
夏の庭で
「これはナツツバキ。
いや、ヒメシャラだね、
おかあさん。」
先生は庭の木を見上げて笑った。
「この木は大きくなるよ。」
私は、そのとき、
木の話をしているのだと思っていた。
じゅんこ先生と出会ったのは、三月だった。
前年の十二月。
年子で次女を出産した私は、
毎日をやり過ごすだけで精一杯だった。
夜は授乳。
眠ったと思えば、また泣く。
朝になれば二歳の長女が起きる。
「ママ。」
「だっこ。」
「いっしょ。」
赤ちゃん返りの真っ最中だった。
かわいい。
もちろん、かわいい。
でも、それだけでは足りない日があった。
抱っこをしながら授乳をして。
泣き声が二つ重なる。
ご飯を作る余裕なんてなくて、
シンクには洗い物が積み重なっていく。
朝が来るたび、思う。
今日も、始まってしまったと。
家族にも、
大きな出来事があった。
思いがけず、早産となった弟夫婦の出産。
夫は祝日も仕事。
実家に頼れる日にも限りがある。
「頑張れば、なんとかなる。」
そう思っていた。
でも、ならなかった。
すがる思いで、市役所に電話をかけた。
「誰でもいいから、助けてください。」
受話器を置いたあと、涙が出た。
その木曜日。
インターホンが鳴った。
玄関を開けると、一人の女性が立っていた。
背がすらりとしていて、姿勢がいい。
春の日差しによく似合う、
やさしい笑顔だった。
「こんにちは、お母さん。」
それが、先生との出会いだった。
家へ上がると、
「おかあさん、洗面所借りるね。」
そう言って、迷いなく手を洗った。
石けんを泡立てる音。
蛇口から流れる水の音。
そんな何気ない音に、
不思議と肩の力が抜けた。
私は何をお願いしたらいいのか、
わからなかった。
すると先生は、次女の前にしゃがみ込んだ。
「こんにちは。
いっぱい遊ぼうね。」
やさしい声だった。
でも、甘やかすような声ではなかった。
長女は少し離れたところから、
その様子をじっと見ている。
先生は近づかない。
無理に話しかけない。
ただ、目が合うと笑う。
長女も笑う、
先生も笑う。
また長女が笑う。
気づけば、二人は声をあげて笑っていた。
私は、その光景をぼんやり眺めていた。
子どもと遊ぶって、こういうことなんだ。
楽しませようとしなくてもいい。
何かを教えなくてもいい。
ただ、一緒に笑えばいい。
そんなことを、その日初めて知った。
「おかあさん。」
先生が私を呼ぶ。
「少し座って、お茶でも飲みな。」
その一言で、涙が出そうになった。
誰かに座っていいと言われたのは、
いつ以来だっただろう。
湯気の立つマグカップを両手で包む。
温かい、その温かさが、
手から胸の奥へ、ゆっくりと染みていく。
先生は、
子どもを預かりに来た人ではなかった。
私の隣に座りに来てくれた人だった。
それから、木曜日が好きになった。
木曜日になると、先生が来る。
それだけで、一週間が、
少し短く感じられるようになった。
玄関のチャイムが鳴る。
「こんにちは、おかあさん。
今日はいいお天気だねえ。」
その声を聞くだけで、
張りつめていたものが少しゆるむ。
「今日は、何しようか。」
先生はそう言って、
娘たちの目線までしゃがむ。
おもちゃがなくてもいい、
絵本がなくてもいい。
スプーン一本でも遊べる。
ティッシュの箱だって、おもしろい。
先生は、子どもと同じ高さで笑っていた。
気がつくとテレビを見せる時間が、
格段に減っていた。
私はその間に、洗い物をする。
洗濯機を回す。
それだけのことなのに、
心が少し軽かった。
「おかあさん。」
先生が声をかける。
「市のサポートってね、
いろいろあるんだよ。」
私は手を止めた。
「家事をお願いしてもいいし。
子どもを預けて、お昼寝してもいい。
美容院へ行ってもいい、
買い物へ行ってもいい。」
少し笑って続ける。
「使わないと、損だよ。」
私は曖昧に笑った。
そんなことで頼っていいのかな。
まだ頑張れるんじゃないかな。
そんな気持ちが、どこかにあった。
先生は、まるで心を読んだように言った。
「みんなね、言うんだよ。」
娘の靴をそろえながら。
静かな声で。
「“待ってました。この一週間、
この日を待ってました。“って。」
私は、何も言えなかった。
「家事のお手伝いにも行くんだけどね。」
先生は笑う。
「お母さん、ずっと私についてくるの。」
「え?」
「ずっと、おしゃべりしてる。」
先生も笑う、私も笑う。
「話したいんだよね。」
少し間があった。
「聞いてほしいんだよね。」
先生は窓の外を見た。
電線が、風に揺れていた。
「だからね。」
ぽつり、と言う。
「私は思ったの。」
「必要なのは。」
少し笑う。
「子どもへの支援だけじゃない。」
「お母さんへの支援なんだって。」
私は、その言葉に返事ができなかった。
誰かに、
そんなふうに言われたのは初めてだった。
私はずっと、子どものために、
頑張らなきゃいけないと思っていた。
泣かせちゃいけない。
怒っちゃいけない。
疲れちゃいけない。
助けを求めちゃいけない。
そう思っていた。
でも。
私も、助けてもらってよかったんだ。
先生は、その日も特別なことはしなかった。
娘と笑って。
絵本を読んで。
外を歩いて。
「今日は風が気持ちいいねえ。」
そう言った。
それだけだった。
でも、不思議だった。
先生が帰ったあとも、
その言葉だけが家の中に残っていた。
風が気持ちいいねえ、空が青いねえ。
今日も大きくなったねえ。
そんな言葉が、少しずつ、
私の口からもこぼれるようになっていった。
先生は、何も教えなかった。
「こうするといいよ。」
そんな言葉は、ほとんど聞いたことがない。
育児の正解も、発達の話も。
しつけの話も、先生はしなかった。
「いいねえ。」先生が言う。
娘が石を拾う。
「きれいだねえ。」
葉っぱを見つける。
「おもしろい形だねえ。」
虫が歩いている。
「急いでるねえ。」
それだけだった。
でも娘は、うれしそうだった。
ある日の帰り道。
保育園から家までは、
車なら五分もかからない。
でも、歩くと二時間かかった。
「ママ。」
娘がしゃがみ込む。
「いし、あった。」
小さな石を、大事そうに手のひらへ乗せる。
「ほんとだ。」
私は、一緒にしゃがむ。
急がない。先生なら、きっとそうする。
そう思った。
また歩く。
今度はアリを見つける。
「あ。」
娘が指をさす。
アリは一生懸命、何かを運んでいる。
二人でしばらく見ていた。
何も話さなかった。
風だけが吹いていた。
「ここは車さんの道だからね。」
娘が言う。
「気をつけるんだよ。」
私は笑ってしまった。
先生との約束だ、ちゃんと覚えていたんだ。
気がつけば。
娘は、たくさん話すようになっていた。
「ママ、みて。」
「おはな。」
「ちょうちょ。」
「おそら、きれい。」
世界を教えてくれるのは、
私ではなくなっていた。
娘だった。
私は、何を焦っていたんだろう。
夕飯は少しくらい遅くてもいい。
洗濯物は、あとでもいい。
お風呂が三十分遅れたって、大丈夫。
今しかないものが、
目の前にあった。
ある日。
先生が笑って言った。
「お母さん。」
「子どもってね。」
「急がせると、大人になっちゃう。」
少し間を置いて、娘を見る。
「でも。」
「ゆっくり歩くと。」
「ちゃんと子どもでいてくれる。」
その意味が、
あの頃の私は、まだよくわからなかった。
でも今なら思う。あの二時間は、
寄り道なんかじゃなかった。
娘が、
子どもでいてくれた時間だった。
そして。私が、
母親になる時間でもあった。
「おかあさん。
これはナツツバキ……
いや、ヒメシャラだね。」
先生は、いつものように庭を見上げた。
「この木は大きくなるよ。」
私は笑って、
「楽しみですね。」と答えた。
あの頃は、
それが木の話だと思っていた。
新しい家にも、
少しずつ暮らしが増えていった。
テラスで夕涼みをして、
娘と草を抜いて、花に水をやる。
先生は、庭ばさみを手に取る。
「ここはね、このくらいで切るんだよ。」
枝を整えながら笑う。
「お花を植えるなら、この辺がいいね。」
雑草を見つけると、
「一本ずつじゃ大変だからね。」
そう言って、根元からするりと抜いてみせた。
私は、隣で同じようにやってみる。
できた、先生が笑う。
「上手、上手。」
そんなふうに褒められたのは、
いつぶりだっただろう。
娘は庭を走る。
「ママ、みて!」
小さな手いっぱいに、
葉っぱや石を抱えてくる。
「きれいだねえ。」
気づけば、
その言葉は私の口ぐせになっていた。
先生の言葉だった。
あとになって知った。
先生は、幼稚園の先生を、
五十年続けてきた人だった。
副園長先生だった、と。
だからだったのか。
娘を急がせなかったことも。
私を責めなかったことも。
何ひとつ、不思議ではなくなった。
先生は、
子育てを教えてくれたわけじゃない。
暮らしを教えてくれた。
季節を教えてくれた。
待つことを教えてくれた。
そして、
子どもを見る前に、
お母さんを見てくれた。
木曜日になると、
今でも先生を思い出す。
娘と歩いた帰り道、
風の匂い。
夕暮れの空。
カエルの声。
急がなくてもいい。
今日できなかったことは、
明日でもいい。
そんなふうに思えるようになった。
庭のヒメシャラは、
少しずつ枝を伸ばしている。
娘も、
少しずつ大きくなっている。
そして。
あの日、
「誰でもいいから助けてください。」
そう電話をかけた私も、
きっと、少しだけ。
大きくなれた。
先生が言っていた。
「この木は大きくなるよ。」
あれは、
ヒメシャラのことだけじゃなかったのだと思う。
夏のはじめ。
庭を渡る風が、
葉を揺らしていた。
遠くで、
カエルが鳴いていた。
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