怪物
▶純粋怪物
怪物について書いてみたい。
きっかけはわたしが役者をしていて縁あって劇団のお手伝いとして稽古に参加することになったから。
その作品のタイトルでありテーマが「怪物」。
さて、怪物とはなんだろう。
創作に向かうとしても、怪物というモチーフがとても興味深くて。
これまでAIを対話相手に思索に耽ってはnoteで記事にしてきたわけだけど。
ここで一度まとめてみる。
そもそも、怪物ってなんだろう。
実際に生きているものとしての怪物からいこう。
それはシンプルだ。
ある日、森の中、くまさんに出会った。
さあどうする。
戦うか逃げるか、あとは死んだふりするか。
くまさんもお逃げなさいと言ってくる。
生き物として生き残りをかけて、戦うなり逃げるなりしなければならない。
この実際に出会える脅威としてのくまさんのことを純粋怪物と呼びましょう。
西田幾多郎という哲学者がいて。
純粋経験ということをいいます。
自分と世界が分かれていなくて、知識や判断が入り込む前の経験のこと。
怪物に出会った時の反応ってこの純粋経験ではなかろうか。
純粋とは頭から切り離された体の反応。
恐怖でアドレナリンドバー、心臓バクバク、筋肉カチカチ、エネルギードッカン。
剥き出しの野生の反応という純粋さ。
そんな思いも込めての純粋怪物。
▶原始の怪物
でもこのくまさん、実際に目の前にいるかと言えばそうではなくて。
歌の中での話。
娘さんもいなければくまさんもいない。
誰かが歌詞という物語を想像して生まれた作り物。
そう、人はないものを作り出せるようになった。
想像力。
ユヴァル・ノア・ハラリさんが「サピエンス全史」という本でこのことを認知革命と呼んでいる。
7万年前に脳の遺伝子が突然変異してヒトは想像することができるようになった。
そのことによって、人は一緒のものを信じることができるようになる。
神様とか、見てないけど噂に聞いた話、いわゆるゴシップ。
そんな信仰やゴシップによるご機嫌伺いで見知らぬ人が知り合いになっていく。
そうやって知り合いと仲良くなって協力できて集団の規模が大きくなっていく。
人から人間になっていく。
良いことだ。
でも良いことの裏には必ず悪いことがある。
これまでは純粋怪物だけを怖がればよかった。
でも想像力を持ってしまったがゆえに目の前に純粋怪物がいないのに、想像で怪物を生み出して闘争・逃走反応を起こしちゃう。
怪物は想像力を持ったから始まった。
想像力。
これが「原始の怪物」。
▶想像力とは
純粋怪物は目の前にいて、自分とは別物の恐ろしいもの。
ですがその恐ろしさ故にいちいちそいつの爪と牙がどれだけ危険で、どんな特徴をもっていてなんてことは考えない。
ただその時その場所で環境に反応しているに過ぎない。
自分とは別ものの動物だってわかってる。
でもそれは想像しているのではなく、環境に連続して反応しているに過ぎない。
そういう意味で動物は自分と世界が地続きです。
でも人間は違います。
想像力を持ったことで自分と世界を切り離すことができる。
くまさんに出会った時、お嬢さんはくまに話しかけられるまでそこにとどまるのです。
それは身がすくんだからかもしれません。
でも、頭の中で怖いくまが目の前にいる、どうしようと考えている自分もいるのかもしれません。
くまを客観視しているお嬢さんがいるかもしれません。
そう、想像力とは自分と世界を切り離す客観視のことです。
人間はこの想像力や客観視に別の名前をつけている。
こころ。
▶遊びとゲーム
心を手に入れた人間ができるようになったことがある。
「演じる」ことだ。
演技を英語で言うとプレイ。
遊び。
ゲームというのもある。
遊びとゲーム。
似ているけれど、違うのかもしれない。
ここを整理してみたい。
遊びとゲームは同じだろうか、違うのだろうか。
遊びの中にゲームが含まれていそうだけど。
まずは対等なもの同士ということで考えてみよう。
遊びもゲームも何かの役に立つものではありません。
別に目的があっての手段ではなくて、それ自体で満足できるものです。
そしてとっても楽しくて、だから自分からやってしまうものです。
では何が遊ぶとゲームを分けるのか。
ルールとゴール。
遊びはルールがあるようなないような。
「良いこと思いついた」の一言で遊びはどんどん変わっていきます。
楽しいと思えれば変幻自在、そして疲れて楽しくなくなったりすれば唐突に終わったりします。
飽きもせず同じ遊びを繰り返せる子どもたち。
大人は辟易して余計なルールを作ろうとして。
うまくいくこともあれば、遊びを台無しにすることもあります。
そう、これがゲーム化です。
外側にルールが作られる。
遊んでいる子どもの気分は関係ない。
ルールという制限や不自由さを守ることが楽しい。
破ってしまったりできなかったりしてもルールは変更されない。
反則や負けになる。
そこでゲームは終わってもう一回。
遊びはプロセスが楽しい限りゴールがない。
ゲームは楽しくても区切りというゴールがある。
子どもの遊びの話がでたので、発達のことに引き寄せます。
赤ちゃんは最初から遊べます。
寝転がっていても、周りにあるものを見ることがすでに遊び。
そのうち手に取ったり、口に運んで舐めたり。
ハイハイして移動したりつかまり立ちしたり。
全部遊びです。
モノに触れる、舐めるという感触を楽しむ。
遊びの連続です。
生きることが遊びです。
さて、この段階でゲームはできますか?
もちろんノーです。
これ、つまり野生の側にいるということです。
純粋怪物の世界にいるということ。
原始の怪物はまだいない。
生まれた赤ちゃんの認知の中では、まだ母親と一心同体です。
母親を別の個体だと思っていません。
少しずつ体が動かせるようになり、世界を探索するようになって自分と母は別物らしいと気づき始めます。
体が動いて世界を探索し、時々保護者という安全基地に戻ってはまた旅立ちを繰り返すうちにだんだんと客観視が成立し始めます。
客観視ができる、心が生まれる、そしてドラマチックな人生のストーリーが始まります。
自分でどこまでも楽しんで遊びたい。
でも遊んでいると大事な保護者から離れてしまうかもしれない。
この遊びたいけど怖いというせめぎ合い。
二歳くらいの子どもと接したことがある方はわかってもらえるはず。
保育所に預ける時に泣かれたり。
なんでもとりあえずイヤと答えたり。
ストーリーが始まってしまったがゆえの不安。
自我の芽生えと、そこからの母親にも別の心があるという別れの絶望。
そりゃイヤイヤとも言いたくなる。
イヤイヤする原始の怪物の誕生です。
イヤイヤしている子どもにゲームはできるか。
これもまだノーでしょうね。
ただ少しずつ始まります。
ゲームの原型。
一人遊びから始まって、友だちがどんな遊びをしているのか興味を持って、一緒に遊ぶようになる。
母と別れた絶望と不安を埋めるために遊びで友だちと繋がり直す。
そうして辿り着く、ごっこ遊び。
演じるということ。
人形を使って赤ちゃんに見立ててあやす。
泥団子をご飯に見立てて皿に並べる。
お母さんと赤ちゃん役にわかれる。
お店屋さんごっこ。
ごっこ遊びをすることで、分離で生まれた孤独で寂しい原始の怪物を慰める。
人間がゲームをせずにはいられないのって寂しいからなんだ。
少しだけ絵本の話。
「めっきらもっきらどーんどん」と「かいじゅたちのいるところ」。
どちらも友だちがいなかったり、母親がいなかったりの寂しさから怪物に出会う話。
そして怪物と遊ぶのだけど、寂しさは埋まらなくてもう一度母親のところに戻っていく。
でももとの世界に戻ってしまったら二度と怪物に出会うことはできない。
さて、この絵本の中の怪物たちはきっと原始の怪物。
戻ってきた子どもたちは少しだけ大人になったように感じてしまう。
そう、原始の怪物ともお別れしないといけない。
大人になることによって、また別の怪物に出会う。
▶嘘っこの王国
純粋怪物の世界では歌ったり踊ったり、走ったりじゃれついていれば楽しかった。
それが心が生まれてその楽しみに飽きたらなくなり変身して演じ始める。
演じている時、子どもたちは原始の怪物に出会える。
そう、子どもには怪物が見えている。
大人にとっては嘘でも、子どもからしたら大真面目。
白い線からはみ出たらマグマに落ちる。
節分にくる鬼は本物だから豆を必死で投げつけるか、もしくは大泣き。
絵本の中で語られていることは全部本当。
キツネの人形は喋る。
夜の保育所にはおばけがいる。
でも段々とね、わかっちゃうんだ。
世界には嘘っこがあるんだって。
怪物は偽物だ。
そうやって「上手に」演じられるようになる。
世界を舞台にして切り離して、嘘っこ演じながら他者をコントロールできるようになる。
コントロールできることに全能感を感じ始める。
嘘っこの王国の住人をなんて呼ぶか知っている?
ゲームという世界でコントロール怪物と演じ続ける人をなんて呼ぶか知ってる?
大人って言うんだよ。
▶言葉遊び
ある日、森のなか、くまさんに出会った。
くまさんの言うことにゃ、おじょうさん、お逃げなさい。
ところが、くまさんが、あとからついてくる。
森の中に生まれて純粋怪物のくまさんに出会いました。
原始怪物のくまさんはお逃げなさいと別れを告げる。
ところがコントロール怪物のくまさんは常についてくる。
コントロール怪物ってなんだ。
大人ってなんだ。
子どもが生まれて相対的に自分が大人になっちゃったんだなって思っちゃったけど。
知るかそんなの。
勝手に大人にしないでくれ。
父親って役割、嫌いじゃない。
社会人って役割、大嫌い。
大人って役割、なった覚えないし。
役割が貼り付いてくる。
単なる言葉のはずなのに。
嘘はどうやってつく?
言葉を使うんだよ。
ウィトゲンシュタインという哲学者がいます。
言語ゲームということを言いました。
このゲーム、元のドイツ語ではシュピールになります。
翻訳でゲームと言われて勝敗を競うみたいなニュアンスを強く感じますが、本来は子どものごっこ遊びみたいなプレイに近い言葉。
もう一度ゲームと遊びの話を思い出そう。
遊びにはルールがあるんだかないんだか、ノリがある。
ゲームは外側にルールがある。
言葉は外側にあって完璧なルールとして使われている。
そうですね、国語辞典とかがあって言葉の意味とかしっかり定義されていますもんね。
そのお約束を守って人間はコミュニケーションして世界を成立させているのですよね。
言葉というお約束を上手に演じることで他者を世界をコントロールできるんですよね。
んなわけあるかい!
言語はゲームじゃない。
遊びだ。
言葉遊び。
そん時にその場で適当に思いついて喋ってるだけだよ。
「あれ」取ってって言われたら「あれ」取るでしょ。
いちいちお約束なんて考えて喋ってねえよ。
いっちゃん適した言葉を当ててるだけ。
適当。
ノリ。
だって言葉遊びは終わらないでしょ。
生きている限りこの世界は続いて人間として他者と話していかなきゃならない。
終われないよ。
ゲームみたいに間違えたから一区切りつけてもう一度なんてできない。
そんなん黙るしかなくなるじゃん。
間違っても適当にノリで進んでいくしかないんだ。
だって生きてるんだもん。
言語ゲームさせられて大人になった気かい?
そんでコントロール怪物に反応して戦うんだか逃げんだか、どうしょもなくて怪物じゃないって言い張って嘘つくの?
そうやって嘘っこの世界で満足するの?
それ、生きれてる?
▶死んでもいい、生きていたい
ごめん、言い過ぎた。
生きてるよね、知ってる。
わたしも生きてるもの。
なんで役割なんていうものを上手に演じちゃうのか。
コントロールできると嬉しいものね。
万能感あるものね。
欲求として手放したくないよね。
大人っていいよね。
神様になった気分。
そう、これはね怪物じゃないのよ。
唯一絶対の神様。
原始の怪物にさよならして神様に会って大人になるの。
自分が世界の中心に居られて、そりゃ気持ちいい。
気持ちいいなら、まあいいか。
大人になろう。
そうだよ。
なんで万能感を手放さなきゃいけないの。
役割貼り付けられてしんどって言いながらもヘラヘラ笑ってちゃいかんもんかね?
世界に万能感を振りかざして環境破壊したり。
人間に万能感を振りかざして差別したり心を病んだり。
国同士で万能感を振りかざし合って戦争したり。
しんど。
笑ってられない。
なんか、死んじゃだめっていうのが絶対のことというか。
それが底にあるなって感じてるんだけど。
その底を割っちゃいなよって人として最低のことを本気で思っている。
環境破壊がダメとか戦争がダメとか。
人が死ぬからでしょ。
でもたかだか人が死ぬだけのこととも言えない?
絶滅して何がダメなの。
種の保存とか個の保存とか、生きることが大事とするけれど、世界や自然からしたらどうだっていいよね。
それこそが最大の欲望であり万能感じゃない。
生きたいって欲望。
生きているという万能感。
手放せというなら、それを手放せってこと。
本当にできる?
嫌だよ。
生きていたいもの。
生きたいけれど生きることに執着しないという矛盾したことが実現したならばどうだって良くなってヘラヘラできる。
死んでいい、でも生きる。
▶怪物とは何なのか
お待ちなさい、落とし物、白い貝殻のイヤリング。
落としてたんだ、イヤリング。
届けに来てくれたんだね。
ありがとうくまさん。
一緒に歌おうか。
ヘラヘラ笑いながら。
さて、くまさんは結局何だったのか。
イヤリングなんて欲望みたいなもんだよね。
人からよく見られたくて飾り付け。
もしくは自分の気持ちを上げるためのアクセント。
もしくはイヤリングは役割なのかもね。
役割を持つことで安心できる。
でも役割なく居られたなら居心地がいい。
お嬢さんは何者でもないものでありたくて森に来たのかもね。
匿名であることの居心地の良さ。
うん、ほどほどにして森の外へ出ていくんだろうな。
森の中は花咲く豊かさがあり、しかも怪物もいないってことがわかった。
いたのは一緒に歌ってくれるくまさん。
怪物でも神様でもない、くまさん。
もしくは野生であるくまさんが気づかせてくれる、ゲームの終わり。
お嬢さんは森を出て家に帰るのでしょう。
くまさんと歌って遊んで疲れたからね。
帰る場所がある。
確かにゲームの世界はしんどいこともある。
結局「怪物が何なのか」、わかってない。
わかってないまま、役者という役割を貼っつけて稽古に参加する。
しんど。
でも役者であるわたしの帰る場所は稽古場であり舞台である。
保育士であるわたしの帰る場所は子どもたちや先生たちと過ごす保育所だ。
父親や夫であるわたしの帰る場所は我が家だ。
役割にはそれぞれ帰る場所がある。
変える場所がある。
たぶん、怪物はいろんな顔を持っていて。
人によって変わる怪物。
想像だからね、変幻自在。
だからこれが怪物だなんて言えなくて。
怪物はわかんない。
好きなように怪物の姿を変える場所。
そんな場所で居心地よくヘラヘラ生きていよう。