
散歩道§53、日本的なゆるい宗教規範「脱宗教観」がいい
脱宗教=無宗教ではない。
現に、私は無宗教者ではないが、宗教が生活の大事な一部ではない。言葉で言えば「脱宗教」なのである。宗教や宗旨などは、時に「ああ、そうだな」と思えれば十分なのである。
歴史を振り返れば、狭い日本列島内で、「和を以って尊しとなす」でやってきたからといって、「無」宗教でやれる訳がない。ただ、ある宗旨を絶対視すると、諍いが絶えなくなることを知って和の方を優先し、そこを万事程々で上手くやってきたということである。物心両面で、それで良かったのである。飢饉・天災・流行り病等で、宗教にすがる時期・時代があったにしろ、いつも温帯の季節は巡り、庶民層が「ベタ宗教」になることなく、列島の歴史は紡がれてきている。
西欧のキリシタンバテレン宣教師の目には、特定規範のみを有難がらない、列島のこの人間風景は、布教の立場としては恐らく難しく映ったに相違ない。結果論であるが、キリスト教禁教により、支配欲・領土欲を持つキリスト教圏の欲望の対象にならなかったのは、幸いであった。
現在時点で言えば、諸宗教に対し高みの見物を決め込み、「いいとこどり」をすればいいだけの話である。馬鹿げた宗旨の馬鹿げたタブーなど「クソくらえ」でいいのである。
最高指導者とか宗派トップとかは、すれっからしの庶民に徹して有難がらず、豚肉もかたつむりも蛙も犬も全部食べてしまい、しぶとく生き抜こうではないか。