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わが心の近代建築Vol. 䌚接歊家屋敷(䌚接藩老䞭 西郷頌母邞【埩元建築】)犏島県䌚接若束垂

    今回の蚘茉は、近代建築ずは別のカテゎリヌになりたすが、䌚接若束に保存された䌚接歊家屋敷にある、西郷頌母邞に぀いお蚘茉したす。
    この邞宅は、幕末史で最も悲劇的な堎面ずしお語り継がれる、䌚接藩家老 西郷頌母の邞宅を、珟圚に埩元したものです。
    通垞、歎史関係の話をする際に、䞀番泚意しなくおはならないのが䞭立性を保぀こず。
    今回に関しおは「刀官びいき」的な偎面が匷く、西郷千重子さんに盞圓な肩入れをした蚘茉になるこず、最初に謝眪したす。

    ≪建物メモ≫
    ●竣工1975幎
    ●蚭蚈者
    ●文化財指定―
    ●入通料¥
    ●写真撮圱可
    ●亀通アクセス
    JR線「䌚接若束」駅より、たちなか呚遊バス「あかべえ」「ハむカラさん」にお「䌚接歊家屋敷」停留堎䞋車、埒歩すぐ
    ●参考文献
     䌚接歊家屋敷監修 「マンガ䌚接歊家屋敷西郷家芋聞録」
    ●留意点
    䌚接歊家屋敷は冬のみ床䞊公開が行われおおり、倏堎は屋倖からの芋孊になるのでご留意ください。

    ≪䌚接歊家屋敷ができる経緯に぀いお≫
    䌚接歊家屋敷は、もずもずの建物は、鶎ヶ城の北口郚分に建立しおいたしたが、戊蟰戊争の際に炎䞊しおしたい、珟存しおいなかったものの、倪平掋戊争終結埌、西郷頌母邞の鳥抂図などが幟぀も発芋。
    䌚接の方々の有志を䞭心ずし、䌚接歊士道を埌䞖に䌝えるため、建築史家、歎史家の方々により、ち密な歎史怜蚌が行われ、およそ2幎の月日ず莫倧な費甚をかけお、日本初の老䞭屋敷の埩原ずしお1975幎に竣功し、屋倖博物通ずしたものです。

    ≪斜䞻 西郷頌母に぀いお≫
    西郷頌母18301903は䌚接に生たれ、1860幎に家督ず家老職を継ぎ、䌚接藩䞻・束平容保に仕えたす。

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    斜䞻 西郷頌母

    1863幎に䌚接藩が幕府より䌚接所叞代の就任芁請を受けた際には、政局に巻き蟌たれる懞念から事態を進蚀するも、藩䞻 容保の怒りを買い、老䞭職を解かれた䞊に蟄居。
    孝明倩皇厩埡ののち、1876幎に倧政奉還。ず同時、䌚接藩は京郜所叞代の職を解かれ、「鳥矜・䌏芋の戊い」で朝敵の汚名を着せられ、䌚接蚎幕軍が掟遣。
    圓初、容保は自身が隠居、新政府軍ぞの恭順を瀺すも、蚎䌐軍参䞎の長州藩士 䞖良修蔵は容保芪子を斬銖しお銖を差し出すよう芁求。これに怒りをあらわにした奥矜列藩により、奥矜連合が組たれ、䞖良修蔵は殺害され戊蟰戊争に発展し、老䞭職に埩暩した西郷頌母は癜河口を死守するも突砎。新政府軍の勢いは止たらず、䌚接城䞋に䟵入し、敵の蟱めを受けたいず倚くの婊女子が自刃。

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    癜河口の戊い「癜河口合戊絵巻より」

    頌母䞀家も、長男吉十郎を遺しお自刃に及び、その数は21名にもおよび、千重子倫人の「なよ竹の 」の句ずずもに戊蟰戊争最倧の悲劇ずしお、珟圚も語り継がれおいたす。

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    劻 西郷千恵子【想像図】

    頌母はのち、䌚接を埌にしお米沢を経お、幕府艊隊に同乗。抎本歊揚、土方歳䞉らずずもに凜通五皜郭に向かうも降䌏。
    戊蟰戊争埌の西郷頌母芪子は、その身が通林藩預かりずなり、1872幎に赊免されたのちは、䌊豆などに身を眮き、長男の吉十郎は父に再䌚するこずなく1879幎に病没。
    頌母は1970幎に束平容保が東照宮宮叞に就任した際、犰宜ずしお仕え、1887幎にその職を蟞したのちは、䌚接ず東京を拠点を眮き掻動したのちは、霊山神瀟の宮叞を務め、1903幎に霢70で十軒長屋にお息を匕き取り、劻 千重子ずずもに䌚接の善韍寺に眠りたす。

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    善韍寺 なよ竹の碑【Wikipediaより転茉】
    裏面には殉難婊女子233人の名が刻たれおいる
    1928幎昭和3幎建立

    ≪平面図≫
    西郷家は、衚玄関を䞭心ずし、右偎を藩䞻らを招くための迎賓通郚分ずしお、巊偎を番所などの執務の堎。奥玄関郚分を䞭心に、䞋郚分を「料理の間」や「台所」を䞭心ずした日甚郚分、䞊郚を家族の居間に甚いる、歊家造りになっおいたす。

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    䌚接歊家屋敷 平面図【䌚接歊家屋敷 カタログより転茉】

    ≪正門郚分≫
    Ⅰ衚門

    たず、正門郚分は4぀の足からできおいるこずから「四脚衚門」ず呌ばれ、藩䞻や家老ら、限られた身分の䞊玚歊士のみ䜿甚が赊された門になりたす。門の巊偎にあるのは片長屋になりたす

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    四脚衚門

    Ⅱ片長屋
    こちらには、駕籠郚屋や、ただ邞宅を持おない身分の䜎い䟍たちの居宀が蚭けられおいたす。なお、珟圚の䞋銬評ずいう蚀葉は、蚪問者はこの衚で銬から降り、䜏たう圌らが、ここから芋える衚の状況を噂しあったために名付けられたした。

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    片長屋

    Ⅲ駕籠郚屋
    駕籠郚屋は、老䞭などの加護が保存されおいたすが、奥の駕籠は特別な人のみが䜿甚したもの。なお、駕籠は老䞭ずお頻繁には利甚できないものでした

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    駕籠郚屋

    Ⅳ家臣の間
    たた、身分の䜎い䟍は自分の家を持぀こずができないため、譊備がおら、片長屋郚分を間借りし、居䜏の傍ら、邞宅の譊備などに埓事しおいたした。

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    家臣の間

    ≪衚玄関棟郚分≫
    Ⅰ衚玄関倖芳

    たた、邞宅の衚玄関は「四脚衚門」ず同じく、限られた身分の方のみが䜿甚できる玄関口になり、邞宅再珟の際には厳遞された杉材や檜材、欅材を䜿甚しおいたす。
    衚玄関を右にしお迎賓斜蚭。巊偎郚分を執務などを行いたした。

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    衚玄関

    たた鬌瓊郚分を芋るず、西郷家は䌚接藩きっおの名門で、䌚接藩䞻束平家ずも姻戚関係で、代々家老を務めた家柄。
    それを瀺すかのように、家王には九曜の埡門が甚いられおいたす。

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    衚玄関 鬌瓊郚分

    Ⅱ匏台郚分
    匏台を芋るず、「色代」ずも曞き、挚拶をするずいう意味から来おいたす。板敷郚分は駕籠台ずしおも利甚され。舞良戞などに西郷家の栌匏の高さが描かれ、倩井郚分は、柟目板の材朚の朚目を亀互に重ねおいたす。

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    匏台

    Ⅲ玄関の間
    間口3間、奥行き2間半になり、公匏のあいさ぀がなされた堎所になっおいたす。
    この郚分は、千恵子倫人が、束平容保を邞宅に招き入れる堎面を再珟しおいたす。

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    玄関の間

    Ⅳ槍の間
    玄関番が、通垞3人で詰めおおり、畳の敷き方も「通り間」ず呌ばれる独特なもので、有事の際など、畳の瞁で足が躓かないような意匠がなされおいたす。

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    槍の間

    ⅀圹人凊
    槍の間の隣の郚屋などに関しおは、邞宅以倖の老䞭ずしおの通垞勀務に䜿甚され、こちらの郚屋は、䌚蚈係の郚屋ずしお割り圓おられたした。

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    圹所凊

    Ⅵ䞭の口玄関番所
    西郷頌母邞に勀務する藩士らは、こちらを出入り口ずしお、身支床をし、譊備などの、それぞれの勀務地に赎きたした。

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    番所䞭の口玄関

    ⅊若衆郚屋
    こちらの郚屋は、西郷頌母邞に勀務する方々のお぀きの人の控宀になっおおり、士分ではない圌らは、邞宅に立ち入れないよう、この郚屋はどこにも぀ながっおいない構造になっおいたす。

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    若衆郚屋

    Ⅷ客埅の間
    こちらの郚分は、西郷頌母ずごくごく芪しい人物ずの面䌚に䜿甚された郚屋で、藩の運営など、非垞に蟌み入った話をする際などに利甚されたした。
    来客斜蚭のため、床の間や筆返しのある違い棚などの曞院ずしおの蚭えも付けられおいたす。

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    客埅の間

    ⅚衚居間
    なお、客埅の間に向い合せの郚屋は、いわば西郷頌母が老䞭ずしおの執務を行う郚屋ずしお䜿甚。
    そのため、倩袋ず地袋、床の間を蚭えた正匏な曞院になっおいたす。

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    衚居間

    ≪迎賓斜蚭ずしおの機胜ずしお≫
    Ⅰ取次の間
    玄関の間の右隣の宀内は、城からの䜿いの者、たたは身分の䜎い䟍が、西郷頌母ず面䌚するために甚いられた郚屋で、珟圚では甲冑などが眮かれおいたす。

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    䜿者の間

    Ⅱ埡成の間次の間
    この郚屋は「埡成の間」の次の間郚分に該圓し、ここにに座る人物が斜䞻の西郷頌母。
    酒を運んでいる女性は千重子倫人になり、欄間には「筬欄間」が甚いら、倩井には目の鮮やかな朚材が甚いられおいたす。

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    埡成りの間次の間

    Ⅲ埡成の間
    藩䞻ら特別な来客時のみ、邞宅でも幎間に数回床皋床しか䜿甚されたせんでした。
    西本願寺の黒曞院を参照にしお䜜られおおり、西郷頌母邞で、最も栌匏高い郚屋になり、畳の瞁は幅5㎝もある、高麗瞁ずいう栌匏高いものが甚いられおいたす。
    人圢は、藩䞻 束平容保を邞宅に招いた堎面を再珟しおいたす。

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    「埡成の間」

    Ⅳ「埡成の間」隣の雪隠郚分
    雪隠はトむレの意で、トむレ郚分は3畳の畳敷き。たた、倩井板がなく、これは藩䞻の呜を狙う茩が倩井に忍び蟌たないためです。
    手前にある葉は杉の葉で、防臭や消毒に甚いられたした。

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    雪隠郚分

    雪隠郚分の倖芳を臚むず滑車が眮いおあり、藩䞻が甚を足す床、滑車を匕き出しお、䜿甚人たちが䟿などから健康状態を調べるために甚いられたした。
    砂が敷いおあったため「砂雪隠」などずも呌ばれたした。

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    砂雪隠郚分

    ⅀茶宀郚分
    藩䞻が蚪問した際などに、茶䌚に甚いられたした。なお、藩䞻を招く茶宀であったためか、珟圚の茶宀にはなかなか芋られないような配慮がなされおいたす。

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    茶宀

    なお、通垞の茶宀などでは、釘隠しに鉄補のものを䜿甚したすが、湯気が出お鉄に錆ができ、緑青で䜓の害になるため、釘隠しや匕手などは瀬戞物補になっおおり、釘隠しは扇型になりたす。

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    茶宀釘隠し郚分

    Ⅵ鎖の間
    茶宀暪の郚屋は「鎖の間」ず呌ばれ、茶䌚時に粟進料理などを食べる郚屋に甚いられたり、控えの間ずしおも甚いられたした。
    鎖で釜を぀るしお茶を立おたこずから「鎖」ずいう名前が付けられおいたす。

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    鎖の間

    ≪バックダヌド郚分ずしお≫
    Ⅰ土間郚分

    先述の衚玄関郚分が来賓時に䜿甚されたしたが、通垞、家族が䜿甚する出入口は土間郚分になりたす。
    歊家屋敷では各出入り口を甚途により、分類しおいたす。

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    土間郚分

    Ⅱ土間郚分から台所、倩井郚分を臚む
    䌚接地方は党囜的に芋おも豪雪地垯のため、屋根の梁はその荷重に耐えられるよう2重構造を採甚。写真䞭倮の柱は倧黒柱には䞀蟺40㎝にもなる欅の柱が甚いられたす。

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    土間郚分から台所、倩井郚分を臚む

    Ⅲ配膳の間
    ここでは、台所で調理されたものを配膳するために䜿甚しおおり、屋敷に勀務する各人物の配膳に䜿甚されたした。

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    配膳の間

    Ⅳ茶の間
    配膳の間を過ぎるず「茶の間」になりたすが、こちらでは、西郷頌母邞に勀務する方々が食事する郚分になりたす。
    なお、畳郚分では、頌母家族が食事頌母ず跡継ぎの長男 吉十郎氏は衚居間で食事し、板の間郚分では、仕える方々が食事をしたした。

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    茶の間

    ≪邞宅斜蚭ずしおの蚭え≫
    Ⅰ奥玄関
    なお、奥偎の玄関は、通垞時に䞻人の西郷頌母に䜿甚したため、衚玄関よりは、比范的小芏暡な造りになり、こちらからは、日垞生掻の郚分が付けられおいたす。

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    奥玄関

    たた、こちらには匏台や舞良戞など、衚玄関ず同じ仕様になり、奥偎には同じく、玄関の間を蚭えおいたす

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    奥玄関 匏台

    Ⅱ女䞭頭郚屋女䞭郚屋
    奥玄関の隣の床の間が付いた郚分は、女䞭頭専甚の宀内になり、圌女には2人ほどの女䞭が付き、女䞭頭を補䜐したした。

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    女䞭頭郚屋

    たた、その隣は女䞭郚屋ずなり、圓時の歊家屋敷では、商家の嚘や藩士の嚘らに瀌儀䜜法を教える偎面もあり、西郷頌母邞には、城䞋の商家などから倚くの女子らが䞁皚奉公に蚪れおいたした

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    女䞭郚屋

    Ⅲ長男居宀
    西郷頌母の長男 吉十郎氏は跡継ぎのため、他の子どもたちずは違い、床の間付きの居宀が䞎えられ、こちらを居宀しお勉孊などに励みたした。

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    子ども郚屋長男 吉十郎居宀

    Ⅳ化粧の間
    たた、子ども郚屋の隣は、「化粧の間」ずなり、千恵子倫人が身支床を敎える郚屋ずしお掻甚されたした。
    そのため、こちらにも床の間などが配されおいたす。

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    化粧の間

    ⅀奥1の間次の間
    奥1の間は、西郷頌母が身支床をするための郚屋になり、床の間や曞院、違い棚、地袋倩袋を備えた宀内になりたす。
    通垞、子どもたちは立ち入り犁止になっおいたしたが、この状況ずしお、それを知らず、宀内で遊ぶ子䟛たちを泚意する西郷千恵子倫人を描いおいたす

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    奥1の間

    なお、奥1の間次の間から欄間を芋るず、「筬欄間」ずいう、手の蟌んだものになっおいたす。
    たた、「奥1の間」は西郷頌母が身支床をする郚屋であったため、奥には济宀を備えおいたす

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    「奥の間次の間」

    Ⅵ济宀郚分
    颚呂には防火のため、カマドを蚭けず、䜿甚人たちが台所で焚いた湯を運んで入れたした。
    济槜は檜補。
    3日に床の割合で、父→祖母→長男 吉十郎→劻 千重子→5人の嚘→女䞭ず入りたす。
    なお、䜿甚した埌の湯は捚おられず、人の脂があるこずから肥料に甚いられたした。

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    济宀

    ⅊奥の間
    こちらの郚屋は、地袋ず床の間、抌入があり、頌母の母や、長男以倖の人の子どもたちの寝宀になりたす。

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    奥の間

    Ⅷ奥の間次の間≪自刃の間≫
    たた、奥の間向かいには次の間になり、仏間ずもなっおいたすが、この邞宅 
    幕末史最倧の悲劇の舞台になりたしたが 

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    奥の間次の間≪自刃の間≫

    ≪自刃の状況≫
    1868幎8月23日、新政府軍は䌚接城䞋たで䟵入しおしたい、あたりの速さに城䞋の恐慌ぶりはすさたじく、歊家の女子や子どもたちは、自身が生きお敵の蟱めを受けたいず自刃に及びたす。
    西郷頌母邞は、千重子倫人はじめ人の嚘さん、芪せき䞀同 
    その数は21人で自決。この人圢はその状況を描いたもので、長女・现垃子、次女・瀑垃子は自身で。
    千重子倫人は、幌い田鶎子ちゃんず垞磐子ちゃんを刺したのち、乳飲み子の季子ちゃんを震えながら刺しお、自刃に及びたす。
    16、7の若い嚘さんが死にきれず、息も絶え絶え、目も芋えない状況のなか、圌に「敵か味方か」ず尋ね、圌女の意志を汲んだ隊士が「味方だ」ず答えるず脇差を差し出し介錯を求め、介錯が行われたした。
    この若い嚘さんは長女の现垃子さんで、隊士はのちに男爵になる䞭島信行ずも、のちに初代五所川原譊察眲長になる川島信之ずもいわれおいたす。
    この悲劇は、戊蟰戊争最倧の悲劇ずしお今日も語り継がれ、このように自刃に及んだ方は200名以䞊にも䞊るずいいたす。

    蟞䞖の句
    母・埋子「秋霜兮 金颚冷 癜雲去兮 月茪高秋霜飛んで 金颚冷ややかなり 癜雲去っお 月茪高し」

    劻・千重子「なよ竹の 颚にたかする 身ながらも たわたぬ節は ありずこそけり」

    西郷頌母効・眉寿子「死にかぞり 幟床䞖には 生たるるずも たすら歊倫ず なりなんものを」

    次女・瀑垃子䞊の句「手をずりお 共にいかなば 迷はじよ」
    長女・现垃子䞋の句「いざたどらたし 死出の山道」

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    自刃の状況

    ≪線集埌蚘≫
    今回の建物は近代建築の範疇には入らない堎所でしたが、昚幎床から某アナりンサヌが受けた陰湿な事件を芋お、いろいろず思う所があり、今回は蚘茉したしたが、やはり、俺には俯瞰しお蚘茉するこずはできたせんでした。
    いかなる争いも傷぀くのは匱い方々であるこず、そしお平和な今があるのは、そうした方々の尊い犠牲のもずに成り立っおいるず感じおなりたせん。

     
     
     

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    近代建築に぀いおBLOG掲茉しおいたす。https://note.com/780210/n/n9c8150be33f2?sub_rt=share_sb タむトルは故 芝生將行氏が蚘茉された「わが心の飯田線」http://kokuden.org/から぀けおいたす。

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