怪物、もしくは純粋おもちゃは持ち主の想像を越えるか
※ネタバレを含みます、ご注意ください。
トイ・ストーリーの話。
守護霊の話と言い換えてもいいのだけれど。
3と4を見ました。
おぼろげに1や2のことも思い出して。
すでに3と4については記事にして。
ちょっとだけ2についての気づきがあったのでサラッと書き残しておく。
トイ・ストーリーを観るときに、自分なりの思想と照らし合わせて観ていて。
人は想像力を持ったことで楽しくもなり苦しくもなったっていう思想。
想像力を持つまで、野性として目の前のものに純粋に反応していた。
純粋経験だけで生きていた。
それが想像力を持つことで目の前にないものも意識できるようになって、言葉を使って仲間と意思疎通して、化け物や神を生み出した。
トイ・ストーリーとして大切なのは守護霊を生み出せたこと。
おもちゃたちは守護霊。
イマジナリーフレンドって言うけど、想像の友だちが守護霊であるおもちゃたち。
これが想像力の原始経験。
ちなみに1はバズがウッディによって守護霊になっていく話。
自分のことをテレビの設定通りのスペースレンジャーだと思い込むバズ。
持ち主のアンディはウッディよりもバズで遊ぶようになる。
守護霊としての役割が奪われるウッディ。
自分はヒーローだと思い込むおもちゃのバズ。
おもちゃは人の守護霊で神秘の存在なんだけど、逆におもちゃにとっても人は神のような存在。
持ち主は絶対。
だからウッディにとってアンディは絶対で見向きされないということは信じた神から見捨てられるというくらいのショック。
片やバズは神を必要としない。
その代わり自分の生きている物語が重要で、夢を追いかける現代人のよう。
なんだかんだあって、アンディの守護霊という役割におさまり友情を誓うウッディとバズ。
トイ・ストーリーとはシリーズを通してアイデンティティ・クライシスを扱った話なんだと思う。
人は成長していく。
だんだんとおもちゃで遊ばなくなる。
イマジナリーフレンドも見えなくなっていく。
おもちゃ同士の戦いごっこを子どもの頃に良くやっていた。
今のわたしにおもちゃを渡されても戦いはできない。
保育所で子どもと一緒にならできるかもしれない。
それでもおもちゃを使うより、自分の体を使って戦いごっこする方を選ぶ。
昔、たぶん小学2年か3年のころ。
父親がわたしのおもちゃを持って、どうやって遊ぶんや、教えてくれいやみたいなことを言ってきたことがあって。
まあ、その前から父とは関係がこじれていて。
今思えば父もこじれた関係をどうにかしたくて必死に関わろうとしていたんだけど。
もうその頃はまだおもちゃ遊びなんかしてんのかと言われたようで。
恥辱と怒りでどうにかなりそうだった。
よくよく思い出してみたら、少なくとも小学校6年までわたしはおもちゃ同士を戦わせて遊んでいた。
パトレイバーというアニメのグリフォンのプラモを持っていた記憶がある。
発売日検索したらその頃だった。
もしかするとこの記憶、中2のころかも。
小3から中1まで転校していて、中2で実家に戻り。
実家のリビングで置いてあったおもちゃを手に父から言われた記憶。
まさに厨二病のころに親からこんなこと言われたら憎悪で殺してしまいたくなってもおかしくない。
おかしくないよね?
こうやって人はおもちゃから離れていく。
守護霊を手放す。
そうやって少しずつ大人に近づいていく。
おもちゃを手放して、大人が使っている道具を見よう見まねで使い始める。
これが新たな遊びになっていく。
狩猟採集民族なら弓矢やナイフ。
農耕民族なら鍬や鎌。
そんな道具を使うことを直接経験して使い方を身につけて、円環で繰り返す世界の中での役割を担っていく。
円環世界の日常経験の中で生きる。
それを大人になると言う。
円環世界の中で役割を担って働くことは遊びと地続きだ。
おもちゃと仕事道具が地続きだったのだから。
その遊びは続いていく。
個人としての守護霊は手放したけど、集団としての守護神を手に入れる。
祭りや儀式という集団の遊びが始まる。
そう、大人になっても遊びがある。
祭りや儀式で何をするか。
歌ったり踊ったり演じたり衣装や小道具を作ったり。
一言でアート活動。
祈りをpray。
遊びをplay。
どちらもプレイ。
語源が違うから完璧に偶然なんだけど。
鳥肌がたつ偶然だよね。
日常経験は繰り返しだけど、この円環が続くことを願って訪れる祭りという非日常。
非日常という神秘経験。
この神秘経験すら円環に取り込まれていく。
世代が変わっても円環し続いていくように、年配者から若者(どちらも大人)に伝承されていく。
そうやって遊びの円環は生きつづける。
しかし、この円環が今では失われている。
なぜか。
狩猟採集でも農耕でもない世界に移ったから。
科学産業の世界に生きているから。
ここは円環でなく直線の世界。
現代のわたしたちはおもちゃを手放すときどこにいるだろう。
学校で勉強している。
そこには同い年の子どもたちと先生という大人がいる。
でもそこには実際に働いている大人はいない。
あるのは机と椅子と教科書とノートと鉛筆。
確かに大人のオフィスのようだ。
大人の仕事の真似事をしていると言えばそうなのかもしれない。
でもこれは間接経験。
手取り足取り教えてもらう。
自分で試行錯誤して学んでの直接経験ではない。
自立してなんでも自分でできる、立派な大人になりなさいと言われる。
でも実際にはすべて丁寧に教え込まれて、自分でやれることなんてほとんどない。
自分で考えるのが大事って言いながらみんなと同じ考え方をすることに慣れさせる。
遊んでばっかりいて、勉強しなさい。
そう怒られる。
遊びは遠ざけられ、何が始まるんだろう。
勉強。
というゲーム。
円環の世界では遊んでいられた。
というか働くことも遊びだった。
でも直線の世界では働くことは遊びではない。
評価を競い合うゲームに変わる。
遊びとは自分の作ったルールで動くこと。
ゲームは外側に用意されたルールで動くこと。
外側のルールのことを評価と呼ぶ。
お待たせしました。
トイ・ストーリー2の話に戻りましょう。
評価の話です。
おもちゃはいつか守護霊の役割を終えて見向きもされなくなる。
しかし別の役割が見いだされる。
ビンテージな価値を見いだされ博物館に展示されること。
評価の世界に移って永遠に展示されて生きつづける。
いつか終わりがあるとしても持ち主のいる世界で守護霊として生きるのか。
それとも終わりのない持ち主のない世界で展示物として生きるのか。
そんなおもちゃの生き方の話だった。
サラッと書き残すだけのつもりがずいぶんな分量になって。
しかもここではまだ終われない。
トイ・ストーリー2の話は終わったのだけれど。
もう少しお付き合いください。
トイ・ストーリー2でおもちゃたちは守護霊として生きることを選んだのだけれど。
アンディはそうはいかない。
トイ・ストーリー3では大学に行くことになる。
すでにおもちゃは一緒には居るけれど遊ばれてはいない。
ただ居るということだけでも大切なことなんだけど。
さておき、勉強というゲームに本格的に取り組むために家を出るアンディ。
そして父の不在。
そう、アンディの父親は登場しない。
事情は語られない。
もしかしたら映画に出ないだけで実際は居るのかもしれない。
わからない。
でもこの宙ぶらりんな感覚が妙にリアル。
わたしの経験ともつながる。
父の不在。
どこにいたか。
会社にいた。
朝早く出ていって夜暗くなってから帰ってくる。
子どもも子どもで学校に行っている。
家族は会社と学校で引き離されている。
これが科学産業世界で生まれた工場というシステムの発展系。
工場はオフィスという形態になり。
親を工場に縛り付けるために、邪魔な子どもは保育所に預けられる。
最初の保育所はイギリスの工場経営者によって生み出される。
そしてただ子どもを預かっても仕方ないので、将来工場での働き手になれるように準備される。
それまでは子どもは未熟な大人だった。
この頃に子どもは発見され、教育を受けるようになった。
教育とは工場(オフィス)労働者を社会に送り込む準備をすること。
集団生活を送れるようにすること。
それが教育。
保育所であっても、それは同じ。
自分のやりたいこととみんながやっていること。
このジレンマは保育所にもあって、子どもたちを引き裂いている。
引き裂かれて泣き叫んでいる。
円環の世界から直線の世界へ。
それによっておもちゃを手放したあと、父(働き手ということ。もちろん母でいい。保護者でいい)が不在であるがゆえに働くことの直接経験をスキップして間接経験が始まる。
全ての問題はここにある。
子どもは学校や習い事に、大人は仕事に引き裂かれてしまう。
いま目の前で妻と上の子がテレビゲームをしている。
テレビゲームの苦手な妻が不平を言って、上の子が嬉しそうにあーだこーだ答えてる。
この時間がどれだけ尊いのか。
働き手と子どもがともにいて、自ら働き方を学んでいく。
教えられるのではなく学んでいく。
真似をして独学するということ。
親の仕事に縛られろと言っているのではない。
独学を身につければいい。
そうすればどんな場所に行っても大丈夫。
なんか厨二病になって親を殺したくなることもなくなるんじゃない。
そんなことしている場合じゃないから。
学ぶのに必死だから。
自分探しとか反抗期とか思春期のモヤモヤとか抱えてる場合じゃない。
まあ親と一緒にいるということ、村社会みたいな密な関係に息苦しさを感じないかと言えば、黙るしかない。
この息苦しさから抜け出すために直線世界に生きる人間は都市に憧れる。
そう、わたしも実家を出たくて大学進学を機会に京都に出た。
もはや人生の中で一番長く住んでいるのが京都になってしまった。
ここで働き、ここで家庭を持った。
直線世界では都市に移動して核家族化する人が増えた。
縛られるものの少ない自由を手に入れた。
でも待って、自由って何?
好き勝手にできることさ。
自立することさ。
それが大人になるってことさ。
本当にそうなの?
フリーでもリバティでもいいけれど。
明治のころに日本語に翻訳する時にどうしようかと試行錯誤して。
そもそも日本で日常語として使われていた自由は好き勝手でわがままみたいな人として避けるべき意味合いの言葉だった。
フリーやリバティは奴隷ではないこと、そこから自分で物事を決められる自立するという人として目指すべき意味合いの言葉だった。
自由がフリーやリバティの訳語になり、何が起こるか。
自由の意味合いが好き勝手という避けるべきものから自立という目指すべきものにすり替わった。
現代、この2つの意味合いが混同されて使われている。
日常での「自由」は自主自立としての目指すべきものとして使われる。
人との関わりや公の場面では本来の「自由」の意味が顔を出して、好き勝手やわがままとして「控えなさい」と制限がかかる。
都市生活者は一人では生きられない状況に置かれながら自分のことは自分でしなさいという矛盾したルールを適用され、しかもそれを内面化して自縛自重してしまった。
都市生活するなら素直に頼らないと生きられないから頼ろうというルールに変えて楽になればいいのに。
頼るのだから頼られることも起こる。
わがままであれ自立であれ同じで、頼り頼られないと生きられないのであれば遠ざけないといけない。
自分でなんでもする、できなければ死ぬという厳しい生活ができるならそうすればいい。
でも快適な生活をしてみんなで少しずつ負担を分け合って生きるためには互いに奴隷であることを自覚して許し合わないといけないんじゃない?
だからわたしは自由という言葉がどうであれ嫌いなんだ。
自分で自由にしたいというのも、誰かが自由になりたいというのも好きじゃないんだ。
直接経験の円環世界が息苦しくて自由を求めて、間接経験の直線世界に移動する。
自由になって自立して好き勝手できる大人になる。
そうやって互いがわかりあえなくなって傷つけ合って。
息苦しくて救われたくて動いたはずなのに、なんでこんなにしんどくなってんだ。
トイ・ストーリー3の終わりでおもちゃたちはアンディという親元を離れ新たな子どものところにもらわれていく。
ウッディたちに息苦しさはあったのか。
本人たちは気づいていないけれどあったんだろうな。
トイ・ストーリー1を振り返ってみよう。
自分が特別なヒーローではないと気づき夢が壊れ、単なるおもちゃでしかなくなったバズにウッディは語りかける。
ヒーローでなくても、特別でなくてもいい。
目の前の誰かを幸せにできるなんて、どれだけ素晴らしいことか。
でもおもちゃたちは、常に幸せにすべき誰かを必要としてしまう。
それは呪いのようではないかい?
大人になるって何だろう。
トイ・ストーリーはそのことを問いかけてくる作品ではないだろうか。
円環世界だと、身分が固定されていて、家庭と仕事場が一緒なので家から出ていくということがなくて、遊びということも仕事と地続きだった。
大人の働き方を真似ることが遊びになった。
大人の使っている道具がそのままおもちゃになった。
遊びがプロジェクト活動になっていく。
そうやって大人になったあと、大人は大人なりの遊びがあって、それこそ神との関わり。
祭りや豊作を願う儀式。
それを真剣にやって、作ったり歌ったり踊ったり演じたり、それはアート活動になっていく。
そしてそのアート活動も代々引き継がれて伝統になる。
おもちゃは伝承されていくものだった。
それが直線世界では工場やオフィスができて家族と職場は分離する。
アンディが大学に行くのがまさにそういうこと。
ここで遊びと仕事も切り離される。
そして切り離された仕事というのは遊びの要素のないゲームに変わる。
遊びとは内側にルールがあって、衝動が溢れて勝手に動いてしまうもの。
ゲームはは外側にルールがあって、評価と競争によって動かされてしまうもの。
ただ自分と世界を切り離すということもできるので、それこそ自己肯定感や自己顕示欲を満たせる可能性もあるし、世界をコントロールできるという万能感も感じられる。
これが人間が仕事を減らせない理由。
アンディはおもちゃの王国からゲームの王国に旅立っていく。
そんななかトイ・ストーリー3の終わりでおもちゃたちを新たな持ち主に伝承できたということが素晴らしいと感じた。
これでおもちゃたちも神になれたし、アンディも神を心に持ったことでゲームの王国にいながらもマインドでおもちゃの王国を感じられるはず。
大人になった。
でもその先がある。
老後。
円環社会では死ぬことは日常だった。
祭りや儀式は死の向こう側と繋がることじゃない?
直線社会では死ぬことは特別なことになった。
死との距離が遠のいて恐怖の対象になった。
死から逃げていくうちに寿命が伸びて、老後が生まれる。
円環世界では社会にいるまま死ぬことができた。
でも直線世界では社会から出ていかなければならなくなった。
ここにもアイデンティティ・クライシスが起こる。
思秋期と呼ばれることもある。
老後って道楽求める感じがする。
老後になって時間に余裕ができたら始めようみたいな。
この感覚、遊びへの回帰を望んでいるということ。
円環世界での伝承みたいなことを夢見る。
でもそこで失敗して結局働き始めちゃう。
働いてた頃と同じような活動を続けちゃう。
お金は得なくてもボランティア活動とか生涯学習とかサークル活動とか。
用意されたものを選んじゃう。
遊んでるつもりなんだけど。
やっぱり子どもの遊びとは違う。
いいこと思いついたってのがない。
道楽にいきたいと思いながら、どうしたっていけない。
トイ・ストーリー4はウッディの老後の話なのかもしれない。
3で終わるつもりだった。
でもシリーズが長寿化してしまい作られた4。
ウッディは新たな持ち主であるボニーから見向きもされない。
忘れられてしまっている。
これまでのシリーズのようにボニーのためにと奮闘する。
それはお決まりの流れの繰り返しである。
高齢者施設でのリクリエーションのようだ。
勉強をして大人になってゲームという仕事をしこたまやらされた後、リクリエーションをすることになる。
リ・クリエーション。
創造し直す。
これ自己否定じゃない?
頑張って働いてきたゲームの成果なんて顧みもされず、再び創造し直せなんて。
アートなり道楽なりは伝承して大人のまま終われるのに、リクリエーションして自己否定して子どもに戻って終わらせられる。
昔、未熟な大人と見られて子どもがいなかった頃、老後もなかった。
大人のまま死ねた。
今は子どもという概念の発見とともに長寿化から老後も作り出された。
老後に保育所のような高齢者施設に入れられて、もう一度大人から降りて未熟にさせられて死んでいく。
そう、ウッディはクローゼットの中で持ち主不在のおもちゃたちだけとリクレーションする守護霊の力を失った未熟なおもちゃになろうとしていた。
4の最後でウッディは重大な決断を下す。
そこをどう解釈するのかは人によってまちまちだ。
わたしの中でも迷いがある。
ただひとつ言えることがある。
それはウッディが未熟に死んでいくことを拒んだのだということ。
持ち主の元を去って野良のおもちゃになる。
それは持ち主の想像力から解放されるということ。
そもそものわたしの思想をもう一度思い出そう。
人は想像力を持ったことで楽しくもなり苦しくもなった。
想像力を持つまで、野性として目の前のものに純粋に反応していた。
純粋経験だけで生きていた。
それが想像力を持つことで目の前にないものも意識できるようになって、言葉を使って仲間と意思疎通して、化け物や神を生み出した。
ウッディは持ち主の想像力から解放された。
想像力を持つ前は純粋経験で生きていた。
野良のおもちゃ。
つまり野性の獣みたいな純粋なおもちゃに戻った。
アイデンティティ・クライシスとは自己とは何かにまつわる危機。
成長していくというのは自己を探求し自立に向かうこと。
そう思い込まされていた。
直線世界のゲームをやっているから。
でも野性に戻るということは、この自己を手放すということ。
無私になるということ。
悟りのようだね。
思考やエゴに振りまわされず今の感覚に素直に従うウッディ。
悟ったウッディ。
トイ・ストーリー1の日本での上映は1996年。
30年の歳月をかけてウッディは野性に戻り悟りに至った。
わたしたちはどうだろう。
テレビやスマホやパソコン。
画面ばかりを眺めて過ごす毎日を送ってはいないだろうか。
人間はモニターゲイザーになってしまった。
モニターに映るウッディを眺めるわたし。
子どもの心を刺激されている。
きっと家族で映画館にトイ・ストーリー5を観に行くのだろう。
もしかするとそのひと時のあいだ、野性に戻って純粋経験ができるのかもしれない。