
第五章 05 エピローグ
◇ 野生の王国
二月の半ば。
「血祭り」のフロントマン、吉野さんが楽屋に顔を出した。
革ジャンにバンダナ。五十代半ばの体格の良い男だ。
普段は商店街の肉屋のオーナーで、てっちゃんがすき焼きの肉を買いに行く店でもある。
「おう、凪。今日はよろしくな」
「こちらこそ。吉野さんの前だと、やりづらいんですけどね」
「あはは。俺らはもうジジイだから、若いもんに場を温めてもらう方がありがたいよ」
吉野さんは豪快に笑った。
この人のバンドは地元で三十年以上やっている。
対バンの相手としては、格が違う。
だが、吉野さんは俺たちの音楽を気に入ってくれていて、健ちゃんが抜けた後、動き出した俺達に「お前ら、うちと対バンやれ」と声をかけてくれたのだ。
「石上の兄ちゃんが抜けたって聴いたときは驚いたし、あの声は惜しいけど、お前の歌、Eternal Refrainだっけ。あれ、悪くなかったぞ」
「ありがとうございます」
「お前の声は、まだ赤身だけど、筋は良い」
「赤身って……」
「褒めてんだよ。霜降りなんざ、歳くってから勝手に入る」
吉野さんは俺の肩をバンと叩いて、自分たちの楽屋へ戻っていった。
キャパ百人の少し小さなハコ。
血祭りの持ち客と、俺たちの固定ファン、それに対バンの告知を見て来てくれた人たち。
満員とはいかないが、九割は埋まっている。
キャパ300の箱を埋めていたのは、健ちゃんだったのだと、改めて痛感した。
楽屋の壁に貼られたセットリストを確認する。
五曲。Eternal Refrainはラストだ。
ベンツがドラムスティックを回しながら、鏡の前で髪を整えている。
こいつはライブ前に必ずこれをやる。
金髪が蛍光灯の下で揺れている。
てっちゃんはベースを膝に乗せて、右手の指を軽く動かしている。
ウォームアップのフレーズが、アンプを通さずに、木と弦だけの小さな音で鳴っている。
俺はIbanezのチューニングを済ませた後、スマホを開いた。
LINEの通知が二つ。
木山さん:『着きました! 中務さんと一緒です。
二人ともめっちゃ緊張してます笑 頑張ってください!』
彗:『聴きに来たよ』
短いメッセージ。彗らしい。
俺はスマホをポケットにしまった。
「ベンツ」
「なんや」
「健ちゃん、来てるかな」
「知らん。来てるかもしれんし、来てないかもしれん。
つーか、気にすんな。俺らは俺らの仕事すればええ」
「……だな」
「そや。ほら、そろそろ行くで」
照明が落ちた。
SEのボリュームが上がる。
フロアから、低いざわめきが聞こえてくる。
百人の箱は、三百人の箱とは空気が違う。
距離が近い。呼吸が聞こえる。
客の顔が、暗がりの中でもぼんやりと見える。
俺たちは、光の中へ出た。
ベンツのカウントが鳴る。
一曲目から、会場の空気を掴みにいく。
三人の音が鳴った瞬間、
百人の箱が、俺たちの音で満たされた。
ボーカルがギターを兼ねる三人編成。
四人の時とは、音の構造が違う。
隙間が多い。その分、一つ一つの音が剥き出しになる。
ベンツのドラムが広く聴こえる。
てっちゃんのベースが、以前より前に出ている。
俺のギターは、歌の合間を縫うように入る。
健ちゃんがいた頃の野生の王国とは、もう違う。
ベンツ風にいうと「別もん」だ。
だが、これが今の俺たちだ。
四曲目が終わった。
俺はギターのストラップを直しながら、一度マイクから離れた。
水を一口飲む。
ステージの照明が、少しだけ落ちた。
客席を見渡す。
前方の右寄りに、木山さんと彗が並んでいた。
木山さんはドリンクを両手で握りしめている。
あの頃と同じだ。
彗は静かに立っていた。
大きな目が、真っ直ぐにステージを見ている。
その後ろ、少し離れた場所に、壁にもたれるようにして立っている男がいた。
見間違えるはずがない。
革ジャンに、少しだけ伸びた髪。
無造作に腕を組んで、人懐っこい笑顔を浮かべている。
健ちゃんだ。
目が合った。
健ちゃんが、小さく顎を引いた。
(……来てたのか)
胸の奥が、一瞬だけ熱くなった。
だが、すぐに収まった。
今の俺は、ステージの上にいる。
マイクに向かった。
「ラスト一曲です」
客席から拍手が起きる。
「この曲は、俺たちが三人になってから初めて録った曲で、俺が初めてボーカルレコーディングした曲」
「あぁ。ベンツもこの曲からコーラスはじめたんですよ」
客席から「ベンツー!と、声がかかる」
ドンドン!ダン!
ベンツがキックとスネアで答えた。
「なんや男ばっかりやん」
「ベンツー」「ベンツさーん」
今度は女子の声が多かった。
「よしよし、それでええねん」
笑いが起こる。
その中に木山さんが混じっていたのが可笑しかった。
俺は、少し間を置く。
「俺たちのライブに来てくれた人なら、この曲が誰のことか、分からない奴はいないよな」
客席が少し沸いた。
常連は分かっている。
配信を聴いた人も、分かっている。
「Eternal Refrain」
ベンツのスティックが、三拍のプレカウントを刻んだ。
ダン・ダン・ダン。
俺のギターが鳴った。
Mark Vのクランチが、百人の箱を一気に塗り替える。
ベンツが全開で入ってきた。
今日のベンツは、最初からデカい波を作りに来ている。
てっちゃんのベースが、その下に潜った。
ルートを丁寧に、だが力強く。
三人の音が、一つの呼吸になるまでに、レコーディングの時と同じ、ほんの数秒。
Aメロに入る。
俺はミュートしたパワーコードを刻みながら、歌い始めた。
マイクを通した自分の声が、モニタースピーカーから返ってくる。
録音の時とは違う。
目の前に健ちゃんがいる。
With my guitar under the dawn sky
The days I ran chasing dreams
声が、出ている。
レコーディングの時より、少しだけ強い声が出ている。
百人の視線と、バンドの音圧と、この場所の空気が、俺の声を後押ししている。
サビに差しかかる。
Now on different paths, pursuing different dreams
But still, our hearts are connected somewhere
ここで、俺はほんの一瞬だけ、客席の奥を見た。
壁際の健ちゃんが、腕を組んだまま、ゆっくりと目を閉じていた。
聴いてくれている。
あの人が、俺の声を聴いてくれている。
The eternal refrain is echoing
The sounds of those days are still in my heart
サビを歌い切った。
ベンツのシンバルが大きく開いた。
レコーディングの時と同じだ。
健ちゃんの声が入るべき場所を、金属の響きで空けている。
だが、今日はそこに、俺の声がある。
ブリッジに入る。
ベンツが抑える。てっちゃんが引く。
俺はミュート気味のコードを刻みながら、語りかけるように歌った。
The vibrant impulse from the strings
The melody is still alive
三拍のプレから、最後のサビになだれ込む。
ギターの音量を上げた。
白玉のコードをかき鳴らす。
ベンツが全開。てっちゃんのベースが唸る。
三人の音が、百人の箱の壁を押し広げていく。
最後のコーラス。
ここで、ベンツの声が重なった。
てっちゃんの声が、その上に乗った。
The eternal refrain is echoing
The sounds of those days are still in my heart
三つの声が、ステージから客席に放たれた。
楽器を持ったまま歌う三人の声は、レコーディングの時よりも荒くて、レコーディングの時よりも熱かった。
アウトロ。
俺のリードギターが、歌のメロディをなぞる。
テクニカルなフレーズじゃない。
歌うように弾く。
Mark Vの真空管が、最後の音を受け止めて、倍音をきらきらと撒き散らした。
音が減衰していく。
ベンツのキックが消える。
てっちゃんのベースが手放される。
俺のギターの最後の一音が、アンプの余韻の中で、ゆっくりと薄れていく。
静寂。
一秒。
拍手が来た。
百人の拍手は、三百人の時ほど大きくはない。
だが、一つ一つの手の音が、はっきりと聴こえた。
俺は顔を上げた。
ベンツがスティックをスネアの上に置いて、こちらを見ていた。
いつもの不敵な顔。だが、目だけが笑っている。
てっちゃんがベースのネックを握ったまま、静かに頷いた。
客席の前方で、木山さんが両手で口を押さえていた。
彗は、ただ真っ直ぐに俺を見ていた。
あの、アトリエで鉛筆を握った時と同じ目で。
そして、壁際の健ちゃんが、目を開けた。
泣いてはいなかった。
あの人は、泣く代わりに笑う人だから。
健ちゃんは、ニカッと笑って、右手の親指を立てた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
俺はマイクに向かって、
「ありがとうございました」とだけ言った。
ステージの照明が落ちる。
暗転の中で、拍手がまだ続いていた。
俺は暗がりの中で、ギターのネックを握りしめたまま、しばらくそこに立っていた。
健ちゃん。
聴こえたか。
俺の声。
俺たちの声。
あんたに届けたかった、永遠のリフレイン。
『あとは頼むぞ凪』
あのときは、ほんと、どうしようって思ったんだよ。
健ちゃんが居たから、ベンツとてっちゃんが居たから。
ケイが居たから。そして彗と木山さんが居たから。
健ちゃんの「野生の王国」は終わったかもしれないけど、いつでもここに帰ってきてよ。
暗転の向こうで、血祭りの吉野さんの声が響いた。
「おう、凪! 良いライブだったぞ! 次は俺らの番だ、客席で見とけよ!」
俺はギターを下ろして、笑った。
ステージの袖から見えるフロアには、まだ拍手の余韻が残っている。
その向こうに、俺たちの音楽を聴いてくれた人たちがいる。
仲間がいる。
あの人がいる。
彼女がいる。
二月の空よりも高い場所から、冬の光が、小さなライブハウスの窓に差し込んでいた。
僕がラブソングを歌うまで(了)