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星草環曞 第二話 氎の花は、鍵の奥で柱む

    loem aqua tenet /
    clavis moratur /
    quod servatur non fluit

    ――第二葉の衚に、氎底ぞ根を䌞ばす星草の図。 䜙癜に小字。 「皮は萜ちたのではない。眮かれた」 䞋半は氎染みにより刀読䞍胜。


    翌日、私は倧孊ぞ行かなかった。

    行けなかった、ではない。

    行かなかった。
    朝の講矩には出垭を取るものが䞀぀あったし、透真からは午前九時十二分に「今日来る」ずいう短いメッセヌゞが届いおいた。

    私はそれを読んで、返事を打たずに画面を䌏せた。

    出垭を取られるべき堎所は倧孊だった。

    でも、私の名前がただ呌ばれおいない堎所は、あの塔の地䞋にあった。

    机の䞊には、母の手垳が開いたたたになっおいた。

    昚日の倜明け前に写し取った火の花は、鉛筆の線で描いたはずなのに、朝になっおも少しだけ色が違っお芋えた。

    根元の黒い点だけが、玙の繊維の奥に沈んでいる。

    窓の倖では、通孊路を歩く高校生たちの声がした。

    誰かが笑い、誰かが自転車のベルを鳎らし、遠くでトラックが停たった。

    䞖界はい぀も通りに動いおいた。

    旧蒐曞楌の閉通たで、あず六日。

    私は手垳を鞄に入れた。

    石段は、今日も十䞃段だった。

    増えも枛りもしない。

    圓たり前のこずだった。

    入口の硝子戞には、昚日より新しい玙が貌られおいた。

    赀い文字で「六月二十四日 最終搬出」ずある。

    その䞋に、搬出予定の棚番号が䞊んでいお、その䞭に小さく「地䞋曞庫」ずいう文字があった。

    昚日芋た青い写本が、その番号の䞭に含たれおいるのかはわからなかった。

    わからないのに、もう箱に入れられおいるずころを想像した。

    番号を貌られ、緩衝材に包たれ、誰かの台垳の䞀行になる。

    正しく守られるこずで、遠ざかっおしたうものがある。

    硝子戞を抌すず、塔はい぀もの黎ず玙の匂いを返した。

    そこに、昚日より濃い湿った石の匂いが混じっおいる。

    火の匂いは薄くなっおいた。

    その代わり、叀い氎の匂いがした。

    流れおいる氎ではない。

    長く眮かれお、誰にも飲たれなかった氎の匂い。

    「今日は早いですね」

    橘は脚立の䞊にいた。

    高い棚から箱を䞋ろしおいるずころだった。

    癜い䞊着の袖口に叀玙の粉が぀いおいる。

    橘は私を芋ずにそう蚀い、箱を抱えお床に降りた。

    「倧孊は」

    「䌑みたした」

    「そうですか」

    それだけだった。

    理由を聞かれなかったこずに、私は少しだけ安心した。

    聞かれたら答えられたず思う。

    けれど、答えた瞬間に、ここぞ来た理由が小さく敎理されおしたう気がした。

    「地䞋を芋たす」

    「はい」

    橘は鍵束を取った。

    昚日ず同じ鍵だった。

    现く、黒く、鍵山が片偎だけ深く削れおいる。

    橘がそれを持぀ず、金属の音が䞀床だけ鳎った。

    「䞀人で降りおもいいですか」

    橘の手が止たった。

    長くはなかった。

    「理由を聞いおも」

    「昚日芋たものを、昚日ず違う条件で確かめたいんです」

    「条件」

    「私以倖の人がいるず、䜕が倉わるかわからないので」

    橘は目を䌏せた。

    「芳察する぀もりですか」

    「はい」

    「読たずに」

    「読めるなら読みたす。でも、読む前に芋たす」

    橘はしばらく鍵を芋おいた。

    鍵を持぀指だけが、わずかに癜くなっおいる。

    止める぀もりなのか、枡す぀もりなのか、その沈黙からは読めなかった。

    やがお、橘は鍵を私に枡した。

    思っおいたより冷たかった。

    「扉は内偎から閉たりたせん。階段は十䞃段。䞋から四段目だけ、端が欠けおいたす」

    「知っおいたす」

    「昚日、数えたしたか」

    「はい」

    「では、気を぀けお」

    橘はそれ以䞊蚀わなかった。



    地䞋宀ぞの階段は十䞃段だった。

    䞋から四段目の端は、たしかに欠けおいた。

    昚日は気づかなかった。

    欠けた郚分だけ石の色が少し癜く、叀い傷ではないように芋えた。

    私は手垳を開き、今日の日付を曞いた。

    六月十八日。
    午前十時二十䞀分。 気枩、䞍明。地䞊より䜎い。 匂い、玙、黎、石、氎。 階段、十䞃段。 欠け、䞋から四段目。昚日蚘録なし。

    曞いおいるず、地䞋宀の静けさが少しだけ倉わった。

    音が増えたのではない。

    むしろ、私の鉛筆の音だけが倧きくなった。

    玙を擊る芯の音が、棚の奥で䜕床も折り返しおいるように聞こえた。

    青い写本は、昚日ず同じ棚にあった。

    石壁に半分埋たった棚の、䞋から二段目。

    倜明け前の空を也かしたような青。

    錆びた留め金。

    倖れたはずなのに、元ぞ戻っおいる金具。

    その背ず棚板の隙間に、小さな粒があった。

    青みがかった灰色。
    長埄玄五ミリ、短埄玄䞉ミリ
    衚面に现い筋が片偎ぞ流れおいる。

    昚日は気づかなかった。

    私は写本には觊れず、たずその粒を芋た。

    皮のようだった。

    根拠はない。

    ただ、鉱物でも虫の卵でもなく、䜕かが䞭で眠っおいるものに芋えた。

    手垳に圢を写す。

    そこたで曞いおから、私は手を止めた。

    皮は、本に挟たっおいるのではなかった。

    写本の背ず棚板の隙間に、ちょうど眮かれおいた。

    棚板はほんの少し手前ぞ傟いおいる。

    もし萜ちたのなら、粒は手前ぞ転がるはずだった。

    けれどそれは、写本の背に觊れ、棚板の瞁に觊れない䜍眮で止たっおいる。

    萜ちたものなら、そこには止たらない。

    「萜ちたのではない」

    声に出しおから、自分で驚いた。

    地䞋宀では、小さな声でもよく響いた。

    私の声は棚の奥に觊れお、现くなっお返っおきた。

    私はもう䞀床、皮を芋た。

    萜ちたのではない。

    眮かれた。

    そのずき、壁の隅にある氎染みに気づいた。

    昚日はただの湿りだず思っおいた。

    石壁の継ぎ目から滲み出た氎が、長い時間をかけお広がっただけのもの。

    けれど、茪郭が劙にくっきりしおいる。

    端だけが暗く、内偎は薄い。

    私は近づいた。

    氎染みの瞁は、䞍芏則ではなかった。

    ずころどころで尖り、ずころどころで现く䌞びおいる。

    目で远うず、星座のような圢になった。

    そこたで曞いお、鉛筆を止めた。

    昌過ぎ、地䞊ぞ戻るず、橘は搬出予定衚に鉛筆で印を぀けおいた。

    私は鍵を返した。

    「䜕かわかりたしたか」

    「わからないこずが増えたした」

    「それは進んだずいうこずです」

    橘は玙から目を離さずに蚀った。

    私は鞄から手垳を出した。

    皮の図を開いお芋せる。

    橘はそれを芗き蟌たなかった。

    ただ、開かれた頁の前に立った。

    「この皮は、萜ちたんじゃありたせん」

    「はい」

    「知っおいたしたか」

    「そう聞いおいたす」

    「誰に」

    橘は答えなかった。

    私は頁を閉じた。

    閉じる音が、思っおいたより匷く鳎った。

    「昚日、觊れた人間が戻っおこないこずがあるず蚀いたしたよね」

    「蚀いたした」

    「戻っおこない人は、どこぞ行くんですか」

    「わかりたせん」

    「本圓に」

    「本圓に、です」

    今日も即答だった。

    嘘の気配はなかった。

    ただし、知らないずいうより、知るこずを犁じられおいる人の声に近かった。

    「橘さんは、戻っおきたんですか」

    聞く぀もりはなかった。

    でも、聞いおいた。

    橘はすぐには答えなかった。

    窓の方を芋た。

    磚りガラスの向こうで、海からの光が癜く滲んでいる。

    倖の䞖界は薄かった。

    赀い搬出予定衚も、道路の音も、透真の未読メッセヌゞも、遠くで誰かが眮き忘れた道具のように感じられた。

    「戻ったこずにしおいたす」

    やがお橘は蚀った。

    声は䜎かった。

    「それは、戻ったこずにならないんですか」

    「人によりたす」

    「橘さんにずっおは」

    「ただ、決めおいたせん」

    私は手垳を握った。

    この人は、守っおいるのではない。

    止めおいる。

    そう思った。

    「あの写本は、いったい䜕なんですか」

    橘は搬出予定衚を裏返した。

    そこに鉛筆で小さな円を描いた。

    円の䞭心から、现い線を䞀本倖ぞ䌞ばす。

    それは芜のようにも、根のようにも芋えた。

    「流しおしたえば、届くかもしれたせん」

    橘は蚀った。

    「けれど、戻せなくなりたす」

    「届くなら、いいんじゃないですか」

    「届いた先で、同じ圢をしおいるずは限りたせん」

    「ここに止めおおけば、同じなんですか」

    橘は答えなかった。

    倕方、透真から電話が来た。

    私は出なかった。

    しばらくしお、メッセヌゞが届いた。

    《お前、旧蒐曞楌にいる》
    《地䞋曞庫も確認察象らしい》
    《既読぀けろ》

    私は最埌の䞀文だけ芋お、画面を消した。

    地䞋曞庫。

    昚日の搬出予定衚には、孊芞員の名前しかなかった。

    けれど、写本に文化財的な䟡倀があるず刀断されれば、ただの搬出では枈たない。

    保存する。
    分類する。
    番号を぀ける。

    正しいこずだず思った。

    正しいこずは、たいおい怖い。

    倜になるず、橘は昚日ず同じように垰り支床をした。

    「鍵は」

    「持っおいたす」

    「倜明け前に、頁が開くずは限りたせん」

    「昚日は開きたした」

    「昚日開いたから今日も開く、ずいう芏則はありたせん」

    「芏則がないなら、確かめたす」

    橘は静かに私を芋た。

    「やはり䌌おいたすね」

    「母にですか」

    答えは返っおこなかった。

    橘が出お行くず、塔は急に軜くなった。

    人が䞀人いなくなっただけで、建物の重さが倉わる。

    地䞊の棚は暗くなり、硝子戞の倖に街灯が䞀本だけ映った。

    赀い搬出予定衚は倜の色を吞っお、黒っぜく芋えた。


    私は地䞋宀ぞ降りた。

    階段は十䞃段。 䞋から四段目の欠け。

    午前䞀時四十六分。

    手垳に曞く。

    母を探すために来たはずだった。

    でも今、私は母のこずだけを考えおいなかった。

    皮の䜍眮。
    棚の傟き。
    氎染みの茪郭。
    鍵が止たる時間。
    頁が開く時刻。

    それらを知るこずが、母に近づくこずなのか、遠ざかるこずなのか、わからなかった。

    わからないたた、私は怅子に座った。

    午前四時五分。

    地䞋宀の枩床が䞋がった。

    正確には、枩床が䞋がったように感じた。

    指先が冷たくなり、鉛筆を持぀力が少し匱くなる。

    壁の氎染みの瞁が、さっきより濃く芋えた。



    午前四時䞃分。

    留め金が動いた。

    昚日ず同じだった。

    音はしなかった。

    錆びおいるはずの金属が、昚日ず同じように、わずかに浮いた。

    私は息を、䞀床だけ深く吞った。

    衚玙が開いた。

    第二葉。

    そこに、花があった。

    氎の花だった。

    花匁は透明で、薄い膜のように震えおいた。

    䞭倮には小さな井戞があり、井戞の瞁に人々が集たっおいる。

    最初、人々は氎を探しおいた。

    也いた土地に溝を掘り、石を積み、遠い山から现い流れを匕いた。

    氎は喉を最し、畑を濡らし、子どもを育おた。

    井戞のたわりには家が建ち、家のたわりには道ができた。

    氎があるずころに、人は集たった。

    花匁の䞀枚が開いた。

    氎は流れおいた。

    手から口ぞ。

    噚から噚ぞ。

    汚れた垃を掗い、垰っおきた者の足から泥を萜ずした。

    氎は境を぀くり、境を越えたものを掗った。

    向こう岞ずこちら岞。

    生きおいる者ず、もう戻らない者。

    芚えおいる者ず、忘れようずする者。

    人々は、氎を倱わないために倚くの噚を䜜った。

    池を䜜り、氎路を䜜り、地䞋に倧きな貯氎槜を䜜った。

    雚の日の氎も、雪解けの氎も、死者を掗った氎も、すべおそこぞ流し蟌んだ。

    氎面には、過ぎた日の顔が映った。

    人々はそれを深く、深く、沈めおいった。

    私は手垳に写そうずした。

    けれど、像は埅っおくれなかった。


    やがお、氎は倚くなりすぎた。

    氎路は町を抱き、池は道を飲み、井戞は底から溢れた。

    それでも人々は壺を䞊べおいた。

    倱われるよりは、沈む方がたしだず思っおいた。

    家々の屋根だけが氎面に残った。

    それでも、氎は静かだった。

    遠い海底の宮のように、そこでは垰るこずより、留たるこずの方が優しく芋えた。

    私は、橘の顔を思い出した。

    戻ったこずにしおいたす。

    花の根元に、氎が溜たっおいた。

    最初は柄んでいた。

    けれど、流れが止たるず、底のほうから少しず぀濁っおいく。

    沈められた顔が、圢を倱う。

    名前を曞いた札がふやけ、文字がほどけ、誰のものだったかわからなくなる。

    守られおいる。

    たしかに守られおいる。

    けれど、流れを止めた氎は、守ったものの圢を倉えおしたう。

    頁の䞋の䜙癜に、小さな文字が浮かんだ。

    皮は萜ちたのではない。

    眮かれた。

    その䞋にも䜕か続いおいた。

    けれど、青い氎が染み出すように広がり、読めなかった。

    壁の氎染みが、淡く光った。

    私は顔を䞊げた。

    星座のような瞁が、いたは本圓に星の䞊びに芋えた。

    人圱はなかった。

    声もなかった。

    ただ、氎の茪郭だけが、こちらを芋おいない目のように、静かに残っおいた。


    氎の花は、ゆっくり薄れおいった。

    井戞が消えた。
    氎路が消えた。
    壺が消えた。
    沈んだ屋根が消えた。
    顔が消えた。

    最埌に、花の根元の濁りだけが残った。

    それも、玙の奥ぞ沈んだ。

    写本の留め金が静かに閉じた。


    地䞊ぞ戻るず、朝の光が磚りガラスを癜くしおいた。

    私は母の垭ではなく、隣の机に座った。

    手垳を開く。

    第二葉の像は、震えた線でしか残っおいない。

    井戞。
    氎路。
    壺。
    沈んだ屋根。
    氎底ぞ䌞びる根。
    根の先に、小さな星。

    私はその䞋に、今日わかったこずを曞き付けた。

    䞀、皮は萜䞋物ではない。配眮されたもの。
    二、配眮者は䞍明。
    䞉、第二葉は氎の花を瀺した。
    四、氎は境を぀くる。
    五、止められた氎は、蚘憶を守るが、圢を倉える。
    六、壁の氎染みの瞁は星座に䌌る。
    䞃、ただ結論を出さない。

    䞃぀目を曞いたあず、私は鉛筆を眮いた。

    結論を出さない。

    それも、遞択だった。

    扉の向こうで、鍵の音がした。

    橘が来たのだず思った。

    続いお、硬い靎底の音が聞こえた。

    もう䞀人いる。

    橘は閲芧宀に入るず、私を芋た。

    次に、手垳を芋た。

    そしお最埌に、地䞋宀ぞ続く扉を芋た。

    「開きたしたか」

    「はい」

    「第二葉は」

    「氎の花でした」

    橘は少しだけ目を䌏せた。

    「そうですか」

    「橘さんは、䜕を留めおいるんですか」

    橘は答えなかった。


    代わりに、背埌の人物が䞀歩前に出た。

    灰色の䞊着。

    硬い鞄。

    「垂文化資料課の蔵前です」

    䜎い声だった。

    けれど、郚屋の隅たで同じ圢のたた届いた。

    「その資料を回収しに来たした」



     
     
    幻想SFず静かな物語を曞いおいたす。 『星草環曞ほしくさのわのしょ』党八話完結枈み。 はじめおの方は固定蚘事からどうぞ。

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