文房具小説集 第11話「日記帳」
【あらすじ】
文房具をテーマにした恋愛短編小説集(連作短編)
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専ちゃんは帰国すると、真っ先に私に会いに来る。もう何十年もずっと。何十年? そんなに経った? 私は指折り数えてみる。
「ミヤは変わらないね」
私が漬けた梅酒をストレートで飲みながら、専ちゃんは言う。小学生の頃は「ミャ~ミャ~」と猫のモノマネで呼ばれたりした。私たちは同じエレクトーン教室に通っていた。
「専ちゃんだってヒゲを剃ったら昔と変わらないよ」
「いや、俺はちゃんと大人になった」
「私は子供のままみたいに言わないでよ」
ふくれっ面をしたら、専ちゃんは満足そうに笑った。一番変わったのは専ちゃんの声だ。少し高めの、まっすぐな声で歌っていたのに、今はガラガラの低い声だ。歌ももう歌わない。
高校の文化祭、体育館のステージで歌う専ちゃんを見つめていたのを思い出す。普段と違う真剣な表情。汗で濡れた髪。まるで昨日のよう。私はあの歌声に恋をしていた。
「知らせてくれた曲、聴いたよ。新人なのに歌唱力が大御所レベル」
「そうなんだよ。古い音楽が好きらしくて、いやでもそれをそのままやる訳にいかないから、って説得するのが大変だった」
「個性を活かしつつ今時の音になってたし、深みもあった。お疲れ様です」
「なんのなんの」
専ちゃんが最も多く手がけているのはポップソングの編曲だ。音楽関係の仕事なら、時間の許す限り何でも引き受けちゃうらしい。
「この間、実家の片付けをした時に、卒業アルバムを全部捨てたよ」
「マジか」
「専ちゃんに見せてもらえば良いかなーと思って」
「確かに俺は捨ててないけど、どこにあるか分からないよ」
「これから先、見返さない気もして」
一緒に日記も捨てた。表紙に可愛いイラストが描かれている、ハードカバーの立派な日記帳。開かなくても覚えている。専ちゃんの話しか書いてない。専ちゃんと交わした会話。専ちゃんが奏でたメロディー。専ちゃんといつかしたいこと。ほとんど全部実現しなかった夢。
「俺、高校の時に、音楽ノートをつけてたんだ。『ビートルズはなぜ素晴らしいか』なんて汚ねえ字で書いてあんの」
専ちゃんは細い目をさらに細めて、くっくっく、と笑った。
「有名なバンドの研究?」
「それもあるし、自分がいつか作りたい曲のアイデアとか、図書館でコード進行の本を借りてきて勉強したり、音楽に関わるものなら何でも書き込んでた」
「博物館に展示されるね」
「『こんなにアホだったのか!』って呆れられるの嫌だから死ぬ前に処分しないと。でも今はまだ捨てられないなぁ……」
専ちゃんがアメリカへ留学する少し前に、好きだと伝えた。専ちゃんは歌う時と同じ真面目な顔で言った。
「俺が目指しているのは、俺の実力を百パーセント、二百パーセント使ってもまだ足りないような場所なんだ。だから、恋愛をする余裕はないと思う」
無言でしばらく並んで歩き、立ち止まった。
「俺もう、ミヤと会わない方がいいかな」
「専ちゃんと会えなくなるなんて」
あれほど大泣きしたのは人生で一度きりだ。人目も気にせず大声で、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくった。
「ミヤと会えなくなるの、俺も」
専ちゃんもたぶん泣いていた。声が、大好きなあの声が震えていた。
私たちの関係が色恋沙汰に近付いたのは(完全に私の片想いだけど)あの涙の一日で終わりだった。その後はずっと、友達か親戚みたいに時々会うだけ。
専ちゃんは音楽の世界で名が売れて、知らない誰かと結婚しちゃうのかな、そうなったら祝福しようと決めていたのに、独り身のままだ。私も結局、専ちゃんより好きになれる人とは出会えなかった。
「恋の歌を作る時、必ずミヤを思い浮かべます」
そう書かれた絵はがきが届いたのはいつ頃だっけ。まだ私が専ちゃんに恋していると思ってるの?
「たまには専ちゃんと温泉旅行とか行きたい~」
「すまん、イベントの仕事で明日には台湾」
「いいな~ パイナップルケーキ、送る暇ないだろうから私の代わりに食べて」
もう私が恋した男の子はどこにもいないのに。目の前に座っているのはガラガラ声でヒゲ面のおじさんなのに。私はどうしても尋ねてしまう。
「次はいつ帰ってくるの?」
「分からない」
答えは決まっているのだ。専ちゃんは鍵盤に触れるように指を動かす。
「音楽の方が先に届くよ」
(終わり)