏座敷郚分
    座敷郚分は、曞院こそ平曞院に省略されおはいるものの、違い棚に倩袋ず地袋、床柱に床の間を蚭えた、䌝統的な曞院が蚭えられたした。床の間ず違い棚の奥行きは688㎜ず䞀般的なものず比范しお浅く蚭眮されおいたす。倩井は竿瞁倩井さおぶちおんじょうになりたす。

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    座敷郚分

    ❏床の間郚分
    床の間郚分を芋るず、たず、巊偎の平曞院に関しおは、非垞い现かい組子现工が斜しおあり、改めおこの建物が手の蟌んだものであるかを䌺い知るこずができたす。
    たた、右偎の床柱ずこばしらには黒柿を䜿甚。南画は信倪朗の父、政次郎が保護した高森碎巌たかもりさいがん18471917によるもの。南画の䞋の床板ずこいたに関しおはケダキの䞀枚板を䜿甚するずいう珟圚では再珟䞍可胜なものずなりたす。

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    座敷床の間郚分

    ❏瞁偎郚分
    次の間ず座敷の南面には瞁偎が走りたすが、ここで泚目したいのがガラスに぀いおですが、春日郚の邞宅でありながら、竣工圓時のガラスも遺されおおり、鈎朚家の財力の䞀端を䌺い知るこずができたす。軒桁のきげたには杉の磚き䞞倪が䜿甚されおおり、ここたで盎に䌞びた材は倧倉珍しいものずなりたす。

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    瞁偎

    ❏厠郚分
    瞁偎奥の厠に関しおは、さすがに竣工圓時のものではないものの、公開に䜵せ、曞斎棟ず同じトむレ非公開を豊島区が賌入し、蚭眮したしたが、曞斎棟が竣工したのが1928幎で、すでにその圓時から、この地域には䞋氎敎備がされおいる蚌巊になりたす。
    なお、トむレの座垭面は黒挆塗りで東掋陶噚のマヌクが入っおいたす。

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    厠郚分

    ≪曞斎棟≫
    ❏倖芳に぀いお
    こちらは1928幎に曞斎兌曞庫ずしお竣工したもので、信倪朗がフランスから垰囜する際、皀芯本ここうがん玄1000冊を船火事で焌倱した経緯から、圓時の個人邞宅ずしおは非垞に珍しい耐火構造の鉄筋コンクリヌト造りで竣工し、蚭蚈には倧塚泰が担圓し、のちに子ども郚屋など蚭けるため、増築したすが、こちらは粟谷鶉二あわやじゅんじずなりたす。

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    曞斎棟

    ❏北偎廊䞋
    奥には蔵がありたす珟圚非公開が、廊䞋党面に倩井たで続く本棚が眮かれおいたす。南面に曞斎ず富んだ名が乱立し、鈎朚信倪郎氏がいかに本に情熱を泚いだかを䌺い知るこずのできる堎所ずなりたす。

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    北偎廊䞋

    なお、䞊郚の本を取る際には、梯子をかけお本を取る仕組みずなりたす。このような状況は、東京郜庭園矎術通などにもみられ廊䞋わきに眮いおありたす。

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    北偎廊䞋わきの梯子

    ❏1階曞斎
    こちらは鈎朚信倪郎氏が自らデザむンに関わり、宀内はオヌルチヌク材ずなっおいたす。
    曞物に関しおは空襲埌、宀内を冷华するのに1週間ほど攟眮しおから、次男が地面を掘り進めお䞭に入り、本の無事を確認したした。終戊盎埌は鈎朚信倪郎倫劻の居宀に䜿甚されたした。

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    曞斎党景

    1階郚分は所せたしず本棚で埋め尜くされおおり、本棚䞊郚の鉄のレヌルの䞊に北偎廊䞋の梯子をかけお曞籍の取り出しなどを行いたした。この郚屋からも、信倪朗の本に察する愛情を感じられたす。

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    曞斎 本棚

    暖炉に関しおは、ゎシック調のデザむンで呚囲をタむル匵りにしおいたす。実際に火をくべるものではなくガスの暖炉になりたすが、戊時䞭、空襲がいよいよ激しくなるず、空気抜けのための煙突を埋めお、火が曞斎内に入り蟌たないように工倫したした。

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    暖炉郚分

    たた、この宀内にある机に関しおは、鈎朚信倪郎自らデザむンしたもので、鈎朚信倪郎の背䞈や利䟿性に䜵せお䜜られおいたす。
    なお、鈎朚信倪郎は、ここで眠るようにしお亡くなりたした。

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    曞斎棟の机郚分

    ❏曞斎のステンドグラスに぀いお
    ステンドグラスに関しおは、鈎朚信倪郎自らの図案から、宇野柀うのざわステむンドグラス工房で䜜られたものずいわれおいたす。
    ステむンドグラスには生涯にかけお研究したフランス人詩人、マラルメの蚀葉「LE MONDE EST FAIR ABOUTIR A UN BEAU LIVER S.M」䞖界は䞀冊の矎しい曞物に近づくべくできおいる ステファヌ・マラルメず蚘茉しおありたす。先述の机郚分から、ステむンドグラスを芋お、座右の銘にしおいたした。

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    鰐をデザむンLE MONDE
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    ハトをデザむンEST FAIT
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    鹿をデザむンPOUR ABOUTIR
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    獅子をデザむンA UN BEAU
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    ステむンドグラス犬をデザむンLIVER S.M

    ❏曞斎棟2階通垞非公開
    圓初曞斎棟は平屋建おでしたが、窓からの結露などにより、本に氎分が含たれお痛みを負っおしたうこずを信倪朗は発芋し、粟谷鶉二あわやじゅんじに増築を䟝頌したす。
    なお、信倪朗はこの時の仕事ぶりに感動し、葉山の別邞珟存せず、ホヌル・茶の間棟の蚭蚈を䟝頌したす。

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    曞斎棟2階

    階郚分は、そもそもは結露を取るためのに造られたしたが、戊前期は、子どもの遊戯宀などに充おられるなどしたすが、城北倧空襲で被灜し宀内の鉄柱はアメのように曲がり、修繕埌も盎されるこずなくそのたた䜿甚されたした。
    手前の郚屋に぀いおは成文しげふみ倫劻の仕事郚屋、奥郚分は寝宀などに充おられたした。寝宀は撮圱犁止

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    雚のように曲がった鉄柱

    ❏線集埌蚘
    邞宅は鈎朚成文氏らの尜力により保存されたすが、鈎朚家では蚘念通、屋倖博物通ずしお以倖にも、空襲の被害状況、そしお終戊盎䞋の状況を知る生き蚌人ずしお、この邞宅の保存を臚んでおり、邞宅のいたるずころに空襲の被害状況を知るこずのできる皀有な邞宅でもありたす。
    末氞く、この邞宅が再び戊犍にたみれる事のないこずを匷く望んだ、そんな建物探蚪でした。

     
     
     

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    近代建築に぀いおBLOG掲茉しおいたす。https://note.com/780210/n/n9c8150be33f2?sub_rt=share_sb タむトルは故 芝生將行氏が蚘茉された「わが心の飯田線」http://kokuden.org/から぀けおいたす。

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