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D.C. al Fine

    あらすじ

    色のない少女の世界で、唯一鮮烈に映るのは“赤”だけだった。
    路地を彷徨っていた少女は、子供用の小さな花柄の傘を買った。そしてかつて同じ屋敷で育った赤い女と共に、連絡の途絶えた“お母様”の館を訪れる。しかし、そこにいるはずの“お母様”は姿を消していた。静まり返った館、残されたピアノ。

    少女は、終わりの音と新しい始まりの音を奏でる。
    そしてひとり屋敷を出た少女が初めて見た、“赤”以外の色。少女は誰かに似た微笑みを浮かべて歩き出した。

    時は流れ、名門・神楽坂家の屋敷で暮らす少女・カノンは、雨の日に孤独な自分を拾ってくれた女を深く慕っていた。女がカノンに向ける優しい微笑み、あたたかな手。カノンが女に教えてもらい奏でる、拙いピアノの音。しかし、その穏やかな日々の奥には、誰にも語られない赤い過去が静かに沈んでいた。

    やがて、“終わりの曲”が再び奏でられる時、少女たちを縛り続けた物語は、語られることなく静かに終止へ向かう……。


    本文

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    少女の世界には、何も無かった。

    夏の眩しい光が少女を照らし、深い影を作っていた。
    少女の世界はモノクロだった。
    唯一認識できた色は、鮮烈な赤色だけ。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    少女は、露店の並ぶ路地を目的もなくふらふらと歩いていた。
    ふと大きな風が吹いて、少女が不器用に括ったおさげが揺れた。ぎゅっと目を瞑り、刹那また目を開けた。

    その時、少女の目に止まったのは前を歩いていた女性が差していた傘だった。
    少女のモノクロの世界に、花模様がまるで少女をいざなうようにくるくると廻った。

    少女は、傘を売っている店を探し始めた。少し行った先にさまざまな物が雑多に置かれた店があった。おもちゃ、文具、本──。少女は年相応に与えられるものを何も知らなかった。

    知っているのは───

    少女は、その中に小さな傘が下がっているのを見つけた。

    「…これ、ちょうだい」

    小さく、冷たい声だった。
    店主は驚いた顔で少女を見た。その顔に見覚えがあったからだ。
    少女はモノクロの傘だけをぼんやり見つめていた。
    店主は一拍だけ迷ってから、その傘を手渡した。

    「50銭だ」

    少女はポケットの中から適当に小銭を出して傘を受け取った。柄を胸元で大事そうに握って、言った。

    「……あのね、お願いがあるの」

    その時、


    「────“お母様”のご機嫌は、いかがかしら?」


    背後から声がした。気配などなかった。
    振り返らなくても分かる、赤い、匂いがする。

    店主の顔が引きつった。

    「さ、最近は……その、見かけておりません……」

    「…貴方が、見かけない?」

    やわらかく返された声の奥に、乾いた刃が混じる。
    赤い髪、赤い着物。滲んだ血のような赤色が、陽の下で揺れていた。

    「残念だわ、“お母様”はわたくしたちにも会ってくださらないのかしら。」

    張り詰めた空気に店主……いや“お母様”の実の息子は意識を保つので精一杯だった。

    母は、こいつらたちは、なにを、……

    少女は赤い女に躊躇いなく近づき、その真っ赤な着物の裾を引いた。

    「行こう」

    それだけ言って、歩き出す。
    店主は止めようと手を伸ばした。

    「お願いがあるって、言ったでしょ」

    少女は店主を一瞥して言った。赤い女は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑って後を追った。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    “お母様”の館は、何も変わっていなかった。
    ステンドグラスも、廊下も、階段の手すりも磨かれたまま。ただ誰一人としてすれ違わない。
    崩れたものはひとつもないのに、人の気配だけが抜け落ちている。

    二人の足音が、やけに響いた。

    奥の部屋の扉は、わずかに開いていて西日が漏れていた。

    「──────お母様、わたくしですわ」

    扉の前で赤い女が呼ぶ。
    返事はない。赤い女の顔が曇る。

    ゆっくりと扉を開ける。
    そこには、誰もいなかった。
    整えられたベッド。ほこりひとつないピアノ。わずかに鼻腔で感じる残り香。

    ついさっきまで“あの人”はそこにいたはずなのに、そこには音のない空っぽな世界が広がっていた。

    赤い女は窓際へ足を進め、外を見下ろした。

    「─────“お母様”」

    ぽつりとそう呟いて、赤い女は笑い出した。
    喉の奥から溢れるような、悲痛な笑い。空虚なこの
    部屋に赤い女の笑い声だけが響く。

    「……ああ、そういうこと」

    赤い女は俯いて小さく呟いた。

    「じゃあ、どうするのかしら。ねえ」

    そう言って赤い女は扉の前で傘を握りしめている少女の方に真っ直ぐ視線を向けた。

    「誰が、これからのわたくしたちを決めるの?」

    少女は何も答えない。
    赤い女は少女に近づく。女の赤い色が少女の視界を支配した。

    「今度は“二人”でやっていきましょう……」


    その声は甘い。子供を遊びに誘うように、“お母様”のように……。
    少女は、力強く傘の柄を握って静かに首を振った。

    「……もうね、いいんだよ」

    赤い女の笑みが、わずかに歪む。

    「なにが、いいって言うの?」


    「───まだなにも終わっていないじゃない!!!」



    赤い女の声が荒ぶる。大きく潤んだ瞳には怒りなのかあるいは哀しみか、複雑な感情が絡み合っていた。

    「これが“終わる時”を、私は知ってる……」

    その一言で、空気が変わった。赤い女の目が細くなる。

    「…何も終わってない!!勝手に終わらせたりなんてしないわ!!!」

    血走った目をした赤い女が大きく手を振りかぶった。
    躊躇いのない、いつものあの人の動き。叩き込まれてきた、いや体に刻み込まれた“お母様”の……。

    ……けれど。

    倒れたのは、赤い女の方だった。
    綺麗に磨かれた床に鈍い音が落ちる。
    赤い着物が、さらに濃く紅く、広がっていく。

    少女は動かない。
    しばらく、ぼんやりとその女を見つめて、立っていた。

    私がここにいる意味。“お母様”に与えられた私の役割。
    “お母様”の物語が終わったら、

    ďźżďźżďźżD.C. al Fine


    やがてゆっくりと、握っていた傘を大事そうに綺麗な床に置く。

    お母様の部屋には大きなピアノがあった。少女はぐしゃりという足音も気にせずピアノに向かった。
    高さの合わない椅子に座り、弾き始める。
    弾き方を知っていた訳ではない。教わったことなんてない。

    ただ、その“旋律”だけは知っている。
    最後の音が鳴るまで、すべては終わらない。
    音が鳴り終わったら、きっと。

    少女は目を瞑る。

    わずかに、音が外れる。

    それでも構わずに続けた。

    拙く、だけどまっすぐな音が、静かな部屋に満ちていく。

    痛みが止む時間に、いつも流れていた音。
    悪い子が再び“お母様”に微笑みを向けてもらえる音。
    再び始まる音。

    だけど。

    少女は、倒れた女を再び見下ろして言う。

    「もう、いいんだよ」

    “お母様”と“次のお母様”にとこしえの安息(レクイエム)を。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    やがて、音は止み、少女はまた傘を大事そうに手に取った。
    館を出ると、日が沈む少し前だった。

    少女は傘を開く。沈みかけた日に傘を向けるとさまざまな色の花柄が透けて見えた。少女が初めて見た、赤色以外の色。

    少女は昼間見た傘の女と同じように傘をさし、くるくると回してまた歩き始めた。

    少女は笑っていた。誰かに似た、冷たく甘い笑顔。
    少女は振り返らず、路地に溶けて行った。


    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    その日は雨が降っていた。
    女は傘を差していた。かつて持っていた傘とは違い、上品な生地と丈夫な骨で誂えた大人用の傘。

    女はその服装には到底似つかわしくない路地をひとり歩いていた。

    ふと、雨音の中に小さな声を聞いた。

    ……さむい、つめたい、さみしい、だれか、

    女はその声がした方へ足を進める。
    狭い軒下に小さく震えている子供を見つけた。

    女は静かに傘を傾けた。

    「…濡れちゃうでしょう?」

    震えている子供の潤んだ青い瞳が女を見上げた。
    甘く、やわらかな声。微笑み。

    「私と一緒に来る?」

    子供は女の目を見て、ちいさく頷いた。
    女は白く綺麗な手を子供に差し出し、子供は躊躇いがちにその手を取った。

    まるで、あの日の「少女」のように……

    女の家は、とても大きかった。綺麗に手入れされた庭のある洋館。住んでいるのは女と、数人の女中だけだった。女はその中のひとりに子供の身なりを整えるように指示した。

    子供はあたたかい湯船に入れられ、子供用の少し古い着物を着せてもらった。

    あたたかい場所だ。

    さっきまでの孤独や寒さとは真逆の世界に子供はいた。子供は長く伸びた髪を綺麗な三つ編みに結ってもらった。そして、この子供をこのあたたかい場所へいざなった女の元へ、女中とともに向かった。


    ピアノの音がした。聞いた事のない曲だった。
    やさしいけど、かなしい音だと子供は思った。

    音が近づいてきて、やがてそのピアノの音が女の部屋からするものだと子供は気づいた。

    女はピアノを弾いていた。ノックの音でその音楽は止んだ。女中と子供は女の部屋に入る。女中は恭しく頭を下げると部屋の外へ出ていった。

    女は子供の姿を見て、少し驚いた顔をした。
    そしてすぐに微笑みを浮かべた。

    「…あら、着れるものがあったのね。よかったわ。」

    「あ、ありがとう、ございます、」

    たどたどしい言葉。ただ先程の女中のように深々と頭を下げた。

    「言葉はわかるのね。あなた……」

    女の言葉はそこで詰まった。この子供をどう呼ぶべきか分からなかった。女は少し考えて、少女に向かって尋ねる。

    「名前はある?」

    子供は首を横に振った。

    「そう……そうしたら、あなたはカノンと、そう名乗るといいわ。名門神楽坂家の、カノン。それが今日からのあなた。」

    「わかり、ました。わたしは……

     わたしは、カグラザカ、カノン…」

    子供は小さく笑った。嬉しさで涙が出るのを堪えた。

    子供には本当は生まれた時に名付けられた名があった。子供はもう二度と呼ばれることのないその名を忘れていた訳ではなかった。また呼ばれることを信じていた。……今、この瞬間までは。


    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


    あの子供、いやカノンにとって、それからは夢のような時間だった。あたたかい食事、あたたかいお風呂、そしてなによりも……

    カノンは女をじっと見つめては何度も目を逸らしていた。やがてその視線に気づいた女が手を止めて声をかけた。

    「どうしたの、カノン……」

    女の声は無機質だけど、いつも優しかった。
    カノンは躊躇いがちに言った。

    「…ピアノを、教えて欲しいの」

    女はカノンにいつもの甘い微笑みを向けた。

    「……そう、じゃあこちらにおいで」

    カノンはぱっと顔を明るくして女の元へ走り寄る。ピアノの鍵盤の位置に楽譜の読み方。カノンは何一つ知らなかったけれど、あの音をいつか弾いてみたいとずっと思っていた。

    カノンのピアノの腕はみるみる上達した。ピアノよりも、カノンにとっては女が隣で優しく指導してくれる時間が何よりも至福だった。上達すれば女は褒めてくれる。失敗しても何度も弾き直しても女はカノンの傍でその音を聞いていた。

    カノンが女の部屋でピアノを弾くのは日課のようになっていた。女が帰ってくると、毎日のように時々つまづいて、また弾き直す、不器用で明るいピアノの音が屋敷に響いていた。


    女は昼寝をしていた。酷く疲労していたのだ。そこにたどたどしくも優しい音楽が耳を撫で、かつての記憶を思い起こさせた。女がかつて少女だった時のこと、そしてその後築いた偽りの地位、偽りの名前、ここにあるもののほとんどは偽りでできていた。

    「─────ドビュッシーの[夢]ね……」

    女が目を覚ますと、カノンがいつものようにピアノを弾いていた。カノンは女の声を聞くと嬉しそうに笑った。こんな曲まで弾けるようになったのよと自慢したげな顔だった。


    カノンだけは……


    カノンは曲を弾き終えると走り寄って女の傍に横たわった。その姿は身を委ねる無邪気な子供そのものだった。

    「……カノン」

    女の手がふとカノンの頬を撫でた。

    「カノンの瞳は、綺麗ね」

    カノンは大きな双眸をぱちくりとさせた。そして嬉しそうに笑う。

    無機質だが優しい声。いつもわたしの名前を呼んでくれる声。何も無いわたしを優しく包み込んでくれる声。

    カノンは照れくさそうに何度も目を逸らしてから、女の頬に優しく触れた。

    やがてカノンは躊躇いがちに、だけど女の目を真っ直ぐ見て、ずっと言えなかった思いを告げる。

    「……おかあさんと、同じ色よ」

    やっと、貴女をそう呼べた……。

    女は少しだけ驚いた顔をした。
    カノンにとっては初めて洋服を着た自分を見た時以来、久しぶりに見る顔だった。そして女はまたすぐにいつものように微笑んだ。

    「そうね、カノン……」

    それがどういう意味か、深くは知らないまま。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    「おかあさん、どこへ行くの?」

    カノンが屋敷に来てもう随分が経った。カノンが屋敷に来たばかりの緊張やたどたどしかった言葉遣いも、女がゆっくりと溶かしていった。

    女は眩しい日差しの中、傘を差していた。
    庭からひとり外に出ようとした時にカノンに声をかけられた。

    「少しの御用よ。すぐに帰るわ」

    そう、傘の下で微笑んだ。こういうことはカノンが来てから度々あった。ただ、少しの御用と言っておきながら、帰ってきた女の顔は幼いカノンから見ても苦しく感じるほどだった。ただ、その御用が何なのか、カノンはいつも聞くことができずにいた。

    おかあさんは、何に苦しめられているの……?
    どうしてそんな悲しい顔をするの……?

    募る疑問は、女の袖を引いた。

    「……行かないで」

    精一杯振り絞った声だった。カノンは女の顔を見ることができなかった。いつもの優しい声がカノンの耳に響く。

    「カノンは良い子だから、またピアノを弾いて待っていて……」

    カノンは女の言いつけを破ったことなどなかった。わがままを言ったこともなかった。おかあさんにとって、いい子なカノンでいたかった。

    ……それでも!

    カノンは泣きそうな顔でぐっと女を見上げた。
    女の顔からはいつもの微笑みが消えていた。カノンには見たことの無い顔だった。

    おかあさんには、笑っていて欲しい。

    その気持ちは真っ直ぐだった。

    わたしにあたたかい場所をくれた、名前をくれた、大事なおかあさんを、苦しめるようなことなんてわたしが─────!

    カノンは女の服を強く掴んだ。そしてずっと言えなかった言葉が打って出る。

    「⎯⎯⎯その“御用”は、わたしには手伝えないの……?」

    カノンのその言葉に女は僅かに動揺した。

    「カノンが…?」

    女はそんなことを考えた事もなかった。
    女は自分がすべき事だと、それが“お母様”から女に引き継がれたものなのだと思っていた。

    しかし、女の体はもう限界だった。
    かつてのように身軽に動かない体は悲鳴を上げ、体力も落ち、仕事もそう簡単に片付かなくなっていた。


    そう、ちょうどカノンくらいの齢の私だったなら……


    女はカノンを見下ろして、微笑んだ。

    「……そう、それは助かるわ」

    カノンは無邪気に笑って女に抱きついた。

    おかあさんを助けられる、わたしを助けてくれたおかあさんを、わたしが……!

    カノンは女にまたいつもの微笑みが戻ったことに深く安堵した。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    気づいたのは、ほんの些細な瞬間だった。

    カノンは随分と成長した。もう1人前の令嬢だ。それに連れて女の仕事をカノンが代行することも増えた。それは全てカノンが言い出したことだった。

    カノンはいつも笑っていた。いつ、どんな時でも。

    自分に向けられたカノンの笑顔が女にはあまり理解できなかった。ただ、同じように微笑み返す。そうすればまたカノンが笑う。そんな日々だった。


    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    カノンが大きくなってからも、カノンの髪を結ってあげるのはいつも女中ではなく女だった。それはカノンから女へのお願いだった。
    女の手は昔のように不器用ではない。

    長い髪を梳かして、カノンの気分に合わせて結ってあげる。今日は帽子を被りたいらしい。
    女は髪を梳かしながら、鏡越しにカノンを見る。嬉しそうに笑うカノンの青い瞳と目が合う。目が合うとカノンはその瞳を輝かせてまた笑う。

    そしてその視線を、ふと、鏡の中の自分に向けた。

    「ぁ……」

    そこにいたのは、

    かつての“お母様”と、同じ笑顔をした自分だった。

    瞳の奥が、わずかに軋む。
    かつてカノンが同じと言ってくれた青い瞳は、カノンのものと全く違う色を帯びていることに初めて気付く。

    「お母様……?」

    カノンが女をそう呼んで、心配そうに顔を見上げた。


    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


    『××××、“お母様”の言うことちゃんと聞けない、悪い子!!!!!』

    幼い体に叩きつけられた鞭の雨あられ。
    泣くことは許されなかった。“お母様”の命令に従えなかった私が悪いのだから。
    じっとその激しい痛みに耐える。耐える。耐える……。

    ────鐘が鳴った。

    “お母様”の手が止まって、激しい痛みもじわじわとあとを引いていく。小さな体はぐったりと冷たい床に横たわっていた。“お母様”は私に近づく。

    『次は、失敗しないわね?あなたは良い子なのだから……』

    そう言って“お母様”は微笑み、次の仕事の手紙を少女に渡した。

    『…はい、“お母様”』

    少女は朦朧とする意識の中、辛うじてか弱い返事をした。

    失敗してはいけない。失敗をしたら“お母様”のご機嫌を損ねてしまうから。

    『期待しているのよ、××××。貴女が、次に“お母様”の役目を果たすのだから……』

    いつものように私に向けられる言葉。

    私が、次の、……?

    私のような子達は屋敷にたくさんいた。みんな孤児で、“お母様”に命を拾われた子供たちだった。服を着せてもらい、食事と仕事を与えてもらっていた。そんな優しい“お母様”の言いつけを守らないのは、悪い子。それは私達の共通認識で、お母様の言いつけが絶対だった。

    この屋敷には、いつも失敗した悪い子の叫びと、それを終える鐘の音だけが響いていた。

    その子供たちの中でも最も目を惹く、赤い髪の子。私より少し歳上に見えた。いつの頃からか“お母様”は私とその赤い子の二人で仕事に行くように命じた。一緒に仕事をして、失敗すれば一緒に仕置をされる。“お母様”に与えられたお仕事を失敗した悪い子たちだから。赤い子に鞭が振るわれ、赤い子の悲鳴が響いた。次は私。二人、鐘の音が鳴るまでただ耐えるだけ……。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    ある時、赤い髪の子は呟くように言った。

    『ねえ、もし“お母様”がいなくなったら、わたくしたちどうなってしまうのかしら…また次の……』

    あの時、赤い髪の子が呟いた言葉の意味も、“お母様”の言葉の意味も、私はよく分かっていなかった。

    ただ、“お母様”の存在があることが永遠だと思っていた。

    私と赤い女は屋敷を出て、二人で暮らしていた。屋敷には“お母様”と数名の女中だけが残った。他の子供の行方は知らない。それでも変わらず“お母様”からの仕事は手紙という形で私達の家に届き、私たちは変わらず仕事を続けていた。しかし、ある時からぱたりと手紙が届かなくなった。

    “お母様”が姿を消されたあの日、赤い子は私に「誰がこれからの私たちを決めるの?」と聞いた。

    その時、初めて“お母様”の言葉の意味を少しだけ理解したような気がした。

    これからは、私の番なんだ。私が新しい“お母様”。

    なら、私が新しいルールだ。私が変えよう。
    悲しい時間も、痛い時間も全部、私が終わらせよう。

    『……もうね、いいんだよ』

    赤い子は私にあれこれ叫んで、“お母様”と同じ手つきで私を殴ろうとした。そんな赤い子にも、お母様と同じとこしえの安寧を。

    終わりにしよう、こんな時間を……
    全部全部、私が終わらせる。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    「……さま、お母様!」

    女はハッと我に返った。カノンの綺麗な青い瞳が不安に揺れていた。カノンと目が合って、初めて抱いた、いややっと気づいた感情。


    _____愛おしい。


    哀しみと痛みと偽りだらけの人生だった。
    そしてカノンが私に向けてくれた笑顔、言葉、慈しみ、愛情。

    この子はずっと真っ直ぐに私を「母」と慕っていたのに、私はこれまで一度でもこの子を「娘」として扱っただろうか。

    私で終わらせると決めたはずなのに、どうして。

    女の人生の中に、カノンを想う感情とカノンとの時間だけが、異物のようにそこにあった。


    女はそっと鏡台に櫛を置いた。

    「……そっか」

    女は虚ろに、小さく呟く。
    その声はいつもよりどこか幼かった。

    女はカノンの髪を2つのおさげにして、カノンのお気に入りの帽子を被せた。

    カノンはまた女に向けて笑った。屈託のない笑顔。
    女はそんな笑顔をカノンに出会うまで知らなかった。笑い方はいつもあの人の真似事だった。

    そして、女のすべてが。

    ただ、女は知ってしまった。かつて向けられていたあの微笑みも優しさも偽りだったのだと。
    そして私がカノンに向けていた微笑みや優しさもまた……。

    「カノン……」

    「どうしたの、お母様?」

    私はなんて愚かなんだろう。
    こんな簡単なことに気づかないだなんて。

    女はカノンの頬を撫でた。
    嬉しそうに笑うカノンは本当に可愛らしいと女は心の底から思った。

    カノンだけは、

    カノンといた時間、カノンへ向けたこの愛情は偽りではない。女は不器用に微笑んだ。

    その日は大雨だった。雨の音が静かな屋敷によく響いた。女はピアノの前に座り、弾き始める。


    はじまりの、そしておわりの曲。


    女の瞼の裏に、あの日の光景が赤く赤く映る。
    差し込んだ夕日。赤い髪。赤い着物。広がっていく赤い、赤い……。

    「お母さま……?」

    カノンは泣きそうな顔でこちらを見る。

    「…また、苦しいお仕事をされてきたの?」

    ちがう。

    「それなら、またわたしが行くから…!」




    ──────ちがう……!




    「……大丈夫、今度はちゃんと、終わらせるから」

    雨音が強くなる。
    女はまた、冒頭から弾き始めた。
    優しく暖かい、だけど少し歪な音だった。
    繰り返された旋律は、さっきと同じはずなのに、カノンには全く違うように聞こえた。

    そして、カノンはその日はじめて、いつもの女と違う、子供みたいな笑みを見た。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


    神楽坂家当主、神楽坂奏音。
    彼女の屋敷はいつも賑わっていた。かつてはあまり他の家からの評判は良くない、孤立していた神楽坂家だったが、奏音が当主になってからはその容姿や才能、人柄に惹かれて友人や求婚を申し出る殿方などでよく人が訪れる賑やかな場所となっていた。

    奏音は無邪気に笑っていた。

    ⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆

    あの雨の日、お母様はいつもの傘を差して家を出た。わたしは一緒に行きたいとわがままを言った。お母様はあの時、一度だけ振り返って、わたしの目の前にしゃがんだ。

    「大丈夫、もうあなたに傘はいらないわ」

    お母様はわたしにそう言い残して、もう二度と帰ってくることは無かった。そして、その日を境にお母様とわたしに来ていたお仕事もぱたりと無くなった。


    お母様はあの日、何を思ったのだろうか。
    何を終わらせて、何を始めたのだろうか。
    あの言葉は一体なんだっただろうか。


    わたしの全てはあの日、お母様が差し出してくれた傘で、その手で、あの曲で始まったのに……


    奏音は泣いていた。
    人が去り、一人きりになった屋敷のベッドの上で静かに泣いていた。愛しいお母様の温もりも匂いもとっくに無い。ただ、お母様の最後の言葉を何度反芻しても理解できないことが悲しかった。


    ふと、あのピアノを見た。
    滲んだ景色の中にお母様の面影が見えた気がした。

    ……そうだ、あの曲を、また、

    奏音はおぼつかない足取りでピアノの前に座った。
    そしてお母様に教わったようにぴんと背を伸ばして、手を鍵盤に優しく載せて、深く息を吸う。

    しかし、奏音がピアノを弾き始めることはなかった。

    奏音は静かにため息と涙を零す。


    「……あの曲、教えてもらってないや」


    名も無きあの曲。たった2回しか聞くことのなかったあの曲。いずれ教わると思っていた曲。

    ねえ、お母様……

    また優しい笑顔をわたしに向けて。
    その声でわたしの名前を呼んで。
    髪を梳かして結って。
    ピアノを教えて。
    同じ傘に入れて。

    そんな願いは空虚に溶けた。


    もうこの屋敷にあの音が鳴ることはない。

    Coda.


    #創作大賞2026
    #ファンタジー小説部門

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