
モツ鍋みたいな人生
私は、1983年生まれの現在43歳。同級生は東京ディズニーランドとファミコンという、エンタメ・遊びの申し子世代である。
実際、私が10代の頃は漫画にアニメに音楽に映画に、いろいろなエンタメに触れては遊んでいた。
漫画は小学生の頃に読んだ少女漫画誌『なかよし』を入口に、美少女戦士セーラームーンや魔法騎士レイアースといった戦う女の子にハマった。弟がいるお陰で戦隊モノにもハマり、ダイレンジャーやカクレンジャーにも胸を躍らせた。戦いを読んでは、戦いを見る日々。
中学生になると愛読書は『別冊フレンド』。『MARS』『ピーチガール』『恋文日和』などの恋愛漫画に胸をときめかせては、ヒャー!!と頬を手で覆った。
アニメもNHKからキッズステーションまで多数見ていて、なんといっても衝撃は14歳のときに放送されたエヴァンゲリオン。映画(いわゆる旧劇場版)も観に行き、ストーリーに演出にいろんな衝撃を受け、良いトラウマも植え付けられた。今でもたまに観るぐらい、旧劇場版は好きだ。
小学校高学年からラジカセで音楽を聴くようになり、高校生の頃にCDレンタル屋ができてからは貪るように聴いた。aikoや宇多田ヒカルや椎名林檎、GLAYやL’Arc~en~Ciel、浜崎あゆみに倖田來未、それからSOUL'd OUT、RIP SLYME、スーパーカー、PE'Zなどなど、挙げるとキリがない。
自宅でパソコンを使い始めたのが2003年で、当時19〜20歳。やがてブログが流行った。私は好きな音楽や漫画をブログで長々と語り、これが後に思わぬタイミングで仕事につながる。
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20代に入ると、夜遅くまで遊ぶようになり、カラオケが遊びの筆頭に。生まれ育った宮崎市にもカラオケが増え、当時はシダックスで歌いまくっていた。カラオケでオールした後、ファミレス『ジョイフル』でモーニングを食べて帰宅したのはいい思い出だ。なんと若いこと。
実家暮らしだった20代は、体力も使えるお金も今よりあった。エンタメにも遊びにも、大いにお金を費やした。
恋人ができると、ドライブで遊ぶエリアが一気に広がる。大分の城島遊園地(城島高原パーク)でジェットコースターに乗って叫んだり、阿蘇へ弾丸旅行したりした。明け方からドライブし、車中泊するのも楽しかった。
体力がある20代。単純な話、徹夜すれば遊ぶ時間が増える。
徹夜でカラオケし、帰宅して寝て、翌日の14時から22時まで飲食店でバイト。バイトが終われば、また遊ぶ。カラオケ、ネットカフェ、ラウンドワンなどのエンタメ施設が宮崎市内に増えてきた時期で、遊ぶ場所に困らなかったのも大きい。
22歳のときには、九州最大級のイオンモールがまさかの地元宮崎市にオープン。休みの日や仕事帰りに「イオンに行く」という選択肢ができ、映画館や服屋や書店へ気軽に行けるようになった。イオンも転機の一つだ。
「フリーター」という言葉がメディアでもネットでも会話でも使われるほど、非正規雇用が多い時代。将来のことは多少気にしつつも、氷河期世代ド真ん中。収入が少ないことはもちろん気にしていたが、どうにか生活できるし、なんとなく「まだ若いんだから、この先どうとでもなるだろう」と楽観的に将来を捉えていた。
体力はあるし、チャレンジもしやすい年代。好奇心旺盛かつ知識を増やしたかった私は、働きながら中小企業診断士という激ムズ国家資格に挑戦し、華々しく散った。日商簿記3級は合格し、今にすこぶる活きている。
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30代も遊んでは働き、遊んでは働いた。
職歴はバイトがほとんどを占め、正社員として雇われるのは困難を極めた。せいぜい契約社員か派遣社員。しかし、最低賃金に近いバイト時給700円に比べれば、時給は倍ほど増えたので、20代よりはずっとマシに思えた。
30代も相変わらずエンタメに時間もお金も費やし、漫画に映画にカラオケに楽しんだ。
Amazon Prime Videoの登場は画期的だった。映画やテレビ番組が見放題。さらに、TSUTAYAやGEOで100円レンタルの日もあり、「気になってるのになぜか観ていない映画」を観るようになった。特に覚えているのはスター・ウォーズと007。あまりの面白さに、劇場公開された新作を観に行ったのはいうまでもない。
恋人(今の夫)の影響で、30代は自然にも目が向くようになった。
私が住んでいた宮崎市某所は海沿いで、車を30分ほど走らせれば山もある。自然を楽しむには格好の場所で、桜や紅葉、海や月の道など、各季節を楽しんだ。機会があれば、太平洋を一望できる『道の駅フェニックス』にぜひ足を運んでほしい。
10代も20代も、自然に興味がなかったわけではない。ただ、若い頃は人工物、そして友人や恋人と遊ぶほうが圧倒的に魅力的だった。ドライブで海へ行くことはあっても、重要なのは車や流す音楽や会話。海はおまけのようで、いわば背景。海を見て「きれい」「素敵」とはもちろん思うが、「この後ラウンドワン行く?」のほうが数百倍惹かれた。
20代にそれなりに遊んだからなのか、30代になると人工物よりも、見に行ったことがない自然に惹かれるようになった。
宮崎で特に有名な観光地、高千穂峡に初めて訪れたのは31歳のとき。自然にできたとは思えない柱状の岩壁は、写真を今見返しても信じられない。青島の海に満月が作り出す月の道は何度見ても美しく、えびの高原に広がるススキの良さにようやく気づいたのは32歳。
31歳、すなわち2014年はnoteがスタートした年でもある。私はすぐさま使い始め、「4コマなら漫画描けるかも?」と思い、4コマを掲載。約1年かけて第100話の最終回まで描いた。2016年から別の4コマシリーズを連載中で、10年経った現在も描き続けている。
自然に触れ、派遣のコールセンターの仕事にすっかり慣れ、映画やゲームなどのエンタメを恋人と楽しみ、「このまま宮崎でのほほんと暮らすんだろう」と思っていた矢先、人生の転機オブ転機が2015年、32歳の冬に訪れた。
恋人の転職に伴い、京都へ2人で引っ越したのだ。人生初めての県外暮らしがスタートした。
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京都は、中学・高校の修学旅行で2度行っている。中学は私立、高校は公立という特殊な学歴のためだ。
金閣寺は2回訪れたが、見入った記憶はない。唯一覚えているのは、賽銭箱。賽銭箱に投げたはずのお金が枠に当たって外に飛び出し、友達と「返ってきた!」とゲラゲラ笑ったことだけ。10代の私にお寺や日本庭園の良さは分からず、京都の代表的な商店街である新京極のほうが輝いて見えた。
約15年ぶりに訪れ、住むことになった京都。
32歳の目に映った京都は、まるで違った。
鴨川、嵐山、鞍馬山。見たい景色は自然のほうが多く、実際に見ると実に素晴らしかった。季節や天気や時間帯で姿を変え、どこにいつ行っても飽きない。枝だけの木も繊細で美しいと感じ、楽しめるようになった。
また、京都は歴史的な建造物が多い。金閣寺の他、銀閣寺に清水寺、龍安寺、建仁寺など、お寺はいくつも訪れた。美しい日本庭園や木々も楽しめる。桜の花びらで水面を埋め尽くす花筏は銀閣寺近くで、空間いっぱいに赤やオレンジなどのグラデーションが広がる紅葉は東福寺で愛でた。
新京極は変わらずお店が立ち並び、活気がある。商店街は新京極だけではない。碁盤目状にお店が連なり、一日では歩き回れないほど商店街が広い。宮崎市の商店街の何十倍もあるだろう。
京都国際マンガミュージアム、太秦映画村といったエンタメ関連の施設も忘れてはならない。大阪には阪急電車で1時間程度で行けたので、きらびやかなで賑やかなUSJや道頓堀も満喫した。
鴨川を眺めながら夫(京都で入籍した)と語る日もあれば、お寺巡りで歩き疲れる日も。時にはジャンカラで歌いまくって始発の阪急電車で帰り、時には祇園祭の人混みに揉まれて前に進めない日もあった。
そして何より、京都は毎年のように雪が降る。
宮崎市内に雪が降るのは、年に数回あるかないか。降ったとしても、よくよく見ないと虫と区別がつかないほどの塩ひとつまみのような量。京都で雪が積もるたび、写真を撮った。あまりにも雪が嬉しく、寒いなか出かけたくない夫を家に残し、一人で八坂神社まで雪を堪能した日もある。
一方で仕事は、京都の方ばかりで人間関係があまりうまくいかなかったり、業務量が増えたのに給料が変わらなかったりと、書けないことから書けないことまで、まあいろいろあった。
そして30代は、20代にはなかった苦しみがある。求人票の「35歳まで」「40歳未満の方」がいよいよ現実に迫り、転職して正社員で働けるか?希望する職場が見つかっても応募できるか?といった重い不安がつきまとう。
仕事への不安を抱えていたが、私は運がいいらしい。
30代半ばに「Webライター」というネット記事を書く仕事があることを知った。働き方の選択肢に「フリーランス」はこれまでアウトオブ眼中。20代から趣味で書いていたブログが大きく活き、テストにすぐさま合格し、フリーランスのWebライターとして今も働いている。
しかし、慣れないうちは時間の見積もりが甘く、1記事8時間(フルタイム)で終わるだろうと思っていた記事を書き終えられず、徹夜して16時間かけて納品した。
フリーランスは最低賃金法が適用されない。一番きつかった仕事は文字単価0.5円の記事で、5,000文字書いても2,500円。当時の私は1,000文字書くのに早くても1時間かかっていたので、5時間で2,500円。時給換算で500円は心底辛かった。20代のバイト時代よりも稼げないのは、床に沈んで消えたいくらい辛すぎた。
一方で、在宅勤務のフリーランスには、好きな時間に好きな場所で働ける自由がある。コロナ禍も気にせず自宅で働けて、暇になるどころか、むしろ仕事が増加。20代よりも体力が落ちたとはいえ、30代はまだ徹夜できたため、コロナ禍中も時には徹夜し、どうにか納品した日もある。
ただ、職場が自宅で、日中はほぼ一人。イスに座る時間が長く、コロナ禍でより運動不足に。嵐山や河原町を歩きまくった日々など嘘のように、歩く時間は減り、イスがもはや親友。
コロナ禍も京都に住んでおり、出かけるのはコンビニやスーパー、ドラッグストア程度になった。もっぱら自宅でエンタメを楽しむ時間が増え、映画、テレビ、ゲームが大きな割合を占めた。関西はチャンネルが多い上に、お笑い番組が非常に多い。テレビを見る時間も格段に増えたのがコロナ禍だった。(余談だが、宮崎は民法2局しかない)
30代は、好奇心がさらに広がった時期といえる。自然も街も、人にもエンタメにも興味がある。
いろんな興味が重なって混ざった結果、38歳のときに長編小説を初めて書いた。〆切が近かった文学賞に応募するため、仕事をしながら小説を勢いで書き進め、〆切間近は徹夜が続き、約2ヶ月で原稿用紙約350枚、約11万文字書いた。中小企業診断士の勉強をしていた頃を思い出す。あれも勢いだった。
これまでに見た山やビル、これまでに聞いた音楽や鳥の鳴き声、これまでに経験した仕事や恋愛など、すべてを小説に活かせる。Webライターを経て、校正・推敲も多少は慣れており、小説はうってつけの選択肢だった。
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そして、39歳。2023年1月。また転機を迎える。
義母の体調が思わしくなく、夫の意を汲み、夫の実家がある福岡へ引っ越した。コロナ禍に京都から宮崎へすぐさま帰省できなかった後悔もあり、九州に戻るのは私も賛成だった。
「お義母さんのベッドから見えるように、庭に花を植えよう」
「ご両親も一緒にできるボードゲームがあったら、楽しいかも」
など、分からないなりに楽しみを考えた。
しかし、明るい未来には裏切られ、義両親と夫、私の4人で過ごした時間はおそらく1年にも満たない。
正直なところ、喜怒哀楽が混ざりに混ざった怒涛の3年を過ごした。
引っ越した年の秋に父が亡くなり、その翌年には義父と義母が死去。
当然ながら、人はいつか死ぬ。分かっているが、どこか現実味を帯びていなかった。父、義両親が亡くなり、死は突然身近になった。
新緑に心を奪われる春も、
突き刺すような日差しを浴びる夏も、
紅葉を写真に収める秋も、
雪を窓辺でひたすら眺める冬も、
いつまでも楽しめるわけではない。
人生はいつか終わるし、この先どうなるか分からない。この一年だけでも、AIや技術やなんやかんやが目まぐるしく変化している。
私も変化している。年を重ねるにつれて体力は落ち、回復に時間がかかる。徹夜はもうできなくなった。つまり、一日に過ごせる時間が減っている。
どうせなら、限られた時間をなるべく楽しく過ごしたい。父も義両親も亡くし、よりそう思う。
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義両親が亡くなり、悲しくも広くなった戸建てに夫と2人で暮らしている。一室には夫のドラム、私のベースを置いて「音楽室」と呼び、ありがたく使わせていただいている。夫と楽器でセッションするという趣味が加わった。
Webライターとして記事を納品する日々は長く細く続き、途中でディレクターを経て、来年でフリーランス10年目。担当していたサイトが閉鎖したり、新たなサイトの立ち上げに携わったりと、紆余曲折ありつつも、在宅での仕事は続いている。日商簿記3級は確定申告で非常に役立っている。
自宅では、鳥や犬の鳴き声がよく聞こえる。風格のある厚揚げ色の野良猫も近所にいて、たまに道の中央をファッションショーの如く堂々と歩いている。夜や明け方に聞こえる「ヒョヒョヒョヒョヒョ」の鳴き声がホトトギスと知ったのは、最近のことだ。
福岡に公園が多いのは意外だった。ドライブがてら公園を探し、ウォーキングする日もある。相変わらずイスに座る時間が多く、意識して歩くようにしている。イオンやアウトレットもいい散歩コースだ。
最近気になるのは、ヤモリ。照明をつけると、時々ヤモリが窓に張り付いている。窓に足の裏をピタッとくっつけ、窓に止まる蛾をじっと狙っている。ほとんど動かず、白いシルエットがとても可愛い。
福岡も雪が降る。雪は未だに嬉しく、夫が寝ていても一人で外に出て、雪に触れては写真を撮った。
20代は、どちらかというと派手なほうに惹かれた。大きな音、巨大な施設、都会、結婚、正社員。若く、体力はあって、未来は明るく見えた。低賃金の非正規雇用者なのに、「何か成すだろう」と楽観的過ぎでもあった。
30代で京都に移り住み、自然や歴史に触れつつ、エンタメも楽しんだ。書くことが好きだと今さら気づき、Webライターの道を歩む。少しずつ、自分が得意なことが分かり始める。レボリューション。
40代の今。フリーランスを粘り強く続け、現状に満足している。日々の楽しみには自然に歴史にエンタメ、さらに自宅周辺が加わった。部屋で聞こえる鳥の声、近くの公園やお寺、季節で変わる道端の花々や木々たち。
40も過ぎれば体力は衰え、徹夜はもうできない。時間がない。ただでさえ時間がないのに、好きなものが増えた。「楽しい」「知りたい」「作ってみたい」と思えることが雪だるま式に増えている。これは困った。
以前は小説を執筆し、今はゲーム作りに夢中だ。どれもヒットを狙ってはいるが、どうなるかは完成させないと分からない。作っている過程そのものが楽しく、それはいつか何かのヒントになったり、種になったり、運が良ければ花が咲く。そう信じている。
小さな楽しみを積み重ねれば、人生を「楽しい」で包める。喜怒哀楽、どうせなら喜・楽が多いほうがいい。
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人生の積み重ね方は人それぞれだ。
年輪のように幹を少しずつ太くしながら人生を積み重ね、大木の如く大成する人もいるだろう。
もしくは、先日完成したサグラダ・ファミリアのメインタワー『イエスの塔』のように、誰かの力を借りながら、じわじわと一つの目標に近づく人もいるだろう。
私は、モツ鍋のように人生を積み重ねてきたかもしれない。
火をかける前のモツ鍋は、モツやニラやキャベツやゴボウや豆腐などの具材が字のごとく“山のように”重なっている。
そこに味噌や唐辛子やニンニクなどの調味料を入れ、火にかける。
やがて具材も調味料も馴染み、格別の一つの鍋に仕上がる。
〆となるちゃんぽん麺は、旨味を吸い取って深いコクがあり、大変旨い。
漫画や映画や音楽に、鳥や海や花などの自然が加わる。さらにいえば、夫や家族や友達やご近所さんなど、出会った人たちも加わる。
モツ鍋を煮込むように、いろんな要素や経験が積み重なって馴染み、時間をかけて私の人生になる。それは当たり前で、大したことではないかもしれない。しかし、とても大事なことだと思うのだ。
年を取ると、悲観しやすい。
求人票の年齢制限に引っかかり、応募できないと知ったときの悲しさたるや。体力がなく、歩き回った翌日は寝転んでポッドキャストを聴くぐらいしかできない悲しさ。今の流行りについていけず、最近テレビに出ている俳優やアイドルを知らない悲しさ、という名の老い。
でも、だからといって、将来が暗いと確定したわけじゃない。
年を取るにつれて、楽しめるようになったものが追加される。モツ鍋にお餅や明太子を追加すれば、また違う味わいがあるように、楽しみを追加すると人生が少し豊かになる。
たとえば、普段何気なく通り過ぎている道。タンポポの綿毛が飛んだり、送電線が佇んでいたり、バッタが跳ねたり、見渡すと山だらけで「盆地だ」と気づいたりする。遠出して道の駅に行くと、知らない野菜が売られていることもある。
まだ見向きもしない、私が気づいていないものが地球上にたくさんある。これからもっともっと楽しみが増えると思うと、人生は少し明るい。
楽しみの範囲が広がると、自分でも楽しみを作ってみたくなる。
「ブログで自分の好きな音楽について語ってみよう」
「4コマ漫画を描いてみよう」
「長編小説を書いて応募してみよう」
「やってみよう」は楽しい。たとえ、お金につながらなくても(もちろん、いつだってつながってほしい)
やってみるのは、単に楽しいだけではない。特に、完成させるまでラクではない。ブログだってこのエッセイだって、完成まで試行錯誤してそれなりに時間がかかる。苦しいけれど、楽しい。
モツ鍋だって、自宅で作ろうと思えば、材料を買ったり切ったり下処理したり大変だ。ご飯も炊かなきゃいけないし、食後は皿洗いもある。けれど、楽しい。美味しい。
これから、じわじわと人生の〆に向かう。
私の人生に染み込んだ膨大なエンタメや自然や仕事を〆のちゃんぽん麺のように絡ませ、楽しみながら味わいたい。
ただ、悲しくも時間は限られる。
ベースの練習、映画鑑賞、読書、庭仕事、イラスト制作やゲーム作りなど、自宅でやりたいことだけでも山積み。それに、未知の場所だって散歩したいし、金印が発見された志賀島にもそろそろ行きたい。
楽しみは、大きくても小さくてもいい。優劣などない。楽しみの数が重要だと私は思う。楽しみが増えるほど、人生は豊かになる。時間をかけてたくさんの具材をぐつぐつ煮込み、味わい深くなるモツ鍋のように。
大木や塔に比べれば、鍋はとてもとても小さい。自分だけの小さな大切な鍋に少しずつ具材を増やし、大事に大事に馴染ませ、いつか何かに育ってくれたらと願う。
エンタメ・遊びの申し子世代にふさわしく、40代も50代も60代もその後も、抜いては生える庭の雑草から遠い遠い見知らぬ宇宙まで、幅広いものに興味を持ち続けたい。