メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【小説】月影学級

     男の眼下に広がる海面は、どこまでも広く、どこまでも深く揺れていた。空むなしいほどに美しい煌めきに、男は目を逸らした。
     静けさが、耳にこびりついた声を呼び起こす。

     ──先生のクラスだけですよ。こんなにクレームが多いのは。

     ──担任なんだから、もっと子どもたちのことを見てくださらないと困ります。

     ──教育者なら答えてくださいよ。

     男はこれらの声を振り払うように欄干を握りしめた。
     何をしても、誰かの期待に応えられない。最後に残ったのは、自分には何もできないという無力感だけだった。

     男は靴を脱ぎ丁寧に揃えた。ザリッと地面の擦れる音だけが、声をかき消してくれた。
     裸足になって再び海面を見つめると、今度はその煌めきが自分を歓迎しているように見えた。

     そのときだった。

    「ねぇ」

     どこからか声が聞こえた。男は辺りを見渡すが誰もいない。煌めきが呼ぶ幻聴かと再び視線を戻すと、また聞こえた。今度は先ほどよりもはっきりと。

    「ねぇ、空ってどんな色?」

     それは音だけの純粋な問い。男は、最後なのだから幻聴に付き合うのも悪くない、と答えた。

    「空は、時間によって色が変わるんだ。普段は柔らかい青をしているが、赤や黒になることもある」

    「なぜ?」

     先ほどとは違う声が問いかけた。

    「太陽の位置と、太陽の光が大気を通るときの現象が関係している」

    「わからない」

    「…そうか」

     男は空を見上げた。星が瞬く。久しぶりにただ遠く高く広がる空を見た気がした。

    「ねぇ、雪って冷たいんでしょう?冷たいってどんな感じ?」

     また違う声がした。

    「そうだ、雪は冷たい。冷たさは、痛みに似ている。だが、それを心地よいと感じることもある。夏に冷たい風が吹けば最高に気持ちいい」

    「変なの」

     声はそう言ったが、男は真夏にコンビニから溢れる冷気を思い出して頬が緩んだ。

    「風って、気持ちいいの?」

    「そうだな。微風程度なら気持ちいいかもしれない。通勤中に土や花の香りを乗せて吹く風が、好きだった」

    「土や花の香って何?」

    「土は湿っぽくて落ち着く香り、花は甘くて豊かな香りがする。花には詳しくないが、毎年金木犀が香り始めるとなんとなく、また一年生きたなと思っていた」

     声は少し間を置いて、短く訊いた。

    「生きるって、どんな感じ?」

     男は答えなかった。男自身も答えを持っていなかった。これまで、そんなことを考えたことなど一度もなかった。
     楽しいことも希望を感じたこともそれなりにあった。けれど、だから生きることは素晴らしいと、簡単には言えなかった。

     声は男の答えを待たなかった。

    「きれい」

     月の光が海面に道をつくっていた。

    「空の色はわからないのに、それはわかるのか」

    「明るいと暗いは知ってる」

    「そうか」

     月の道に溶けるように、声たちは小さくなっていく。

     最後に、遠いところで

    「次は、生まれたい」

     そう聞こえた。

     声が消え、耳に波の遠鳴りが戻ってきた。
     相変わらず海面は夜を映して煌めいている。

     空には月と星。
     朝になれば陽が昇る。
     青い空の下を吹く風は、どんな香りを運ぶだろう。

     生きるって、どんな感じなのだろう。

     わからないなりに、生きてみよう。
     これから彼らが生きるかもしれないこの世界を、もう少しだけ丁寧に見てみよう。

     男は揃えていた靴を履いて、再び歩き始めた。


    (1350字 了)


    読んでくださりありがとうございます。

    こちらに応募させていただきます。
    よろしくお願いいたします。


    \花澤先生の短編集を読んだ皆様の感想/


    \他の参加作品/


     
     
     
    目標は自分による自分のための短編集を作ること。 楽しいことは多いほうがいい。 週一投稿できたらいいな。

    あなたへのおすすめ