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記憶のない朝に、なお「私」と呼べるのか

    もし明日、記憶だけが完全に消えていたとしたら。
    その存在を、昨日と同じ「あなた」と呼ぶ根拠はどこにあるのか。
    私たちは本当に、同じ自分が続いているのだろうか。

    昨日のことを思い出せない。
    自分の名に手を伸ばしても、指先は空をつかむ。

    家族の顔も、仕事の輪郭も、何を愛し、何に怯え、誰を赦し、誰に赦されなかったのかもわからない。
    過去は捨て置かれた図書館のように沈黙し、書架だけが薄明かりの中に立っている。

    それでも、身体は目を覚ます。
    何か食べたい、空がまぶしい、まだ眠い、もう一度眠るべきか。
    いや何かを、しなければならないのではなかったか。

    窓の外で鳴くヒヨドリの声に、理由のない寂しさが胸をかすめる。
    何かが、たしかにここにある。

    だが、その「ここにあるもの」は、本当に昨日までのあなたと同じ存在なのだろうか。

    私たちはふだん、この問いを問いとして扱わない。

    昨日の自分と今日の自分は同じものだと、ほとんど無意識に信じている。

    その連続を疑うことは、重力の存在を疑うのと同じくらい、日常の外にある。

    けれど、少しだけ立ち止まってみれば、その確信は意外なほど頼りない足場の上に立っている。

    私たちに確実に認識できるのは、つねに「今」だけである。
    意識は現在形でしか訪れない。

    昨日の私に直接触れることはできず、明日の私を先回りして所有することもできない。

    私たちはつねに、この瞬間の明るさ、この瞬間の痛み、この瞬間の手触りの中にしかいない。

    それなのに、私たちは平然と「私は昨日も私だった」と言う。

    その言葉は、おそらく事実の報告ではない。
    もっと静かで、もっと巧妙な編集の結果である。

    記憶とは、金庫の中に保存された過去ではない。
    私たちはそう思いたがるが、実際には、記憶は思い出されるたびにつくり直される。

    ひとたび取り出された過去は、もはやその時点で過去そのものではなく、現在の光の当たり方に合わせて書き換えられた、別の文脈で書かれた日記。

    思い出とは再生ではなく、再構成。

    つまり私たちは、過去を読み返しているのではない。

    過去らしきものを、そのつど都合よく思い出している。

    あのとき私はたしかに傷ついた。
    あの夜、あの人はたしかにああ言った。
    私たちはそう語る。

    が、その「たしかに」は、どこまでが出来事で、どこからが現在の自分による整序なのだろう。

    記憶は、海底から引き揚げられた遺物ではない。

    むしろ、引き揚げるという行為そのものの中で形を変えてしまう、濡れた粘土に近い。

    そして脳は、その不確かな断片を放置しておくことを嫌う。

    散らばった光景、食い違う感情、辻褄の合わない選択、それらをひとつながりの筋へと縫い合わせ、「これが私だ」という物語を作る。

    自我とは、その物語の題名なのかもしれない。

    変わらぬ核ではなく、断片を断片のままにしておけない精神の習性。
    まるでパッチワークみたい。
    大きなつぎはぎは、芸術的である。

    だとすれば、「私」という感覚は、実体というより様式である。

    石のようにそこにあるものではなく、絶えず保たれている形式。川の水が絶えず入れ替わりながらも、なお川と呼ばれるように、私たちもまた、入れ替わり続けるものに名前を与えているだけなのかもしれない。

    では、その形式が途切れたとき、何が残るのか。

    仮に完全な記憶喪失が起きても、呼吸は残るだろう。
    左に偏る歩き方も、匙を持つ手つきも、説明できない好悪の偏りも、あるいは残るかもしれない。

    ある音楽にだけ胸がざわつき、ある色にだけ理由もなく安堵することもあるだろう。
    だが、それらを寄せ集めれば「同じ人間」になるのか。
    同じ身体であることと、同じ存在であることは、ほんとうに同じ意味なのか。

    法は、その人を同じ人だと言うだろう。
    マイナンバーでの顔認識、指紋も、同一性を支持する。
    周囲の人々も、その人に向かって以前と同じ名を呼ぶ。

    だが、それらは社会が必要とする同一性であって、内側から感じられる「私」とは別の層にある。

    身体の連続は、意識の連続を保証しない。
    名前の持続は、魂の持続を証明しない。

    それでも私たちは、「私は私である」と言い続ける。
    なぜか。
    おそらく、それが真実だからではない。
    そうでなければ生きていけないからだ。

    自我の連続性とは、世界を破綻させないための、きわめて有能な仮説である。
    昨日の約束を今日の私が引き受けるために。
    過去の過ちを悔い、未来の自分に希望を託すために。
    愛情が一夜ごとに他人へ流れ去らず、責任が朝ごとに白紙へ戻らないために。
    「私は続いている」という感覚は、真理というより、生活を成立させるための装置なのだ。

    だからそれは、虚構であっても無価値ではない。
    むしろ人は、必要な虚構によってしか人でいられない。

    カシオペア座がただ離れた星々を人間が勝手に線で結んだものにすぎないとしても、その線が夜空を読むための手がかりになるように、私たちの自我もまた、ばらばらの経験に引かれた仮の線である。

    仮の線でありながら、それがなければ夜を夜として見渡すことができない。

    もし、あなたの完全な複製が作られたら、それはあなたなのか、という問いである。

    記憶も同じ。
    性格も同じ。
    ためらいの癖も、笑う間合いも、ひそかな恥も同じ。
    複製されたその瞬間まで、両者の内面は寸分違わず重なっている。

    にもかかわらず、多くの人はそこに「別の存在」を感じるだろう。
    なぜなら、私たちが「自分」と呼ぶものは、性質の一致だけでは足りないからだ。

    そこには、誰にも引き渡せない一点の主観、世界がこの場所から見えている、という感覚の偏りが含まれている。

    しかし、その偏りすら、本当に連続していると言えるのだろうか。

    眠り、麻酔、失神。

    意識は毎日、小さな断絶をくぐっている。

    それでも私たちは、翌朝、何食わぬ顔で同じ自分として起き上がる。
    それは、連続しているからというより、連続しているように縫い直す力が、私たちの中にあまりに自然に備わっているからではないか。

    私たちは、切れ目のない一本の糸なのではない。
    むしろ、切れ目のたびに結び直されている糸である。
    しかも、その結び目があまりに小さく、あまりに滑らかなために、自分でもその存在に気づかない。
    「同じ私が続いている」という感覚は、その見事な縫合の手際が生む錯覚なのかもしれない。

    もしこの考えに触れて、自分というものの輪郭がほんの少し曖昧になったとしたら、それは破綻ではない。

    硬く閉じていた前提が、一度だけゆるんだのだ。
    そして人は、ときにそのゆるみの中でしか見えないものに出会う。

    私たちは完成された主体としてここにいるのではない。
    いまこの瞬間ごとに、かろうじて「私」という形を保ちつづけている。
    記憶があるから私なのではない。

    物語を編まずにはいられないから、私なのだ。

    そう考えると、私はずいぶん危うい。

    だが同時に、その危うさこそが、人間という存在のもっとも静かな核なのかもしれない。

    崩れやすいからこそ、編み直す。
    途切れるからこそ、つなごうとする。

    私たちの自我は、鉄ではなく、灯りに似ている。

    風が吹けば揺らぐ。
    闇の中では輪郭を失いかける。

    それでもなお、消えきらぬ明るさで、「ここに誰かがいる」と世界に知らせつづける。

    そしておそらく、私たちが「私」と呼んできたものは、その灯りのことなのだ。

    4月14日検査 麻酔の日

    この話は「記憶の臨界点」というシリーズの一部です。

    断片として読むこともできますが、通して読むと少し違う景色が見えます。

    全体の構造は、こちらにまとめています。


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