
お気に入りのパン (短編小説)
一日の始まりにおいて、朝食を摂るという行為は単なる空腹を満たす以上の意味を持つ。
それは、身体と精神を休息モードから活動モードへと切り替える「生命のスイッチ」といえる。
在宅ワークという閉鎖的な環境で働く彼にとって、そのスイッチは長らく「定形」だった。
「……ふう。……よし、今日はここまで」
ノートPCを閉じ、静まり返った部屋に独り言が落ちる。在宅ワークの終わりはいつも唐突だ。
オンとオフの境界線を引くために、彼は鍵を手に取り、いつものスーパーへと向かう。
夕食の材料をカゴに入れ、吸い寄せられるようにパンコーナーへ。そこで手に取るのは、決まって定番の「チーズフランスパン」だった。
「やっぱり朝は、これじゃないとな」
翌朝、リベイクしたフランスパンを噛み締めながら、頭の中ではまた昨日の仕事の続きを反芻する。味の予測がつく朝食は、安心ではあるが、新しいアイデアをもたらすことはなかった。
数日後の夕暮れ、異変が起きた。パンコーナーのいつもの棚が、ぽっかりと空いていたのだ。
「え、うそ……ない。……マジか」
呆然と立ち尽くす。チーズフランスパンのない朝なんて想像もしていなかった。代替案を探して棚を彷徨い、ふと目に止まったのが「レーズンパン」だった。
「……まあ、仕方ないか。たまには違うのも試してみるかな。」
消去法ではあったが、彼は自分に言い聞かせるようにその袋をカゴへ入れた。
翌朝、期待せずに一口かじった彼は、その場で動きを止めた。
「……あ、……美味しい。え、こんなに美味かったっけ?」
温められたレーズンの凝縮された甘みと、ふんわりとした生地のコントラスト。それは、長く「定番」という檻に閉じこもっていた彼の味覚を、鮮やかに揺さぶった。
「自分は今まで、なんで新しい一歩を踏み出さなかったんだろうな……」
苦笑いとともに漏れた言葉は、パンのことだけでなく、どこか停滞していた仕事への向き合い方にも重なっていた。
その日の仕事終わり。スーパーのパンコーナーへ向かうと、そこには再びいつものチーズフランスが並んでいた。
「あ、フランスパン復活してる。……でも、」
棚の前で足を止める。以前の彼なら、迷わず「いつもの」を手に取っていただろう。
しかし、今の彼はフランスパンを見つめ、それから隣に並ぶ別のパン、さらにその奥のデニッシュへと楽しげに視線を走らせた。
「明日は、どのパンを食べようかな」
カゴを提げた彼の足取りは、いつになく軽やかだった。
朝食は、一日を豊かにするための最初の投資である。それは、決められた正解をなぞるだけの習慣ではなく、自ら「新しい喜び」を選択するプロセスだ。
自分らしく、そして健やかに生活していくための土台は、そんな小さな「選択」から始まっているのかもしれない。
あとがき
いかがでしたか?実はこれ、ほとんどが私の実体験です。
長年、朝食は「これ」と決めて疑わなかった私が、スーパーの品切れという偶然によって、
新しい喜びに出会うことができました。
なのでチーズフランスパンとレーズンパンにしたのは僕が好きだからです!
皆さんの朝の定番はなんですか?ぜひコメントで教えてください!