
努力の仕方と教え方について
成功体験が自信になるのは分かるが、手当り次第にチャレンジすることを手放しには勧められないなと思う
なんでも成功できるとは限らないからだ。
人はおよそ失敗の体験を積めば積むほど簡単に自信を失っていく。
その結果として努力そのものが苦手になるのは本末転倒だ。ものごとに消極的になるといった負の要因になることも少なくない。
それに、自信喪失を起因とした無気力からの脱出はとても難しいことだ。
あれやこれやと手を出し、なにに取り組むのかを選ばずなんであろうともがむしゃらにやれるというのが本人の意思ならばそのようにやることは止めない。
しかし努力する本人でなく、教える立場にある者がそのような頑張り方をしろというのはもはや教えているとは言えないだろう。
教える者に求められることはいくつもあるように思う。
さまざまな努力の仕方や手段のなかから相手にとってより適切なものをチョイスして示せるということであったり、目標への道のりに効果的に作用することや進歩に繋がる選択肢を提示できることが重要なのでないだろうか。
たとえばなにかを誰かに教わる立場でただ一辺倒な繰り返しをしろのように言われたとき、果たしてなにかを教わったように思えるだろうか。
数をこなせといってもその理由があるだろうし、数をこなすときに何をすべきなのかだとか、数をこなした先の課程を知らせることはできるはずだ。
しかも昨今は教えられる側とて自分で調べて知れることはとても多いのだから、単純な指示や簡単に調べて得られる情報以上のなにかが人が教えることには求められるのではないだろうか。
また、教えることにも責任が生じると私は考えており、教え方や伝え方にも工夫があるべきだと思うのである。
教わる人がせっかくの努力を無駄にしないためにも教える側ができることは各々が向いていそうなことを示し、それにチャレンジするようはたらきかけることなのではないかと思う。
要は相手によって変わるのだ。専門的な知識や技術だけでなく、ある程度の観察力というものも教える者にとって必須といえるほど重要なスキルなのではないだろうか。
教える対象はどんな性格をしていてなにが得意なのか、なにを好み、どういうものがストレスになるのかなどのパーソナルな情報から適するであろう努力の方向性を探り見立てを導き出すこと、そして目標達成までのプランを組み立てることが教えるにあたって適切なアセスメントなのではなかろうか。
勉強の指導だったり子育てだったり、新人教育なんかでもさして変わらない。なんでもやってみろというのはあまりにも大雑把で、無責任ではないかとすら思っている。